その日の朝、戒莉が目覚めたときには、珊揮は寺子屋にはいなかった。
そろそろ動く頃とは思っていたのだが、戒莉は無性に腹が立った。
また、置いていかれた。
どこへ行ったのかと、堺仁に尋ねてみると、答えは意外でも何でもないところだった。
「本宅だよ」
珊揮には、各国に恋人がいる。
柳では藍椋、そして雁には沙苑がいた。
寺小屋では、その沙苑の家、ひいては沙苑そのものを、本宅と呼んでいた。
沙苑は生きている者の中では一番珊揮との付き合いの長い女性だと、戒莉は聞いている。
戒莉は、沙苑に会った事はない。だが、その人のことは昔から知っていた。
沙苑は、大きな舎館を営んでいる。夫は何十年か前に死んでおり、女手ひとつで舎館をきりもりしてきた、かなりのやり手と聞いていた。年齢は、既に六十だというが、人の話ではそんな年とは思えない若々しさで、かなりの美人ということだ。
この十日ばかりは寺小屋にいたが、むしろ珊揮が雁で帰るべき処というのは、本宅の方だ。
戒莉が寺小屋で暮らしていた時も、珊揮は雁に来ればほとんど沙苑のところで寝泊りしていた。
その頃のことを、戒莉は思い出すと、奇妙に寂しい心持ちに掻き立てられる。珊揮が、沙苑が、どうというのではなく、ただ無闇に淋しかった。
今、珊揮が本宅に行ったと聞いて、戒莉が感じたのはまぎれもなく怒りだった。自分を無為に過ごさせておいて、珊揮自身は自分の愛人の元へ行くというのだから、勝手だ。と、戒莉の中で怒りはそう解釈されていた。
「まあ、そんなに焼餅やかないで」
堺仁はなだめるつもりだったらしいが、結果そんな風に戒莉の怒りを煽った。
「誰が、そんなもん妬くかいっ」
「おや、違うのか」
それはびっくり、という顔で堺仁はカラカラ笑った。
暖簾に腕押しだ。
「あんたといい、珊揮といい、どうして俺の周りはこんな大人ばっかりなんだ」
類は友を呼ぶだよ、と堺仁が笑う。
同じ穴の狢だ、と戒莉はへの字を結んだ。
「それはちょっと違うかなあ」
堺仁は、とうとうと言葉の解説を始めた。
気付けば、二人ともに日本語で喋っている。
もう日本語など忘れたかと思っているのに、堺仁と話していると、自然と言葉が出てくることに、戒莉は驚く。
話が狸と狢の違いに及んだところで、戒莉は堺仁の話を止めた。
「で、珊揮は俺に何か言ってかなかったのか」
「いや、別に」
あっさり、堺仁は戒莉の望みを打ち砕いた。
その後、その苛立ちを持て余したまま岳昭のところへ出かけようとしたとき、戒莉は門の辺りで女が騒いでいるのに気付いた。
「だぁ~かぁ~らぁ~、あたしは珊揮に会いにきたの。とっとと、珊揮を出してちょうだい!」
今回は、なかなか新しく落ちる人がでてきません。