ドラフ島列伝 ~The last page of baseball legends chronicle~ 作:マリリンマンション
茅野は暖かい布団の上で目を覚ました。こんなに心地よい眠りは久しく経験していなかった。いつもは、当直室の硬いマットの上だ。見慣れない天井にハッとして茅野は起き上がる。綺麗に片付いていて、手入れも行き届いている四畳半の和室だ。障子窓からは明るい光が漏れているが、時間はわからない。階下から聞こえる「やんすやんす」という独特の語尾に、思いがけず現実に引き戻された。
「貴様!」
勢いよくふすまを開けると、ダンと大きな音が響く。案の定、瓶底メガネの青年がそこにいた。
「こんな所でいったい何やってるんだ! PDAは取り返せたのか? あぁっ!?」
「ちょ、ちょっ! 暴力反対でやんす」
茅野は矢部の胸ぐらを掴むと、力任せに壁へと叩きつけた。ダンと再び大きな音が響く。
「他人の家で暴れないでもらえるかしら」
振り返ると、一人の美女がそこに立っていた。腕を組んで、眉を吊り上げているから、怒っていると考えていいだろう。よく見ると、昨日訪ねた洋服屋の店員だった。
「あ、すいません、これには深い事情がありまして……」
我ながら、ダサい釈明だと茅野は苦笑した。ひとつため息をついてから、矢部から手を離した。
「そうでやんす! 命の恩人でやんすよ!」
「すまん」
茅野は家の主の女に向き直り、手当と一晩の宿を借りた礼を述べた。女も納得したようだ。女は口を開いた。
「で、例のピンクのドレスの女性は見つかったの?」
「見つかってないでやんす。茅野さんが階段で転んで電車に乗れなかったでやんす」
「俺に構わず行けと言っただろ!」
「怪我人を置いて立ち去るほど落ちぶれちゃいないでやんす」
「メガネが一丁前の口をきいてんじゃねぇ」
「メガネは関係ないでやんす!」
「ちょっと、ちょっと二人とも、これ以上続けるなら表に行ってちょうだい」
茅野と矢部は再び女に謝ると、ここまでの経緯を説明した。主に矢部が喋ったが、矢部の話はだいぶ事実が捻じ曲げられていたので、茅野が訂正して補足した。
「だけど、この島で他人のPDAを盗むなんてどういう神経してるのかしら?」
PDAの紛失は重罪だが、それを盗むとなれば更に重罪である。この島で使われるPDAには指紋による本人認証機能があるから、他人のPDAを所持していても何のメリットもない。
「それに、おかしいじゃない? どうして本人が持ち歩いていないPDAが位置情報を発信してるの?」
「そこなんだよ、お譲さん」
茅野の端末に表示された赤い丸印は、北地区の南のはずれにあるヲヌマという町に停滞していた。北地区を出るとなれば、この町のゲートを通らなければならない。ヲヌマのすぐ南には南地区北端のカイシティがあるが、東西南北各地区への出入りはIDのチェックが求められている。ここを通過されると、矢部を連れての追跡は困難になる。
「ねえ、茅野さん。仮に、矢部さんの指紋を完全に複製できたとして、それを使ってPDAを起動させる事は出来ないかしら?」
「それは無理だ。実は、この端末が感知しているのは指紋だけじゃない。静脈の形状だとか心拍数だとか発汗量だとか、そんな物まで計算して本人認証して、ご丁寧に本人の体調まで表示されるんだ」
茅野のPDAにはDCDBCという彼のデータの隣に黄色い顔を模したキャラクターがくるくると回転していた。
「さっきから、何の話をしてるでやんすか?」
「どうして矢部さんのPDAが、持ち主もいないのに動いているのかな?って話」
「お前、パーティーの最中に指紋を取られたりとか、そういう事はなかったのか?」
「オイラの指紋を取って、どうするでやんすか?」
「指紋認証をしなけりゃPDAは電源入らないだろ?」
「……? そうなんでやんすか!?」
「はぁ? そんな事も知らなかったのか? オリエンテーションのいっち番最初に説明あったよなぁ?」
「聞いてないでやんす」
「お前まさか、自分の指紋を登録していないのか?」
茅野は額に手を当ててうな垂れた。そうかそうか。そういうことか。世紀の謎もこんなに呆気なく解決するものか。オリエンテーションの初っ端から、居眠りだか余所見だかしていた矢部はPDAに指紋登録をしていなかったのだ。それで、PDAが無い無いと騒いでいるのだから、心の底からオメデタイ男である。
「お嬢さん、迷惑かけましたね。先を急ぎますんで、失礼します。このご恩は、またいずれ」
「ちょっと待って。これからどうするの?」
「ヲヌマに行きます。それで、こいつのPDAを取り返します」
「ヲヌマまでどうやって行くつもり?」
女が折り畳んだ朝刊を投げてきた。
「私、それ読んだから。卒倒するかと思ったわよ。あなた警備部のお偉いさんなのね。もっと恩を売っておきたいから、ヲヌマまで車で送るわ」
朝刊には茅野と橘の顔写真が大きく載っていた。記事の内容は、リモーア港座礁事故後に行方が分からなくなっている2人を発見しだい、本部に連絡してほしい旨が記されていた。幸いにも、良心的な記事で雷神バットの盗難などには触れていなかった。もっとも、運営本部がそんな事態を公にするはずもないが。
女は加藤京子と名乗った。年のころは30歳手前といったところか。見かけによらず着痩せするタイプらしく、斜めに掛けたシートベルトがニットの胸元に深く食い込む様は絶景…いや、ご立派である。ファミリータイプの軽乗用車が揺れるたびに、助手席に座る茅野と後部座席に座る矢部の視線は釘づけになった。加藤は不意に急ブレーキを踏んだ。
「ちょっと、いつまで見てるの?」
「わ、悪い…」
「ごごめんなさいでやんす」
「ところで、この先で検問やってるけど、どうする?」
「迂回してください…」
「了解~」
加藤がステアリングホイルを切ると、車は峠道の迂回路を進んだ。
◆ ◇ ◇ ◇ ◇
中ノ鳥島野球リーグ運営委員会はリモーア郊外に位置しているタワービルに本部を置いている。大会の運営はもちろんだが、市民の福利厚生や、街の治安維持なども一手に担う島の中枢組織だ。選手の成績やデータを管理している管理部は、野球が全てのこの島では戸籍を管理する市役所のようなものだ。試合時の審判などを派遣している警備部は、街に出れば市民の安全を守る警察署のような存在だ。
市民の健康状態を守る病院のような部署も存在している。故障からの回復を早める治療法を研究したり、科学的に選手の能力を向上させるトレーニングを研究したりする部署は科学部と呼ばれていた。ただ科学部と記述すると、怪しい科学者の集まりと思われるので、以上のような説明のくだりを設けた訳だが、ビルから少し離れたところにある彼らの研究室に集うのは、やはり、ちょっと変わった人々だと思う。
「進君のお兄さんは、やっぱり変わり者だヨ。クインテットスターがどこかに行ってしまったのに、全然気にするそぶりすらないんダ」
「博士に変わってると言われたら、兄もお終いですね」
進と呼ばれた若い青年はベットに横たわっていた。端整ながらも、まだあどけなさの残る美しい顔立ちの青年だ。頬に貼られた絆創膏が痛々しいが、これがかえって多くの女性の母性本能をくすぐるであろうことは想像に難くない。進は整った顔に憂いた表情を浮かべて続けた。
「やはり、甲子園って特別な所なんでしょうね。兄は埼玉第八が勝ち進んで来なかった事を非常に悔いていました。兄は深紅の優勝旗を手にして、9球団競合のドラフトでジャイアンツに入団。新人王、最多勝、最優秀投手、沢村賞、最多奪三振…あらゆるタイトルを総なめにしてメジャーへの移籍も時間の問題。そんな兄が高校2年の秋大会に一本だけ打たれたサヨナラ打のリベンジが出来ていない事をいまだに悔いてるんです。……あ、やっぱり変わってますね」
進は口元に手を当ててくすくすと笑った。そんな青年を白衣を身にまとった初老の男は、悲しそうな眼差しで見つめている。胸元の名札には「科学部博士 武井田」と記されていた。彼は長い間ドイツに滞在していたらしく、日本語が少し訛っている。
「君だって、悔いてるんじゃないのかネ? 2年連続で甲子園出場。最後の夏は優勝こそ逃したがプロ入りは内定していたんダ。しかし、君がユニフォームに袖を通す事はなかっタ」
「やめてくださいよ。過ぎた事を悔いたって仕方ないじゃないですか」
「そんなに簡単に割り切れるものカイ?」
「きっと、これも運命なんですよ。初めから、こうなるっていう……」
進は言葉に詰まったが、表情を歪めたり、涙を流したりする事はなかった。不貞腐れていたり、諦めている様子でもなかった。ただ、悟ったように運命を受け入れる覚悟を決めているようだ。
「私の手術の成功率は40%デス。それでも、やりますカ?」
「今、何%の確率があろうと数時間後の未来から見たら、その数字に意味はありません。意味があるとしたら、それは失敗した時に責任逃れするための口実です」
「……」
進は冗談のつもりで言ったが、大町には皮肉に聞こえたようだ。
「すみません、言い過ぎました」
「いや、いいんダ。今までに、何人もの不幸な選手たちを見てキタ。しかし私はその事を悔いた事は一度もナイ。科学の進歩には犠牲も必要デス」
「冷たいんですね」
「進君は選択肢を選ぶ事が出来ル。これは、とても大事なコト。やっぱりやめると一言いえば、私は手術をやめル。そして、今まで通りの治療を続けル。時間がかかるかも知れないが、日常生活に支障がないところまでは回復できル。でも、これは私が決める事じゃナイ。責任逃れと言われれば、否定はしないが、進君の意思で選んで欲シイ」
進は暫く黙った。そして、どこか投げやりな気持ちで島に来ていた自分に気が付くと、胸の奥から熱いものが込み上げてきた。進はベットから起き上がると、深々と頭を下げた。
「博士、お願いします」
◆ ◆ ◇ ◇ ◇
加藤京子の運転は荒かった。荒かったというより、下手くそだった。峠道は舗装の崩れかけた悪路だったという事もあり、ヲヌマの町に着く頃には茅野も矢部もグロッキー状態だった。
「だらしないわね」
加藤は呟くと、路肩に車を停めてドアのロックを解除した。二人とも崩れるように車から飛び出すと、外の新鮮な空気を胸一杯に吸い込んだ。
「失礼しちゃうわ…」
少し遅れて加藤も車を降りると、ポーチからタバコを取り出した。ヲヌマまではまだ少しある。ちょうど良い休憩だ。
「タバコは身体に毒だぜ」
「知ってる」
「お医者さんのセリフじゃねぇな」
「何のことかしら?」
車のルーフ越しに茅野は加藤を見やった。加藤は構わずに、マルメンライトに火を点けた。
「足首と肩のテーピングが完璧だ。素人にはここまでできない」
「島の女なら、テーピングくらい巻けて当然よ」
「そうか。そうだな…」
旅の恩人を、これ以上詮索しても仕方ない。茅野が別の話題にしようとした時だ。
「京子さんは、お医者さんと言うよりは看護婦さんでやんす。看護婦さんに巨乳は相性抜群でやんす~むふふ~♪」
「その話はもう終わったんだよ! いい加減にしろ!」
茅野は矢部の鳩尾に一発極めた。
「い、痛いでやん…す」
「それより、ヲヌマに着いてからなんだけど、何かアテはあるの?」
「それなんだ。俺は顔が割れちゃってるし、こいつはID不携帯だ。お譲さんを巻き込むのは本意じゃないんだが…」
「いいわ。手伝ってあげる。袖触れ合うも多生の縁って言うでしょ」
「話のわかる娘さんで助かるよ」
「その代わりと言っては難なんだけど、後で調べてほしい事があるの。お願いしていいかしら?」
「俺に出来る事なら、構わんよ」
「話のわかるおじ様で助かるわ」
「おじ様? 俺まだ30代だぜ?」
「30超えたらみんなオジサンよ」
「そういうもんかね…」
茅野は頭を掻いた。茅野は加藤にタバコを一本ねだると、それを銜(くわ)えて慣れた手つきで火を点けた。メンソールの刺激が肺いっぱいに広がる。
「それ終わったら出すわよ」
「ガッテンでやんす」
「うぃ…」
束の間のドライブも、もうすぐ終わる。ヲヌマで橘みずきの身柄を拘束して事情を聞かなければならない。そして、矢部のPDAを取り戻したら大坂に連絡してもらおう。彼の安否はわからないが、チャド・ポートランドや雷神バットの所在に近づく事が出来るはずだ。それが叶わなければ、茅野は元の生活に帰る事ができない。