総買いの夜に、現れた客はまぎれもなく、珊揮だった。
戒莉は、それを事前に知らされていなかった。
あの夜、戒莉が納戸に連れ込まれて、明要から伝えられたことは、総買いの夜に賊が押し入って来るだろうということと、総買いの客はこちらの事情を汲んでいるということ。そして、その客が持参したもの以外、その夜に店に出されたいかなる食べ物も飲み物も口にしてはいけない。ということだった。
珊揮が来るなら、そう言っておいてくれてもいいだろう。こちらにも心積もりと言うものがある。
しかし、今更せん無いことだ。戒莉はそういった恨み言は、そっと胸に仕舞った。
「賊は本当に、今夜来るのか?」
戒莉は、ぞろりとした女物の衣装を乱暴に脱ぎ捨て、珊揮の持ってきた着替えを掴んだ。
珊揮は、運ばれた酒を手酌で杯に注いで、それを飲むでもなくもてあそんでいるように見えた。
戒莉は、適当に着替えを済ますと、次に顔を覆っている化粧を落しにかかった。部屋の片隅の水盆でバシャバシャと顔を洗い、傍らに置かれた布で乱暴にゴシゴシとやる。
珊揮は、戒莉の様子にうっすらと微笑んだ。
「戒莉。総買いに、客がいくら金を積むのか知ってるかい?」
珊揮が戒莉の疑問にすぐに答えないのは、いつものことだ。
「さあ」
戒莉は、気の無い声で返事を返しておいた。
次に珊揮が口にしたその額に、戒莉は馬鹿馬鹿しさを感じた。庶民が朝から晩まで、毎日働いて働いても、一生かかってもお目にかかることなど出来ないような金高だ。そんな金を一夜で使ってしまおうといういう。理解不能だ。そんな価値があるのだろうか。
「まさか、あんた。それ出したのか?」
もし、出しているとしたら、とんでもない話だ。
「いや。払ったことにしてるがね。実際は払ってないよ」
珊揮は、おどけた調子だ。
「今夜の沈翠楼の蔵には、金がうなっている。そういうことか」
なるほどと、戒莉は思う。
金は、明日になれば界身に預けられてしまうだろうから、蔵に確実に金があるのは今夜だけだということになる。
「表向きはね」
「少なくとも、賊の方はそう思うってことだろ」
それぐらい、戒莉にも分かる。
ふつう妓楼では、夜遅くまでかなりの人の出入りがある。それらをかいくぐって押し入るのは、難しい。それが総買いの夜は、門は閉められ、客は一人きり。夜伽に選ばれなかった女達は、大概が早々に寝てしまう。
盗むべき金があって、押し入り易い。賊にとって総買いの夜は、絶好の夜だ。
逆に罠の匂いもする。だが、この総買いは三月も前から決まっていたことだと戒莉は聞いていた。
そんな前から、珊揮が賊のことを察知して罠を仕掛けていたとは思えない。
その疑問を戒莉が口にすると、珊揮は即答した。
「ああ、本当は総買いの客は別にいたんだよ」
「それをあんたが横取りしたのか」
「そういうことになるかな。丁慈に協力させてね」
罪のないような顔で笑っているが、丁慈にとってはとんでもないことだったろう。なにしろ、総買いの客をふいにすることになる。
総買いの客が誰なのか、事前に娼妓には知らされない。知っているのは、楼主の丁慈と女将だけだ。ただ、誰の客だということだけが、知らされる。つまり今回の客は、柏梨の客だと。
「その客もね。快く代わってくれたよ」
―― 本当かよ?
戒莉は、腹のなかでそう思っただけで、口にはしなかった。
「本当だよ」
見透かすように、珊揮は笑う。
「ところで、戒莉」
「なに」
また奇妙なことを言い出すかと、戒莉は自然と警戒しながら、卓を挟んで珊揮の前に座った。
「もし今夜、賊が来なかったら、どうしたらいいかな」
「は?」
戒莉はまた、珊揮の瞳をまともに見てしまった。
―― 青い。
「今夜、賊が来なかったら、どうしようか」
珊揮の目は、存外本気だった。
戒莉は眉間に浅い皺を刻んで、少し考えてから、顔を上げてこう言った。
「あの蔵は止めた方がいい。賊に在処が知られてる隠し蔵は、もう隠し蔵じゃないだろ。笑い種だ」
「そうだね。丁慈もいい加減に、懲りただろう」
珊揮は、それを待っていたかのようにあっさりと同意する。
丁慈は、妓楼の見取り図が外に洩れた段階で、蔵を移すべきだったのかもしれない。
そうしなかったのは、あの男の奇妙な負けず嫌いからきているのだ。もし、隠し蔵を移せば、賊に屈したような気がする。とか。役人に助けを求めるのは、負けたような気がする。とか。
くだらない。
人のことを、そう断じるのは、実に容易い。