やっぱり蛇足のようで、そうでもないです。それは、あとのお楽しみ。って、誰の?
いつからだろうか。帰りたいと思わなくなったのは。
もしかしたら、はじめから、帰りたいとは思わなかったのかもしれない。
ここが、自分の居るべき世界だとは思わないが、前に居た世界も、自分の世界だったと、言えるのだろうか。
などというところで、戒莉の思考はピタリと止まった。
もともと、あまり突き詰めてモノを考える性分ではない。考えたところで、だいたいいつもこんなところ止まりなのだ。
戒莉は、そこで立ち尽くしたまま、引き返す道すら見失っている。
数日ぶりに訪れた道場では、戒莉は誰とも手合わせをしようとはしなかった。誘われても、そんな気分になれないと、断り続けていた。 だったら何故、道場にやって来たのだと笑われたが、それは本人も自覚しているトコロだ。
とにかく、居場所がないのだ。
寺小屋で、夜着のままだらだらしていたら、堺仁や常弘に『そんな格好で、うろうろするな』と、怒られた。
居ずらくなって、出かけたものの、どこにも行くところが思い当たらなかった。
それで、岳昭のところに来てしまったのだが、ここでも追い出されそうだ。
ふつう道場に戒莉が顔を出すと、代わる代わるに皆が手合わせを申し込んで来る。それに対して、戒莉は可能な限りそれに応える。
だから、こんな風に戒莉が一人とも打ち合わないことに、皆、違和感を感じていた。
体の調子が悪いのか、何かあったのか。
皆の関心は、高まる一方だ。
戒莉は、なんとなく明要を探していた。用がある訳ではなかったが、例の妓楼の一件以来、まだ話をしていないのが気になっていた。
明要は、戒莉が人を斬って失神している間に、帰ってしまった。
まさか、本当に何かあったのだろうかと、密かに心配などもしていた。
「明要を見なかったか?」
と、誰に尋ねても、皆首を振る。
どうやら、ここにもあれから顔を出していないらしい。
何があったのだろうか。戒莉は、やや難しい顔をした。
「明要はいないが、珍しいのが帰って来てるぞ」
兄弟子の一人が何気なくそう言う。
「それって、まさか……」
戒莉の脳裏に一瞬、嫌な影が走った。
「そう、宍道だ」
「俺、帰る」
戒莉は、すっくと立ち上がった。
しかし、時既に遅し、だった。
「もう帰るのかな?」
背後から、その鼻にかかった声は忍び寄ってきた。
戒莉は、振り返りもせずにすたすたと歩き出していた。
「まあ、待てよ」
肩を捉まれ、引き止められると、それに抗う力が戒莉にはなかった。
戒莉は舌打ちをする。
こうなったら、諦めるしかない。
「何だ?」
振り返り、ぐっと睨んでやる。
相手の男、宍道という。この男はそんな戒莉の顔をうっとりと眺めて言い放つのだ。
「ちょっと見ないうちに、また綺麗になったね」
あまつさえ、宍道は戒莉の顔を両手で包み込んで自らに引き寄せまでしてくる。これは戒莉に対する嫌がらせ以外のなにものでもない。
これに力で抵抗することは、なんだか相手の思う壺のような気がして、戒莉はただ睨むぐらいしかしない。
「何か?」
「久しぶりに会っても、やっぱりツレナイね」
ふふと、笑って宍道は戒莉を離した。
解放されると、戒莉はつい一歩、二歩と後ろに下がってしまった。
「俺は、いつもこんなもんだ」
負けたような気がして、戒莉は目を逸らす。
「そうだね。戒莉が僕に優しかったことなんてないもんね」
初めから。と、宍道は寂し気に言う。
だが、戒莉には分かっている。この男の方こそ、初めから戒莉を良くは思って居ないことを。
三年前だ。初対面だというのに、この男は馴れ馴れしかった。
どうも、宍道は戒莉の噂だけはたくさん聞かされていたらしく、その中に彼が戒莉を憎む要素があったらしい。
らしい、と言うぐらいなので、戒莉は宍道の思うところは全く分からない。ただ、憎まれていることだけが分かるという状態だ。
周囲から見て、そんな風には見えないらしいが、確実に戒莉は宍道に嫌われている。
宍道というのは、岳昭の弟子の中でも指折りの剣客で、各地で傭兵として雇われて暮しているようだ。たまに、こうして岳昭のところに顔を出すこともあるが、雁の国内にもいないことが多いそうだ。
姿もなかなかの良い男と言ってもいい。何人もの女から言い寄られて、来る者拒まずだという話も聞く。
戒莉は、直接打ち合ったことはない。けれど、人と手合わせをしている姿など見ていると、なるほどという腕前だ。
以前は、一度くらいは手合わせをしてみたいと思ってはいたが、今ではそんな気も起きない。
戒莉は、憎まれることで相手を憎むことを覚えた。
憎まれる理由が分からないから腹がたつのだ。
宍道を見ていると、ふと祖母のことなど思い出すこともあった。何故、祖母が自分に辛くあたったのか、理由は当時よりも分かってきた。だが、理解は出来ないでいる。
祖母にとって、母や自分は邪魔な存在なのだろうと思う。だが、それは彼女の事情だ。戒莉には、全く関係のないことだ。
おそらく、宍道も彼の事情で戒莉を憎んでいるのだろうことが予想される。
普通に話す機会もないので、結局嫌われている理由は分からずじまいなのだが。
具体的に、なじり合ったり、殴りあったりしているわけではないまま、三年がたった。
三年、といっても戒莉もあちこち駆け回っている身だ。彼と顔を合わせたのはほんの数回でしかないだろう。
だから、なのかもしれない。二人の間には、何も変化はない。むしろ、亀裂が深まる一方なのだ。
それでも、戒莉は別に良いと思っている。会ったときだけ腹立たしいだけで、面と向かわなければ思い出すこともない。
もっとも、それがどうも宍道には面白くないことなのかもしれないことには、戒莉は気付いていない。
「今日は、誰とも手合わせをしてないみたいだけど、どうしたの?」
きらきらとした粉を振りまくような宍道の笑顔に、戒莉は目がくらむ思いだ。こういうのが女心を掴むのやもしれない。
「別に」
戒莉の言葉は、他の者に対しても短いが、宍道に投げる言葉は意識をして短くしている。
「ああ、じゃあ、僕の相手をしてくれないかな?」
大の男が、小鳥のように首を傾げてみせる。
「あ?」
戒莉は、ぽかんと口をあけて宍道を見返していた。
別に、奇妙なことを宍道は言っているのではない。現に、今日も何人もが戒莉に同じことを言っている。そのことごとくを、断ってきた戒莉だったが。
「嫌かな。やっぱり」
目を伏せて悲しさを装うのが、本当かのように見える。
「今日は、そんな気にならない」
戒莉は、今日何度も繰り返してきた言葉を機械的に落とした。
「本当に『今日は』なのかなぁ」
嫌な言い方をして、宍道は微笑む。
たぶん、宍道と関わりあいたくないのは、今日に限ったことではない。
「今日は、手合わせしたくない。あんたとも、他の誰とも」
特別強い口調ではなかったが、しっかりとした拒絶を戒莉は示した。
「そこを何とかならないかなあ。今度いつ戒莉に会えるか分からないじゃない」
気持ちの悪いことを言う。戒莉は、宍道の心を図りかねた。
ここで、宍道が『それとも僕と打ち合うのが怖いのかな?』などという安い挑発でもしてきたら、戒莉は乗らずに済んだかもしれない。
「何だ、そりゃ」
戒莉は、思わずそう口にしていた。
それに対して、宍道はいきなりそれに飛びついてきた。
「僕もさあ、いろいろと考えるんだよね。傭兵なんて物騒なことしてるとね、いつ死ぬか分からないなあ。とかさ」
神妙な面持ちが、本気なのか。それにしては、口調が軽い。
「で、死ぬ前にしときたいこととかさ。考えたわけ」
その一つが、戒莉と手合わせすることだと。
「だからさ。ここで会えたのも何かの縁だと思って相手をしてくれないかな」
戒莉は、どうすべきなのかを迷ってはいた。だが、たとえ死に行く男の 最後の願いでも、いや、それではなおさらに応えたくはなかった。
「じゃあ、次の機会まで、あんたが死ななければいいんだろう」
言っておいて、なんだが、これも戒莉が宍道に言うような言葉ではなかった。
戒莉は、今までに見たことのない宍道の様子に、戸惑っていたのだろう。
そんなことを言われた宍道は、何の邪念もないような目で戒莉をぽかんと見ていた。
それが、どれくらいの間であったのか。宍道ははっとすると、またあのキラキラとした粉を振りまいた。
「そうだね。戒莉は良いことを言うね」
そう言って、宍道は静かに引き下がっていった。
結局、誰とも打ち合わずに戒莉は、寺小屋へ帰ることにした。
明要とも会えず仕舞いだ。
もう二度と会えないかもしれない。
そんなことを考えたのは、きっと宍道があんなことを言ったせいだろう。
今、寺小屋に向かっているが、自分が無事に寺小屋に辿り着く保障はなにもない。
大袈裟な話だ。
戒莉は自嘲した。
それでも、この帰り道がとても心細く、寂しく感じるのは、止まなかった。
「戒莉」
そう、声をかけられたのは、最悪の間合いだった。
そこには、いつもの珊揮がへらへらと立っていた。
戒莉は、言いかけて、その言葉を飲み込んだ。
「どうしたんだい? 難しい顔してたけど、考え事かい」
「いや、別に」
そう、答えるのが精一杯だ。
「そうかい。じゃあ、一緒に帰ろうか」
珊揮は、機嫌よく戒莉の頭を軽く叩いた。
ひとりが、二人になったといっても、運命が変わるわけではないだろう。
それでも、寂しさは薄らいでいくように思えることもある。
いつか。
いつかと、心の内に思って、戒莉は考えるのを止めた。
今は、ただ帰り道を歩いているだけだ。
今は。
雁編始末記 『かえりみち』 了