夏のできごと   作:ソノママチョフ

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盛夏のできごと 二

 高山邸にて。

 滝川邸に劣らぬほどの広さを誇る建屋の中を、早人と夏樹が並んで歩いていた。

 早人は高山家への挨拶を済ませ、今は帰宅のために駐車場へと向かっている。

 夏樹は見送りのため、彼に付き添っていた。

 

「へへー」

 

 夏樹が、はにかむようにして早人に微笑みかけた。

 早人は足を止め、夏樹に正対する。

 夏樹も立ち止まり、早人の顔を覗き込んだ。

 

「どうしたの?」

「どうしたもこうしたも……一体全体、何でこうなったんだ?」

「心配?」

「そうじゃなくて……」

 

 早人にとっては、急展開どころの話ではなかった。

 彼が高山家への婿入りの話を聞かされたのは、この日の朝である。

 そして呆気にとられている間もなく、夏樹の両親へ挨拶に出向くことになってしまったのだ。

 

 高山邸に到着してからも、狐につままれたような気持ちは続いていた。

 それでもつつがなく挨拶を済ませ、夏樹の父母からは好意的な言葉をかけてもらえた。

 しかし今になっても夢見心地というか、どこか現実感を伴わない心境は続いていた。

 そんな自身の気持ちを、早人は正直に話した。

 夏樹は両手を後ろに組み、笑顔で答える。

 

「桜庭を助けるって言ったんだもん、このぐらい簡単だよ。私も世間でいうところのお嬢様なんだよ?」

「簡単って……許嫁になったりして、いいのか?」

「大丈夫!」

 

 夏樹はきっぱりと断言した。

 

 婿養子とは言っても、早人が高山家の跡取りになる訳ではない。

 それは夏樹の兄たちの役目となる。

 従って早人は思い悩んだり、重圧を感じる必要もないのだ。

 それに夏樹の父は、娘には非常に甘かった。

 その夫となる人物となれば、悪いようにはしないはずである。

 夏樹はそう説明すると、顔を真っ赤にして言葉を付け足した。

 

「それに、それにね……桜庭だから、いいんだよ」

 

 早人への、純粋な想いが込められた発言だった。

 真正面からの告白を受け、早人も思わず息を呑んでいる。

 

「こうでもしないと、滝川さんに勝てないと思ったから。でも大丈夫! 桜庭が嫌になったら、いつ婚約解消してもいいから」

 

 夏樹は努めて明るく笑って見せた。

 だがその声と唇は、わずかに震えていた。

 早人もそれに気づいた。

 胸を締め付けられるような感覚を覚え、彼は行動する。

 夏樹の肩に手を回し、彼女を抱き寄せた。

 

「ありがとう……本当に、ありがとう」

 

 夏樹の耳元で、早人は囁いた。

 彼女の身体は燃えているかのように熱くなっていた。

 胸も、爆発しているかの如く高鳴っている。

 夏樹は震える腕を懸命に動かし、早人の背に回した。

 

 甘く熱い二人の世界は、しかし中断される。

 早人のポケットでアラームが鳴り響いたのだ。

 早人は我に返ってスマートフォンを取り出すと、画面を見て、秀麗な顔に陰を落とした。

 その様子を見て、夏樹も着信相手が誰かを悟った。

 彼女は早人の手を両手で包み込むと、縋り付くような目を彼へ向ける。

 

 早人は逡巡する様子を見せた。

 だがそれも、ほんの一瞬のことだった。

 小さく、しかし決意の込められた微笑を浮かべると、スマートフォンの電源を切りポケットへ納める。

 夏樹は目に涙を浮かべ、飛びつくようにして早人を抱きしめた。

 二人は唇を重ね合わせて目を閉じ、お互いの存在のみで世界を満たしていった。

 

 

 ──────

 

 

 早人が降車すると、猛烈なまでの熱波が彼に襲い掛かってきた。

 日は傾きつつあったが、熱と光は未だに強く、陽炎すら起こしながら辺り一面を眩く染め上げていた。

 滝川邸も、建屋自体が発光しているかのように白く輝いている。

 その見慣れた、巨大な建築物を見上げながら、早人は考える。

 自分は夏樹のことをどう思っているのだろうか、と。

 

 好意はある。

 ただしそれは、夏樹が自分に抱いている好意とは種類が異なるものだろう。

 あるいは、彼女に比べると小さなものなのかもしれない。

 

 とは言っても、好意だけでなく感謝してもしきれないほどの恩義も感じている。

 二人の間にある感情の差は、これからゆっくり埋めていけば良いのではないだろうか。

 自分を取り巻く環境は、彼女のおかげで以前とは比較にならないほど好転したのだから。

 長年にわたって心を占め続けていた絶望の黒雲が、取り払われたのだ。

 今は希望に満ちた晴れ間が、はっきりと見えている。

 

「でも一つだけ、問題は残っている……」

 

 早人は呟き、玄関のドアを開けた。

 

「早人!」

 

 怒号とすら称してよいほどの、巨大でひび割れた声が、早人を出迎えた。

 早人は戦慄しつつ、絞り出すようにして声を発する。

 

「……岬様」

 

 早人の眼前には、彼が思い描いていた「たった一つの問題」そのものが、仁王立ちしていた。

 彼女の眼光には、瘴気すら漂わせるほどの憤怒の色がある。

 早人にとって、これほどまでの負の感情を彼女からぶつけられたのは、初対面のとき以来であった。

 周囲には執事と三人の女中が居たが、彼らは無言で二人の対峙を見守っていた。

 岬が、歯ぎしりを交えつつ問いかけてくる。

 

「なぜ、電話に出ないの? 私を無視する気?」

 

 早人の背に、滝のように冷や汗が流れた。

 口内からは急激に水分が失われ、息をするのも困難になっていく。

 早人の身体は、骨の髄まで岬への服従心が叩き込まれ、染みついている。

 その恐るべき事実を、早人は否が応でも理解させられていた。

 それでも彼は、内なる恐怖と必死に戦いながら、口を開いた。

 

「康光様にお聞きではないのですか。僕はもう、岬様の従者ではありません」

 

 早人は全力で抗議したつもりだった。

 しかしその声は小さく、かすれていた。

 

 執事や女中たちは無言のまま、どこか悲し気に見える眼差しを早人と、そして岬に向けている。

 彼らも、早人と岬に何が起きているのかは知っていた。

 だが口を差しはさむ訳にもいかず、成り行きを見守っているのだ。

 岬が、有無を言わせぬ口調で断言する。

 

「関係ない! お父様がなんと言おうが、おまえは私の従者なのよ!」

「……岬様」

 

 早人の顔色は、今や蒼白になっていた。

 岬への恐怖、そして彼女の意を無条件で受け入れねばならないという、強迫観念。

 それらとの戦いによって、彼の心身は急激に削り取られていた。

 

 足が勝手に動き、岬の前でひざまずこうとする。

 頭が重くなり、岬を正視できなくなる。

 身体はすでに限界に達していた。

 だが早人は、わずかながら残っていた自我へ必死にしがみつき、尚も抗い続けた。

 

「……岬様、康光様が決定されたことです。そして、僕もそれを望みます」

「従者のくせに! おまえに選択権などない!」

 

 その宣告を聞いた時、早人の心は折れた。

 岬への服従心で、頭が埋め尽くされる。

 全身から力が抜け、崩れ落ち、その場で膝をついた。

 両手も動き出し、自然に土下座の姿勢をとる。

 あとはもう、謝罪の言葉を述べるだけだった。

 だが、

 

「いや、まだだ。まだ諦める訳にはいかない。夏樹のためにも……」

 

 その考えが頭に浮かび、早人は最後の力を振り絞った。

 脱力していた身体を懸命に動かし、顔を上げ、床を蹴り──逃げ出したのだ。

 自室に向かって、全力で走り始める。

 

「諦める訳にはいかない。でも、岬様には勝てない。じゃあ、逃げるしかない」

 

 早人はおそらく、恐怖によって錯乱状態に陥っていたのだろう。

 自室に向かうのでは、袋小路に飛び込むのと同じである。

 問題を先送りにする、その程度の効果すらないだろう。

 そんなことも分からないほどに混乱しながら、しかし彼は必死に走り続けた。

 岬が、嘲笑まじりの声をぶつけてくる。

 

「恩知らず! 今までの恩を忘れて!」

 

 恩。

 その言葉が、負け犬となっていたはずの早人の心に引っかかった。

 恩とは、なんであろうか。

 

 その言葉を聞かされて、真っ先に浮かんだのは夏樹の笑顔だった。

 彼女は人生をかけてまで、早人を救おうとしてくれているのだ。

 それはまぎれもない、恩と表現できるものだろう。

 では岬の言う恩とはなんであろうか。

 彼女が何をしてくれたというのか。

 彼女から与えられたもの、それは……。

 

 考えた瞬間、早人の中で何かが弾けた。

 足を止め、立ち尽くす。

 数秒間その姿勢を保ち続けてから、岬に向き直った。

 

 早人の表情を見て、岬は絶句する。

 彼は今、血走った目で岬を睨みつけ、口には牙を剥いていたのだ。

 その様は、鬼と表現するにふさわしい。

 幼き日、早人がペンダントを取り返すべく戦いを挑んできた時のことを、岬は思い出していた。

 早人は、吠えるようにして怨嗟の声を発した。

 

「恩? 恩ってなんだ? 僕の中にあるのは苦痛の記憶だけだ。それが、与えられたもの全てだ。そんなものが恩だって言うなら、もう沢山だ!」

 

 広大な玄関ホールが、氷結した。

 早人を除く全ての人々が氷像と化し、呼吸すら止めていた。

 

 その中で、岬は真っ先に動き始めた。

 とはいっても、まともな行動はできなかった。

 口をだらしなく開き、悲鳴とも呻き声ともつかない声を漏らし続けるだけだったのだ。

 早人は、刃物のように尖った視線で岬を一瞥してから踵を返し、自室へと向かっていった。

 

 早人の姿が見えなくなっても、岬は呆然と立ち尽くしていた。

 身体は微動だにしない。

 執事と女中が心配し声をかけてきたが、それも耳に入らないようだった。

 

「どうして。そんなはずは……。私は……私は……」

 

 本人にしか聞こえないその言葉を、岬は繰り返し呟いていた。

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