高山邸にて。
滝川邸に劣らぬほどの広さを誇る建屋の中を、早人と夏樹が並んで歩いていた。
早人は高山家への挨拶を済ませ、今は帰宅のために駐車場へと向かっている。
夏樹は見送りのため、彼に付き添っていた。
「へへー」
夏樹が、はにかむようにして早人に微笑みかけた。
早人は足を止め、夏樹に正対する。
夏樹も立ち止まり、早人の顔を覗き込んだ。
「どうしたの?」
「どうしたもこうしたも……一体全体、何でこうなったんだ?」
「心配?」
「そうじゃなくて……」
早人にとっては、急展開どころの話ではなかった。
彼が高山家への婿入りの話を聞かされたのは、この日の朝である。
そして呆気にとられている間もなく、夏樹の両親へ挨拶に出向くことになってしまったのだ。
高山邸に到着してからも、狐につままれたような気持ちは続いていた。
それでもつつがなく挨拶を済ませ、夏樹の父母からは好意的な言葉をかけてもらえた。
しかし今になっても夢見心地というか、どこか現実感を伴わない心境は続いていた。
そんな自身の気持ちを、早人は正直に話した。
夏樹は両手を後ろに組み、笑顔で答える。
「桜庭を助けるって言ったんだもん、このぐらい簡単だよ。私も世間でいうところのお嬢様なんだよ?」
「簡単って……許嫁になったりして、いいのか?」
「大丈夫!」
夏樹はきっぱりと断言した。
婿養子とは言っても、早人が高山家の跡取りになる訳ではない。
それは夏樹の兄たちの役目となる。
従って早人は思い悩んだり、重圧を感じる必要もないのだ。
それに夏樹の父は、娘には非常に甘かった。
その夫となる人物となれば、悪いようにはしないはずである。
夏樹はそう説明すると、顔を真っ赤にして言葉を付け足した。
「それに、それにね……桜庭だから、いいんだよ」
早人への、純粋な想いが込められた発言だった。
真正面からの告白を受け、早人も思わず息を呑んでいる。
「こうでもしないと、滝川さんに勝てないと思ったから。でも大丈夫! 桜庭が嫌になったら、いつ婚約解消してもいいから」
夏樹は努めて明るく笑って見せた。
だがその声と唇は、わずかに震えていた。
早人もそれに気づいた。
胸を締め付けられるような感覚を覚え、彼は行動する。
夏樹の肩に手を回し、彼女を抱き寄せた。
「ありがとう……本当に、ありがとう」
夏樹の耳元で、早人は囁いた。
彼女の身体は燃えているかのように熱くなっていた。
胸も、爆発しているかの如く高鳴っている。
夏樹は震える腕を懸命に動かし、早人の背に回した。
甘く熱い二人の世界は、しかし中断される。
早人のポケットでアラームが鳴り響いたのだ。
早人は我に返ってスマートフォンを取り出すと、画面を見て、秀麗な顔に陰を落とした。
その様子を見て、夏樹も着信相手が誰かを悟った。
彼女は早人の手を両手で包み込むと、縋り付くような目を彼へ向ける。
早人は逡巡する様子を見せた。
だがそれも、ほんの一瞬のことだった。
小さく、しかし決意の込められた微笑を浮かべると、スマートフォンの電源を切りポケットへ納める。
夏樹は目に涙を浮かべ、飛びつくようにして早人を抱きしめた。
二人は唇を重ね合わせて目を閉じ、お互いの存在のみで世界を満たしていった。
──────
早人が降車すると、猛烈なまでの熱波が彼に襲い掛かってきた。
日は傾きつつあったが、熱と光は未だに強く、陽炎すら起こしながら辺り一面を眩く染め上げていた。
滝川邸も、建屋自体が発光しているかのように白く輝いている。
その見慣れた、巨大な建築物を見上げながら、早人は考える。
自分は夏樹のことをどう思っているのだろうか、と。
好意はある。
ただしそれは、夏樹が自分に抱いている好意とは種類が異なるものだろう。
あるいは、彼女に比べると小さなものなのかもしれない。
とは言っても、好意だけでなく感謝してもしきれないほどの恩義も感じている。
二人の間にある感情の差は、これからゆっくり埋めていけば良いのではないだろうか。
自分を取り巻く環境は、彼女のおかげで以前とは比較にならないほど好転したのだから。
長年にわたって心を占め続けていた絶望の黒雲が、取り払われたのだ。
今は希望に満ちた晴れ間が、はっきりと見えている。
「でも一つだけ、問題は残っている……」
早人は呟き、玄関のドアを開けた。
「早人!」
怒号とすら称してよいほどの、巨大でひび割れた声が、早人を出迎えた。
早人は戦慄しつつ、絞り出すようにして声を発する。
「……岬様」
早人の眼前には、彼が思い描いていた「たった一つの問題」そのものが、仁王立ちしていた。
彼女の眼光には、瘴気すら漂わせるほどの憤怒の色がある。
早人にとって、これほどまでの負の感情を彼女からぶつけられたのは、初対面のとき以来であった。
周囲には執事と三人の女中が居たが、彼らは無言で二人の対峙を見守っていた。
岬が、歯ぎしりを交えつつ問いかけてくる。
「なぜ、電話に出ないの? 私を無視する気?」
早人の背に、滝のように冷や汗が流れた。
口内からは急激に水分が失われ、息をするのも困難になっていく。
早人の身体は、骨の髄まで岬への服従心が叩き込まれ、染みついている。
その恐るべき事実を、早人は否が応でも理解させられていた。
それでも彼は、内なる恐怖と必死に戦いながら、口を開いた。
「康光様にお聞きではないのですか。僕はもう、岬様の従者ではありません」
早人は全力で抗議したつもりだった。
しかしその声は小さく、かすれていた。
執事や女中たちは無言のまま、どこか悲し気に見える眼差しを早人と、そして岬に向けている。
彼らも、早人と岬に何が起きているのかは知っていた。
だが口を差しはさむ訳にもいかず、成り行きを見守っているのだ。
岬が、有無を言わせぬ口調で断言する。
「関係ない! お父様がなんと言おうが、おまえは私の従者なのよ!」
「……岬様」
早人の顔色は、今や蒼白になっていた。
岬への恐怖、そして彼女の意を無条件で受け入れねばならないという、強迫観念。
それらとの戦いによって、彼の心身は急激に削り取られていた。
足が勝手に動き、岬の前でひざまずこうとする。
頭が重くなり、岬を正視できなくなる。
身体はすでに限界に達していた。
だが早人は、わずかながら残っていた自我へ必死にしがみつき、尚も抗い続けた。
「……岬様、康光様が決定されたことです。そして、僕もそれを望みます」
「従者のくせに! おまえに選択権などない!」
その宣告を聞いた時、早人の心は折れた。
岬への服従心で、頭が埋め尽くされる。
全身から力が抜け、崩れ落ち、その場で膝をついた。
両手も動き出し、自然に土下座の姿勢をとる。
あとはもう、謝罪の言葉を述べるだけだった。
だが、
「いや、まだだ。まだ諦める訳にはいかない。夏樹のためにも……」
その考えが頭に浮かび、早人は最後の力を振り絞った。
脱力していた身体を懸命に動かし、顔を上げ、床を蹴り──逃げ出したのだ。
自室に向かって、全力で走り始める。
「諦める訳にはいかない。でも、岬様には勝てない。じゃあ、逃げるしかない」
早人はおそらく、恐怖によって錯乱状態に陥っていたのだろう。
自室に向かうのでは、袋小路に飛び込むのと同じである。
問題を先送りにする、その程度の効果すらないだろう。
そんなことも分からないほどに混乱しながら、しかし彼は必死に走り続けた。
岬が、嘲笑まじりの声をぶつけてくる。
「恩知らず! 今までの恩を忘れて!」
恩。
その言葉が、負け犬となっていたはずの早人の心に引っかかった。
恩とは、なんであろうか。
その言葉を聞かされて、真っ先に浮かんだのは夏樹の笑顔だった。
彼女は人生をかけてまで、早人を救おうとしてくれているのだ。
それはまぎれもない、恩と表現できるものだろう。
では岬の言う恩とはなんであろうか。
彼女が何をしてくれたというのか。
彼女から与えられたもの、それは……。
考えた瞬間、早人の中で何かが弾けた。
足を止め、立ち尽くす。
数秒間その姿勢を保ち続けてから、岬に向き直った。
早人の表情を見て、岬は絶句する。
彼は今、血走った目で岬を睨みつけ、口には牙を剥いていたのだ。
その様は、鬼と表現するにふさわしい。
幼き日、早人がペンダントを取り返すべく戦いを挑んできた時のことを、岬は思い出していた。
早人は、吠えるようにして怨嗟の声を発した。
「恩? 恩ってなんだ? 僕の中にあるのは苦痛の記憶だけだ。それが、与えられたもの全てだ。そんなものが恩だって言うなら、もう沢山だ!」
広大な玄関ホールが、氷結した。
早人を除く全ての人々が氷像と化し、呼吸すら止めていた。
その中で、岬は真っ先に動き始めた。
とはいっても、まともな行動はできなかった。
口をだらしなく開き、悲鳴とも呻き声ともつかない声を漏らし続けるだけだったのだ。
早人は、刃物のように尖った視線で岬を一瞥してから踵を返し、自室へと向かっていった。
早人の姿が見えなくなっても、岬は呆然と立ち尽くしていた。
身体は微動だにしない。
執事と女中が心配し声をかけてきたが、それも耳に入らないようだった。
「どうして。そんなはずは……。私は……私は……」
本人にしか聞こえないその言葉を、岬は繰り返し呟いていた。