天涯~雁編~   作:清夏

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『恋仲』

 闇の中に密やかな声が、争っていた。

 女ふたり。

「どうして?」

「それはこちらが聞きたいわ。何故、私を裏切ったの?」

「先に裏切ったのは、貴女の方だわ」

「なにを言っているのか分からないわ」

「貴女が、あんな男に」

「そんな。あなたが橋渡しをしてくれたのではなくて」

「それは、こんなところですもの。生き甲斐のようなもの。心の支えが欲しいと思ったのよ。でも、貴女は、あの男に深入りし過ぎたわ」

「そちらの都合の良いような男なら、良かったということ?」

「そうよ。貴女の身を滅ぼすような男は、必要ないわ」

「あの人に私が必要なのよ」

「何を言うの?貴女は、蓮台なのよ。男を入れあげさせるのが勤め。男に入れあげてどうするの?」

「そうね、私はただの売り物なのね。あなたたちにとっては。でも、私は売られている人形じゃない。人なのよ。女なのよ」

「……」

 長い沈黙が、続く。

 

 

 戒莉は、この女ふたりの会話を立ち聞きしている自分の立場に、嫌気が差す。

 イライラする。

 しかも立ち聞きしているのは、戒莉だけではない。

 

 戒莉とは離れたところで息を顰めている者が居る。

 明要と真佳、英俊、そして希央。

 挙句、戒莉の背後に張り付くようにもう一人。珊揮がいる。

 皆、動かない。

 全員が全員。女ふたりの生々しい争いに、ただ聞き耳を立てていることが、奇妙過ぎる。

 

 これから、この先、何が起こるのか。

 自分がまた気を失うのだろうかと、気が重い。戒莉は、溜息を噛み殺した。

 この体質を何とかしないと、命取りだろう。不安を抱えながらも、これまでやってこれたのは、背後にいる珊揮という男のおかげなのだろう。そう思うと、やはりあまり居心地がよくない。

 戒莉は、無意識のうちに珊揮から体を少し離した。

 

「……」

 女たちの声は、途絶えたままだ。

 女が誰なのか、戒莉には分かっていた。

 ひとりは、籐香、そしてもうひとりは籐香の付人頭の梅林だ。

 話の内容の背後にある詳細は知らないが、想像は出来る。

 籐香が、どこかの男に入れあげて、梅林がそれを咎めているというところなのだろう。

 

『好きな男を作るのは良いわ。ここで生きていく張り合いになる。でもね、何もかも男に与えてしまっては駄目』

 

 いつぞや、梅林が戒莉に言った言葉が蘇ってきた。

 つまり、そういうことなのだ。

 

 

 沈翠楼では、ひと月ほど前に杖身が解雇されていた。

 その理由は、香凛という花娘にあったのだと、彩香が言っていた。

 その杖身と香凛どうも恋仲になってしまったらしい。と、言うのだ。

 楼主も何も娼妓の恋愛にすべて目くじらをたてているのではない。好きな男がいると張り合いになる。そういうこともあるのだ。だが、度を超すと、そういう暖かい目では見られなくなる。

 梅林が女将に忠告をし、その杖身は即刻クビになった。

 香凛は、籐香に可愛がられている娼妓で、もの静かな娘だ。そんな激しい恋情に身を焦がすような風には見えない。人は見かけにはよらないものだと、彩香は感心していたものだった。

 

 

 その杖身と恋仲になったのは、実は籐香であったのだと、戒莉は心のうちに確認した。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 沈翠楼の中から賊を手引きする者があるだろうと、俊英はあたりをつけていた。戒莉たちは、これまでその手引きする者を探っていた。

 沈翠楼から出る者の尾行をし、手紙という手紙は全部なかみを検めていた。だが、決定的なものは何も見つからなかった。

 戒莉たちの存在に警戒をしているのだろうか。

 そう、考えると、疑わしいのは、戒莉たちの存在を知っている者だった。新しい杖身が入っていることは誰もが知っていることだが、ちょうど前の杖身が首を切られたところだったので、不自然ではなかったろう。

 戒莉が実は杖身の一人であることを知る者は、少ない。

 楼主の丁慈と女将、そして籐香。

 丁慈が信用して良いと太鼓判を押した二人だけだ。

 だが戒莉は、籐香を疑っていた。だが、その人柄に触れる度に、疑いたくはないと、そうではないと思ってみたが、心のどこかが警鐘を鳴らしていた。この女を信用するなと。

 何故だろうか。

 それは、勘としか言い様がなかったが、実はその名のせいかもしれない。

―― 籐香 トウカ……

 憶えていた訳ではない。思い出したのは、つい今しがただ。

 冬果という名の女を。

 

 

 

「戒莉」

 少し離れていたはずの、珊揮の声が、戒莉の耳元に迫っていた。

 戒莉は、驚きの声を飲み込んで、周囲を見た。

 いや、正しくは感じようとしていた。

 見えるものなど、この薄闇の中では僅かに過ぎない。

 何かが、近くに迫ってきている。

 足音だ。ひたひたと静かに床を踏んではいるが、全くないことにはなっていない。

 静寂の中では、耳障りに響いてくる。

 おそらく十四・五人というところだろう。

 戒莉たちは、六人だが、並の相手なら二十ぐらいは平気だろう。

 並みという訳にも、おそらくいかないだろうが。

 

 戒莉は、天涯と呼ばれる剣に触れた。

 結局、これを腰に差すことになってしまった。

 

 

 唐突に、籐香の部屋の戸が開く。

 戒莉は身構えた。背後の珊揮にも緊張が走るのが、戒莉にも分かった。

 だが、戸は内側から開かれたのだった。

 女の着物が床を引きずる音が廊下に滑り出た。

 密やかに軽い足音。

 その音の主は、戒莉たちにも、この部屋に迫る十数人の賊にも気付いている様子はなかった。

「忘れないでちょうだい。あなたは、ここであなたがすべきことをするのよ」

 梅林が振り返り、念を押すようにそう言った。

 もちろん、籐香に向けて言われた言葉だったろうが、そこにいる総ての者に響いていた。

 

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