八月末日。
空は未だ青く高く、天上まで突き抜けていた。
だが滝川邸に吹き付ける風の流れは、時に軽く爽やかで、どこか秋の色を感じさせるものとなっていた。
早人は明日、この地を離れる。
この日、早人は朝から別れの挨拶のため、屋敷中を回っていた。
もっとも康光とその妻は海外へ商談に出てしまっていたので、対象となるのは執事に女中、運転手といった人々となる。
女性からは泣かれ、男性からは励まされるなどして一喜一憂しつつ、早人は最後に執事を訪ねた。
初老の執事は、早人へ気落ちしたような声をかけてきた。
「いよいよ明日、お別れですね」
「執事さんにはお世話になりました」
「また、いつでも遊びに来てくださいよ」
執事は悲しそうに笑い、早人は苦笑した。
早人には、この館を再訪するつもりは毛頭なかったが、それを告げるのは野暮というものだろう。
言葉を濁す早人に対し、執事は尋ねる。
「最後にお嬢様と話されるつもりは、やはりありませんか」
「はい」
間一髪もおかずに、早人は断言してしまっていた。
執事は肩を落とし、無念そうにうつむいてしまった。
早人もさすがに「ちょっと冷たすぎるかな」と思い始めた。
少なくとも執事に恨みはないのだから、多少は岬を気に掛ける素振りを見せてもいいだろう。
早人は考え、口を開いた。
「岬様は最近、どんなご様子なんですか?」
「もう、部屋から一歩も出てきません」
「一歩も?」
「はい。食事にしても、女中が部屋の前まで運んでいます」
尋常な事態ではない。
早人は驚き、同時に疑問を抱いた。
「誰か、部屋の中に入って様子を確かめたりはしなかったんですか?」
「鍵束を奪われてしまったんです」
「え?」
早人の顔から、血の気が引いていた。
鍵束に自分の部屋の鍵がついていたら、岬が忍び込んでくるかもしれない。
その想像によって、彼の背筋には氷柱が突き立てられていたのだ。
しかし、その不安も杞憂となる。
「心配しなくても、桜庭さんの部屋の鍵はついていませんよ」
執事に告げられて、早人は安堵の溜め息をついた。
執事は、さらに話を続けている。
「まあ旦那様の部屋と、倉庫や車庫の鍵は付いていましたけどね。合鍵もあるにはあるんですが、それを使ってお嬢様の部屋に入っても、また取り上げられるだけでしょうし……」
その日の夜。
早人はベッドで横になり、灰色の天井を眺めていた。
すでに夜も更けていたが、彼は未だ寝付けないでいる。
理由は二つあった。
一つは、新たな生活への期待感である。
夏樹と共に新しい、本当の人生を始められるのだ。
牢獄まがいのこの部屋からも解放される。
その期待感は、早人の心を高揚させてやまなかった。
そして、もう一つの理由は──。
扉がノックされた。
早人は相手に氏名を問いかけたが、返答はなかった。
早人は深呼吸をして心を落ち着かせてから、立ち上がった。
相手が岬なのは分かっていた。
ならば、彼女が何をしてこようと、何を言おうと、突き放さなくてはならない。
早人にとってもギリギリの勝負なのだ。
長年にわたって身体に植え付けられた服従心を克服しなければ、全ては水泡に帰してしまう。
早人は周囲を見回した。
灰色の壁で囲まれタンス一つだけが置かれた、寒々とした情景が広がっている。
岬に屈せば、この部屋からの脱出もかなわなくなるだろう。
そして希望のかけらもない、無感動な日々へと引き戻されるのだ。
一瞬、自分に許しを請う岬の姿が、早人の脳裏に思い浮かんだ。
だが彼はすぐに頭を振り、心の内から岬の姿を追いやった。
とにかく、わずかな恐怖、あるいは憐憫や同情すらも抱いてはならない。
早人はそう覚悟を決め、扉を開けた。
眼前の人物を見て、早人は絶句する。
そこには、うつむいた一人の少女がいた。
彼女は痩せこけており、いたる所に吐しゃ物がこびりついた寝間着を着用していた。
その衣服には、早人は見覚えがあった。
岬が好んで着ていたものだ。
となれば、この少女は岬本人のはずなのだ。
だが少女の髪には、岬の長く美しい、黒絹のようだった髪の面影は無かった。
酷く乱れている。
いや、乱れているどころではなく、ハサミか何かで滅茶苦茶に切り落とされていた。
さらには所々に頭皮が見えている部分があり、そこには赤黒い、血がにじんだような跡もあった。
自分で髪を引っ張り、抜き落したのだ。
その考えに至り、早人の全身から一斉に冷や汗が噴き出す。
叫び声を上げそうにもなっていた。
だが彼が口を開くよりも早く、少女が呟いた。
「お願い、許して」
聞きなれた、岬の声だった。
早人は、なぜか心が落ち着いていくように感じていた。
汗も急激に引いていく。
早人は深呼吸をして、岬を諭し始めた。
「岬様、執事さん達が心配しています。皆に元気なお姿を見せて上げてください」
「許して」
「岬様……」
「どうすれば許してもらえるのか、私には分からないから」
岬は面を上げた。
その顔はやつれ青ざめ、目は充血して周囲には隈ができ、頬はこけていた。
だが、美しさは損なわれてはいなかった。
凄まじいほどに病的で幽鬼じみてはいたものの、彼女の美しさはその荒廃にすら打ち勝っていたのだ。
いつものように、人形か彫刻のように美しい──右半面だった。
岬の残り半面を見て、早人は今度こそ絶叫する。
後方へ飛びすさると、転がるようにしてベッドへ駆け上り、壁を背にしてへたり込んだ。
彼を追いかけて、岬が部屋に入ってくる。
今の早人には、岬を阻止できない。
口を開けて岬の顔、その左半面を瞬きすらできずに見つめている。
岬の左反面は、右側と同様、人形のようだった。
ただし、ガラスケースに入れられて飾られているような、真っ当な人形ではない。
幼児が悪戯に火であぶったかのように全体が焼け、溶け崩れてもいたのだ。
目も、黒目と白目が混ざったかのように灰色一色で塗りつぶされている。
そこからは涙であろうか、透明な体液が垂れ流されていた。
なにか、強い酸をかぶったのだ。
早人の心中でわずかに残っていた理性は、それを察していた。
だが強酸など、どこで手に入れたのだろう。
倉庫を開けて見つけ出したのだろうか。
理性が状況を把握する間にも、岬は一歩、また一歩と近づいてくる。
「私は」
彼女は歩みを止めぬまま、哀願を始めた。
「私を許さない。でも、貴方の傍にいたいの。どうすれば良いか分からないの。これじゃ足りない? どうすれば許してくれる?」
岬は錯乱している。
早人の理性は、そう教示していた。
だが彼には、どうすることもできない。
「貴方が許してくれるなら、私は何をされてもいい。……そう、殺されてもいいわ」
早人は内なる恐怖に、遂に屈していた。
指一本すらも動かせなくなっている。
「お願い、殺して。それで許してもらえるなら、私はかまわない。いえ、むしろ本望だわ。お願い、殺して」
早人はもはや逃げるどころか、考えることすらできない。
迫る岬の姿に、ただ飲まれ続けていた。
「許して」
──────完──────