翌日、希恍高校にて。
早人が席に着くと、夏樹が声をかけてきた。
「はい、これ」
彼女は昨日すてられたはずの、早人の鞄を手にしている。
夏樹の後方、やや離れた場所には数名の女子がいて、なにやら声援を送るようなポーズをとっていた。
早人は驚きつつ、礼を述べる。
「ありがとう」
「でも、必要なかったのかな」
夏樹は机の上に視線を向けた。
そこには捨てられたものと同型の、真新しい鞄が置かれていた。
「いや、そんなことはないよ。でもどうして、ゴミ箱にあるって気付いたのかな?」
「悪いと思ったんだけど、昨日あれから桜庭の後を追っかけた」
夏樹の、岬ほどではないが美人の部類には属する顔が、すでに赤く染まっている。
「それで、これも悪いと思ったんだけど、鞄の中を見ちゃったんだ。……驚いたよ、教科書以外に何も入っていないなんて。ノートすらないし」
「いつ捨てられるか分からないからね」
「どうして?」
夏樹の声は快活な彼女に似つかわしくない、涙まじりのものとなっていた。
早人は苦笑しつつ、答える。
「分かったよ。鞄のお礼もあるし約束もしたし、話してあげる。……でもここだと場所が悪いから」
早人はさりげなく、自分達に向けられている視線の数をかぞえていった。
片手で余る程度にはあった。
「昼休みに空き教室で説明させてほしいんだけど、それでもいいかな?」
夏樹は一も二もなく頷いた。
周囲の生徒たちから歓声のようなものが上がりかける。
だが直後に鳴り響いた予鈴のチャイムによって、それは打ち消されていた。
昼休み。
早人は夏樹を連れて校舎内を散策し、「空室」の表札がかかっている会議室を見つけていた。
念のためにノックをして、誰もいないことを確かめてから入室する。
その部屋では直前まで授業か会議が行われていたらしい。
ホワイトボードに数式のようなものが残されていた。
窓からの日差しは強かったが空調が効いており、中は涼し気で心地よかった。
二人はテーブルをはさみ、向かい合うようにして着座した。
早人は両手を机の上で組み、リラックスしている。
他方、夏樹は両手を握って膝の上に乗せ、唇も噛みしめて緊張に耐えていた。
早人は問いかけた。
「大丈夫?」
「ななななな、なにが?」
「緊張しているみたいだけど」
「そ、そ、そ、そんなことないよ」
明らかに「そんなことがありそう」な答えであった。
しかし早人は、それ以上は問い詰めたりせず、話を進めていく。
「僕と岬様の話を聞きたいってことだったけど……全てを話すとなると、とてもじゃないけど昼休みだけじゃ終わりそうもないんだ。だから要点だけまとめていくけど、それでいいかな?」
夏樹は真っ赤な顔を上下に、何度も動かした。
早人は一度だけ頷きを返し、語り始める。
「最初は……小学校一年生の時だったから、もう九年前になるのかな。僕の両親が亡くなった」
部屋には防音対策がとられており、外の喧騒は聞こえない。
早人の声だけが通っていた。
「交通事故だったんだけどね」
当時の詳しい事情は、早人も覚えていない。
学校での授業中に呼び出されて以降、大騒ぎする大人たちに翻弄されてしまい、両親の死を実感する余裕もなかったのだ。
ただし、大人たちがそこまで騒ぎ困惑していた理由については、今は分かっていた。
早人には身寄りがなかったのだ。
「父の家系は子供が生まれにくかったらしくて、親戚と呼べるような人も存在していなかった。そして母は孤児で、年老いた夫婦に引き取られ、育てられていたんだ」
母の養父母、つまり早人にとって養祖父母にあたる二人も、当時すでに他界していた。
子供がいない故に母を引き取ったということもあり、彼らにも身寄りは存在していなかった。
このままでは、早人もどこかの施設に預けられることになるだろう。
それを阻止しようと、父の友人だった人物が、手を尽くして早人の引き取り手を探し回ってくれた。
しかし結局、見つからなかった。
だが、
「
早人は目を閉じ、当時の記憶を掘り起こしている。
仰天する人々の顔が、真っ先に頭に浮かんだ。
早人の父は平凡なサラリーマン、母も専業主婦だった。
そんな桜庭家の一人息子を、なぜ滝川グループの総帥たる康光が受け入れようとしたのだろうか。
誰もが理由を知りたがったが、答えは与えられなかった。
康光は早人を引き取る際、「理由は一切きかないように」ということを、ただ一つの条件としていたのだ。
「僕も康光様に尋ねたことはあるけど、答えは頂けなかった」
夏樹は神妙な顔で、早人の話に聞き入っている。
もっともここまでの話は、彼女も噂話などで聞いたことのあるものであった。
こうして本人から聞くまでは、半信半疑ではあったのだが。
当時、早人の周りにいた大人たちにしても似たような心境であったらしい。
康光の申し出に対し、懐疑的な気持ちを抱く者も多かったようだ。
とはいっても、渡りに船の申し出なのは間違いない。
彼らは結局、早人を康光に預けることにした。
最後まで早人の面倒を見てくれていた父の友人に連れられ、わずかな家財道具をたずさえ、早人は滝川邸を訪問した。
「その時、僕らを出迎えたのが執事さんと小さな女の子……岬様だった」
──ちゃんと挨拶をしないと。
幼い早人は思った。
しかし彼が口を開くよりも早く、岬の怒鳴り声が玄関ホールに響き渡った。
「当時の岬様は、今と違って感情表現ゆたかだったんだよ」
「なんて言われたの?」
「『そんな汚い服や鞄を私の家に入れないで!』、と」
夏樹は息を呑んだ。
岬の命令は、迅速に実行された。
早人が持ってきた家財道具は、玄関をまたぐことなく全て処分された。
服にしても、執事が用意したものと、家の外で着替えさせられたのだ。
そうしてようやく館への立ち入りを許された早人に、岬は再び声をかけてきた。
「……今度は、なんて言われたの?」
「『貴方は私の召使いなのよ。それをわきまえないなら、いつでも追い出すから』とね」
「そんな……そんなことが許されてたの?」
夏樹の顔は、今は怒りによって赤く染まっていた。
早人はまたしても苦笑し、返答する。
「今もそうだけど、滝川邸では岬様が絶対なんだよ」
滝川家の当主である康光と彼の妻は、多忙なため、あまり家には戻らない。
必然的に、残る岬だけが滝川の人間となる。
彼女に逆らえる者、意見できる者は、滝川邸に存在しないのだ。
「それからは岬様の機嫌を損ねるたびに、原因となった物を処分させられた」
早人の薄茶色の瞳が灰色に変じたように、夏樹には見えていた。
正確に言えば、捨てられたのは物だけではない。
人についてもそうだった。
早人が友人を優先して岬を待たせたりすれば、その友人と強制的に絶縁させられた。
とにかく岬を最優先しなければならない、それが早人に課せられた使命だったのだ。
「僕は岬様に仕え、岬様の意を実行する、それだけの人間なんだよ」
「逆らったりはしなかったの?」
夏樹は目に涙を浮かべ、震える声で問いかけた。
早人は首を小さく横に振り、答える。
「昔はね。でもそのたび、打ちのめされた」
岬に逆らうというのは、滝川家に逆らうことと同義となる。
従って彼女に反抗的な態度をとったりすれば、滝川邸に居る全ての人々、普段は優しく接してくれていた執事さえもが容赦なく敵に回った。
周囲すべてが敵対しているような状況で、幼い早人が耐えられるはずもない。
彼の反抗心が根こそぎ失われるのも時間の問題だった。
「……それでも、僕は小さな抵抗を一つだけ続けていた」
早人の声が、それまでの淡々としたものから変化した。
意地や矜持と言った強い意志の力が、わずかながらも感じ取れる。
夏樹はそう思い、自身の表情にも輝きを取り戻していた。
「さっきも話した通り、僕は滝川邸に到着した時点で全ての家財道具を処分させられていた。だけど……」
早人は密かに、ある物をズボンのポケットに潜ませ、隠しておいたのだ。
それは純銀で作られた、ハート形のロケットペンダントだった。
元々は早人の持ち物ではなく、彼の父が若き日に、母へとプレゼントしたものだ。
それを父の友人が、早人と父母の三人が写っている写真を入れなおし、手渡してくれたのだ。
早人はペンダントを慎重に隠し通し、時折り首から下げ、家族を思い出していた。
ところが、
「それを身に着けていたある日に、運悪くまた岬様の逆鱗に触れてしまった」
当時の状況は、おぼろげながら早人の記憶に残っている。
岬の部屋での出来事だった。
彼女が怒った理由についてはもう覚えていないが、早人はその場で服を脱ぐように命令されていた。
となれば当然、ペンダントも見つけられてしまう。
岬はペンダントを目にするや否や、捨てるように命令してきた。
早人は土下座までして許しを請うたが、無駄だった。
むしろ早人が必死になるほどに、岬は怒りを増していた。
「ただその時、部屋の中には僕と岬様だけが居たんだ」
「二人きり?」
「そう。それで恥ずかしい話だけど……僕は岬様に飛びかかった」
夏樹は驚き、目を丸くした。
幼い早人はペンダントを守るために、やけくそになっていたのだろう。
そのためには暴力を振るうことも、岬を泣かせることもいとわないつもりでいた。
「でも情けない話だけど、岬様に力でねじ伏せられた」
幼い頃の話である。
腕っぷしは女の子、つまり岬の方が強かったのだ。
岬は早人の首から引きちぎるようにしてペンダントを取り上げ、宣告した。
──そんなに大事な物なら、私の手で処分してあげるわ。
──貴方は感謝するべきね。
嘲笑うような声を浴びせられ、早人は部屋から叩き出された。
それは早人が全てを、ペンダントだけでなく矜持や反抗心さえをも奪われた瞬間だった。
「……その時から、僕は抵抗するのをやめたんだ。今の僕にはもう何もないんだよ」
強い陽の光が窓から差し込み、部屋を明るく照らし出している。
その中で黒く濃い影が動いた。
夏樹が立ち上がったのだ。
彼女は早人に向けて、哀願するかのような声をかけた。
「……何もないなんて、そんなことないよ。桜庭は頭いいし、それにスポーツだってできるし」
「それは、岬様に仕える者として必要だから教え込まされたんだ」
乗り手にとって良い馬になったに過ぎない。
早人は自分自身について、そのように評してみせた。
夏樹はうつむくと、そのまま押し黙ってしまった。
しかし、彼女はやがて顔を上げる。
深呼吸をすると、早人に問いかけた。
「……じゃあ、召使いになっているのが嬉しいって訳じゃないんだよね」
早人は意表を突かれていた。
彼にとって岬の従者であるというのは、もはや喜怒哀楽を伴うようなものではなくなっていたのだ。
感情の揺らぎすら許されず、ただ岬の意向を受け入れるだけの存在、それが早人なのだ。
己の心情を、早人は正確に告げる。
「喜ぶとか悲しむとか、そういうものじゃないんだ」
「でも、そうなんだよね?」
夏樹の声は力強く、有無を言わせぬような迫力があった。
早人は困惑しつつも、夏樹を納得させるべく説明を続ける。
「ありきたりだけど、しょうがないんだよ」
「だったら、私が助けてあげる」
「え?」
夏樹の宣言は、早人にとって完全に想定外のものであった。
呆気にとられ、夏樹の顔を見つめなおす。
夏樹は弾んだ声を出した。
「待っててね」
彼女の顔に浮かんだ太陽の笑みは、早人にはひどく眩しいものに見えていた。