正しい言葉の殴り方。   作:猛進する四十三


オリジナル現代/ノンジャンル
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先輩と後輩のたわいもない話

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正しい言葉の殴り方。

「ねえねえ、先輩先輩!! 『早起きは三文の徳』の『三文』って現代価格で言えば『百円』だって知ってましたか!?」

 

 どうやら待ち合わせ時間という物は破るためにあるとでも思っているらしい我が後輩は、俺の顔を見つけた瞬間そんなことを口にしだした。

 

「私思ったんです!! つまりじゃあ、仮に一時間早起きしたとしても時給に換算したところで時給百円であり眠気覚ましの缶コーヒー一本も買えないわけです!! 果たしてそれは本当に得と言えるのかと!!」

 

 

「ヘイヘイ、脳味噌はぐれた後輩ちゃん。そんなことより何か忘れちゃいないかい? 俺の腐ったおつむがまだ発酵してなく記憶力が健全ならば遅刻してきたことに関する謝罪の言葉がまだのような気がするが? それとも何かい? この世界は君の腹時計を中心に回っているのかい? こいつは驚きだ、コペルニクスもそれを聞いたら耳を真っ赤にしながら地動説を取り下げ隠居するだろうよ」

 

 

「待っててくれてありがとうございます!! 先輩!!」

 

 

 話が通じないよりかは嫌味が通じない方が幾分か精神衛生上ましであるというのが俺の経験則である。

「しかしですよ先輩?」と話題をつなげる後輩の言葉に耳は自ずと傾く。

 

 

「だがしかしです先輩。そう考えれば、早起きするよりも堅実的に言えば二度寝をすることこそが賢い選択だと思いませんか? 三文というはした金であり不確かな取得よりも一時間という確実な睡眠欲を満たす方が人生満足度の指針は大幅に振れると思うのです」

 

 

「オーケー、オーケー。わかった。君が遅刻してきた理由が二度寝による寝過ごしだということは大いに理解した。だけどな、いいか? よく聞け後輩ちゃん。誠意っていうのは大事だ。とても大事だ。このままだと俺は君と待ち合わせをする時、君の家の前を待ち合わせ場所に指定しなければならないという愉快な状況になる。それは俺の人生満足度の指針としては非常によろしくないんだ。俺が何本のバスを見送ったのかを壮大なエピソードに添えて歌ってやろうか?」

 

 

 ――それはとっても愉快でハッピーですね。

 

 

 と悪びれずコロコロ笑う。

 その笑い声にたまらず苦笑いがにじみ出る。

 

 

 だがまあ、早起きが『徳ではなく得でもない』という考えについては賛成だ。

 

 

 

 

『早起きは三文の徳』

 

 

 

 

 江戸時代に横行していた事件から生まれた言葉。

 この時代に早起きするとあるものを見つけることができると言われていた。

 

 

 そのあるものというのが『人間の死体』。

 

 

 早起きすると道端に死体が転がっており、その仏を漁った際に懐から三文が出てきたことがこの「早起きは三文の徳」の由来とされている。

 ではその時代に横行していた事件とは何なのか?

 

 

 それこそが『辻斬り』のこと。

 

 

 武士が自身の腕を確かめるため、刀の切れ味を確かめるため、千人切りをすることで悪病を治せると信じた者が起こしていた事件。

 慶長七年に禁止令が出されるまで取り締まられることのなかったこの辻斬りが生み出した亡骸から取り上げた三文。

 

 その行為を『徳』と言い『得』という。

 

 

 現代においてその行為がただの悪徳であり悪得でしかないのは言うまでもない。

 

 

 

「――早起きした結果が死体を見つけた上にその懐に百円しか入ってないなんて現代ではどう転んでも不運でしかないと言うわけですね先輩!! つまり私は悪くはないとそう言いたいわけですよね!! 流石です先輩!!」

 

 

「ハハッ!! こいつは愉快だ!! まさかバス停の看板と話していた方がまだ建設的な話ができるんじゃないかと思う日が来るとは思わなかった!! 二度寝したのは仕方ない。寝過ごしたのもまあ許そう。だが俺が言いたいのはな、後輩ちゃん!! 遅刻したことに対する誠意がないんじゃないかって言ってんだよ!! 『sorry!!』ジュニアハイスクールでだって教えてる言葉だ!! よもや知らないとは言わないだろ!?」

 

 

「いやですねぇ、本当に日本人って時間に厳しくていやいやです。もっとおおらかに生きましょうよ」

 

 

 

 ――はい、先輩どうぞ。

 

 

 そう言って後輩ちゃんは自身の懐から取り出した物を俺に投げ渡してきた。

 渡されたものに視線を落とすとそれは缶コーヒーだった。

 

 

「早起きご苦労様です、先輩!! 三文の得ですね!!」

 

 

 満面の笑み。

 

 

「後輩ちゃん……」

 

 

 その言葉に合わせるようにバスが俺たちの前に停車する。

 

 

 

「俺……コーヒー飲めないんだけど」

 

 

 

 開かれたバスに乗り込もうとした後輩ちゃんにそう告げる。

 

 

 

「いやですねぇ、先輩……」

 

 

 

 

 振り返りながら悪戯な笑みをこぼした。

 

 

 

 

 

「知ってますよ、そのくらい」

 

 

 

 

 

 口元が歪む。

 この野郎……。

 

 

 

 

 

***

 

 

 

 

「ねえねえ、先輩先輩!! 二十歳未満の飲酒、喫煙が禁止されてる理由って知ってますか!?」

 

 

 バスで移動中での質問。

 

 

「それは日本国内の規則だろ? 後輩ちゃんの国では十八歳以下じゃなかったかい?」

「おやおや? 揚げ足取りですか? そんなことじゃ女の子にモテないですよ先輩? 因みに知ってました? 私女子なんですよ? 先輩ご存知でしたか?」

 

 

 ――知ってるよ。だが時々忘れそうになる、誰かさんのせいでね。

 

 

 と肩をすくめる。

 

 

「日本だけ年齢制限高いですよね。喫煙に関しては十六歳からOKな国もあるのに。まあ、それを言ったら飲酒喫煙の文化がない国もありますけど」

 

「いきなりどうした? 酒でも飲みたいし紫煙に憧れる年齢かい? 勝手に始める分には構わないが保険にだけはがっつり入っとけよ。ママが泣くぞ」

 

 

「いえいえ、ですのでなぜ国によってそんなバラつきがあるのかを疑問に思ったわけなんですよ。何かしら理由があるのかなと。確かあれですよね? 二十歳まで禁止な理由って子供の成長の妨げになるからなんですよね?」

 

 

 酒、煙草ともに依存性が強い嗜好品。

 日本人は本来肝臓の機能は世界的に見ても優れてはいない。

 

 むしろ人種としては弱い分類。

 だからこそアルコールの分解力が弱く、それを子供のころから常用すれば成長の過程でいらぬ阻害が発生しうるからに他ならない。

 

 よく言われる「酒を飲めば酒に強くなる」という言葉は間違いであり、肝臓のアルコール分解力は完全に遺伝に依存しているため抗体が後天的に備わることは絶対にありえない。 

 

 

 煙草の肺に及ぼす影響に関しても改めて説明する必要はないだろう。

 

 

 

「先輩先輩? だったらなぜ二十歳からの飲酒喫煙が『認可』されているのですか? 依存性も肺に及ぼす影響も成人したからといって付きまとう事には変わらないのにおかしな話じゃないですか?」

 

 

 

「あー、それはだな後輩ちゃん。日本の歴史に関することなんだが……。昔日本人が二十歳になったらやらされていたことがあるんだ……」

 

 

 

 ――それが『戦争』である。

 

 

 徴兵令。

 俗にいう『赤紙』が二十歳になると一家の長男以外無差別に届き戦争に駆り出されていた時代。

 

 

 つまり戦争に駆り出される年齢まで「健康体」でいてもらうために取り決められた規則。

 それが「二十歳未満の飲酒喫煙の禁止」。

 

 戦争に出ればいつ死ぬか生きて帰ってこれるかなんて、そんな保証は誰もしてくれない。

 二十歳から飲酒喫煙が解禁される理由は『いつ死ぬかわからないんだから健康に気を使っても意味がないだろ?』という所からきている。

 

 

 エゴの塊。

 

 

 現代はその規則が形骸化し二十歳未満の飲酒喫煙の禁止のみが続いているに過ぎない。

 

 

「鬼の首を取ったように『未成年飲酒だ!!』『喫煙だ!!』っていうのを見てると何とも溝川に落とした札束でショッピングをさせられているような気分になる」

 

 

 

「ほう。先輩は未成年飲酒喫煙肯定派ですか」

 

 

「俺自身はする気はないよ。ただ他人には寛容なだけさ。他人がずぶぬれのお札で買い物をしていても雨に降られたんだなと思うようにしているだけだ、何も間違ってないだろ?」

 

 

 不意にバスのアナウンスが最寄りの停車地の名を告げる。

 

 

「確かに至言ですね。じゃあ、先輩。私がずぶぬれのお札で買い物しようと誘っても一緒に行ってくれないんですか?」

 

 

 座席から立ち上がりながら後輩ちゃんの顔を見る。

 

 

「なんだ、本当にやるのか?」

 

 

 ――例え話ですよ。

 

 

 と笑う。

 

 

「うーん。そうだな、一緒にショッピングはありえないな……だがまあ」

 

 

 そう言葉をつなげる。

 

 

 

 ――札束が乾ききったころならいくらでも付き合うよ。

 

 

 

 

 その言葉にまたしても面白そうにケタケタ笑う。

 

 

 

「先輩って相変わらずアメリカンジョークのセンスいまいちですよね」

 

 

 

 

 

 ――ほっといてくれ。

 

 

 

 

 そう言葉には出さずそっぽを向いた。

 

 

 

 

 

***

 

 

 

「ねえねえ、先輩先輩!! 『パンがなければケーキを食べればいいじゃない』って言ったの誰か知ってますか?」

 

 

 

「そういえばうちの愛犬のマリーが昨日そんなこと言ってたな」

 

 

 

 お昼時。

 俺と後輩ちゃんはお互い弁当を広げながらそんな雑談を始めた。

 

 

 

「先輩ダメじゃないですか犬にパンやケーキを与えちゃ!! メッですよ!! メッ!!」

 

 

 

「……」

 

 

 突っ込むところはそこではないはず。

 そんな俺の内心など知る由もなく後輩ちゃんは「暇ですねぇ……」と言葉を溢す。

 

 

「私日本に来てから思ったことがあるんですけどこの言葉を和風にすると『御飯がなければお餅を食べればいいじゃない』になると思うんですよ。この田舎のオカン感凄くないですか?」

 

 

「ライスケーキだけに?」

 

 

「はい。ライスケーキだけに」

 

 

 

 ただのダジャレである。

 

 

 

「俺のセンスもたいがいだが君もダジャレに関しては人のことを言えないんじゃないか?」

 

 

「いけませんねぇ先輩。可愛い後輩が可愛いこと言ってるんですから笑わなきゃ。さあ先輩『後輩ちゃん可愛いぃ♡』って言ってください!! さあ!! それだけで世界はみんなハッピーですよ!!」

 

 

 ニコッと零れるような笑みに「そんなお花畑な世界の住人になるのはまっぴらごめんだ」と取り付く島ない嘲笑を返す。

 

 

 

『パンがなければケーキを食べればいいじゃない』

 

 

 

 有名な言葉。

 名言と銘打つには些か独善的すぎることで有名。

 

 

 貧困に窮しパンすら食べることのできない市民に言い放ったとされるお花畑の思考で知られる人物。

 

 

 

『マリー・アントワネット』

 

 

 

 彼女の言葉。

 

 

「口は禍の元と言いますがマリーさんも余計なこと言わなければ後世にここまで語り継がれることもなかったと思うんですけどね。怖いものです。先輩も気を付けてくださいね。ただでさえ減らず口の多い無神経なノータリンなんですから。ホント情けなくて情けがないとは先輩のためにあるような言葉ですよね。人でなし先輩マジゴイスー」

 

 

「ははっ!! マリー・アントワネットが最後に斬首されたことはあまりにも有名だが、日本昔話ではお喋り雀は舌を切られるそうだ!! だとしたら口数の多い小娘(チキータ)は一体何を切られるんだろうな!? ああ、楽しみだ!! 楽しみすぎて今夜は眠れそうにないよ!!」

 

 

 

「えー。知らないんですか先輩? 口数の多い嫌われ者の女の子はですねぇ……」

 

 

 

 

 ――『縁』を切られるんですよぉ。

 

 

 

 

「そして髪を切るんです、こんな風に」

 

 

 

 そう己の髪を弄ばせ。

 明るい言葉でニコリと変わらず笑う。

 自身の表情筋が強張ったのが嫌でも感じた。

 

 

 

「ああ……悪かった、今のは失言だ。謝るよ」

 

 

 

 心の底からの本心。

 全く持って後輩ちゃんの言う通り、俺は減らず口の多い無神経のノータリン。

 口は禍の元。

 言い訳のしようもない。

 

 

 そんな苦虫を噛み潰したような表情をしているであろう俺を見た後輩ちゃんはクスクスと「失礼ムッシュ、わざとではありませんのよ」と笑う。

 

 

「しかし、本当に先輩はダメダメですねぇ。ホント、ゴミゴミです」

 

 

「ああうるさい。ほっといてくれ。これでも自分の無神経さに嫌気がさして傷ついてるんだ」

 

 心情を誤魔化すように音が出らんばかりに乱雑に頭を掻く。

 

 

 

「何言ってるんですか先輩。こういう時こそ先輩のクソの役にも立たない無駄知識の出番じゃないですか」

 

 

 そんな催促。

 

 

「ああそうかい、クソ……」

 

 

 一言悪態の言葉を漏らす。 

 

 

「じゃあ『パンがなければケーキを食べればいいじゃない』。この『ケーキ』が何を指してマリー・アントワネットが言ったのか知ってるか?」

 

 

 マリー・アントワネットの言ったケーキ。

 これは小麦粉、バター、水で作ることのできる簡易的な食べ物。

 

 

 

 ――『クロワッサン』のことである。

 

 

 

 マリー・アントワネットは「パンがなければクロワッサンを作ればいい」と言っていた。

 事実、クロワッサンの製法はアントワネットがオーストリアからフランスに嫁いだ際に伝えらたという史実が存在する。

 

 さらにこのセリフは、市民に向けたものではなくワインを飲む際に「パンがなくてワインが飲めるか」と駄々をこねた貴族客人に対し「そんなにパンが食べたいのでしたらクロワッサンでも作って食べたらどうですか?」と言ったことが始まり。

 

 一般的に知れ渡っているアントワネット像はその言葉を聞いた貴族が彼女を妬み捏造され作りだされた虚像。

 

 

 実際に残された文献には彼女は恵まれない者には宮殿内でカンパを募り分け与え、譲り受けた土地では家畜を育て、自身の子供にはおもちゃ一つ与えない厳格な母親だったと残されている。

 

 

『彼女の容姿はお世辞にも綺麗だとは言えない。だが私は彼女以上に美しい女性を見たことがない』

 

 

 彼女を言い表す文面としてこの言葉が多く見つかっている。

 仮に本当に彼女が世間一般的に知られているような人物だったのだとしたら果たしてこのような評価の仕方をされるだろうか?

 

 

『いいえ、何もいりません。すべて終わりました』

 

 

 処刑前夜。

 最後の晩餐に「何を食べたい?」と聞かれた際にアントワネットが返した言葉。

 こう残した彼女は傍若無人な人物だったのであろうか?

 

 

 処刑執行人サンソンの足を踏んだ際に残したもう一つの有名な言葉。

 

 

 

「――は別に言わなくてもいいだろ?」

 

 

「……zzz」

 

 

 

 寝たふりをかます後輩ちゃん。

 

 

 

「……へい、後輩ちゃん」

 

「……っは!? ね、寝てません!! 私きちんと聞いてましたよ先輩!! なんでしたっけ!? 『罪人にとって罰は恥だが冤罪人にとって罰は恥じることのないこと』でしたっけ!?」

 

 

「聞いてねえじゃねか!! 誰もアントワネットが妹に送った手紙についての話なんかしてねぇよ!! 何だこの野郎!! かっこいい先輩がかっこいいこと言ってんだから『先輩かっこいい!!』とか言えよ!! それで世界はみんなハッピーなんだろうが!!」

 

 

 ――ウハッwww 先輩どんだけ頭お花畑なんですか、マジで憧れるッスwww

 

 

 そう俺を指さしながらゲラゲラ笑い出す後輩ちゃん。

 

 

「ああクソ、一人で感傷に浸ってアホらしい。もう知らん、勝手にしてくれ」

 

 

 そう投げやりのセリフを言いながら目の前の弁当を片付ける。

 

 

「はい!! 勝手にします!!」

 

 

 同じく後輩ちゃんも片付け始める。

 

 

 

 

「……」

 

 

 

 

 

 お互い何も言葉を発しない空間。 

 

 

 

「ねえ、先輩……」

 

 

 

 先にその静寂を破ったのは後輩ちゃん。

 

 

「何だ……?」

 

 

 頬杖を突き空を眺める横顔にそう返す。

 

 

 

「暇ですねぇ……」

 

 

 

 その視線の先を追うように俺も空を望み頬杖を突く。

 

 

 

「ああ、そうだな……」

 

 

 

 

 

 

***

 

 

 

 

 

 ――ギャップ萌え。

 

 

 

 

 の正式名称が何なのか。

 最初に話したことと言えば確かそんなことだったのではないかと記憶している。

 

 

『はぁ? なんですか、いきなり? っていうかあなた誰ですか?』

 

 

 人に好印象を与える際、最初からプラスの印象を与えるのではなくマイナスの印象を与えてからプラスの印象を与えた方がより良い印象を残せるテクニック。

 

 

 現代の聞きなれた言葉で表現するのならばやはりギャップ萌えが一番近い。

 

 

『気やすく話しかけないでください。今虫の居所が悪いんです。そんなギャップ萌えがどうとかどうでもいいんで早急に私の目の前から消えてください。目障りです』

 

 

 他に例を挙げるのならば、ツンデレ、クーデレもこの分類にあたるのだろう。

 

 

『さっきから何なんですか!! 鬱陶しいですねぇ!! しかもなんですかその出来の悪いアメリカン口調な喋り方!! 私に対する当てつけですか!! 正式名称がゲイン・ロス効果だろうがゲロイン効果だろうがどうだっていいんですよ!! どっかいってくださいよ……!!』

 

 

 

 次会った時に話したのは確か四月一日の読み方についてだった。

 

 

 

『……またあなたですか』

 

 

 

 四月一日。

 読み方は「わたぬき」。

 

 その読み方の由来。

 

 

『どうだっていいじゃないですか、別に。知ったからって何になるんですかそんなの……』

 

 

 日本には春夏秋冬が存在する。

 

 三月三十一日は冬。

 四月一日は春。

 季節の変わり目に昔から行われ現代でも残っている風習。

 

 

 衣替え。

 

 

 冬から春に移り変われば季候は暖かくなる。

 衣替えの際昔は衣類から綿を抜いたり入れたりすることで温度調節することが普通だった。 

 ならば、春になる際の衣替えはと言えば……。

 

 

『――綿を抜く。その綿を抜く日が四月一日だから”わたぬき”ですか……。ほら、やっぱりどうでもいいことじゃないですか。本当、くっだらない』

 

 

 

 また別の日。

 確かその日は「リマ症候群」の話をしようと思っていた日だったような気がする。

 

 

 

 ストックホルムの銀行で起きた立て籠り事件がその由来となった有名な名称。

 

 ストックホルム症候群。

 被害者が加害者によりかかる。

 その逆の現象。

 

 

 ――リマ症候群。

 

 

 その事件の背景を話そうと思っていたはず。

 

 

『……今日、物知りだねと言われました』

 

 

 ペルーのリマで起きたテロリストによる大使公邸占領事件に因んで名づけられたリマ症候群。

 六百名以上を人質にして立てこもりをしたテロリストたちが起こした事件。

 しかし、そのテロリストたちは数時間もしないうちに人質二百名以上を解放した。

 そして、強制突入され射殺されるまで人質に一切危害を加えていなかったという。

 

 人質たちは彼らテロリストたちのことを後にこう語る。

 

 

『私たちは監禁されている間彼らに勉強を教えていた』

『彼らはとても真面目に私たちの話を聞いていた。本当に子どものように目を輝かせて』

『彼らは勉強が嫌いではなかった、勉強できる環境で育ってこなかっただけだ』

 

 

『彼らは知る機会がなかっただけなんだ』

 

 

 加害者が被害者によりかかる現象。

 それが『リマ症候群』。

 

 

『あなたが色々話してくれたムダ知識の一つがたまたま偶然役に立ちました……。いや、まあ本当にそれだけなんですけど』

 

 

 無知は恥ではない。

 無知を受け入れることができないことこそが恥だ。

 

 

『ゲイン・ロス効果……でしたっけ? 多分、今そんな感じになってます』

 

 

 リマ症候群。

 ストックホルム症候群よりも個人的にはこちらの方が広まるべきではないかと思っている。

 

 

『まあ、あれです。ありがとうございました……』

 

 

 その言葉が妙に照れ臭く感じ、結局リマ症候群に関して何も話せず仕舞いだったように気がする。

 

 

 

「遅い!! 遅いですよ先輩!! 一体どんだけこの私を待たせるつもりですかぁ!! 万死に値しますよ!! 万死!! シャァァァ!!」

 

 

 そんな威嚇音を出しどうやら俺のことを出待ちしていたらしい我が後輩。

 

 

「この野郎ぉ……。今朝散々人を待たせたくせして人のことは責めるとかどんな神経してんだ。ママからよく『お腹に頭のネジ忘れてるわよ』とか言われてるんじゃないか!? なんなら今度聞いといてやろうか!?」

 

「知らないんですかぁ? 今の時代は何でも軽量化される時代なんですよ? いらないネジを取っ払った最新式の軽量型後輩です!! 私軽い女ですよ先輩!!」

 

 

 

 ――自分で言ってちゃ世話ねえな。

 

 

 

 そう呆れる。

 

 

 

「さあ帰りましょう先輩!!」

 

 

 

 言葉なんてきっかけに過ぎない。

 きっかけなんてなんだっていい。

 

 後輩ちゃんに起きたことも一種のリマ症候群なのだろう。

 そのきっかけが偶然俺の戯言だった、ただそれだけの話。

 

 

 それ以上でもそれ以下でもない。

 

 

「ねえねえ、先輩先輩!!」

 

 

「何だよ」

 

 

 

 ――『リマ症候群』って知ってますか!?

 

 

 

 その言葉に乾いた笑いが漏れ出る。

 

 

『オー、ジーザス。今日はなんて日だ!!』

 

 

 そう叫びたい衝動に駆られる。

 羞恥心よ、邪魔してくれるな。

 

 

 そう心の中で十字を切ってイエスに答えよう。

 

 

 

 

 

「――知らん」

 

 

 

 

***

 

 

「ねえねえ、先輩先輩!! 『おふくろの味』って何ですか?」

 

 

「……そりゃ、おふくろによって違うだろよ」

 

 

 俺の家の台所で唐突にそう口にする後輩ちゃん。

 

 

「あれあれ? 先輩にしては張り合いのない返事ですね? どうしたんですか? いつもなら『hahaha!! ママの味だって? そんなことも知らないなんて驚きだ!! 決まってるじゃないかベイビー!! あれだよ、あれ!! えーと……。南無三!!』って言いながら窓ガラスぶち抜いて飛び出していくのに……。風邪ですか?」

 

 

「ああ、不治の病級のやつだ。もう一生そんなワイルドを履き違えた姿をお見せできそうにない。非常に残念でしかたないよ」

 

 

 ただ一言言えるのは、それがデフォルトならば窓ガラスがいくつあっても足りないという事だろう。

 

 

「まあ、日本の一般的認識で言えばおふくろの味と言えば『肉じゃが』だろうな」

 

 

「はい、肉じゃがいただきましたぁ!! 先輩ならそう言ってくれると思ってました!! ざまぁみろ!!」

 

 

 なにが?

 

 

 妙なハイテンションぶりな後輩を訝しみつつそんな疑問符を頭に浮かべる。

 台所に並ぶ食材に目を向ける。

 

 牛肉、ニンジン、ジャガイモ、玉ねぎ。

 そしてコンロにセットされた鍋。

 

 

 ここまで見れば誰だって「ああ……」と納得するだろう。

 

 

 

「ここで先輩に問題です!! 肉じゃがを最初に作らせたのはどこの誰でしょうか!? 一体どこぞのおふくろなんでしょうか!? シンキングタイムは私が料理を作り終えるまで!! よーいスタート!!」

 

 

 

 

「……『東郷平八郎』だろ?」

 

 

 

「あああああ!! 何も聞こえないぃぃぃぃぃ!! 後輩ちゃんはアメリカ語しかわからないので先輩がなんて言ってるのかわからないぃぃぃ!!」

 

 

 日露戦争の際ロシアの軍艦を打ち破った軍神。

 東郷平八郎。

 

 彼が最初に肉じゃがを作らせた人物である。

 

 

 だがしかし、「肉じゃがを作らせた」という言い方は正しくない。

 正確に言えば、彼の我儘を実現させようとした結果肉じゃがができたに過ぎない。

 

 

 ではその我儘とは一体何だったのか?

 それが『ビーフシチュー』である。

 

 

「イギリスに留学していた東郷平八郎がそこで食べたビーフシチューを気に入って日本に帰った後、日本の料理人にビーフシチューを作らせようとしたのが始まりだな」

 

 

 だが日本の料理人はイギリスに行ったことなどない。

 当然、ビーフシチューなんて見たこともなければ聞いたこともない。

 ましてや食べたことなんてあるはずもない。

 

 そんな未知の料理を作れと言われて作れるはずもない。

 ではどうするのか。

 

 どうしようもないので東郷氏の記憶を頼りにそれらしいものを作るしかなかった。

 

 牛肉が入ってた、ニンジンもそれから玉ねぎとジャガイモも。

 ああ、色は黒っぽかった。黒いというより茶色だな。

 緑の豆も入ってたような気がする。

 味は甘辛くうまかった。

 

 そんな情報をつなぎ合わせ形にしようとする。

 

 しかし、デミグラスソースなどがあるはずもない日本。

 調味料と言えば「さしすせそ」が基本。

 

 

 そんなもので味を再現できるはずもなく結果出来上がったのがビーフシチューとは似て非なるもの。

 

 

『肉じゃが』である。

 

 

「グリンピースが入ってたりするのもその名残。そう考えると大の大人の我儘が現代で『おふくろの味』と言われるまでメジャーになってるんだから何気に凄いよな」

 

 

「ぶー。つまらないですね。もう少し位悩んでるふりでもして付き合ってくれてもいいじゃないですか」

 

 

 ――正解した先輩には味の決定権を差し上げます。

 

 

 そう口をとんがらせる。

 

 

「決定権? 肉じゃが作ってるんじゃないの?」

 

 

「別にどっちでもいいですよ。肉じゃがでもビーフシチューでも。和風だし入れるかビーフシチューのルーを入れるかの違いだけですし」

 

 

 東郷平八郎と料理人がその言葉を聞いたら一体どう思うのだろうか。

 そんなどうでもいいことをふと考えた。

 

 

「便利な世の中になったもんだなぁ」

 

 

 うんうんと首を振る後輩ちゃん。

 

 

「全くですね」

 

 

 

 

***

 

 

 空は暗く、月は明るく、空気は冷たい。

 人工的な明かりが道を照らし、澄んだ声が大気を揺らす。

 彼女は呟く。

 

 

 

「……『彼氏彼女の関係』ってなんなんですかね?」

 

 

 

 俺が「独り言か?」と問えば「独り言です」と返ってくる。

 ならばその疑問符は一体誰に向けて発しているのか俺にはわからない。

 

 いや、わからないわけがない。 

 ただ彼女が独り言というならそれはやはり独り言に他ならない。

 

 

「例えば『許嫁』ってあるじゃないですか? 既に自他ともに認められ結婚が約束された二人ってやつです。その男女を指して『彼氏』『彼女』とは誰も言わないと思うんです」

 

 

 ――その言葉は正しくないと思うんです。

 

 

 そう溢す。

 

 

 それは恋人でなければ。

 または愛人でもなければ。

 はたまた友人ですらない。

 

 

 その二人の関係を言い表すのならばそれはやはり「許嫁」以外にない。

 

 

 鼻を赤くした彼女の口から白い息が漏れ出る。

 

 

 

「……最近よく聞かれます。『付き合ってるんですか?』って『よく一緒にいるのは彼氏さんですか?』って。頻繁に言われるんですよねぇ」

 

 

 

 俺が「……独り言なんだろ?」と問えば「独り言です」と返る。

 

 

 

「なんていうかよくわからないんですよね。その『彼氏彼女の関係』ってやつが。別にそういう関係になりたいのかと聞かれても特に魅力は感じないですし。じゃあ、今の関係がなくなってもいいのかと聞かれたらそれはそれで嫌だとは思いますし。でもそこに当てはめる言葉が『彼氏彼女なの?』って考えるとやっぱりなんか違うなって思っちゃうんです」

 

 

 

 ――気が付いたらいつの間にか談笑すようになってたんですよね。

 

 

 

 そう言って数えるように指を折り曲げていく。

 

 

「気が付いたら同じバスに乗るようになってて、また気が付いたら朝待ち合わせするようになってて、お昼ご飯も一緒に食べるようになって……」

 

 

 一緒に帰るために待つようになって。

 勝手に家に遊びに行くようになって、ついでにご飯も一緒に食べるようになって。

 仕方なく家に送っていくこともいつの間にか当たり前になってて。

 

 

 そして……。 

 

 

「――そしてまた気が付いた時にはいつの間にか一緒に生活とかしちゃってたりするんだろうなぁって、最近そう思うんです」 

 

 

 己の体をほぐすように伸びをする彼女の背中。

 その後姿から見える日本人にはない独特な色の自前の髪が動きに合わせて可憐になびく。

 

 

「……私たちの関係って何なんですかね?」 

 

 

 表情の見えないその言葉はあまりにも透明だった。

 透明なのにもかかわらずひどく熱を帯びたその言葉は凍える空気をゆっくり溶かしているような錯覚さえ覚える。

 

 

 

 

「独り言じゃなかったのか……?」

 

 

 

 

 体ごと振り返るその可憐な声は俺の鼓膜を殴る。

 

 

 

 

 

 

 

 ――あなたに聞いてるんですよ、先輩。

 

 

 

 

 

 

 

 

 そう、笑う後輩の顔はあまりにも美しく儚げで触れれば崩れてしまうのではないかと思わされるほど泡沫そのもの。

 

 

 

「……そうか」

 

 

 

 俺と彼女の関係。

 

 

 それは探そうと思えばいくらでもそれらしい言葉はあるのだろう。

 

 

 幾多数多の『人種』『歴史』『物語』『文化』『風習』が入り混じるこの浮世に言葉が生まれた時点できっと俺たちの関係を表す言葉は存在している。

 

 

 だがどれだけ正しい言葉であろうときっとそれは答えとしては間違っていると。

 不十分なのだと、そう思う。

 

 

 

 

「――私、知ってますよ。先輩が口数少ない時は『照れてる』時だってことくらい。すみません、こんなこと聞かれてもそりゃ返答に困りますよね。忘れてください。いつもの減らず口の多い先輩でいてくれると私もうれしいので」

 

 

 

 言葉とは何て不十分なのだろう。

 時代が変われば価値観が変わり、意思が挟まれば印象が変わり、無意味と思えば意味があり、万能かと思えばあまりにも無力。

 

 

 言葉は無力だ。

 

 

「『先輩と後輩』……だろ。俺たちの関係は……」

 

 

「そうですね。先輩は先輩で私は先輩の後輩です。それ以上でもそれ以下でもない関係です。それが答えだと思います」

 

 

 

 ――だからこの話はもう終わりです!!

 

 

 

 そう月夜の空に大声を馳せる。

 

 

 

「ねえねえ、先輩先輩!!」 

 

 

 

 ――私、先輩のこと大好きではないです!!

 

 

 

「先輩はどうですか?」と問いかけるそんな言葉。

 その言葉についつい口元が緩んでしまう。

 

 

 

「ああ、奇遇だな。俺も後輩ちゃんのこと、大好きではないな」

 

 

 

 

 ――少なくとも『今は』。

 

 

 

 言葉は不完全だ。

 

 

 

 だがきっと気が付けばその不完全はいつの日か形になっている。

 いつの日かふと気が付いたその時。

 

 

「先輩と後輩」ではなくなったその時。

 

 

 俺達にはなんという『言葉』が当てはまるのだろうか。

 

 

 

 

 

 後輩ちゃんは笑う。

 

 

 

「ねえねえ、先輩先輩!! 『結婚してから離婚するまでかかった時間が世界で一番短かった記録』が何時間だったか知ってますか!?」

 

 

 

 

 いつも通りの我が後輩。

 このタイミングでそんな質問をすることもまた彼女らしいと言えば彼女らしい……。

 

 

 呆れながらも堪らずそう笑う。

 

 

 

 

 言葉にしよう。

 人と人の縁を繋ぐのもまた『言葉』なのだから。

 

 海を渡ってきた彼女と今後もこんなくだらないやり取りが続くように。

 形になるまで出来の悪いアメリカンジョークでも挟みながら……。

 

 

 

 俺たちらしく。

 ほどほどに。

 

 

 

 

 

 

 

 

「――『15分』だ、アミーゴ」

 

 

 

 

 

 

―fin―

 



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