喧騒に包まれ、人々は安心を得るというが、この状況がまさしくそれだろう。例の立て篭もり事件の直後、早速譲友のリクエストで回転寿司に行った司たち一行は、極限状況から抜け出した実感を噛みしめている。
事件に遭遇した司、タマキン、譲友、えねの四人の他、ほぼ貸し切り状態の店内のテーブルには様々な面子が顔を揃えていた。
露出の多い男なのか女なのか分からない声の女性(?)を始め、色々とアウトそうな千葉出身のネズミ、仮面を被ってバイクに乗ってそうな男など、多種多様である。
ーー彼らはいわゆる司たちBANsのメンバーなのだが、集まるのも不定期なため、こうして揃うのも稀である。お互いの近況を話し合い、杯を交わしている。
「いやー。君が譲友ちゃん?可愛いねぇーっ!ヒック!!」
「ど、どうも……」
すでに酔ってしまったのかベロベロで絡んでくる男もいた。正直譲友はドン引きしているのだがそんな事などお構いない様子だ。
「おじさんはねぇ……サイボーグな忍者をやってーー」
「なあフォックス。そろそろやめとけ。譲友が困ってる」
「ヒック。いやぁ、大丈夫だぁ……」
「……。ほら、肩貸してやるからこっちこい。な?」
「えー。ケチー」
そう言いながらタマキンに連れていかれてしまった。完全に千鳥足。見てて不安になってくるほどフラフラだ。
そんな二人の様子を見送っていた譲友に司が声をかけた。
「譲友、大丈夫だったか?悪い奴らじゃないんだが酒が入るとどうも……」
「いや、大丈夫よ。本当に面白いのね、あなた達」
「……ああ、よくも悪くも曲者揃いだからな」
「あら、それは司が言えた事じゃないでしょ?」
会話に加わって来たのはえねだった。酒が回っているのか、頰を赤らめている。
「……まあな。曲者で悪かったよ曲者で」
「さあさあ、譲友ちゃんも楽しんでってね。今日の主役なんだから」
「もちろんよ。今日はとんだ災難にもあったしーー」
譲友が今日の記憶を辿ろうとした時、ある疑問が頭に浮かんだ。
「ーーあ」
「ん?どうした?」
訝しむ司とえね。譲友の顔を2人して覗きこむ。
「いや、大した事じゃないんだけど。なんで不可視状態のvicに司だけ気づけたのかなって」
譲友が言っているのは、今日起こったデパート建て込み事件の事。囚われた譲友達がvicを顕現化させずに飛ばしていたところを、なぜか同じく囚われていた司だけが気づいたのだ。司は一般人なので、見える筈などない。譲友の疑問はそこから来ている。
「ああ、それか」
司は素っ気なく答えると、一度何かを思い浮かべるように一瞬目線を泳がせ、一言。
「……昔、ちょっとな」
含みを持った答え方に女子2名は興味をそそられたのか、逆に突っ込む。
「ちょっとって何よ!!」
「そうよ。お母さんに隠し事しないの!!」
2人の剣幕に若干押されそうになる司だったが、それでも答えたくない理由があるのか、頑なに話さない。
「嫌だね」
「えー。ケチー」
「ケッ。どうとでも言え」
司はそうあしらうと、再び記憶を辿り始める。彼の中ではあまり人に話す事はない過去。ある意味腐れ縁であり、ある意味戦友であったあの大福の記憶を。
(チッ……思い出しちまったじゃねぇかよ。あのクソ大福との話とか意地でも話してやらねぇからな)
そう考える司の意思に反して、脳はどんどん追憶をしていく。過去へ、過去へ。そう、記憶の引き出しを大切に。ゆっくりと開けるようにーー
♢
それは、澄んだ空気の向こうで朝日が煌めく冬の朝だった。早朝と言う事で、商店街のシャッターは締まり切っており、新聞配達のバイク音が響いているだけだ。
そのある意味神妙な雰囲気の中、凍えるようにうずくまっている男こそ、天開司本人である。この頃彼はまだBANsとは無縁で、目的もなくただ一人街を彷徨うだけだった。ボロボロの賃貸に住み、日雇いのバイトに出掛け、対価の安い給料は大量の負債と家賃、それと酒の為に一瞬で蒸発してしまう。手元に金など全く残らない。正に自堕落。そんな生活を送っていた。
そんな彼は、翌日が休みなのを肴に道端で安酒を飲んだ後、そのまま外で寝込んでしまっていた。警察の職質によって起きた彼の身体を襲うのは、二日酔いの気怠さと刺すような寒さだけ。彼にとってはまさに最悪な朝。動くことすら億劫でここにうずくまっていた。
(……あーあ。何してんだろうなぁ。俺)
そんな後悔がずっと頭を回り続けるくらい、最悪な気分だった。日頃彼はそこまでナイーブな男ではないのだが、酒の力が失われたせいもあってか、急激に気分が落ち込んできたのである。
そうやって呻いたり呻かなかったりを繰り返して暫くした頃だろうか、不意に、司を照らす朝日を遮る影が立ち塞がった。
「……スィヤセェン。ちょっといいですか?」
女性の声が聞こえてきた。どうせ俺の姿を憐れんでか面白がってか知らないが興味本位で声をかけてきたのだろう。反応するのも煩わしくて、目を瞑っていたのだがーー
ーーどうやら居なくなる気はないらしい。痺れを切らした司がようやく半目で顔を上げた。
「ああ、冷やかしなら帰ってくれ。俺なんか見てたって面白いことなんてねぇぞ」
本当に無気力な声。瞳を開きかけた癖に顔すら見ようともしない。そんな彼の様子がおかしくなったのか、その影は笑いだした。
「まあまあ、そんな邪険にしないで下さいよ」
「ああん?こちとら眠いんだ。あんまり邪魔するようなら安眠妨害でーー」
そうやって再び寝ようとする司を遮るように、影は今度は魅力的な提案をした。
「……お兄さん。お金ぇ、欲しくないですか?」
金。その言葉に反応して、流石の司も顔を上げた。ようやく瞳に飛び込んで来た光に目を細めつつ、ゆっくりと目を見開いた先にはーー
ーー朝焼けの中で白髪をふわりと揺らす、少女が佇んでいた。後ろで結ばれた髪が上品に垂れ下がっている。服装は何らかの制服のような物の上に洒落たコートを着ていて、この場にはあまりそぐわないような雰囲気を醸し出していた。さっきからの半笑いのようなふにゃふにゃした喋り方の正体も表情を見れば分かった。確かに、ふにゃふにゃ半笑いしている。
「ーーああ、やっとこっちを見てくれた。ねぇお兄さん。お金、困ってるんでしょ?」
「……あ、ああ」
予想とは反した影の正体に、言葉を上手く紡げない司。認めたくはないが、陽の光に輝くその白髪と、透き通ったような雰囲気に一瞬だが見惚れてしまったのだ。
「なら、着いてきて下さいよぉ……いいお話、あるんです。お駄賃は……一回20万ほど」
ニヤニヤする少女に、呆気に取られながらも流石に違和感を覚える司。流石に高額すぎるし、彼も怪しい連中には幾度も騙されてきたので、そこら辺の免疫はある。
「あ?悪いが、サツに捕まるようなことはしねぇからな。昔手を出しかけたがリスクが高すぎる。分かったらとっとと立ち去りな」
少女はその言葉を受けて、少し瞠目した後に顔を上げた。
「……なら、安心して大丈夫。法には触れません」
「本当だろうな?」
「はい。なのでぇ……詳しいお話、聞いてくれます?」
暫く黙考した後に、司はようやく答えた。
「……分かった」
司は金に困っていた。それはそれは、とても。この生活が少しでも変わればーーそんな気持ちもあったのかも知れない。だからこそ彼は、そんな決断を下してしまったのだ。軽率だったと後で後悔するかどうかも、分からないまま。
「ありがとうございます……こんなところでも何なんでぇ、近くのお店でも行きましょうか」
♢
少女に言われるまま着いていった司だったが、入ったのは喫茶店だった。早朝ということもあって、客らしい客といえば隅っこのほうで新聞を読んでいる渋めの老人しか居ない。陰気で寂れた雰囲気が嫌でも目につく。
「ご注文は?」
「ああ。俺はホットコーヒーで」
「じゃああたしはこの……特性いちご大福って言うのとホットミルクで」
「畏まりました」
丁寧に一礼して去っていく店員を見送って、司は話を切り出した。
「聞きたい事は色々あるんだが……まずはお前が何者かだな」
「あたしはぁ……椎名唯華って言ってぇ。見ての通りの高校生」
「高校生?まあ、確かにおかしくはねぇが……もしそうだとして、目的はなんだ?援交ならお断りだぞ」
「援交じゃないですよぉ……っていうか、そうならあたしがお金をもらう側じゃないですかぁ?」
「む……むぅ」
普通に正論を返されて、狼狽する司。椎名はそんな様子を可笑しそうにーーこれまた煽る感じでーークスクスと笑っている。若干睨んでくる司の眼を鮮やかにスルーして、椎名は話を続けた。
「お兄さんには……ちょっとした人助けをして欲しいんですよぉ」
「人助けだぁ?なんかお前に言われるとどうにも胡散臭いっていうかーー」
「それについては安心して下さい。そう、貴方達の世界で言う
いくらそういう風に言われても、司にはどうも信用することが出来ない。まあ、フニャフニャしながら仕事の話をしてくる少女を信頼しろと言っても無理な話なのだが。
「仕方ないですねぇ。じゃあ、この喫茶店の手助けって言ったら信じます?」
椎名は、内装一面を見渡してそう言った。見渡しているが、何処も見ていないようなーーとにかく不思議な動作だった。
「はぁ?つまり、バイトしろってことか?だったら初めからそう言え」
「いやぁ、まあ、そう。そんな感じ」
「喫茶店のバイトで、20万貰えるんだな?」
「ええ。そんな感じですね」
「乗った!!」
(即決かよこの債務者?!)
まさかここまでチョロいのかと驚愕する椎名を他所に、司はしごく真面目な顔でウキウキしている。残念ながら彼は愚かだった。お金に目がないあまり、こんな怪しい話に乗っかってしまったのである。
「じゃあ、こちらの契約書にサインをーー」
「オッケーオッケー」
沢山の文字が所狭しと並ぶ契約書の中身を
あまりにもすんなりと行きすぎている交渉に顔すら曇らせ始める椎名と、顔を輝かせる司は、面白い程対照的だった。
「お待たせしました。ホットといちご大福です」
店員が先程の注文を運んできたようだ。丁寧な仕草で、食器の一つ一つを並べていく。
司が目を落とすと、机の上には、コーヒーと、牛乳と、大福が並んでいた。
この並びで明らかに異様なのが大福だった。司は椎名の注文内容など聞き流していたので、実際にその現場を見て絶句する。
「お前……朝から喫茶店で大福か?」
「うるさいなぁ。いいでしょお?何頼んだって」
椎名は不満げに頰を膨らませながらも、フォークを器用に使って大福にパクついた。
途端、先程とはうって変わり顔全体を綻ばせた。満ち足りたような表情をする椎名。見てるだけでなんとなく気が抜けてくるが、司は頑張って気を取り直す。
「お前なぁ……」
司がそう気怠げにツッコみかけた時だった。
パリン。
ふと、何が砕け散る音がした。店員が食器でも割ったのかと思い、カウンターの方を見るもそんな様子はどこにもない。では、だれがーー
ーーそう思って振り返ると、目に飛び込んできたのは水びたしの机の上に突っ伏した初老の男性、それに割れた陶器製の皿だった。
何事かと司が腰を浮かせようとするが、椎名が司を遮るように手を差し出す。
「んだあ?急に人が倒れたんだぞ?駆け寄るくらい別にーー」
そんな司の言葉など気にもせず、椎名はあろうことか机の上に置いてあったフォークを倒れている男性の方へ投擲した。先程までの彼女の雰囲気からは想像も出来ないほど鋭く、的確な一擲だった。
だが、そのフォークは男性の直上を通り過ぎ、そのまま壁に突き刺さる。
「……お前っ?!何をやってーー」
唐突な椎名の奇行に司は戦慄する。だが、彼女から返ってきた言葉は一言。
「黙って!!!」
その声を合図にするかのように、周囲の空気がねじ曲がった。形容し難い禍々しい気が辺りを包む。そう、入店時から感じていた陰気な感じがさらに増大した感じだ。
途端、世界が色を失う。同時にねじ曲がった空気も収束し、無機質な情景が顕になる。だが、モノクロになった景色の中で、唯一色を保っている物があった。隣でいつのまにか立っていた椎名と自分。それに、先程の老人。いや、老人のような何かだ。アレは違う。纏わり付かれているだけだ。色を失っていないのは老人ではなくーー
ーー虚無を湛えた瞳をした、怨念のような何かだった。
先程からの陰のオーラは全てそいつが原因だったのだと直ぐに分かった。そして、椎名が真っ先にフォークを投げた理由も。その怨念は、老人の身体を包みこもうとして、彼女の一擲により遮られたのだ。
「お、おい椎名。あれは……」
「ああ!やっぱりお兄さんにも見えるんだぁ……素質、あったんだね」
「……何を言ってやがる?とにかく今はアイツをどうにかしねぇとダメなんじゃねぇか?!明らかヤバイオーラが出てるぞ?!」
司がそう言ったそばから、その怨霊の周囲に亀裂が入り始めた。異様さと危うさが並立している光景。まさしく超常ーー常識を超えたとしか言いようのないその姿は、今までそのような世界とは無縁で暮らしてきた司を震え上がらせるには十分だった。
続いて負のエネルギーの具現のような形容し難いなにかーー無理くり言葉にするならば、「光球」いったところかーーが無数に飛んでくる慌てふためく司と対照的に、椎名は至って冷静だった。
「……お兄さん。よく見ててねぇ。これからお兄さんには、こんな感じの
光球がこちらに迫ってくる。そして、ついに自分達に衝突するかというところで、謎の光の壁によって阻まれた。
「アイツの攻撃はぁ、あたしが防いでるから効かない。だからお兄さん、落ち着いてぇ」
「し、椎名、お前、一体ーー」
司が驚愕している間にも、怨霊の攻撃は激化する。だが、言われたとおり自分達には何の影響もない。それを目の前の少女がやっていると言われても、素直に納得はできないのだ。
「ーーあたし?あたしはね、椎名唯華。ただの女子高生
正面を見れば前のものとは比べものにならない程巨大な光球が迫っていた。もともと置いてあった喫茶店内の机たちを一緒に呑み込んでいっている。あんな物に触れたら一瞬で消しとばされそうだ。
「ヒッ……」
恐れ慄く司。この光景を見れば、誰だって同じ反応をするだろう。
だが、その凶弾は二人のもとに届くことは無かった。
椎名がブツブツと何かを呟きながら手をかざすと、光球は一転し、何かに引っ張られるように明後日の方向へと向かって行く。いや、明後日どころか、そのまま怨霊の方向へ意思を持ったかのように飛んで行った。
怨霊は返ってきた光球に狼狽するかのように後ずさると、そのまま上へ逃げようとする。しかし、椎名がそれを許すはずがなかった。光球の色が白色に反転したかと思うと、巨大な球から長細い紐状に形を変え、怨霊を搦めとる。なすすべなく縛られた怨霊は、そのまま地面に叩きつけられた。
「ヴオオオ……」
完全に身体をがんじがらめにされ、身動きが全く取れない状況。だというのにまだ抵抗するようにこの世のものとは思えない呻き声を上げるその姿は、まさしく負の権化という言葉が相応しかった。
「お、おい。もう大丈夫なのか……?」
椎名は答えようとしない。代わりに、怨霊が居る空間一帯をずっと凝視している。
ーーそして、唐突に口を開く。
「伏せて」
脊髄反射で司がしゃがむ。瞬間、周囲の物全てを破壊しかねないおぞましい咆哮が響き渡った。
「グアアアアア!!」
余程力を使ったのだろう。怨霊の纏う漆黒のオーラが薄くなっている。だが、それを代償として、己を戒めていた光の縄が解けていた。
怒りの衝動のままに、怨霊は行動する。今度は早く、強くーー
気がついた時には、司の天地がひっくり返っていた。いや、ひっくり返ったのは司の方。理解できない程の一瞬の出来事だった。
今の一撃でついに建物も持たなかったのだろう。周囲は瓦礫と煙で包まれている。
(……しまった。椎名は?!)
揺れる脳内と霞む視界の中、あの未だ謎の少女の姿を必死で探す。ムカつく顔だしこんな訳の分からない事にも巻き込まされたりで散々な印象だったが、それとこれとは別問題だ。見捨てる理由にはならない。
「……ッ」
苦通に呻きながら立ち上がる影を見つけた。煤だらけでかなり様子は変わってしまったが、着ていた白い制服と白髪のポニーテールの面影がある。
「あー。ちょっと油断したかなぁ」
頭を抑えながら、フラフラと頭を上げる。もうその顔に、あの半笑いは残っていなかった。
「スィヤセェン……本気ぃ、出します」
その時だった。彼女の周囲に
「一撃でぇ、決めます」
椎名の異様な雰囲気に気がついたのか、怨霊が即座に動きだす。椎名が為そうとしている
「降霊」
その一言と共に、怨霊の動きが止まる。ーーこれ以上近づいてはいけないーー椎名のオーラは、悪意にすら恐怖を与えるまでになっていた。
「一撃必殺」
椎名の眼光が怪しい光を宿す。周囲の時間が急にゆっくりになった。手を翳そうとした彼女の腕の残像がやけに鮮明に残る。
「
途端、怨霊の足下に五芒星が現れる。飛びのこうとする怨霊だったが、何かに掴まれたかのように足から身動きが取れない。ドス黒いオーラが立ち込めたかと思うと、怨霊の姿を覆い尽くさんばかりの巨大な鋏が現れた。鋏といっても、切断が目的の物ではない。いわば、甲殻類を思わせるような鋏。捕まえることに特化した形状。もちろん、それは今回の場合でも言える。
その巨大な鋏は、貪欲に吞み込めるもの全てを喰らおうとする。頭上に存在する怨霊、そしてその空間さえも。鋏というにはあまりにも大きな口を開けーー
ガチン。
その音と共に、全ての事象が終焉を告げた。
♢
「ーーん、起きたぁ?」
司の意識が覚醒する。記憶が覚束ない。ここは何処ーー
「お疲れ様です〜」
軽い調子でニヤニヤしながら大福を頬張る少女の姿には覚えがある。だんだん記憶が鮮明になってきた。ここはーーいや、違う。まずはなによりーー
「さっきのは何だったんだ?!」
座っている机を思い切りバンと叩く。辺りを見渡すと、ビックリした顔で自分を見つめてくる客の姿。よくよく見ると、倒壊したはずのこの建物も内装も何事もなかったかのようにもと通りになっていた。
「ほらほら落ち着いてよお兄さん……周りの人がビックリしてるよ?」
「……」
流石に反省したように呻く司。さっきまでの出来事が夢みたいだ。未だにフワフワした感覚が消えない。
「お兄さん……さっきまでの内容、覚えてるよね……?」
「あ、ああ。あんな怖え目には会った事がなかった。足がすくんじまったよ。まあ、俺にはこの仕事が無理って事が分かったさ」
「はい」
「だからこそだ。俺は降りるよ。金は欲しいが、命までは晒す気は無い」
そう言って司は立ち上がる。今は一刻も早くここから立ち去りたかった。記憶を拭い去りたかった。だがーー
「お兄さんーーいや、天開さん、ダメだよぉ」
「は?」
「忘れたとは言わせないよ。コ レ 」
司を引き止めた椎名が差し出したのは一枚の紙。悲しいことに、取り消せない事実。先程サインしてしまった契約書だった。
「そんなんは無効だ。内容はしっかりと読んだがーーん?」
司が首を傾げた理由は簡単。椎名が紙をひっくり返したからだ。そう、あろうことか司は裏面を確認していなかったのだ。裏面には、椎名唯華の仕事全般を手伝うこと、仕事内容に関しては一切に従うことーーそんな内容をまじまじと見つめた司は、一言。
「そんなんーーアリか?マジでさっきみたいなよくわからんヤツ相手に仕事すんのか?」」
「ありありの大マジ。天開ーー何て読むの?てんかいじ?」
契約書に書かれたサインを見て、分かっていてか勝手に読みを作る椎名。色々言いたいことがある司だったが、これだけは一番嫌だった。
「俺はテンカイツカサだ!!」
「そうなんだ、てんかいじさん」
クスクスっと笑う椎名。これがまた憎らしい。
「まあ、何はともあれ、契約は尊守しないとぉ。もし違反をしたらーー今度はあのギロチンの中にてんかいじを放り込むよぉ?」
「なっ……」
全ての内容を理解し、顔を覆う司。顔色は真っ青だった。
「ふざけろっ……」
呻く司。その後悔は、するにはあまりにも遅かった。
「じゃあ、これからもあたしの
「こんの
恨み節を言う司だが、椎名にはノーダメージのようだ。地雷を全力で踏み抜いた後悔も、これからあんな化物相手に仕事しなければいけない恐怖も、もう誰も汲み取ってくれない。
(こんなんなら、まだサツに捕った方が……)
そんな考えすら頭を巡る。この先起こる様々な苦難を想像して、青くなった顔を更に白くする司だった。
ーーこんな、詐欺まがいのきっかけで出会ってしまった少女、椎名唯華。今回の彼女との記憶は、ほんの序章に過ぎないーー