ドラフ島列伝 ~The last page of baseball legends chronicle~ 作:マリリンマンション
パラキ村村営グランドの両翼は88m、センター112m。ナイターの設備はないが、天然芝の外野も、黒土の内野も手入れが行き届いていて、球場設備としては申し分ない。午前中にもかかわらず真夏の日差しがギラギラと照りつけて、ホームから両翼まで伸びる鮮やかな白線を眩しく照らす。
剥き出しのコンクリートが階段状に並んでいるだけの内野スタンドには、試合の行方を見届けようとパラキの住人が集まり始めていた。芝生の外野スタンドでも村外からの見物人が何人か観戦に訪れている。
自ずと、試合前のキャッチボールは夏苗とペアになった。長い髪をお団子に結んで、チームカラーの緑のキャップを浅めにかぶると、それは器用にも帽子の中に収まった。そして、準備完了とばかりにミットをパンと叩いて合図した。
まずは、お手並み拝見。大坂は少しずつ距離を伸ばしていく。ちょうど塁間位の距離になったところで、夏苗の送球が弧を描き始めた。
「まだ塁間だぞ?」
それほど声を張らなくても、聞こえる距離だ。
「あまり張り切ると、肩壊しますよ?」
夏苗は強がって微笑んだが、彼女はこれ以上キャッチボールの距離を伸ばそうとはしなかった。キャッチャーと言えば本塁からセカンドまでの対角線を矢のような送球で射抜き、企てられた盗塁を阻止するのも見せ場の一つである。まさか塁間の送球が限界では? と、大坂が心配し始めたころに2台の大型トラックがグランド横の駐車場に横付けされた。
華美に装飾されたデコレーショントラックから、真黒に日焼けした屈強そうな男達が続々と降りてくる。両腕にビッシリとタトゥーの入った長身の金髪男や、鼻や耳をピアスで埋めつくした白髪の男、さらに、スキンヘッドにサングラスのギャングの用心棒にしか見えない輩までいる。悪そうな奴はだいたいトモダチ。そんな連中が十余名トラックから降りてきた。ある者はくちゃくちゃとガムを噛みながら、またある者はゲラゲラと品のない笑い声をあげながら、彼らはグランドへと足を踏み入れる。とりあえず、まともに挨拶をする気はなさそうだ。
その様子をしばらく見ていた夏苗は、大坂の方に向き直ってボールを投げ返す。
「小波さんは、まだ伝えていませんでしたね」
突然の矢のような送球が大坂のグラブに収まる。抜群のコントロールだ。掌に伝わる予想外の衝撃の大坂はまた驚く。
「モンキースは見ての通りの荒くれ者集団です。勝つためには手段を選びません。特に、ここ何年かの彼らの素行は酷いんです。どんなプレイでもルールの範囲内ならば、試合中の事故で済まされてしまう。フロッグスの棄権が続いているのも、実は試合中に怪我人が何人も出て、試合続行が不可能になって棄権しているからなのです」
大坂は周囲を見渡した。
フロッグスのメンバーは、40歳を過ぎたおじさんばかりだ。おじさんならばまだいい、ヤソジとそれほど変わらないお爺さんと呼んでもいい年齢の者もいた。彼らはキャッチボールもそこそこに、ベンチの日陰でくつろいでいる。一方のモンキースは、柄が悪いとはいえ、10代20代の若者ばかりと見受けられる。彼らの一部はろくにアップもせず、ジャージ姿のまま肩自慢とばかりに遠投を始めている。ウォーミングアップの様子から察する限り、まともな勝負になるとは思えない。
「特に気をつけて頂きたいのが、あの赤髪にバンダナを巻いてる男です。モンキースのリーダー漁火剛。打つも守るも十人並みですが、ファイヤースターターと言う発火能力者です」
「発火能力!?」
大坂は訊き返した。電撃バットの次は発火男と来たものだ。
「はい。今の東地区で、目に見える魔道術の使うのは彼くらいです」
「マドウジュツ?」
魔道術。ファンタジーな言葉が、大人しく可憐な少女の口からこぼれた。よく見れば、向こう側のベンチに腰掛けるバンダナ男はライターも使わず、指先に灯った炎でタバコに火をつけていた。
大坂は一度夏苗に視線を戻した後、改めて相手ベンチを覗き込んだ。間違いない。指先に灯った炎が、タバコの先端でくすぶると、一筋の煙が確かに流れ出した。
「ちょっと、あんまりじろじろ見たら……」
向こうのベンチからガラの悪い大男が2人近づいてきた。どちらも180㎝は軽くあるだろう。片方はスキンヘッドにサングラスのマフィアの用心棒風の男、もう片方は長身の割にひょろっとしているが腕にはびっしりタトゥーが彫り込まれている。
「おい、何見てんだ?」
タトゥー男がメンチを斬った。迫力十分だったが、大坂も引くわけにはいかなかった。何か気の利いた口上でもあれば、この場を丸く収める事ができるだろうが、生憎、大坂はそれを持ち合わせていなかった。大坂も黙って睨み返すのが精いっぱいだが、それは対峙する4人の間の空気を悪くするばかりだ。
「ドーカシマシタカ?」
能天気に見えて、とても頼りになる男だった。ぼんやりしている様でも、周りの状況を良く見ている男だ。背後から現れたガッテムは彼らと身長でタメを張り、横幅で圧倒した。ガラの悪い2人の足が止まる。
「なんでもねーよ。見ない顔だから挨拶しに来ただけだ。俺はピッチャーの菅野で、こっちは4番の佐賀だ。おい!じーさん!今日もヨロシク頼むぜ!」
タトゥー男は平静を装い口上を述べると、すぐに三塁側ベンチへと引き返した。マフィアの用心棒も黙って引き返して行った。ガッテムも大坂の背中をポンとミットで叩いて、元いた位置に戻ると、キャッチボールを再開した。
「お手柔らかに頼むよ~」
一塁ベンチで腰掛けるヤソジの声も意外によく通る。
「それで、俺なんかがピッチャーでいいのか? 魔法ってヤツの心得はないんだ」
おまけに、公式戦ではピッチャーの経験もない。大坂はキャッチボールを再開したが、指先が汗ばんでいるのがわかった。今までにない緊張を感じているが、それは、ぶっつけ本番のマウンドに対してでも、柄の悪い対戦相手に対してのものでもない。ハッキリと目の前で見せつけられた空想の産物に対してのものだ。
「それは、お気になさらないでください。島の外から来た人で、初めから魔道術を扱えた人にはお会いした事がありません。それに、東地区には昔から魔道術の使用を良しとしない伝統があるんです。なので、東地区では魔道術の野球への応用があまり発展していません。純粋な野球が楽しめるという側面もますが、残念ながら本戦での結果は昨日お話ししたとおりで…」
東地区では5年前、あまりの成績不振が理由で、2つあった本戦への出場枠が1つに減されている。それ以来、5大会連続でモンキーズが本戦に出場しているのだが、彼らの本戦での成績はお世辞にも良いと言えるものではなかった。
「当たって砕けろってか」
夏苗に聞こえないように、大坂はつぶやいた。しかし、孫を溺愛するヤソジは最も危険なポジションに孫娘を据えている。話を聞く限り、ヤソジの野球への造詣の深さは生半可なものではない。何かの策でもあるのだろうか。
『しゃーっす!!』
午前10時、両軍の選手がグランドに整列して一礼すると、各々の持ち場へと散っていく。プレイボール。
初回表、フロッグスの守り。即席ピッチャー大坂の立ち上がりは上々で、先頭の足尾、2番の渡良瀬をあっさり三振に斬って取ると、続く3番漁火もショートフライに打ち取った。初回裏の攻撃は、フロッグス先頭の鹿島が三振、続く筑波も三振に倒れると、3番大坂に打席が回って来る。
大坂には18歳の夏に引退して以来、丸々3年間のブランクがあった。多少、身体のなまりは感じていたが、打席に立った時の緊張感が懐かしい。最後の打席は勝ち越しのタイムリーだった。3年ぶりに左の打席に入り、右手に持った金属バットをゆっくりと手首で1回転させながら、右足で足場を均らしていく。無意識に高校時代に繰り返した癖のような動作が出てくると、嫌でも口元が緩んでしまった。心は野球を忘れていたが、身体は野球を忘れていなかった。また、こうして打席に立てる日が来るとは、この3年間、考えてもいなかったことだ。
相手投手の菅野は試合前に絡んできたタトゥー男だ。180cmを超える長身で、マウンドから見下ろされるという表現がぴったりだ。手足も長く、球速は150㎞/h近くをコンスタントに叩きだしている、肩が温まれば、さらに球速は上乗せされるだろう。これだけの剛腕ならばプロでもトップレベルだ。
しかし、ネクストサークルにはそのプロをも手玉に取るガッテムが控えている。大坂は、グリップを余らせて、バットを短く握った。調子は悪くなさそうだ。大きく息を吐いて、気持ちを落ち着かせる。まずは、塁に出ることを考える。
――ズバンッ!
長身を活かしたダイナミックなフォームから放たれた初球は、インコース高めへの直球。大坂は思わず仰け反った。しかし、ボール球。大坂もこれで怯むような打者ではないから、不敵に笑う菅野を一瞥すると、さらにバットを短く握り、ベースに覆い被さるようにして構えた。制球に余程の自信がなければ、インコース攻めはまず無いだろう。ブランクのある大坂とて、ヤマを張れば150㎞/hは打てない球ではない。
アウトコースにヤマを張って、握るグリップに力を込める。菅野のモーションと同時に、大坂は右足をあげる。しかし次の瞬間、菅野の150km/hは大坂の右肩を直撃すると、高く宙に舞い上がった。
「デッドボール!」
「相変わらずじゃのう。夏苗、コールドスプレーを持っていきなさい」
「はい」
早速、夏苗が大坂のもとへ駆け寄る。ヤソジは厳しい表情のままスコアブックにDBと記した。
「小波さん! 大丈夫ですか」
「このくらい平気さ」
慣れた手つきでスプレー缶を振る夏苗を、手を振って追い返しながら、大坂は菅野の様子を窺う。彼は、帽子を脱いで会釈こそはしたものの、悪びれる様子は全くなかった。大坂も痛がるそぶりは微塵も見せずにゆっくりと一塁へ歩いた。デッドボールの当たり方くらい心得ている。この程度の死球で投球に影響はまず無い。
二死一塁で4番ガッテムが打席に入る。
ややオープンスタンスで打席に立ち、バットを寝かせて構える姿は、去年大坂が西武ドームで見たものと変わりがなかった。違うのは、大坂自身も同じフィールドに立って一緒にプレーをしていること。1歩、2歩と大坂はリードを広げる。
すかさず、菅野は牽制球を挟む。大坂は頭から帰塁する。厳しいタッチが大坂の前腕に叩き込まれた。ファーストの外藤は塁審の様子を窺うが、塁審の両腕は水平に広げられた。セーフ。
中ノ鳥島では本土の球界の情報は手に入りにくいらしい。去年のパリーグ三冠王の顔を皆が知らないのも不思議な事ではなかった。主催者の裁定による選手データがメンバー表交換時にそれぞれのPDAへ転送されるが、ガッテムと大坂のデータはまだ準備されていないようで“NO DATA”という表記しかされていなかった。昨日の事故のせいでデータの更新が間に合っていないのだろう。
――カキーン!
菅野が不用意に投じた初球を、ガッテムのポッキーバットが真芯で捉える。快音を残して高々と舞い上がった打球は、スコアボードの向こう側、遥か場外へと消え去った。両チームの選手は呆気にとられて打球の行方を見守ったが、間もなく一塁側ベンチは歓喜に包まれた。ガッテムが右手こぶしを高く突き上げる。
しかし、喜びを分かち合う一塁側ベンチで、ヤソジの表情だけが険しい。
先に帰って来た大坂を、ベンチは暖かく迎え入れる。
「大坂君、ちょっとそのバットを見せてくれまいか」
ポッキーバットを持ってベンチに戻ってきた大坂をヤソジが呼びとめた。今度はバットを持っても腕が痺れる事はなかった。バットを受け取ったヤソジは低く唸り声をあげて、そのバットをじっくりと観察している。
「どうかしましたか?」
「ここを御覧なさい」
ヤソジがグリップテープを少し剥がすと、木目の一部が不自然に変化している部分があった。一見すると、それはただの木の節のようにも見えたが、よくよく見ると鬼の形相の男が太鼓を打ち鳴らす様が精巧に彫刻されていた。
「おじい様、これは昨日みかんが拾ってきたものよ」
夏苗は得意気に、ベンチの隅ですやすや寝ている愛犬を指差した。
「その直後にガッテムさんが家にいらしたの」
「そう言えば、そうじゃったな」
ヤソジは、ベンチ前でハイタッチを交わしながら喜びを分かち合うガッテムを一度見やってから、静かに語り始めた。
「まだ、わしが若いころじゃ。風神バットという神懸かり的な威力をもったバットがある日突然現れてのぅ。その年のリーグ戦は風神バットを手に入れたチームが圧倒的な打力を誇り優勝したのじゃ」
「おじい様、また昔話ですか?」
ヤソジが長台詞モードに突入するのを察知すると、夏苗は眉を吊り上げた。
「まあ、聞きなさい。当時その風神バットと対をなしている雷神バットというアイテムが予言されてのう。それらしい贋物が幾つか出回っていたものじゃが、結局、本物の雷神バットは見つからなかった訳じゃ。与太話だと思って、今の今まで忘れていたが、ひょっとすると、これは本物の雷神バットかも知れん。今のホームランが何よりの証拠じゃ」
ハイタッチをひとしきり終えたガッテムが戻ってきた。浅黒い肌にラテン系特有の明るい笑顔が印象的な男だ。ヤソジも右手を突き上げてガッテムに握手を求め、先取点の喜びを分かち合った。やがて、腕を解くとヤソジは丁寧な口調で言った。
「ガッテム君、つかぬ事を聞くが、このバットはどこで手に入れたのだね」
「フネノウエデス」
「船の上じゃと!?」
事もなげに言うガッテムに対し、ヤソジはかなり驚いたようだ。鋭い視線をガッテムから逸らして、暫く思案してからこう述べた。
「野暮な事は言いたくないのだが、暫くこのバットの使用は控えた方がいい」
ガッテムの表情が曇った。この老人の言う事は一理あった。ガッテムも経緯のわからないバットを使い続ける事には少なからず不安を感じていた。このバットが持つ不思議な力の存在を頼りにしたい一方で、得体の知れない力への恐怖がないわけではなかった。
「このバットに限らず、持ち主に不思議な力を与えるアイテムがこの島には幾つも存在する。しかし、その力が強ければ強いほど扱いが難しく、持ち主を不幸に招いた事例も少なくない。だから本当に必要な時が来るまで、これは封印しておいて欲しい。このバットは、何というか、力が強すぎるのじゃ」
ヤソジは言葉を選びながら、ガッテムへと告げた。不思議な力を持ったアイテムに翻弄されて選手生命を短くした選手を、少なからずヤソジは見てきていたからだ。
「それに、君のセンスなら道具に頼らずとも、結果は出るじゃろう」
「ソレモソウデスネ」
ガッテムの表情に笑顔が戻る。見かけによらず、聞き分けのいい男だ。
そうこうしているうちに、5番井伏はセカンドライナーに倒れスリーアウトチェンジ。フロッグスナインは2回表の守備に散っていく。
◆ ◇ ◇ ◇ ◇
モンキース4番の佐賀は、サングラスを外すと非常に目つきの鋭い男だった。目の下の痣のようなクマが悪辣なイメージで、凶悪な犯罪者として指名手配されれば誰もが納得するだろう。もちろん、人を見かけで判断するのは褒められた事ではないのだが。佐賀に睨まれると、ロジンバックを片手にマウンドに立つ大坂の背筋から冷たい汗が流れる。事前に確認したIDのデータによればミート力B、長打力A。
AとかBとかの評定がどの位凄いものか大坂にはわからなかったが、他の打者のデータにCやDが並んでいるところをみると、この佐賀という男の能力がチームで飛び抜けている事がわかる。
一方で、夏苗は相変わらずノーサインで相手打者の膝の高さにミットを構えた。試合前に彼女は「低めに集めればどんな打者も打ち取れる」と言っていた。実際に初回は3人で打ち取ったが、150km/hの速球を見慣れている彼らが、大坂が投げる打ち頃の棒球を捉えられないわけがない。
…ブォン!
初球ストライク。やはり佐賀のスイングは、今までの1、2、3番打者の比ではない。高校野球ならば、間違いなく全国クラスの強打者であろう。弱気なピッチャーならばマウンドから逃げ出してしまうかもしれない。それ位の威圧感がある。大坂は、もう一度ロジンに手を当てた。
…ブォゥン!
またも、ストライク。さっきよりも、また一段と鋭い強振だ。低く、低く。夏苗はジェスチャーで促した。言うほど楽じゃないんだぜ!
…ブォン!
佐賀は結局、3度とも低めのボール球に手を出すと、あっさり三振に倒れた。選球眼は小学生並のようだ。
速球に目が慣れている打者が遅い球にタイミングが合わず、軟投派の投手にいいように玩ばれる事があるが、今のモンキース打線がそんな風に打ちあぐねいている様には見えない。5番菅野、6番外藤もまったくバットに当たる気配がなく三振に倒れた。スコアブックにKが並ぶ。
「打ち頃の直球だよな?」
ベンチに戻ると、たまらず大坂は夏苗に尋ねたが、夏苗は黙って微笑むだけだ。まん丸の瞳を少しだけ細めて、小さな唇をキュッと結んだその微笑みに骨抜きにされそうな大坂だったが、気を取り直してもう一度問いかける。
「これは魔法か何かなのか?」
「さすが小波さん。正解です」
「そうか、俺もいよいよ魔法が……」
「いいえ、誤解なさらないでください。小波さんが気を悪くするといけないから、黙っていたのですが……」
「わかってる。130km/hそこそこの直球と付け焼刃のカーブもどきで抑えられるような相手じゃないだろ」
「それもそうですね。隠し事も気がひけますし、ご説明いたします。そもそも、この島で魔道術は異端の能力ではありません。得手不得手は人それぞれですが、多くの場合は島の環境に促されて能力が顕れます」
「島の環境?」
「はい。どういう訳か、この島にいる殆どの人間には、何かしらの能力が顕れます。これは、島の外から来た人も例外ではありません」
「それは、俺も魔法が使えるようになるってことなのか?」
「はい、おそらく」
微笑みながら夏苗は答えると静かに、しかし、愉しそうな口調で続けた。
「個人差はありますけど、島の風土に慣れる1カ月くらいで何かしらの兆候が自然と顕れると言われております。それをコントロール出来るように訓練していけば、小波さんならきっとスゴイ事になりますよ」
「待ってくれよ。北地区の予選の開幕が今朝の発表で明後日なんだ。1カ月も待ってられない」
自分の未知なる能力に、にわかな期待を抱いた大坂は頭を抱えた。
「小波さんは、本戦に出られるおつもりなのですか?」
「そのつもりで、この島に来たんだけどね」
今となっては、それどころではないと大坂は言えなかった。魔法という空想の世界に一抹の期待を覚えていたのも事実だが、この空想の世界から戻れなくなってしまうのではないかという不安の方が大きかった。出口のわからない迷路に、うっかり足を踏み入れてしまったかのようだった。籠の中の鳥とでも言えばよいのだろうか。中ノ鳥島とはよく言ったものだ。
「そうでしたか。何か、引き金になる強い衝撃があれば、能力が強制的に発現するという話を聞いた事があります」
「強い衝撃?」
「えぇ。非常に珍しいケースです。トリガーと呼ばれていて、瀕死の危機に晒されたり、トラウマになるような事故に巻き込まれたりすると、強制的に能力が発現することもあるみたいで……」
「トラウマとかは、ちょっと勘弁だな」
大坂は苦笑した。
「ところで、夏苗の魔法はどうなってるんだ?」
「知りたいですか?」
不敵な微笑みに、大坂の背骨がぞくっと震える。
「そりゃ、知ってるのと知らないのとじゃ、投げ方も変わるだろ」
「それもそうですね。では、こんな実験はご存じかしら?」
夏苗はカバンの中からマグカップを取り出すと、次に小銭入れからコインを一枚取り出した。薄い緑色のカエルのファンシーキャラクターを模した小銭入れた。
「小波さん、このコイン、今はこの角度からは見えませんが……ほら、もっと近くに来て下さい」
夏苗はベンチの隅に大坂を呼び寄せると、華奢な体を大坂に密着させた。大坂も身を屈めて夏苗に目線を合わせる。火照った夏苗の身体と、少し汗ばんだユニフォームのほのかな匂いに大坂はドキリとするが、夏苗は構わずに説明を続けた。
「こうやって、少しずつ水をコップに注いでいきます。コインが水の勢いで動いては意味がないですからね。少しずつです……」
小学校の時に、理科の実験でやった事がある。光が屈折するというアレだ。しかし、これが何だというのだろう。次第にコインの上端が現れると、マグカップが水で満たされる頃にはコインはその姿を全て確認できた。
「空気の層と、水の層。密度が違うと、光が進む速さが少しだけ違うんです。本来、光はまっすぐ進むものですが、角度を持って光が密度の境界にぶつかると、進む方向が変わるんです。これが光の屈折です。屈折した光は、私たちに本来そこには無いものを有るものと認識させてしまいます」
「ふーん。だけど、グランドには何処にも水溜まりなんて無かったじゃないか」
「これは理屈の話です。実際には蜃気楼に近い現象をホームベースと、マウンドの間で意図的に起こすんです」
「はぁ……」
「続きは、また後に致しましょう」
彼女はにっこりと微笑み、話を切り上げた。手に持っていたマグカップをみかんに差し出すと、みかんはぺろぺろとその水を美味しそうに飲んだ。ふてぶてしいが愛嬌のある犬だ。
2回裏のフロッグスの攻撃は、6番土浦、7番古河、8番笠間と3者連続三振。菅野の快投におじさん軍団は手も足も出なかった。キレのあるスライダーも投げるらしい。大坂は肩を休める暇もなく、再びマウンドへと上がる事となった。
3回表の守り。大坂のコントロールが少し乱れて球数が増えたものの、またも3者連続三振。モンキースの7、8、9番のバットも面白いように空を斬った。3回までに、8奪三振。あまりに出来すぎなデビュー戦だ。
夏苗は、蜃気楼に近いものだと言ったが、蜃気楼は空気の密度(温度)の違いによって光が屈折して海の向こうの町が宙に浮かんで見えたりするものだ。さて、その理屈からすると、ホームとマウンドの間に高温の空気層と低温の空気層がある事になる。
3回裏の攻撃は、9番の夏苗からだ。どうせ、菅野の速球に手も足も出ないだろうと大坂は多寡を括っていたが、彼女はしぶとく四球を選ぶと一塁へと歩いた。どこかで彼女の話の続きを期待していた大坂は、自軍のチャンス到来にもかかわらず、少し複雑な心境で塁上に声援を送る。
「ナイッセ~ン!」
夏苗は小さなガッツポーズで声援に応えた。年相応の、はにかんだ笑顔が反則的に魅力的だった。