廊下で自らの服の裾を踏んづけ、危うく倒れそうになるところで、戒莉は脇の柱にしがみついて難を逃れた。
ほっと息をつき、前を向くと、視線の先には少女がふたり、顔を見合わせてクスクスと笑いながら走り去っていった。
なんでこんな目に……と思わずにいられない。
この沈翠楼で一番の娼妓は、柏梨という。戒莉のふらついた姿を侮るように笑ったのは、この柏梨の妹分の半花だった。
「なにやってるのよ」
戒莉の背後で、不機嫌そうな、やはり少女の声が響いた。
「……」
何をしていたかって、つまずいて転びそうになったのだ。これは不可抗力だと、言いたいところだが、戒莉は答えることはできない。
戒莉は、沈翠楼では口がきけない娘とされているのだ。見た目が美女風に飾られている分、戒莉の低くかすれた声は、不気味だ。何より男ということを、誤魔化しようがない。ならばと、ということで決まったのが『口がきけない』という設定なのだ。
「あんな子たちに、笑われるようなことはしないでちょうだい。あなたが付いている籐香姐さまが笑われるに等しいことなのよ」
少女は、戒莉が言い返せないことをいいことに、ずけずけと言う。
少女は、彩香という。籐香の身の回りの世話をしながら、娼妓となるべくいろいろと学んでいる花冠で、年は十三だという。
戒莉のあまりにも役立たずっぷりと、身のこなしのがさつさに、なにかれと口を出してくる娘だった。はじめ、それは怒りから来ているだけのように見えたが、徐々に自分をかばって、なんとかしてやろうという心のあらわれであることが、戒莉にも分かってきた。
口は悪いが、心根の優しい、世話焼きの娘なのだ。と、戒莉は思うことにしていた。
「聞いてるの?」
苛立ちが、その声に現れている。
戒莉は慌てて笑をつくり、頷いてみせた。
「全く、もう」
彩香は、戒莉の態度に納得はしていない様子で、その後みっちりと裾さばきの特訓を戒莉に課した。
「あなたは、本当は付人ではないんでしょう」
彩香がそう言い出したのは、彼女がその特訓に匙を投げかけた時のことだった。
こんな姿でも、自分が杖身であることがにじみ出てでもいるのだろうか。戒莉はふと可笑しくなった。
「みんな知ってることだわ。戒莉みたいな綺麗な娘を、ただ付人になんておかしいもの。でも、沈翠楼ですぐ見世に出す訳にはいかなかった訳よね。歩くこともまともに出来ないんじゃあね」
なるほど、戒莉は苦笑いをした。
「喋れないだけでもかなり不利だけど、それより問題なのはそのがさつさよ」
気もきかないしね。と、彩香は溜息を落とした。
確かにと、戒莉は思わずうなづいていた。
それが、またお気に召さなかったらしい。彩香は、特訓を再開した。
「はやく見世に出られるようにしなさいよ。花娘が花でいられる時間は短いんだから」
その言葉の意味を、彩香は本当に知っているのだろうか。
戒莉は、彩香の小さな顔をまじまじと見た。
彩香は、その視線になぜか頬を染め、顔を背けた。
「ここに居るってことは、そういうことなのよ」
本当に分かっているのだろう。戒莉は、自分の認識の甘さに嫌気がさした。