夏のできごと   作:ソノママチョフ

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盛夏のできごと 三

 康光は上髭を何度もしごきながら、書斎でくつろいでいた。

 彼は通常、多忙である。

 滝川グループの総帥として世界中を飛び回らなければならないのだ。

 たまに帰宅しても、その時は滝川家の当主として邸内をまとめなければならない。

 つまり彼にとって心を落ち着けられる時と場所となると、今のように一人で書斎にこもった場合のみとなるのだ。

 

 扉がノックされ、執事が盆にコーヒーを乗せて入ってくる。

 執事はコーヒーをテーブルに置くと、数瞬の間をおいてから口を開いた。

 

「旦那様」

 

 康光にとって書斎が唯一のくつろぎの場であることは、執事も知っている。

 従ってこの部屋においては、滅多なことでは康光に話しかけたりはしなかった。

 稀有な事例が発生したため、康光も意外そうな表情を執事に向ける。

 

「なにかね」

「畏れ多くも申しあげますが」

 

 執事の口調は慇懃なものだった。

 しかしこの初老の男性は、康光の性格も知り抜いていた。

 ゆえに康光が「上髭を何度もしごく」のは、上機嫌の証であるということも知っていた。

 

「桜庭さんの婿入りの件、白紙に戻すことはできないでしょうか」

 

 執事の提案に、康光は怪訝な顔を見せた。

 

「なぜかね?」

「……お嬢様がお気の毒です」

 

 康光は上髭をいじっていた指の動きを止めた。

 手を顎に当てなおし、考える姿勢をとる。

 

「確かに、悲しむのも無理はない。岬からすると、慣れ親しんだ従者がいなくなる訳だ。幼馴染でもあるし……」

「そうではございません」

 

 従順な執事が、康光の意を否定した。

 それは稀有どころか、前代未聞の事態であった。

 康光も驚いたが、怒り出したりはせず、興味深げに執事を眺めて説明を待った。

 執事は、相変わらず静かな口調で話し始めた。

 

「旦那様。お嬢様は常日頃、桜庭さんに厳しく接しておられました。ですが桜庭さん自身のことは、一度だって嫌ってはおりませんでした」

 

 早人と初めて会った日もそうだった。

 あの日、岬は早人の衣服や荷物、つまり彼の過去すべてを捨てさせた。

 だがそれも、早人が憎くてやった訳ではない。

 みすぼらしい過去など彼には相応しくないと思ったからなのだ。

 

「その後、桜庭さんに『召使いとして仕えないのなら追い出す』とおっしゃいましたが……」

「それは知っている」

 

 ということは、岬は早人をそれほど大事にはしていないのではないのか。

 と、康光は疑問を呈した。

 執事は大きく頭を振った。

 

「いえ。お嬢様の気性と、それに幼い頃のことで素直になれなかったというのもあるのでしょう。本心では、桜庭さんを追い出す気など無かったはずです。ですが、そう言ってしまった手前……」

 

 岬の中で屈折した心理が発生した。

 早人が言いつけを守らなかった際、責任が本人にあるとなれば、岬は彼を追い出さざるを得なくなる。

 それは本意ではないし、耐えられない。

 ならば責任を早人以外に転換してしまえばよい。

 悪いのは早人ではなく、彼をそそのかした者なのだ。

 

「お嬢様は、常に桜庭さんの周りにいる人々に憎しみを向けていました。桜庭さんを永遠に手元に置いておくために、不安要素を排除し続けていたのです」

 

 そこまで話すと、執事は一旦、間を置いた。

 溜め息を一つついてから、結論を口にする。

 

「旦那様、お嬢様にとって桜庭さんは……」

「……岬は、今はどうしているのかね」

 

 康光の声は静かながらも、娘への気遣いが感じられるものだった。

 執事は喜んだが、すぐに表情を沈痛なものへと変えた。

 

「部屋に籠りっきりになっております。……時折り、悲鳴とも咆哮ともとれる声を発せられているとか」

「咆哮?」

 

 剣呑な言葉を聞き、康光は眉をひそめた。

 険しい表情のまま、コーヒーカップに口をつける。

 苦みと酸味が絶妙にブレンドされた味わいと、芳醇な香りが、康光の鼻腔と口内に染みわたった。

 康光はコーヒーの出来栄えに満足したように頷くと、しばし思考の海に沈んだ。

 やがてカップを置き、彼は告げる。

 

「……成長のためには失恋も必要だろう。挫折を乗り越えられないようでは、滝川の跡取りになれるはずもない」

 

 その言葉は、執事が期待しているものとは異なっていた。

 執事は尚も反論しようとして、口を開きかける。

 しかし結局、頭を下げ、主人の意向を受け入れていた。

 

 

 

 

 叫声は壁を突き抜け、廊下中に響き渡っていた。

 岬の私室につながる扉の前では、女中が一人、緊急時に備え待機している。

 扉を開けて中の様子を見たい、あるいは逃げ出したいという欲求との戦いについては、女中は放棄していた。

 叫声が始まってから、すでに何時間も経過していたからだ。

 

 壁一枚を隔てた部屋の中は、消灯されてはいるものの、窓からの月光によって明るく照らし出されていた。

 そこに見える光景は、鳴り渡る絶叫に劣らぬほど荒んでいる。

 おそらくは、女中が想像しているよりもはるかに醜く、狂気に満ちているだろう。

 

 まるで台風が訪れたかのように、衣服、書物、家具に至るまで全てが部屋中に散乱していた。

 しかもその多くは破壊され、吐しゃ物がへばりついているのだ。

 そして部屋の中央では、岬がうずくまり、嘔吐を続けていた。

 とは言っても、もう吐く物も無くなり、舌を出し蛙のように喉を痙攣させているだけなのだが。

 

 岬は顔を上げると、長い黒髪を引きちぎらんばかりに強くつかんだ。

 そして宙に向け、絶叫する。

 その声は、もはや人語と呼べるものではなくなっていた。

 虐殺される獣が発するかのような、悲痛な響きと恐ろしさを併せ持った叫びである。

 

 そう、岬は叫ばずにはいられなかったのだ。

 叫ばなければ、喉をつぶして身体を痛めつけなければ、思い出してしまう。

 考えてしまうのだ、どうしても。

 

 ──なぜ、なぜ、なぜ、なぜ。

 ──早人を可愛がっていたのに。

 ──早人も理解してくれていたはずなのに。

 ──いつも一緒にいてくれたのに。

 ──命令すれば、素直に聞いてくれたのに。

 ──時々は、笑顔も見せてくれたのに。

 ──そう、笑顔を……。

 

 だが、それら良き思い出はすぐに消え去ってしまう。

 そして岬の頭は、早人の苦しそうな顔、辛そうな顔で埋め尽くされてしまうのだ。

 岬は憎悪する。

 その対象は他でもない、彼女自身だ。

 

 ──私が早人を苦しませた、悲しませたんだ。

 ──なぜ、そんなことをしたんだろう? 理解できない。

 ──酷いことをしなければ、優しくすれば、早人は笑って、幸せだったのに。

 ──これから先も、ずっと一緒にいてくれたはずなのに。

 ──悪いのは……そう、過去の私だ。

 ──なぜ私は。

 ──殺してやりたい、私を。

 

 岬は再び髪をかきむしり、絶叫する。

 叫び声によって聴覚を塞ぎ、視界すら歪め、吐しゃ物の臭気で鼻腔をも封じ込める。

 己の思考すら許さない。

 そうして五感すべてを埋めなければ、耐えられないのだ。

 心と身体にわずかでも隙が生まれれば、早人の悲しげな顔が現れる。

 それはすぐに、己への殺意と化す。

 

 殺したいほど憎い相手が、自分自身なのだ。

 その事実に、岬の精神は耐えられなかった。

 咆哮を繰り返し、部屋中をのたうち回る。

 さらに頭を壁に何度も打ち付け、手当たり次第に周囲の物を破壊した。

 

 ──でも、許して。

 ──お願い、貴方に嫌われたくない、軽蔑されたくない……。

 

 

 ──────

 

 

 早人が滝川家を離れるのは、九月一日である。

 その日まで残り一週間となっていた。

 となれば彼も、引っ越しや諸々の準備で多忙な日々を送っている……かというと、そうでもなかった。

 所有物は岬によってことごとく廃棄させられていたため、ほとんど残っていなかったのだ。

 

 それに従者という役目からは解き放たれていたが、未だ滝川家の世話にはなっていた。

 したがって遊びまわるような気にもなれず、早人は時間を持て余し気味であった。

 この日も、書店で購入した小説を一日中ベッドの上で読みふけっている。

 夜半になって睡魔の訪れを感じ、寝間着に着替えようとした。

 

 その時、部屋の扉がノックされた。

 早人は相手に氏名を問いかけた。

 

「……私」

 

 九年間で一番よく耳にした声が返ってきた。

 早人は驚き、ベッドから飛び降りる。

 急いでドアを開けると、さらに驚愕した。

 

 眼前にいるのは、間違いなく岬だった。

 しかし、人形のように美しい顔は、まさに作り物の如く青ざめていた。

 目は充血し、その周りには大きな隈ができている。

 早人が岬と顔を合わせるのは、先日の玄関での別れ以来であった。

 あれから、彼女に何が起きたというのか。

 岬のあまりの変わりように、早人もさすがに心配になっていた。

 

「岬様、どうなされましたか?」

「これを、返しに来たの」

 

 岬は固く握りしめた右手を、早人の前に差し出した。

 その指にいくつもの歯形がついているのを、早人は目にする。

 岬が、自分の指に噛みついたのだろうか? 

 そんな疑問が頭に浮かび、早人は戦慄した。

 

 だが、岬が手を開くと、そんな疑問は吹き飛んでしまった。

 岬の掌に乗っていたもの、それは──

 

「……ロケットペンダント!」

 

 早人は叫び、絶句する。

 それからは無言で、楕円形の装飾品を見つめ続けた。

 

 ペンダントは、銀色に光り輝いていた。

 その様は、早人が所持していた頃と変わらないというよりも、より美しくなっているようにすら見えた。

 長い間、大事に保管され、磨かれてもいたのだろう。

 しかしなぜ、岬がペンダントを持っているのだろうか。

 彼女は、これを破棄すると告げていたのに。

 早人が疑問を抱くと同時に、岬は話し始めた。

 

「貴方が、とても大事にしていたものだから、これは捨てられなかった。でも貴方に返したら、貴方の心はこれにとらわれたままになってしまう。だから返せなかった」

 

 早人は困惑する。

 岬の意図を把握できぬまま、視線を彼女の、晴れ上がった両目へと向けた。

 岬の瞳からは、早人がかつて見たことのない、悲壮感のような感情の揺らぎが見て取れた。

 

「いつの日か、私を心から慕ってくれるようになった時に返せば、きっと喜んで、感謝してくれる。その日を待っていた。……でも、もう間に合わないから」

 

 岬は目を閉じた。

 彼女の、蒼白だった頬が、朱の色で染められる。

 

「お願い、許して。貴方が、早人が好きなの」

 

 告白を終えると、岬はうつむき、沈黙してしまった。

 

 岬の声は、ごく小さなものだった。

 だがその声は、早人の心奥をたしかに射抜いていた。

 そのために彼は、岬の声が部屋中で反響を繰り返しているかのような、そんな錯覚に陥っていた。

 岬の言葉は、早人にとってそれだけ衝撃的なものだったのだ。

 

 いや、岬に執着されているのは分かっていた。

 しかし恋心と呼べるようなものだとは思わなかったし、思いたくもなかったのだ。

 ましてや、その想いのために、岬が自分に慈悲を請うなど想像できる範疇を軽く越えていた。

 

 早人の頭に、岬との思い出が走馬灯のように駆け巡っていく。

 その多くは辛く苦しいものだ。

 だがそれも、彼女の愛情によるものだったというのだろうか。

 そう言えば普段は冷淡な彼女も、時には早人を愛しむような素振りを見せることもあった。

 あの所作こそが、彼女の本心だったというのなら……。

 

 そこまで考えて、しかし早人は記憶に蓋をした。

 頭を振り払い、良き思い出を心の隅へと追いやる。

 岬の手からペンダントを奪い取ると、ことさら冷たい声を出した

 

「ありがとうございます。でも、もう遅いんです」

 

 早人は表情を見せないよう、その場で踵を返した。

 冷酷きわまりない口調で、岬を突き放す。

 

「僕は、僕の人生を取り戻しに行く。そこに貴女は必要ないんだ」

 

 岬の前で、わざと派手な音を立てて扉を閉める。

 早人は、自分の顔を見られたくないのと同様に、岬の顔も見たくはなかった。

 もしも今、彼女の顔を一目でも見てしまえば、自分の心はまた折れてしまう。

 その恐怖に、彼はとらわれていた。

 

 早人はベッドにもぐりこみ、布団を頭からかぶった。

 それからは岬が早く立ち去るよう、ひたすら願い続けた。

 だが早人が眠りに落ちる時になっても、岬が扉の前から動く気配は、遂に感じられなかった。

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