「今年の夏は、例年にない猛暑となるでしょう」
最近になって天気予報やニュース番組で繰り返されるようになったその予言は、どうやら的中しそうであった。
今は六月、まだ初夏である。
にもかかわらず、教室に吹き込んでくる風はすでに暑く、絡みつくような湿り気をも帯びていた。
風はうら若き男女の群れ──生徒たちの中に飛び込むと、彼らが発する賑やかな生気と同化した。
生徒たちは授業という労苦から既に解放されていた。
今は思い思いに放課後の時を過ごしている。
ある者は部活動の準備を始め、ある者は級友と遊びに行く約束を交わしていた。
活力と喧騒によって、教室中が満たされているかのようだった。
だがその中で、ただ一人、異質な雰囲気を漂わせている少年がいた。
席に着いたまま片肘をつき、外を眺めている。
彼の、薄い茶色の瞳には、校庭で球技に勤しんでいる生徒たちの姿が映っていた。
だがそれらの光景は、少年には視覚情報の一部としか捉えられていなかった。
どんなに楽し気で興味を惹きそうなものであっても、少年の心には届かない。
彼にとっては、それらは無意味なものであったからだ。
「
少年の耳に快活な声が届く。
自分の名前を呼ばれたとあっては、少年も反応せざるを得ない。
彼は声の方向に振り向いた。
日に焼けた健康そうな肌の、「活発」という言葉を擬人化したような少女の顔が、目に飛び込んでくる。
少年は淡々とした口調で答えた
「元気と言えば元気かな」
「気のない返事だねえ。今もご主人様の命令待ちですか?」
「そういう言い方は好きじゃないって、前にも言ったはずだけど」
少年の声には、明らかに非難の意が込められていた。
少女もそれを察し、快活に笑いつつも「ごめんごめん」と謝っている。
桜庭は少年の姓である。
名は
名付け親でもある彼の両親は、二人ともすでに他界していた。
早人は髪の色も瞳と同様、薄い茶色である。
染めているわけではなく、生来のものだ。
また肌も色白なので、全体的に色素が薄い印象を受ける。
顔立ちは端正かつ中性的であった。
これらの身体的特徴のおかげで、早人は初対面の相手からは「白人の血が混ざっているのではないか」とよく誤解されていた。
早人は少女に何かを言おうとして、口を開きかけた。
だがその時、制服のポケットからアラームが鳴り響いた。
会話を中断してスマートフォンを取り出す。
「はい早人です。はい……はい……。分かりました」
通話が終ると、早人は立ち上がった。
鞄を机の上に置き、帰り支度を始める。
「ごめん、呼び出しだ」
「ご主……
「そうだよ」
少女は眉根を寄せた。
心の内を探るかのように早人の顔を見つめ、問いかける。
「そうやって毎日命令されるのって、腹が立たない?」
「長年やってるから」
「やめたいと思わないの?」
「考えたこともなかったな。でも、やめてどうなるものでもないし。ここにも通えなくなる」
早人は、要領よく帰り支度を進めながら答えた。
「んー。じゃあ、やりたいからやってるって訳ではないんだよね?」
「そう言うのとも、ちょっと違うかな。選択の余地がない、そういうことだよ」
「なんで……」
「そんなに気になるのかな?」
苦笑しつつ、早人は少女に顔を向けた。
彼の、秀麗な顔を間近に見た少女は、あっという間に赤面する。
「そ、そ、そ、そう言う訳じゃ」
「まあいいよ。機会があれば詳しく話してあげる。じゃあ
早人は、にこやかに少女──夏樹に微笑み、歩き始めた。
だが教室を出る直前、夏樹によって進路をふさがれてしまう。
早人は驚き、足を止めた。
夏樹が、太陽を思わせる満面の笑みで問いかけてくる。
「本当に?」
「え?」
「詳しく教えてくれるんでしょ、桜庭と滝川さんのこと」
早人は呆気にとられ、肩をすくめた。
「いいけど。でも皆しってることじゃないのかな」
「ある程度はね。貴方達『主従』は有名だもん」
「それなのに、わざわざ?」
「桜庭から直接、聞いてみたいから」
夏樹はきっぱりと宣言した。
快活すぎるほど快活な彼女の口調からは、早人は色気めいたものを感じられなかった。
だがその内容は周囲にとっては、衝撃的なものであったらしい。
数名の女子がはやし立てるような声をかけてきた。
それらの声の中には「ついに」とか「やっと」と言った単語が含まれていた。
彼女らの間では、夏樹が早人に強い興味を抱いているのは、公然の秘密のようなものだったのだろう。
周囲に煽られながらも、早人は努めて冷静を装った。
姿勢を正し赤いネクタイを直してから、口を開く。
「じゃあいずれ。時間ができたら」
それだけを伝えると、夏樹の脇をすり抜けて教室を後にした。
背後から、女子たちの騒ぐ気配が感じられた。
早人の通う学校は、その名を私立
全国でも五本の指に入ると言われる程の、超名門校だ。
中高一貫教育のため、高校から入学してくる生徒は存在しない。
校則で制服の着用が義務付けられており、学年によってネクタイが色分けされていた。
一年生が赤で二年生が青、三年生は白である。
名門だけあって学費の高さも半端ではなく、一般家庭の世帯年収に匹敵する。
敷地は広く、東京ドームが二つ収められるほどであった。
その中に点在する校舎群は、長い歴史を感じさせる煉瓦造りの外観をしている。
しかしその内は改装を重ね、最先端の教育施設と設備環境が整えられていた。
セキュリティも万全で、高い塀に囲まれた敷地内には監視カメラがそこかしこに設置され、外界からの侵入を固く拒んでいた。
構内の一角には来客・父兄用の駐車場がある。
早人は今、そちらに向かって道を急いでいた。
通話相手との待ち合わせ場所が、そこに指定されていたためだ。
早人の目が、木陰に立つ少女の姿をとらえた。
背筋をまっすぐにして立ち、腕時計を見つめている。
首元にあるネクタイは、早人と同じ赤い色だった。
後ろ髪は肩の下に届くほど長いが、前髪は眉の所で切り揃えられていた。
色白の顔は大人びた印象で、極めて整っており、万人が認める美人と言ってよい。
だがしかし、彼女の表情にはどこか生気と言ったものが欠けていた。
まごうことなき美人なのだが、妙に作り物めいているのだ。
人形か、彫刻のような美であった。
少女も早人に気づいたらしい。
早人に向き直ると、彼が到着するや否や口を開いた。
「遅かったわね」
抑揚のない、顔と同様に感情の現れない声が通った。
「すみません、
「どういうつもり? 私は五分以内に来るように命令したはずだけど」
早人は岬との付き合いは長い。
したがって彼女が無表情ながらも立腹しており、下手な言い訳が通用しなくなっていることも悟っていた。
かといって馬鹿正直に「クラスメートの女子につかまっていた」などと言えば、話がややこしくなる。
できるだけ無難な返答をするしかない。
「帰り支度に手間取ってました」
「無駄なものが多すぎるのね。貸しなさい、その鞄」
「はい」
早人は鞄を岬に差し出した。
岬は鞄を受け取ると、駐車場の片隅にあるゴミ箱まで運び、無造作に投げいれた。
早人の元へ戻ると、今度は自分の鞄を彼に差し出す。
早人は一礼し、恭しくそれを手にした。
「帰るわよ」
岬はそう告げると、早人の先に立って歩き始めた。
二人は待機していた、黒い高級車までたどり着く。
ドライバーが慣れた所作で二人を後部座席に迎え入れた。
それからすぐ、車は出発した。
時は夕刻である。
本来であれば空気も涼み、すごしやすくなるはずの時間だ。
だが暑気は、衰える気配を見せなかった。
街道を行く人々は日傘をさし、あるいはハンカチで汗をぬぐっている。
もっとも早人たちのいる車内までは、暑気も及ばない。
高級車ゆえに振動も少ない環境は、通常であれば快適なものであるはずだった。
しかし車内にいる三人は、誰一人として心穏やかではいられなかった。
少女の怒りはまだ収まっていなかった。
少年は、少女に激発する機会を与えないよう、無言を貫いていた。
そしてドライバーは、少女と少年から発せられる、首を絞めつけてくるような緊張感に耐えていたのだ。
岬が、正面を見据えたままの姿勢で問いかけた。
「明日は?」
簡潔すぎる質問であった。
それでも早人は、岬の意を理解していた。
「六時起床予定です。現在までのところ、スケジュールに変更はありません」
「そう。じゃあ下校も今日と同じくらいになるはずよ。明日は待たせないでね」
「……岬様、それなのですが」
岬は顔を動かさず、視線だけを早人に向けた。
早人は一拍の間を置いてから、話を続ける。
「明日の放課後、急遽ミーティングの予定が入ってしまいました」
「欠席しなさい」
「……いえ、以前お話ししたかもしれませんが、僕は学園祭のクラス委員に任命されています。明日はその話し合いですので、欠席する訳には……」
「私が帰るまでなら参加してもいいけど、それ以上は無理ね」
「かしこまりました」
会話は終わり、岬は視線を正面に戻す。
以降、車内では無言の時間が続いていった。
車は幸いにも信号待ちになることもなく、快調に走り続けた。
出発してから約三十分で、目的地の滝川邸に到着する。
滝川邸は広く、大きい。
敷地面積は平均的な高等学校のそれを凌駕している。
その広大な土地の中央、やや北寄りに、白亜の洋館がそびえたっていた。
地上三階、地下も一階が設けられている、城のように大きな建屋である。
車は正面玄関前で停車した。
早人と岬を、初老の執事と二十代と思しき二人の女中が出迎える。
岬はごく簡単に帰宅の挨拶をすませると、二階の私室へと向かった。
早人は後に付き従いながら、女中に岬の鞄を手渡している。
岬の部屋には、岬と女中だけが入っていった。
早人は扉の前で一礼し、二人を見送っている。
彼の視界が、豪奢に装飾された部屋の一部をとらえたのは、ほんの一瞬のことだった。
扉はすぐに閉じられ、早人は顔を上げる。
そして階段を降り、一階の廊下を進んでいった。
建屋の奥まった場所にある、「桜庭」という表札のかかった扉を開ける。
部屋には十畳ほどの広さがあった。
それだけなら一人で暮らす分には申し分ない。
しかし部屋の中には、生活を送るうえで必要な家具類が、ほとんど存在していなかった。
あるのは真新しいタンスが一つと、こちらも傷一つないベッドだけだった。
壁紙すらなく、壁面は灰色に塗り固められた殺風景な表層をさらしている。