陽の光は近年で最も強く、鋭いものとなっていた。
時は盛夏である。
熱く尖った光の束は、滝川邸へも容赦なく降り注ぎ、白亜の城塞を眩しいばかりに輝かせていた。
その建屋内、三階廊下を岬が歩いている。
陽光を半身に受け黒絹のような髪をなびかせる姿は、神々しいばかりに美しい。
そして歩調は、機械のように正確なリズムを刻んでいた。
よく言えば美術品のような、悪く言えば機械じみて感情を感じさせない、容姿と所作である。
しかし早人がこの場にいれば、岬が今、不機嫌の極にあることを察しただろう。
その原因は、まさに早人自身にあるのだが。
この日、彼は朝から他家への使いに出されていたのだ。
常であれば、余程のことがない限り早人が岬の傍から離されることはない。
そのようなことは、岬が断固として拒否するからだ。
だが今日、早人を使いに出したのは康光であった。
となれば岬も逆らえない。
おまけに使いの内容も隠されていたので、岬の心には、醜いささくれがいくつも出来あがっていた。
早人を使いに出した康光は、しばらくすると今度は娘を呼びつけた。
つまり今、岬は康光の書斎へと向かっているのである。
ちなみに、これは稀有な事例であった。
康光は自身が多忙ということもあって、娘にかんしては放任主義を貫いていたのだ。
年代を感じさせる木製扉の前に、岬は辿り着いた。
扉をノックし、抑揚のない声で到着を告げる。
入室を許可する返答を受け、岬はノブを回した。
部屋の中は、窓のある面を除く三方全てに床から天井まで届く本棚が据えられていた。
巨大な暖炉も一つ、設置されている。
調度品の多くは木製で、部屋中に紙と木の香りが漂っており、昭和か大正時代にタイムスリップしたかのような趣があった。
部屋の中央には花瓶の置かれたテーブルがあり、それを囲むようにして椅子が数脚、並べられていた。
そのうちの一つに男性が着座している。
彼こそがこの部屋の主であり岬の父、滝川康光であった。
康光は未だ四十代半ばである。
この若さで滝川グループの総帥を務め、順調に業績を拡大させているほどの、稀に見る秀才であった。
すらりとしたスタイルの持ち主で、顔の下半分は黒々とした髭で覆われている。
その風貌は実業家というよりも、大学教授か文豪にこそ似つかわしいものと言えよう。
康光は娘を迎えると、簡単な挨拶をしてから椅子を勧めた。
岬が席に着くと、一呼吸おいた後、話し始める。
「岬」
「はい」
「おまえは、早人のことをどう思っている?」
岬は訝しげに、整った眉を歪めた。
「どう、と言いますと?」
「簡単に言えば、おまえにとって早人はどういった存在か? ということだ」
「従者です」
「そうか」
康光はテーブルに両肘をつき、手を顔の前で組んだ。
「それで間違いはないんだね?」
「はい。それ以上でもそれ以下でもありません」
岬の返答は誤解しようのないものだった。
康光は目を閉じてしばし黙考すると、姿勢を変えずに話し始めた。
「
「はい」
「早人は、来月から高山さんに引き取られることになった。おまえの従者役からも、すでに外れている」
青天の霹靂。
岬にとって康光の言葉は、まさにそれであった。
激しい憤激のあまり、岬は全身の血が逆流するような感覚にとらわれ、眩暈すら覚えていた。
激情の赴くまま、普段からは想像もできない勢いで怒声を発する。
「どういうことです、お父様!」
人形の顔が、般若に変わっていた。
眼球に血管が浮き出るほどの鬼気迫る表情は、康光をして「これが本当に娘なのか」と思わせるものだった。
しかし康光は、内心の困惑や動揺は一ミリも面には出さず、泰然として説明を始めた。
「早人は文武両道で、きわめて優秀だ。希恍高校でもトップクラスなのだから、大したものだ。それを知った高山さんが、早人を将来にわたってサポートしたいと申し出てくれた。今日からその準備に入る」
甲高い音が鳴り響き、空気が切り裂かれた。
岬が猛然と立ち上がったため、勢いに押されて花瓶が倒れたのだ。
こぼれた水がテーブル上に広がり床へ滴り落ちたが、岬は気にも留めない。
「なぜ、断わりもなく私の従者を他家にやるのです!」
「それだ。その考えが、早人をおまえから引き離す理由だ」
「……え?」
思いもかけない返答を聞かされ、岬の怒気もやや削がれた。
続けて康光から放たれた質問は、さらに彼女の意表をついていた。
「岬、滝川家の成り立ちは覚えているかな?」
父親の意図は不明ではあったが、それでも岬は頷いた。
滝川家の始まりは、安土桃山時代にまでさかのぼると伝えられている。
とは言っても、当時は名家や富豪などではなかった。
関東に領域を広げていた大名に仕える一武将として、その名があっただけだ。
豪商として名を成したのは江戸時代の頃となる。
「その歴史に誤りはない。だが世間……いや、滝川家の中でもごく一部の者しか知らない、隠された事実がある」
康光は重々しく告げると、目と口を閉じた。
父親が、何か重大な事柄を告げようとしている。
岬はその気配を察し、沈黙を保って彼の言葉を待った。
やがて、康光は口を開く。
「もともと滝川は、ある商家の番頭を務めていた。つまり使用人だったのだよ……そしてある時期に、主人の財産を乗っ取ったのだ」
岬は絶句した。
もっとも、滝川家が使用人だった、という点については彼女も納得している。
大昔から現在に至るまで裕福な家系など、滅多に存在しないであろうから、当然ではある。
だが主人の財産を乗っ取ったという点については、驚愕せずにはいられなかったのだ。
その話が事実なら、滝川家は商才で成り上がった訳ではなく、泥棒まがいのことをして現在に至る地位と財産を手に入れたことになるだろう。
言葉を失っている娘を見据えつつ、康光は話し続けた。
「その時から、滝川は我が世の春を謳歌していった」
主人の財産を奪うというのは、間違いなく後ろ指をさされるような行為である。
だが滝川家の祖先は、世間の評判を覆すほどに狡猾であり、商才にも富んでいた。
商機にも恵まれて、順調に繁栄していったのだ。
一方、かつて滝川家の主人だった人々は悲惨だった。
身ぐるみはがされた上に、遠方へと追いやられてしまったのだ。
彼らは凋落を続け、やがて世間からも忘れ去られていった。
その上、過去を抹消せんと謀った滝川家によって、歴史上からも存在を消されてしまったのだ。
「その、かつて滝川の主人だった家の名が、桜庭だ」
「……!」
岬の心臓が、驚きのあまり極小の間ではあるが、動きを止めた。
康光は深く長い息を吐きだし、尚も淡々と語っていく。
「ある日、私は消息不明となった桜庭家がどうなったのかを調べようと思った」
罪悪感に駆られた訳ではない。
と、康光は言葉を付け足した。
実際、その通りであった。
ことビジネスにかんする限り、康光は祖先に負けず劣らずの辛辣な手段を用いることがあった。
しかしそれでも彼は、滝川家の当主にのみ受け継がれてきた歴史上の事実を、清算したくなったのだ。
康光は四方八方に手を尽くし、桜庭家の消息を調べていった。
「そうしてようやく見つけた桜庭家の末裔……それが早人だ」
岬はもはや、人形どころか氷像と化していた。
口を開くことも、瞬きすることすらできぬまま、父の話に圧倒されている。
康光が早人を見つけた時、彼の両親は既に亡くなっていた。
早人は引き取り手もなく、どこかの施設に預けられる寸前だったのだ。
その状況は、しかし康光には天恵に見えていた。
「早人を引き取れば、わずかながらでも桜庭家への贖罪となるだろう。それに早人が成長し、将来おまえと結婚することにでもなれば……」
そうすれば、遠い昔に主人から奪った財産を返すことにもなるかもしれない。
康光はそう考え、早人を引き取ったのだ。
だが、
「おまえが早人を、あくまでも従者として見るというのなら、桜庭は主人から使用人に落とされたことになってしまう。それでは意味がない」
滝川と桜庭が過去の恩讐を超えて対等になる。
それが、康光の望みだったのだ。
ただし彼は、自分の願望を娘に告げたりはしなかった。
父親の思惑によって娘の人生が左右されたり、歪められたりするようなことがあってはならない。
舞台を整えたとしても、決断は岬自身が下すべきだ。
それが、康光の考えだった。
岬は瞬きをした。
目に雫が落ちてきて、視界をふさいだためだ。
その雫は、涙ではなかった。
岬の額に脂汗が浮かび、合わさって水滴となり、肌を滑り落ちてきていたのだ。
作り物のように滑らかな肌を苦悩の色に染めながら、岬はそれでも声を絞り出し、反論した。
「お父様、高山家に引き取られたところで、早人の状況は変わらないのではありませんか? ここにいた頃と同じ、使用人のままなのですから」
「そうはならない。早人は高山家の養子になる」
「養子?」
岬は怪訝な声を上げた。
彼女が知る限り、高山家には三人の子供、兄妹がいる。
それなのに早人を養子に迎えるなどと、どのような理由があるのだろうか。
疑問に対する答えは、すぐに与えられた。
「正確に言えば婿養子だ。高山さんの末娘……夏樹さんと言ったかな、たしかおまえの同級生だったはずだが。早人を非常に気に入っているらしい。もちろん結婚はまだ早いが、二人は許嫁となる。今日、早人を使いに出したのも、先方に挨拶させるためだ」
岬の足下で、床板が急激にうねり始めた。
岬は、まるで揺りかごの中に放り込まれたかのようにバランスを崩し、テーブルの縁に両手をついて必死に身体を支えた。
景色も歪み、急速に暗転していった。
呼びかけてくる康光の声も、あっという間に小さく遠いものとなっていた。
岬はすぐに悟った。
床が揺れたのは地震などではなく、自分の足がくずおれたためだということを。
視界が暗転したのは、視野狭窄を起こしたため。
父の声が聞こえなくなったのは、気を失いつつあるためだった。
岬は愕然としたまま、暗く冷たい世界へ落ちていった。