「では、私の部屋をお使いになってください」
そう、言い出したのは、柏梨だった。
「柏梨!」
籐香は、叫んだ。
「いいのよ。私のお客ですから、私の部屋で」
「でも」
「ごめんなさい。あなたの寝台を使わせたくないのよ」
「柏梨……」
戒莉は、その会話に唖然としていた。
そんな理屈が通るのだろうか。
自分の男が籐香の部屋を使うよりも、その男と他の女に、自分の部屋の自分の寝台を使わせる方がましだと、柏梨は言っているのだ。
こんな女が居るのだろうか。
戒莉は、籐香の方をじっと見た。何とかして欲しいと、その目が言っているように見えるだろう。
籐香は、小さく頷いた。
「お待ちください」
籐香は先ほど通じなかった言葉を、男にもういちど放った。
男は、もの優しげに籐香を見据えた。その腕には戒莉をかかえたままだ。
「その娘は、付人です。お客さまを持て成すだけの、覚悟というものがございません」
「それでも、いや、それが楽しみということもあるだろう」
男の目じりに嫌な光が点る。
籐香は一瞬、ひるみそうになる自分を鼓舞するように、言葉をつないだ。
「では、それなりの支度を。せめてその娘と話をさせてはくださいませんか」
籐香は、極力落ち着いた声で、微笑で、男に懇願した。
男は、籐香と戒莉をみやると、おもむろに口を開いた。
「いいだろう。話はさせてやろう。だが、この子を着飾らせる必要はないよ。どうせみな、脱いでしまうのだからね」
男の息が戒莉の頬にかかるようだ。
「ありがとうございます」
籐香が震える右手を袖に隠して深々と頭をさげるのが、戒莉には見えた。
「これを」
籐香は、戒莉の手に毒々しい濃紺の薬包を握らせた。
「なんです」
戒莉には、この薬がこの困難を回避することのできる秘策であるとは思えない。けげんそうな顔で、薬包を見た。
「眠り薬よ」
籐香は小さな声でそう告げた。
「無味無臭だから、酒に混ぜて飲ませなさい。あの男を朝まで眠らせることができるわ」
なぜこんなものを籐香は、持ち歩いているのだろうか。
戒莉は、ちらりとそう考えた。
扉は閉められた。
ひとつ部屋でふたりきりになっても、戒莉も男もしばし押し黙っていた。
少し前までは、酒や肴が運び込まれたりしていて、部屋には様々な人々が出入りしていてにぎやかだったが、今では誰もいない。
戒莉は、布張りの長椅子に腰掛け、この男がなぜここにいるのかをぼんやりと考え始めていた。
こんなところにいるはずのない男がここにいる。何故だろう。
戒莉は、この男がここにいるはずのない理由を知っていた。はずだった。
いままで、それに気付かなかったのが不思議なくらいだ。
顔を上げて、戒莉はそれを言葉にしそうになったが、男がそれを遮るように口を開いた。
「苦しそうだね」
それが何を言っているのか、戒莉は一瞬理解しなかった。
気付けば、男は戒莉の前に立っている。
「帯だよ。ひどくきつく締めているね」
これは、籐香がしたことだ。帯を解かれにくいようにわざときつく、締めなおされた。
戒莉は、コブのようになっている帯の結び目に溜息をついた。これは解きにくいと言うよりも、もう解けないような気がする。
「ゆるめたらどうだい。これから、長い夜になる」
男は、小刀を抜いて戒莉の着物と帯との間に薄いその刃を滑り込ませた。
ふつりと帯が切れる。
戒莉は、急に空気が肺に流れ込んで来るような気がした。
「なるほど」
戒莉は呟いた。
いくらきつく縛っても、こんな風に切られるのだから甲斐がない。
「そうだよ。よく憶えておくといいよ」
男の笑う姿を眺めながら、この男の瞳はこんなにも青い色をしていたのかと、戒莉は、思った。
一点の曇りのない蒼い空を思わせる。だが、男の本質はそれを裏切っている。
「で、これからどうするつもりだ?」
戒莉は乱れた心をおさえながら、男の目から視線を少し外した。
「さて、そこだよ」
珊揮は、それを待っていたとばかりに、人差し指を戒莉に立てて見せた。