その夜、たった一人の客を迎え入れただけで、沈翠楼の門は閉められた。
ひとりの男が、その妓楼の一夜を買い占めることを総会、総買いと言うのだそうだ。
沈翠楼では、その娼妓の寝所へ行く前に座敷で宴を持つのが習いだ。その宴は、座敷と呼ばれる。だいたい、その娼妓と数人の朋輩が歌や舞などを披露する。
籐香の座敷では、籐香の取り巻きがそこにずらりと座すことになっている。付人もはじめは同様にその列に加わるが、たいていはその宴を滞りなく進めていくための裏働きにまわる。
籐香の座敷に、柏梨の取り巻きが出張ることはない。まして、柏梨自身が並ぶことなどありえない。それは、逆の場合も同様だ。
今夜の客は、柏梨の馴染み客だ。いつもであれば、籐香たちにお呼びはかからない。だが、総買いの夜は、沈翠楼の娼妓全員が大広間に一堂に会する決まりだ。籐香も座敷に出ない訳にはいかない。
彩香などは、あまり気乗りしていない様子だ。なにしろ、客は柏梨の馴染みなのだ。なにかにつけて、こちら側は下手に廻る。
それでも、いや、それだからこそ、今夜の衣装の気合の入れ方が違う。
戒莉は付人であるので、それほど華やかというわけでもなかったが、ものは無意味なほど良かった。
この夜、宴を前にちょっとした事件があった。
柏梨と籐香が、大広間へ向かう途中の廊下で鉢合わせとなったのだ。
北にある大広間に対して、柏梨が西側に面した部屋を持っており、籐香の部屋は東にあった。
西からと東からの廊下が、ある地点で大広間へつながる一本のものとなる。ちょうどそこで、ふたつの道中が出くわしてしまったのだ。
先ず、ぶつかったのはそれぞれの男衆だった。こちらが先だ、そちらが下がれの口争いから、小競り合いとなり、どちらからか手が出た。あとはもう、取っ組み合い、殴りあいの争いへと雪崩れ込んだ。
怒号や悲鳴が辺りに響き、それぞれの取り巻き娼妓や半花、花冠までが入り乱れての大騒ぎとなった。
あっと言う間の出来事に、籐香は困惑した。
「皆、およしなさい。梅林、皆を止めてちょうだい」
だが、事態は付人ふぜいに収拾できるような状況ではなくなっていた。
「いったん部屋に戻った方がいい」
戒莉は、籐香にだけ聞こえるように耳元でそう言った。
籐香は、困ったような顔をしていたが、首を振った。
「そうはいかないの」
蓮台としては、引けないのだと、籐香は言う。
こんなときばかりは、蓮台としての意識が顔を出すのかと、戒莉は妙に感心した。
―― 柏梨か……
ならばと、戒莉は籐香の前に立った。
案の定、血気盛んな柏梨の男衆のひとりが、どうやらこうやら皆を押し分け、こちらに到達しようとしている。男の拳は、無礼に籐香の方に突き出された。
戒莉は、いきなり男の腕を掴んで、ねじりあげた。
「ぐわっ」
男は奇妙な声をあげて、床に転がった。
それほど強くは締め上げていない。骨は折れていないはずだ。戒莉は、男に一瞥もくれず、次を見据えた。
だが、こちらに向かって来る者はなく、その代わりに戒莉の方に一斉に皆の視線が集まっていた。
不思議なものを見るような目で、戒莉と床に転がった男を交互にいったりきたりする視線。
転がっている柏梨の男衆ですら、呆然と戒莉を見上げている。
「控えなさい!」
声が、向こう側から響いてきた。
よく通る、力のある声だ。
戒莉は、その声の主に視線を飛ばした。
その名のとおり、梨の花のように美しい女だ。
「そちらも、引いてくださるわね」
柏梨は、こちらに微笑みかけた。
おそらく、その微笑は籐香に向けられたものだったろうが、戒莉はそれをまともに食らってしまったような印象を受けた。
なにやら、事態は収拾した。
落ちません。