その男、何者なのか、実は知らない。
だが、その字は知っている。そしてその顔もよく見知ったものだ。
その夜、沈翠楼を買い占めた男は、右に柏梨を、そして左に籐香をはべらせ、満たされた杯を一気にあおっていた。
実に上機嫌。
大広間には、沈翠楼の娼妓がずらりと並んでいる。皆、この日の為に仕立てた衣装に身を飾り、まばゆいばかりだ。
戒莉は客や籐香からは、少し離れたところに座している。今夜は、柏梨の座敷になるので、籐香の付人である戒莉たちの仕事はあまりない。ただ籐香の面倒だけみていれば良いのだ。したがって、気働きのできない戒莉は、隅に追いやられてしまった。
戒莉は、半ば睨むように男を凝視していた。
この男は何者なのか。そんなことばかりをつい考えてしまう。
柏梨はキレイな笑顔で、男をもてなしている。柏梨は、しっとりとした色香で男を心地よく酔わせていく。かゆいところまで手が届くといったところ。
籐香はどちらかというと、客に甘えるタイプ。そうして男は、気分がよくなっていくという寸法だ。だが、今夜の籐香は、そもそもが自分の客ではないので、あまりそのような持て成し方はしない。ただ、大人しく微笑んで、でしゃばらぬ程度に酌をする。
「そこの」
男は、ふいに戒莉を指差した。
戒莉は、驚いた顔をして頭を下げてみた。睨みすぎたのかもしれない。
今度は、娼妓全員の視線が痛い。
「こちらへ」
男は、手招きなどしている。
戒莉は拒否したいところだったが、仕方もなく男の近くへ進んでいった。
柏梨は、ちらりと嫌な顔をした。籐香は、少し困ったような顔をしていた。
「もっと近くへ」
両手など広げて、待ち構えないで欲しい。戒莉は、男の様子にますます気が重くなった。
やや距離を置いたところで、戒莉は立ち止まり、彩香に仕込まれたとおりの上品なおじぎをしてみせた。
だが、男はそれで満足などしなかった。
「それでは顔が見えないだろう」
男は、ふらりと立ち上がると、戒莉にずかずかと近寄った。せっかくとった距離が、縮まってしまう。
不躾な手が戒莉の顎に添えられ、ぐっと顔を上げさせられる。
戒莉は、腹立ちまぎれに微笑ってやった。
優し気ではない。珊揮に言わせると、極上で極悪の微笑みだ。
「ほう」
男は、心底嬉しそうに笑った。
「今夜は、お前にしよう」
広間の空気が波立った。
皆、言葉にならぬ声を発し、それが広がっているのだ。
「お許しください。その者は私の付人です。花ではありません」
悲鳴のような言葉が響いた。
籐香だ。
「それは異なことを」
男はゆっくりと、籐香を振り仰いだ。
「総会の夜は、沈翠楼のすべての女が花となる。そういう決まりと聞いたがね」
「それは……」
―― 女ならば……
籐香はその言葉を飲み込みながら、視線を柏梨へと向けた。
この事態を、なんとか出来るのは、自分ではない。この男の馴染みの娼妓である柏梨しかいない。柏梨は蓮台としての誇りを重んじる女だ。その柏梨が目の前で、自分以外の女が夜伽を命じられるのを、易々と受け容れるはずがない。
籐香は、柏梨に目ですがった。
籐香の懇願を払いのけ、柏梨はするりと立ち上がった。
「お戯れが過ぎましょう」
柏梨は、優しげな声音で男の元へと進んだ。
「戯れではない。いや、戯れか……ここは、そういう処だろう」
面白いことが起きている。男の目は、そう言っていた。
戒莉は、渦中であるはずの自分とは離れたところで、何かが動いていくのをただ眺めていた。
はたからは、呆然としているように見えたかもしれない。
「可愛そうに、おびえていますよ」
柏梨が、戒莉の肩に手を置いた。
戒莉は、はっと息を飲んだ。柏梨の爪が戒莉の肩にぐっと食い込んでいる。それは周囲に気付く者のない程の密やかな行為だった。
戒莉は、男と柏梨の手を振り払い。広間の出口へ向けて、走り出そうと一歩を出した。
「待ちなさい」
男は素早かった。戒莉の手首を掴むと、信じられないような力で自分の方へ引き寄せた。
「益々、気に入ったよ」
男に後ろから抱きすくめられる形となった戒莉は、そっと男の顔を見上げた。
笑っている。
男は、戒莉の右耳に唇をよせると、溜息のような声で囁いた。
「おとなしくしておいで、戒莉」
ゾッとした。
戒莉の背に冷やりとした汗がつたうのを、この男は気付いただろうか。