天涯~雁編~   作:清夏

21 / 32
『爪』

 その男、何者なのか、実は知らない。

 だが、その字は知っている。そしてその顔もよく見知ったものだ。

 その夜、沈翠楼を買い占めた男は、右に柏梨を、そして左に籐香をはべらせ、満たされた杯を一気にあおっていた。

 実に上機嫌。

 大広間には、沈翠楼の娼妓がずらりと並んでいる。皆、この日の為に仕立てた衣装に身を飾り、まばゆいばかりだ。

 戒莉は客や籐香からは、少し離れたところに座している。今夜は、柏梨の座敷になるので、籐香の付人である戒莉たちの仕事はあまりない。ただ籐香の面倒だけみていれば良いのだ。したがって、気働きのできない戒莉は、隅に追いやられてしまった。

 戒莉は、半ば睨むように男を凝視していた。

 この男は何者なのか。そんなことばかりをつい考えてしまう。

 柏梨はキレイな笑顔で、男をもてなしている。柏梨は、しっとりとした色香で男を心地よく酔わせていく。かゆいところまで手が届くといったところ。

 籐香はどちらかというと、客に甘えるタイプ。そうして男は、気分がよくなっていくという寸法だ。だが、今夜の籐香は、そもそもが自分の客ではないので、あまりそのような持て成し方はしない。ただ、大人しく微笑んで、でしゃばらぬ程度に酌をする。

「そこの」

 男は、ふいに戒莉を指差した。

 戒莉は、驚いた顔をして頭を下げてみた。睨みすぎたのかもしれない。

 今度は、娼妓全員の視線が痛い。

「こちらへ」

 男は、手招きなどしている。

 戒莉は拒否したいところだったが、仕方もなく男の近くへ進んでいった。

 柏梨は、ちらりと嫌な顔をした。籐香は、少し困ったような顔をしていた。

「もっと近くへ」

 両手など広げて、待ち構えないで欲しい。戒莉は、男の様子にますます気が重くなった。

 やや距離を置いたところで、戒莉は立ち止まり、彩香に仕込まれたとおりの上品なおじぎをしてみせた。

 だが、男はそれで満足などしなかった。

「それでは顔が見えないだろう」

 男は、ふらりと立ち上がると、戒莉にずかずかと近寄った。せっかくとった距離が、縮まってしまう。

 不躾な手が戒莉の顎に添えられ、ぐっと顔を上げさせられる。

 戒莉は、腹立ちまぎれに微笑ってやった。

 優し気ではない。珊揮に言わせると、極上で極悪の微笑みだ。

「ほう」

 男は、心底嬉しそうに笑った。

「今夜は、お前にしよう」

 

 

 広間の空気が波立った。

 皆、言葉にならぬ声を発し、それが広がっているのだ。

「お許しください。その者は私の付人です。花ではありません」

 悲鳴のような言葉が響いた。

 籐香だ。

「それは異なことを」

 男はゆっくりと、籐香を振り仰いだ。

「総会の夜は、沈翠楼のすべての女が花となる。そういう決まりと聞いたがね」

「それは……」

―― 女ならば……

 籐香はその言葉を飲み込みながら、視線を柏梨へと向けた。

 この事態を、なんとか出来るのは、自分ではない。この男の馴染みの娼妓である柏梨しかいない。柏梨は蓮台としての誇りを重んじる女だ。その柏梨が目の前で、自分以外の女が夜伽を命じられるのを、易々と受け容れるはずがない。

 籐香は、柏梨に目ですがった。

 籐香の懇願を払いのけ、柏梨はするりと立ち上がった。

「お戯れが過ぎましょう」

 柏梨は、優しげな声音で男の元へと進んだ。

「戯れではない。いや、戯れか……ここは、そういう処だろう」

 面白いことが起きている。男の目は、そう言っていた。

 戒莉は、渦中であるはずの自分とは離れたところで、何かが動いていくのをただ眺めていた。

 はたからは、呆然としているように見えたかもしれない。

「可愛そうに、おびえていますよ」

 柏梨が、戒莉の肩に手を置いた。

 戒莉は、はっと息を飲んだ。柏梨の爪が戒莉の肩にぐっと食い込んでいる。それは周囲に気付く者のない程の密やかな行為だった。

 戒莉は、男と柏梨の手を振り払い。広間の出口へ向けて、走り出そうと一歩を出した。

「待ちなさい」

 男は素早かった。戒莉の手首を掴むと、信じられないような力で自分の方へ引き寄せた。

「益々、気に入ったよ」

 男に後ろから抱きすくめられる形となった戒莉は、そっと男の顔を見上げた。

 笑っている。

 男は、戒莉の右耳に唇をよせると、溜息のような声で囁いた。

「おとなしくしておいで、戒莉」

 ゾッとした。

 戒莉の背に冷やりとした汗がつたうのを、この男は気付いただろうか。

  1. 目次
  2. 小説情報
  3. 縦書き
  4. しおりを挟む
  5. お気に入り登録
  6. 評価
  7. 感想
  8. ここすき
  9. 誤字
  10. 閲覧設定

▲ページの一番上に飛ぶ
X(Twitter)で読了報告
感想を書く ※感想一覧
内容
0文字 10~5000文字
感想を書き込む前に 感想を投稿する際のガイドライン に違反していないか確認して下さい。
※展開予想はネタ潰しになるだけですので、感想欄ではご遠慮ください。