夏のできごと   作:ソノママチョフ

6 / 6
夏の終わりに

 八月末日。

 空は未だ青く高く、天上まで突き抜けていた。

 だが滝川邸に吹き付ける風の流れは、時に軽く爽やかで、どこか秋の色を感じさせるものとなっていた。

 早人は明日、この地を離れる。

 

 この日、早人は朝から別れの挨拶のため、屋敷中を回っていた。

 もっとも康光とその妻は海外へ商談に出てしまっていたので、対象となるのは執事に女中、運転手といった人々となる。

 女性からは泣かれ、男性からは励まされるなどして一喜一憂しつつ、早人は最後に執事を訪ねた。

 初老の執事は、早人へ気落ちしたような声をかけてきた。

 

「いよいよ明日、お別れですね」

「執事さんにはお世話になりました」

「また、いつでも遊びに来てくださいよ」

 

 執事は悲しそうに笑い、早人は苦笑した。

 早人には、この館を再訪するつもりは毛頭なかったが、それを告げるのは野暮というものだろう。

 言葉を濁す早人に対し、執事は尋ねる。

 

「最後にお嬢様と話されるつもりは、やはりありませんか」

「はい」

 

 間一髪もおかずに、早人は断言してしまっていた。

 執事は肩を落とし、無念そうにうつむいてしまった。

 早人もさすがに「ちょっと冷たすぎるかな」と思い始めた。

 少なくとも執事に恨みはないのだから、多少は岬を気に掛ける素振りを見せてもいいだろう。

 早人は考え、口を開いた。

 

「岬様は最近、どんなご様子なんですか?」

「もう、部屋から一歩も出てきません」

「一歩も?」

「はい。食事にしても、女中が部屋の前まで運んでいます」

 

 尋常な事態ではない。

 早人は驚き、同時に疑問を抱いた。

 

「誰か、部屋の中に入って様子を確かめたりはしなかったんですか?」

「鍵束を奪われてしまったんです」

「え?」

 

 早人の顔から、血の気が引いていた。

 鍵束に自分の部屋の鍵がついていたら、岬が忍び込んでくるかもしれない。

 その想像によって、彼の背筋には氷柱が突き立てられていたのだ。

 しかし、その不安も杞憂となる。

 

「心配しなくても、桜庭さんの部屋の鍵はついていませんよ」

 

 執事に告げられて、早人は安堵の溜め息をついた。

 執事は、さらに話を続けている。

 

「まあ旦那様の部屋と、倉庫や車庫の鍵は付いていましたけどね。合鍵もあるにはあるんですが、それを使ってお嬢様の部屋に入っても、また取り上げられるだけでしょうし……」

 

 

 

 

 その日の夜。

 早人はベッドで横になり、灰色の天井を眺めていた。

 すでに夜も更けていたが、彼は未だ寝付けないでいる。

 理由は二つあった。

 

 一つは、新たな生活への期待感である。

 夏樹と共に新しい、本当の人生を始められるのだ。

 牢獄まがいのこの部屋からも解放される。

 その期待感は、早人の心を高揚させてやまなかった。

 そして、もう一つの理由は──。

 

 扉がノックされた。

 早人は相手に氏名を問いかけたが、返答はなかった。

 早人は深呼吸をして心を落ち着かせてから、立ち上がった。

 

 相手が岬なのは分かっていた。

 ならば、彼女が何をしてこようと、何を言おうと、突き放さなくてはならない。

 早人にとってもギリギリの勝負なのだ。

 長年にわたって身体に植え付けられた服従心を克服しなければ、全ては水泡に帰してしまう。

 

 早人は周囲を見回した。

 灰色の壁で囲まれタンス一つだけが置かれた、寒々とした情景が広がっている。

 岬に屈せば、この部屋からの脱出もかなわなくなるだろう。

 そして希望のかけらもない、無感動な日々へと引き戻されるのだ。

 

 一瞬、自分に許しを請う岬の姿が、早人の脳裏に思い浮かんだ。

 だが彼はすぐに頭を振り、心の内から岬の姿を追いやった。

 とにかく、わずかな恐怖、あるいは憐憫や同情すらも抱いてはならない。

 早人はそう覚悟を決め、扉を開けた。

 

 眼前の人物を見て、早人は絶句する。

 そこには、うつむいた一人の少女がいた。

 彼女は痩せこけており、いたる所に吐しゃ物がこびりついた寝間着を着用していた。

 その衣服には、早人は見覚えがあった。

 岬が好んで着ていたものだ。

 となれば、この少女は岬本人のはずなのだ。

 

 だが少女の髪には、岬の長く美しい、黒絹のようだった髪の面影は無かった。

 酷く乱れている。

 いや、乱れているどころではなく、ハサミか何かで滅茶苦茶に切り落とされていた。

 さらには所々に頭皮が見えている部分があり、そこには赤黒い、血がにじんだような跡もあった。

 

 自分で髪を引っ張り、抜き落したのだ。

 その考えに至り、早人の全身から一斉に冷や汗が噴き出す。

 叫び声を上げそうにもなっていた。

 だが彼が口を開くよりも早く、少女が呟いた。

 

「お願い、許して」

 

 聞きなれた、岬の声だった。

 早人は、なぜか心が落ち着いていくように感じていた。

 汗も急激に引いていく。

 早人は深呼吸をして、岬を諭し始めた。

 

「岬様、執事さん達が心配しています。皆に元気なお姿を見せて上げてください」

「許して」

「岬様……」

「どうすれば許してもらえるのか、私には分からないから」

 

 岬は面を上げた。

 その顔はやつれ青ざめ、目は充血して周囲には隈ができ、頬はこけていた。

 だが、美しさは損なわれてはいなかった。

 凄まじいほどに病的で幽鬼じみてはいたものの、彼女の美しさはその荒廃にすら打ち勝っていたのだ。

 いつものように、人形か彫刻のように美しい──右半面だった。

 

 岬の残り半面を見て、早人は今度こそ絶叫する。

 後方へ飛びすさると、転がるようにしてベッドへ駆け上り、壁を背にしてへたり込んだ。

 彼を追いかけて、岬が部屋に入ってくる。

 今の早人には、岬を阻止できない。

 口を開けて岬の顔、その左半面を瞬きすらできずに見つめている。

 

 岬の左反面は、右側と同様、人形のようだった。

 ただし、ガラスケースに入れられて飾られているような、真っ当な人形ではない。

 幼児が悪戯に火であぶったかのように全体が焼け、溶け崩れてもいたのだ。

 目も、黒目と白目が混ざったかのように灰色一色で塗りつぶされている。

 そこからは涙であろうか、透明な体液が垂れ流されていた。

 

 なにか、強い酸をかぶったのだ。

 早人の心中でわずかに残っていた理性は、それを察していた。

 だが強酸など、どこで手に入れたのだろう。

 倉庫を開けて見つけ出したのだろうか。

 理性が状況を把握する間にも、岬は一歩、また一歩と近づいてくる。

 

「私は」

 

 彼女は歩みを止めぬまま、哀願を始めた。

 

「私を許さない。でも、貴方の傍にいたいの。どうすれば良いか分からないの。これじゃ足りない? どうすれば許してくれる?」

 

 岬は錯乱している。

 早人の理性は、そう教示していた。

 だが彼には、どうすることもできない。

 

「貴方が許してくれるなら、私は何をされてもいい。……そう、殺されてもいいわ」

 

 早人は内なる恐怖に、遂に屈していた。

 指一本すらも動かせなくなっている。

 

「お願い、殺して。それで許してもらえるなら、私はかまわない。いえ、むしろ本望だわ。お願い、殺して」

 

 早人はもはや逃げるどころか、考えることすらできない。

 迫る岬の姿に、ただ飲まれ続けていた。

 

「許して」

 

 

 

 

 ──────完──────


▲ページの一番上に飛ぶ
X(Twitter)で読了報告
感想を書く ※感想一覧
内容
0文字 10~5000文字
感想を書き込む前に 感想を投稿する際のガイドライン に違反していないか確認して下さい。
※展開予想はネタ潰しになるだけですので、感想欄ではご遠慮ください。

評価する
※目安 0:10の真逆 5:普通 10:(このサイトで)これ以上素晴らしい作品とは出会えない。
※評価値0,10についてはそれぞれ11個以上は投票できません。
評価する前に 評価する際のガイドライン に違反していないか確認して下さい。