ぼんやりと、ただ、ぼんやりと時と雲が流れていく。
寺小屋には、子供たちの声が響いている。素読をしているのだろう。
戒莉は、緩やかな空気の中に身を浸していた。
空は、遠く、高い。
戒莉は、昨日の夜のことなど考えるともなく考えていた。
寺小屋に帰ってくると、戒莉の眠りは深くなる。ふだんが浅すぎるのかもしれないが、何かあったとしても直ぐに目覚めることは、まず出来ない。……というのは、どうなのだろうか、と思うところもある。
せめてという訳ではないが、戒莉は剣を引き入れて眠る。珊揮などは、ずいぶん色気のないものに添い寝をさせると、苦笑していた。
昨晩は戒莉にしては珍しく、夜中にふと目が覚めた。
薄く目を開けると、珊揮が枕元に立っているのが分かった。
「……」
戒莉は、はっきりと覚醒していたわけではなかった。
横になったまま、戒莉は『なんで珊揮がいるんだろうか』と、ぼんやり考えていたような気がする。
珊揮は、じっと戒莉の様子を観察し、その息を確かめると、ほっとしたように去っていった。
戒莉は、なんだか変だと思いながらも、またとろとろと深い眠りの谷に落ちていった。
夜があけて、今は既に昼近くである。
戒莉は、中庭に面したささやかな露台にあぐらをかき、ただ所在無げに空を眺めている。
戒莉は、珊揮の奇妙な行動の意味に気付いた。
以前、柳の宿で戒莉が気付いたときに珊揮が横で寝ていたこともあった。
あれも、やはり同じことだ。
珊揮は、戒莉が生きていることを確かめにやって来たのだ。
戒莉たちが柳から雁の寺小屋に帰ってきたとき、珊揮の恋人である沙苑は危篤の床についていた。
戒莉は、そう聞いていた。
沙苑は夏ごろから急に体調を崩し、寝込むようになったのだという。そうして、あっというまに病状は悪化し、多くの医者にも診せたが、もう手の施しようがなかったのだと。
珊揮は沙苑に片時も離れず、付き添っていたのだそうだ。
だから今回、戒莉が何事かに巻き込まれたと聞いても、珊揮は動かなかった。
その珊揮が、沈翠楼に現れた時に、戒莉は驚いた。
そこに居るはずのない男だと、思っていた。
だが、まぎれもなく、珊揮はやって来た。
戒莉は、沙苑が死んだのだと理解した。
沙苑が快癒したと、考えることは出来なくもなかったが、戒莉はそう確信した。何の根拠もない。
沙苑は、珊揮をおいて逝ってしまった。
「戒莉」
ふいに声をかけられるが、戒莉は反応しなかった。
「戒莉」
声の主はもう一度、呼びかけてきた。
だが、同じことだった。戒莉は、身じろぎひとつしなかった。
戒莉の膝の上には、あの剣があった。優しく、平和な世界の中で、それは酷く不穏なものに映った。
「珊揮」
相手の顔を振り仰ぎもせず、戒莉はその名を呼んだ。
「なんだい」
先に呼びかけていたのは、珊揮の方が先であったが、この男はそんなことには頓着しない。
「いつまで、こうしているんだ?」
「いられるだけ、いることだね」
珊揮の言うことは、いつも正しいことのように響く。
「そうか」
つまり、ゆっくり休めという例のやつだ。
以前の戒莉ならば、そう言われても休んでいられなかった。
「そのうちに、嫌でもこうしていられなくなる」
確かに、珊揮の言うとおりだ。
人殺しという非道な行為を繰り返して尚、こんな穏やかな日々が与えられていること自体が、本当はおかしいのかもしれない。
「珊揮」
「なんだい」
「オレって、幸せなのか?」
ぽつりと、戒莉の心中からそんな言葉が転がり落ちた。
「そういうことは、人が決めることじゃないだろうね」
珊揮は、即答する。まるで、訊かれることを知っていたようだ。
戒莉は、ここで初めて珊揮の顔を見た。
「あんたは、幸せなのか?」
そう問われて、珊揮は思わず笑った。
「私ほど幸せな男はいないと思うこともあるし、私ほど不幸な男もいない、と思う時もある」
つまり、分からないということだ。
だが、戒莉もそんなものだ。
みな、そんなものなのかもしれない。
「それにしても、お前。そんな格好でうろうろしてると堺仁に叱られるよ」
「そんなに酷いか?」
戒莉は髪すら結ぶことなく、寝乱れた夜具を申し訳程度にかきあわせ、ぞろりとした外衣を引っ掛けているに過ぎない。みっともないといえば、そのとおりだ。
「いや」
珊揮は、にっこりと否定した。
「は?」
戒莉は、きょとんと訊き返した。
「ああそうだ。お前、朝餉まだだろう」
珊揮は、戒莉を置き去りにして話を急転換した。
「まだ、だけど」
何がなんだか分からないながらも、戒莉は反応した。
「じゃあ、一緒に食べようか」
「はあ」
特に、戒莉には異存はない。ただし、もう朝餉という時間でもない。
「あ、その前に少し体を動かさないかい?」
少しばかり何かを企んでいるような笑顔で、珊揮は戒莉を誘う。
「なに……するんだ?」
警戒をしながら、戒莉はそろそろと立ち上がろうとした。
珊揮は、頼んでもいないのに戒莉の腕をとって、ぐいと引っ張り上げた。
立ち上がるのに、別に手助けなどいらない。戒莉は、反抗的に珊揮を振り払った。
そんな戒莉に微笑みすら浮かべて、珊揮は言った。
「手合わせしてやろう」
「え」
戒莉は、驚いておもわず珊揮の顔をまじまじと見た。
珊揮が、戒莉と手合わせをしようだなんて言い出したのは、過去に一度しかない。戒莉がまだ珊揮と一緒に仕事を始める前、まだ剣を始めて一年もたたない頃のことだ。そうして、その後で珊揮が急に、戒莉が剣をとることを反対し始めたのだ。
今回も何か言い出すのだろうか。やはり、戒莉が仕事をするのは無理だとか……。
「そんなに嫌そうな顔をするもんじゃないよ」
諭すような口調で、珊揮は戒莉の眉間のしわをたしなめた。
「なんのつもりだ?」
「おやおや、私はただ、お前と打ち合ってみたいだけだよ」
嘘だ。戒莉は、瞬間にそう思った。
だが、戒莉が何か言う前に、珊揮は更にこう続けた。
「それに、たまには違う相手とやった方が、もっとお前の腕も上がるだろうよ」
「俺は、そんなに弱いのか」
「そんなことは言ってないよ。ただね、お前は血に弱い。というか、人を殺すと打撃を受ける。心身ともにね。これは、致命的だね」
珊揮の次の言葉を聞くのが、怖い。戒莉は、身構えた。
「お前が人を殺すのは、余裕がないからだよ。殺さずに、相手の動きを止める方法を学んでおいたら、いいんじゃないかと思ってね」
それは、戒莉が恐れていた言葉ではなかった。
けれど、珊揮のことだ。あまり期待しすぎるのは良くない。
「あんた、本当は俺と一緒に仕事はしたくないんじゃないのか。俺が頼りにならないから」
とうとう、戒莉は一番言われたくないことを、自分自身で口にしてしまった。
血を浴びて、人を斬って倒れるような相棒は、どう考えても足手まといだ。戒莉は、分かっていた。自分は、本当は剣客には向いていないことを。
「確かに、お前はやっかいだよ」
覚悟の上とはいえ、珊揮の言葉は戒莉には痛かった。
「でもね。仕方ないだろう。お前は、平穏には生きていけないんだからね」
珊揮の目は、珍しく真面目だ。
だから、つい戒莉は珊揮の手が自分の頬に触れるのを許してしまう。
「この姿である以上、お前を利用しようとする者、お前を手に入れようとする者が現れる。お前は、嫌かもしれないが、お前の容姿というのはそういう風に人を惑わすものだよ」
こんな顔に、生まれてきたかった訳ではない。それに、そんな風に人を惑わせたつもりなどない。言いたいことは、山ほどあったが、戒莉の口は凍りついたままだ。
「お前は、自分の身を守る術を持っていなければ、思うとおりに生きていけないんだよ」
珊揮は、残酷な言葉をつないでいった。
戒莉はただ、それを呆然と聞いていた。
なぜ、急に珊揮はそんなことを言い出しているのだろうか。戒莉が、口火を切ったからだろうか。いや、いつもならば珊揮は戒莉がどんなに突っかかっていっても、なにやかやと混ぜ返してしまうはずだ。
「お前は強いよ。でもね、お前には充分ではない。もっと強くならないといけないんだよ。いつまでも、どこまでも、お前は強くならなければならない」
絶望的な気分だ。戒莉は目の前が暗くなってくるのを感じた。まるで、血を浴びたときのような、人を斬ったときのような感覚だ。
「あんたは、俺に何を望んでるんだ?」
この男の相棒になど、誰もなれないのだと、戒莉は気付いた。
戒莉と珊揮の間に、時が通り過ぎた。
それでも、永遠には続かない。
「最初はね。お前が生きたいように生きて、死ぬときにお前が満足ならいいとと思っていたんだけどね。それが、私にもだんだん欲というものが出てきてね」
「欲?」
鸚鵡返しに、戒莉は思わず聞いていた。
珊揮がどんな欲を抱いているのか。戒莉は聞きたいような、聞きたくないような、相反する感情に苛まれる。
「戒莉。お前は、私より先に死んではいけないよ」
それは、無理だ。と、戒莉は瞬時に思った。
思ったにもかかわらず、少し間をおいて戒莉の口からは全く別の言葉が発せられていた。
珊揮が言いたいことは、戒莉もなんとなく理解していた。
けれど、それはやはり無理なことだった。
いくら努力しても、いくら強くなっても、どこまでいっても、戒莉はいつか死ぬ。
戒莉はただの人で、珊揮は仙だ。
戒莉は何かに駆り立てられるような、奇妙な感覚に囚われる。
死ぬことを恐れているのではない。怖ろしいのは、沙苑のように、いつか珊揮をおいて自分が逝ってしまうことのような、気がした。
だから、つい言ったのだ。
「努力は……してみる」
戒莉のその言葉を聞いた珊揮は、破顔した。
「ああ、ぜひ頑張って欲しいね」
『天涯~雁編~』了