GS横島 Step by step   作:カシム0

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昔書いたやつだからか粗か目立ちます。
しかも一人称に慣れたから三人称が書きづらかったり。
さんなわけで、どうぞ。


第五話 この状況が普通じゃない証拠はもういらないっ!

 

 オオカミとキツネは同じイヌ科の動物である。それは犬神とも呼ばれる人狼や妖孤であっても例外ではない。

 オオカミは群れで生活し群れで狩りをおこなう。仲間を強く想い絆は固く結ばれているという。一匹狼などという言葉があるが、あれはあくまで特殊な例である。

 キツネは単独で生活し単独で狩りをおこなう。孤高で気高く、その習性はイヌよりはむしろネコに近い。

 美神除霊事務所に所属する犬塚シロとタマモはともに犬神であるが、オオカミとキツネでありよくケンカをする。周りから見れば子供同士がじゃれあっているかのようで、本人たちは不満を言うだろうが、仲が良い姉妹のようにも見え、ケンカするほど仲がいいを地で行っている。

 そんな彼女らだが、シロの散歩にタマモが毎日付き合いだすという変化があった。時期はタマモがシロと横島の散歩に初めて付き合ってすぐである。

 平日早朝から二人連れだって散歩に出かけ、何をしているのだか泥まみれになって朝食前に帰ってくる。日曜日はまず横島の家に行き、そこからさらに散歩に出ているようだ。帰ってくる頃には、やはり泥だらけである。

 おキヌが何かあったのかと尋ねたところ、シロは手を握り締め口をつぐみ、タマモも唇を一文字に引き締めたかと思うと、決意を秘めた瞳でただ一言告げたのだった。

 

「復讐」

 

 と。

 ちなみに物騒な話ではない。結論から先に言ってしまうと二人は特訓をしていたのだ。

 タマモがシロと横島の散歩に初めて付き合った日、二人の勝負のようなものの存在を知り自らも参加することにした。そして、翌週横島に惨敗してしまったのだ。

 それ以来、毎朝犬神二人は遠出をして特訓し、横島への復讐ならぬ雪辱を果たさんと努力しているのであった。リベンジを狙っているというのが正しい。

 勝負の方法はそれぞれ違う。シロは五分間横島の攻撃をかわしきること。タマモは五分の内に横島へ攻撃を加えること。

 さらに勝負の景品もそれぞれ違う。シロは攻撃をかわしきれば毎朝散歩に付き合ってもらい、かわせなければ日曜日のみ散歩に付き合ってもらう。タマモは攻撃を当てれば毎日キツネうどんをおごってもらい、当てられなければうどん屋に付き合ってもらう。

 全く横島に得のない景品であるが、まあいいかですませてしまう横島はある意味大物である。

 さて、今日もシロとタマモは特訓のために人気のない山まで来ていた。街中ではもちろん特訓するスペースはないし、下手なことをすれば警察に通報されてしまい美神らに迷惑をかけてしまう。力の限り動き回れるスペースと人気のなさを両立させる場所が事務所の近くにないのは面倒ではあったが、ウォーミングアップと考えればちょうどいい距離であった。

 あくまで犬神にとってはであって、普通の人間はウォーミングアップにフルマラソン以上の距離を走ったりはしないが。

 

 

 

 

 

 眼前を覆い尽くすようにタマモが放った狐火を霊波刀で振り払おうとし、当てる気の無い目隠しであると気づいたシロは飛び退いた。ほとんど同時、タマモの蹴りが一瞬前までシロの顔面があった空間を薙ぎ払う。

 飛び退いたシロは急停止し、後方を斬りつけた。見ることはできなかったが、タマモの生み出した狐火が空に溶ける。

 さらにタマモの生み出した狐火の塊が数個、宙に浮かぶ。それぞれが空に軌跡を描きシロに迫る。その数四つ。

 かつて八房という、一振りで八つの斬撃を繰り出す妖刀に対抗するため修業をしたシロにとっては物の数ではない。一瞬で振り払う。

 その一瞬でタマモは跳び上がり、上空からシロに向けて急降下していたが、あまりにも一直線すぎた。シロが一歩脇に避ければそれだけで意味をなさない攻撃。

 見え見えずぎる囮の攻撃に、集中していた感覚を広げたシロは自身に接近する何かを感じた。見上げていたシロの四方から狐火が迫っていた。

 思考は一瞬。霊波刀で円を描き、狐火を消し飛ばす。同時に身を沈め、タマモの蹴りをかわす。

 着地したタマモは瞬時に回し蹴りを放つ。しかし、シロはすでに間合いを取っていた。

 追撃に出ようとしたタマモの動きを、時を告げる電子音が止めた。

 

「よし、今日は拙者の勝ちでござる!」

「くぅぅーっ! 連勝記録が止まっちゃったなぁ」

 

 勝ち誇るシロとは対照的にうなだれるタマモ。二人とも汗と埃に塗れつつ、しかしその表情は互いの健闘を讃えるかのように晴れやかである。

 

「今日は全方位に気を配っていたし、最後まで集中しきっていたし。課題はクリアってところじゃない?」

「いやまだまだでござる。そういうタマモこそ、最後の蹴りは中々堂に入っていた。仕上がりは上々では?」

「うーん、やっぱり慣れないことだしね。練習はしてみたけど、正直横島に通じるかっていうと、ね」

「そこが問題でござるなぁ」

 

 晴れやかな笑顔から一転、ため息をつく二人。彼女らの仮想敵である横島は、二人が立てる対策の裏をかいてくる。情報が漏れているのではなく、相対している最中に的確に隙を突いてくるのだ。

 シロは人狼の筋力や俊敏さで横島の攻撃をかわしているが、能力や勘に頼った隙を突かれている。賭けの終了時には、ズルイでござるを毎度毎度言っている。

 タマモは妖狐の霊力で狐火や幻影でもって横島へ攻撃を仕掛けるが、予想もつかない突拍子な動きで回避されている。横島曰く、次に何してくるのかがわかりやすいとのこと。

 横島に一泡食わせたい二人は、それぞれに課題を課し訓練に励み、今日はそのお披露目の日であった。

 

「おキヌちゃんに聞いたんだけどさ、横島って霊能力が目覚める前から除霊の現場にいたらしいのよ」

「ああ、それは拙者も聞いたことがあるでござる。つまり、先生は格上というか、自分より強い者との戦闘に慣れているということでござるな」

「足りない性能を戦法と経験で覆すのは人間の十八番だけどさ、あいつの場合足りない性能ってのも人間離れしてるし」

 

 何せ、至近距離で放たれた銃弾を目で見て弾き返すのであるから、常人の枠などからはとうにはみ出している。

 横島は強力なGSであるが、あくまで人間の枠内での話である。犬神である二人から見れば攻撃も回避も大した脅威ではない。しかし、ただ勝てない。

 

「這いつくばった状態から全方位攻撃をかわされたこともあったなぁ」

「地面に突き立てた霊波刀を伸ばして、足裏を地中からツンと刺されたり」

「あいつ、どうやってんのかわかんないけど、土遁の術とか言って地面に潜るのよね」

「いつの間にか掘られていた落とし穴に落とされたこともあったでござる」

「いや、あんたは考えなしで突っ込みすぎるからでしょ」

「うるさいでござる」

 

 タマモの揶揄も、いつもならば噛みつかんばかりに抗議するシロも、訓練の疲れからか力ない。

 それから話はとりとめのない雑談へと移り、クールダウンがてら来た時と同様の距離を走ろうと腰をあげたとき、それは来た。

 首筋を撫でられるような、背筋を電流が突き抜けるような。犬神特有の鋭い六感が警鐘を鳴らす。危険だと。

 

「「っ!」」

 

 何かが来るのがわかる。小さく息をのみ二人は立ちあがる。

 向かってくる何かがどこから来るのか、敵であるのかはわからない。だからこそ二人は、自然と最も頼れる相棒に背中を任せていた。

 のどかだった朝の山に一転して張りつめた空気が漂う。

 続く閉塞状況が焦りを呼び、焦りが緊張を途切れさせんとする。しかし、自らの超感覚が告げる危機に、二人は従い警戒を続ける。

 そして、額から流れる汗が顎から落ちる頃、状況が動く。

 

「タマモッ!」

「わかってるっ!」

 

 草を踏みしめる音、藪をかき分ける音が聞こえる。何ものかは、周囲あらゆる方面から複数近づいてきていた。

 悪寒とともにシロは霊波刀を構え、タマモも狐火を放つべく集中する。

 そして、

 

「……猿?」

「猿、だけどね」

 

 二人を囲むように現れた数匹の猿。だが、様子は明らかにおかしい。

 好奇心が強く、しかし警戒心の強い猿は、今まで遠巻きに二人の特訓を見ていることはあっても近づいてくることはなかったし、見分けられるほど詳しいわけではないが表情もおかしい。

 

『キ、キャ』

 

 一匹の猿が小さく呻くように声を発した。他の猿に比べて大きな体を持つそれは、群れのリーダーだろうか。大きく息を吸い込むように体をそらし、吠えた。

 

『キイイイイイィィィッ!!!』

 

 鼓舞か威嚇か、はたまた号令であったのか。二人を囲む猿達は甲高い叫びとともに、その爪をひらめかせ、牙をむき出しにして襲いかかる。

 

「っく、何事でござるか!」

 

 野生の猿の動きは敏捷だが犬神にかなうものではない。シロは霊波刀を振り襲い来る一匹ずつを弾き返す。

 

「わかんないけど、おかしなことになってるのは間違いないわねっ!」

 

 狂乱とでもいうべき状態の猿達であるが、それでも本能は残っているのかタマモが繰る狐火に動きを鈍らせる。

間隙を縫い飛びかかってくる猿に蹴りをくらわせつつ、タマモは囲いを突破するため目を周囲に配らせていた。

 

「シロ、付いてきなさい!」

「承知!」

 

 タマモの簡潔な呼びかけに、シロは反論もせずに応じる。

 狐火を走らせ、怯え囲いをゆるめた猿を尻目に駆け抜けるタマモに追随するシロ。

 

『キャアアアァァッ!』

 

 リーダーの叫びに追いかける猿たちだが、そもそも犬神の速度にかなうわけもなく、早々に見失っていた。

 

 

 

 

 

 シロとタマモは速度を弛めることなく、下山する方向に走っていた。

 やろうと思えば狂った猿達を叩きのめすことはできるが、状況があまりにも不透明であった。

 

「いつの間にニホンザルは肉食になったのよ!」

「まさか拙者らが狩られる側に回るとは……しかも猿に。屈辱でござる」

「それに、あいつらすっごく気持ち悪かった」

「何かに巣食われているかのようでござったな」

 

 ただの狂った猿や病に罹患した猿に感じるような悪寒ではなかった。猿達は二人を獲物として見ていた。だが、食糧難に苦しむような枯れ果てた山でもあるまいに、考えられないことだった。

 さらに気づいた違和感。例えるなら純白に落ちた黒。あの猿達は、霊的な何かに侵されていた。

 

「これもやはり、遺産とやらの仕業でござろうか?」

「決めつけるのは早計だけど可能性はあるわよね。確実なのは、これが誰かの手による事態だってことだけかな」

「確かに、自然にあのようになるとは考えられない。でも、何のために?」

「わかんないってば、それより!」

 

 タマモがちらと横を見ると、茶色い巨体が二人に並走していた。藪をなぎ倒し走り抜ける様は、猪突猛進そのままである。

 

『ブキイイィィッ!』

「今度は猪でござるか!」

「シロ、相手にしてたら猿に追い付かれる」

「応でござる!」

 

 猪は目を血走らせ、涎を垂れ流し、傍目にわかりやすく猛り狂っていた。猪の速さは障害物をものともせずに突進しているためか、二人に振り切られないほどの速度で追随する。そもそも、犬神と同程度の速力で走れる猪などいるはずもないのだが。

 後ろに着かれたものの、走り続ければ持久力に劣る猪を振りきれるだろうが、二人も特訓による疲労があった。

 

「タマモ、前!」

「わかった!」

 

 シロの呼びかけに前方を見て、理解したタマモはタイミングを計る。

 立ちふさがる樹木を交差するようによけた二人に続き、猪が突進する。巨大な質量がぶつかる音がして、そして生木をへし折るような音が聞こえた。

 

「うそーーーっ!」

「なんでござるかーっ!」

 

 振り向けば、突進する猪と根元からへし折れた一抱えほどの太さのある樹木が彼方に一本吹っ飛んでいた。信じがたいことに、猪は一直線に障害を突破してきたようだ。

 

「この状況が普通じゃない証拠はもういらないっ!」

「無駄口叩く前に足動かせでござる! 置いてくでござるよ!」

「あーもー!」

 

 

 

 

 

 しばらくして。シロとタマモは枝の上に登っていた。見下ろせば先ほどまで追いかけられていた猪がうろついている。

 気配を消して待つことしばし、猪が場を離れ、二人は揃って安堵の息を吐きだした。

 

「本当に何だってのかしらね」

「ここは状況を整理したほうが良さそうでござるな」

「って言ってもわかってるのって………犬神である私たちを獲物として見ていたとか?」

「拙者らが元の姿の時ならともかく、今の変化している状態で襲ってくるとは思えないでござる」

「そもそも猿が狩りをするなんて初めて見たし、やりあったこともないんだけどさ。リーダーの指示通りに動いた上にやたらすばしこくなかった?」

「それにあの猪の突進の凄まじさ。見たところ傷一つ負っていなかったでござる」

 

 邂逅はほんの少しだけだというのに、指折り数えられるほどの特異な点が挙げられる。

 シロもタマモも、見た目の年齢ほど生きてはいないし、もっと言えば世間知らずではあるが、それにしたところでこの状況の異様さはしみじみとわかった。

 さらに言葉を続けようとした二人の目が同じ方向を向く。近づいてくる別の気配を感じ取ったからだ。

 

「……ねえシロ」

「なんでござるか……?」

「あの猿とか猪だけがおかしくなったのかと思うって、聞こうとしたんだけどさ」

「そうでは、なさそうでござるな」

 

 二人の視線の先には鹿を咥えて歩く鹿がいた。咥えている鹿の角は鋭く肥大しており、血が滴っている。そして運ばれている鹿の胸からは鋭いもので貫かれたような跡から血が流れており、一見して命の灯は潰えているように見える。

 状況からして鹿が鹿を獲物としたようにしか見えない。

 縄張りや伴侶をめぐって争うことはよくあることだが、これはそのような通常の行動では絶対にありえなかった。

 

「何が起こってるっていうのよ」

「わからぬ。わからぬが、拙者らがここでこうしていたところでどうにもならぬ。口惜しいがタマモ、一刻も早く先生らに報告を!」

「そうね」

 

 気配を殺して枝から枝へ飛び移る。目的は山を下り、事務所へ向かうこと。一直線に目指す。

 しかし、

 

『フィーョー』

 

 後方から鹿の鳴き声が聞こえたとき、妨害があることは確実であると思い知らされた。

 

 

 

 

 

 日はすでに頂点に差し掛かろうとしていたが、一向に山を下りることはできないでいた。

 いつもならばとうに事務所に戻り、汚れを落として昼食に舌鼓を打っているような時間だというのに、二人は包囲網を抜け出せていない。

 そもそも訓練で疲れていたこともあり、狩りでもないのに無駄に殺してしまいたくないという気持ちもある。何より、何者かに操られているだろうという可能性が周囲を囲む動物への攻撃を躊躇わせた。

 もっとも二人の迷いが伝わるわけもなく、動物たちは遠慮呵責など一切なしに攻め立ててくる。

 樹上に身を潜めれば猿が、地上に降りれば猪と鹿が、開けたところに出れば上空から野鳥が襲いくる。気の休む暇もない。

 厄介なのは、獣たちは互いを味方ではないが敵でもないと判断しているようだ。それぞれに連携を取ることはないものの邪魔をすることもない。完全に連携を取られるよりはましであるが、厄介なことに変わりはない。

 だが、それでも二人は犬神であり、狂える獣は所詮獣である。

 二人は霊波刀、狐火、幻覚、様々な手段を講じて襲撃を退け、山のふもと付近にまで辿りついていた。障害物のない開けた場所ならば、ただの獣が犬神の全速力に適うはずがない。

 ゴールが見えたとき、緊張がゆるんでしまうことはよくあることだ。大差をつけていた試合の終盤、逆転されてしまうことなど例として挙げるまでもない。

 ほとんど同時に、シロはタマモを見、タマモもシロを見た。

 前述したように緊張がゆるんでしまっているとしたら、敵地の中でそのようなことをすればどうなるかは、歴史が示すとおりである。

 

『ゴアアアアァァァァッ!!』

 

 獣の狩りの方法の一つ、待ち伏せがあった。

 二人が駆ける道筋、藪の中から不意に現れたのは見上げんばかりの巨体、山の覇者熊である。

 前を走るシロを叩き潰さんと剛腕を振るい、しかしそれは地面を叩きつけるだけに終わった。

 

『グゥルル?』

「今度は熊でござるか。えーと、こういうのはおーるすたー総出演とかいうのでござったか?」

「バカ言ってないで行くわよ、馬鹿犬!」

「バカと言うなでござる、犬と言うなでござる!」

 

 獲物を逃した熊が声をする方向を向けば、すでに山から脱した二人が一目散に駆け抜けていくところだった。

 シロもタマモも、油断など一切していなかった。何せ最後まで何があるかわからないということを、ここ数週間の横島との賭けで骨身に染みてわかっていたからだ。

 すでに二人の姿は熊の視界にはない。凄まじい速度で駆け抜けていったからというのもあるが、何より、

 

「あらー、珍しいもの見たわね。人狼と妖孤が一緒にいるなんて」

 

 新たな獲物が現れていたのだから。

 

 

 

 

新たな獲物はフードを被った人のように見えた。常人ならば熊と相対すれば脅えるなどの反応を示すのだろうが、それは狂乱する熊を前に自然体であった。

 

『グゥゥルアアアアッ!!』

「そんなに大きな声を出さなくてもいいわよ、熊ちゃん。聞こえてるから」

 

 熊は四つん這いの状態から獲物へ跳びかかる。横殴りに振るう腕が確かな手ごたえを伝えるが、それは肉のような柔らかいものではなく、樹木をへし折った固い感触だった。

 同時、熊の頭部が揺れる。熊にわかるわけもなかったが、攻撃を回避した獲物が顎に拳をくり出したのだった。

 人間ならば脳を揺らし、立っていることもできなかっただろうが、熊の頸椎は人間の非力な攻撃にはびくともしない。

 

『ガアアァァァッ』

「ちっ、やっぱり駄目ねっ」

 

 大きく口を開けて懐の獲物に齧り付く。しかし、熊の口内には何も入ることはなかった。

 

「一撃じゃあ」

 

 次の瞬間、ぱあんっと、破裂音がした。熊の巨駆が一瞬揺らぎ、さらに爪を振るう。

 

「っと、危ない」

 

 熊は四つん這いになる。いつの間にやら離れていた獲物までの距離を詰めるため、素早い獲物に逃げる暇を与えないよう、かわせぬ攻撃を与えるために。

 

「やっぱり獣相手に武術っていうのは効果が薄いのかしら。人間だったら立てるわけないのだろうけれど」

『グゥゥゥ』

 

 腕を振るっても噛みついても、獲物の速さにかなわないのならば自らの巨体で押し潰す。

 獣がそう考えたかはわからないが、力を溜める前傾姿勢で熊は眼前の獲物を睨みつける。都合よく獲物に動く気配はない。

 

「それでもあたしにはこれしかないのよね」

『ガアアァァァッ!!』

 

 溜めこんだ力を一気に吐き出す。今までの最高の速度で熊は獲物に突進する。

 

 

 

 

 

 太陽はすでに没しようとしていた。ただでさえ薄暗い一帯がさらに闇に沈んでいく。

倒れる樹木、踏み荒らされた藪、膝をつき荒く息を吐く一人の人間の姿も分け隔てなく。

 

「これだけやっても駄目なんてね……さすがに自信無くしちゃいそう」

 

 辺りはまるで小型の台風が居座っていたかのように荒れ果てていた。

太い幹が抉れた樹木、人一人が入れるほどの穴、散らばる羽毛や獣の毛。

しかしながら、それらの元である獣の姿はどこにもない。

 

「まさか、獣ごとき殺すことすらできないなんて」

 

 この場にあらゆる種類の動物がいた痕跡はあるものの、すべて逃げていったのか、その姿はない。

人影は身を起こして自嘲するように笑い、ぎゅっと拳を握り締める。地面に叩きつけようと拳を振り上げ、止める。

 

「……ふう、やめやめ。こんなのあたしのキャラじゃないわ」

 

 歩き、見上げる。頭上にあったはずの木々の屋根はなく、ぽっかりと空間がある。姿を消した太陽の代わりに、空には月が輝いていた。

 ふと、自らの体から漂う汗と埃の匂いに顔をしかめ、いつも体からこの匂いを漂わせていた少年のことを思い出す。

 

「そう言えば、あの子ったら後で連絡するなんて言ってたのに、音沙汰なしよね」

 

 月明かりに照らされたその顔は、いたずらを思いついたかのような、子供のような笑みが浮かんでいた。

 

「久しぶりに、会いに行きましょうか。弟弟子に」

 

 さらに歩く。山を背に、人里に向かって。

 彼に会うのに汗臭く、泥まみれではだめだ。身支度を整えなければ。頼み込めば風呂と一晩の宿を提供してくれるお人好しな一家があるかもしれない。

 と、歩みを止める。

 

「今どこにいるのかしらね?」

 

 その問いに答えられるものは、誰もいなかった。

 

 

 




事件の予兆と、ニューカマー(二重の意味で)の登場。いったいどこのどなたでしょうか?
次は21日に。
じゃあまた。
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