隼蘭は、細い溜息をついた。
なぜ、こんなことになってしまったのだろうか。
隼蘭の家の寝台で眠っている男は、隼蘭のかつての恋人。愛人といってもいい。
かつての、と言うぐらいだから、とうに別れている。あれは、一年くらい前だろうか。
再会したのは、昨日の昼のことだった。
それは、偶然だった。というのは、言い訳だ。
ただ、ばったり道で会ったくらいなら、そ知らぬ顔をして通り過ぎればよかった。けれど、隼蘭は目を逸らすことができなかった。
もとより、人の中にまぎれることのない鮮やかな男だった。
通りの向こうから、ゆるやかに歩いて来る男の姿が目に入ったとたんに、隼蘭の視線は、その男のものだった。
そうして、一言、二言、言葉を交わしてしまった。
そこで『それじゃあ、さよなら』と、言えたなら、まだ引き返すことができた。
隼蘭の口は、お茶でもどうかと、男を誘っていた。
そんなことを言うつもりはなかった。
男も、その言葉に少し驚いたような表情を見せた。なのに、男は隼蘭の誘いに応じた。
もしも、あの男が断っていたら、こんなことにはならなかったのに。
などと、考えるのも言い訳の一端に過ぎない。
隼蘭は、分かっている。
自分は、この男と居たかったのだ。
一年前に自分から別れを告げたときですら、そうだった。
別れの原因は、些細なことではなかった。少なくとも、隼蘭にとっては。
隼蘭は、今年で三十になる。そして、この男はたぶん隼蘭よりも、十歳は若い。年をきいたことがあるが、『よく分からない』などど、いいかげんな言葉で誤魔化されてしまって、それきりだ。
とにかく、その年が問題だった。
男は、年若すぎた。隼蘭は、決して老けているというつもりはない。しかし、どこか、年のことで男に引け目を感じていた。せめてと、いつもきっちり化粧をし、着るものなどにも気を配っていた。
けれど、どんなに粉飾を凝らしたとて、若い娘の持つはりのある肌には敵わない。
隼蘭は、徐々に疲れていった。
そしてある日、男が浮気をした。
しかも相手は、若い、二十歳にもならない娘だ。
もっとも、隼蘭自体が恋人とか、決まった相手というのではなかったから、浮気という言葉は間違いかもしれない。
男には、複数の恋人、愛人がいるようだった。
隼蘭の耳にも、いろいろな噂が耳に入ってきている。
男は、『そんなものはいいかげんな讒言に過ぎない』と、取り繕ってもくれなかった。
その若い娘とのことも、多くの女性の一人なのだと、分かっていた。けれど、もしかしたら本気なのかと、胸のうちに問いかける意地の悪い声がした。
なにかのきっかけで、その娘の話題になった。
男は、ただ興味なさそうな顔をして言った。
「そんなつまらないことが、よく噂になるもんだな」
隼蘭は、何故だかとても腹が立って、もう耐えられないと告げた。
ずっと胸の内にくすぶっていたものを、男の前にさらけ出し、みっともない程に男を罵った。
どうかしていた。
けれど、それは全部本当の気持ちだった。
隼蘭がそんなことを考えていたとは思わなかったと、男は本気で言った。
憎らしい。少しは、人の心に気付くべきだ。
隼蘭は男をそう詰った。
「悪かったよ」
男は、ずるい。
傷ついたという顔で、男は目を伏せた。
「でも」
男の『でも』は、さらにずるい。
「でも、俺は鈍感だから、言われないと分からない。たぶん、これは変えられない」
「なら、もう別れましょう」
そう言う以外に何もないところまで、隼蘭は追いつめられてしまった。
あんな想いは、もうたくさんだと思ったのに。と、隼蘭は溜息を落す。
やはり、自分もずるいのだ。
隼蘭は、まだ深い眠りの中に漂ったままの男を残して、寝台を離れた。
そうして、一年前と同じく、そっと身支度を始めた。
みっともない姿を、男に見せたくはなかった。
必ず、男がまだ寝ているうちに起きて、髪を整え、化粧をした。
くたびれた肌は隠しようがなかったが、それでも何もしないよりはましに思えた。
男は、そんな隼蘭に不満を漏らしたことがある。
「なんだか隙がなくて、詰まらない」
隙などみせたら、裸足で逃げ出すくせに。と、隼蘭は笑いながら答えた。
隼蘭は、必要以上に年上ぶっていた。
年上には年上なりの、若い娘にはない良さがあるはずだと思い込んでいた。
だから、いろんな噂も余裕をもって聞き流しているふりをしてみせたし、男のことをやんわりとたしなめてみたりもした。
年上の女を演じていたのだ。
「バカね」
そんなことをしなくても、年上なのは年上なのだ。
それでも。それが分かっていても、やはり起き抜けの化粧は止められない。
さらに、自分のバカさかげんに、自然と笑みがこぼれた。
隼蘭の身支度が完璧に整っても、男は起きる気配を見せなかった。
昔から、よく眠る男だった。
眠りすぎだ。
日が高くなって男が帰っていくのでは、近所の手前みっともないので、一年前の隼蘭は男を無理やりに起して、追い立てた。
男は、ぶつぶつと文句を言いながら、帰っていった。
本当は、ずっと一緒にいたかった。
隼蘭は惜しいことをしていたと、今では思う。
今、男の寝顔を眺めている、この時間がとてつもなく愛おしい。
男の唇から、言葉が零れる。
何を言ったのか、隼蘭には分からなかった。
男は、よく寝言を言う。けれど、そのほとんどを隼蘭は理解することが出来ない。おそらく、言葉が違うのだろう。
男が寝返りをうつと、その白い顔は向こうにいってしまった。
あら、残念。などと、隼蘭は微笑む。
そうして、男の細い首と、骨ばった背中を眺めているのも、いいかと思った。
男は、線が細い。
贅肉などはない体には、うすい筋肉がついているが、お世辞にも逞しいとはいえない。悪く言えば、貧弱な体つきをしている。これで剣客などという、物騒な商売をしているというのだから、驚きだ。
確かに、男の体には剣客らしく無数の刀傷とおぼしきものがある。新しいものもあるし、古いものもある。古いものの中には、刃物で切られたというのではなさそうなものもある。打撲というか、何かで叩かれたような傷だ。一度や二度で、できるようなものではない。執拗に繰り返された結果が、これのように思える。
なんでこんな傷痕があるのか、男は自分のことをほとんど話さないので、想像するしかない。
生きるということは、楽なことではないと、男の体の疵は言っているようだ。
本当だ。
隼蘭は、はっとする。
生きることは、決して楽ではない。雁のような、安定している国で暮していても、何が起こるか分からない。病や事故で、突然死ぬことになるかもしれない。
隼蘭の夫であった人もそうだ。
少し体調が悪いと言って、その晩は早く寝てしまった。そして、翌朝にはすっかり冷たくなっていた。
病気を隼蘭にうつしてはいけないからと、自分は居間に横になっていった夫の顔は、今でも隼蘭の脳裏に鮮明だ。
医者にきちんと診せる暇もなかった。
しばらくは、立ち直れなかった。後を追って、死んでしまおうとも考えたし、そうしようとした。それは未遂に終ったので、今こうしているという訳だが、その当時の自分が、今の自分を見たら、どう思うだろうか。
生きていると、どうしても死んでしまった者よりも、生きている人に目がいくようになってしまう。そうすることで、生きようとする。
人というのは、弱いものだ。そして、強いものだ。
隼蘭は立ち上がり、寝台に近づいた。
男の顔を覗き込むと、眉間に皺を刻んでなにやら苦しげだ。
隼蘭は、男の髪に触れる。その黒は深く、何ものも寄せ付けない。
男の額を撫でる。暖かい。
男は生きている。そして、隼蘭も生きている。
この先、この男との関係はどうなっていくのか。不安はある。
これきりになるかもしれないし、そのまままた元のような関係になるのかもしれない。
もしかしたら、良いお友達という可能性も、あるのかもしれない。
いや、それはないだろうなと、隼蘭はその考えを笑い飛ばした。
そっと、男の体に夜具をかけなおし、隼蘭は寝台にそっと座った。
―― 今は
今は、こうして男を見ていようと思った。
男が目覚めるまでは、まだ何も始まらない。
その先のことは、そのときに考えればいい。
今は、ただこの男の側にいよう。
この愛おしい男が、目覚めるまでは。
雁編始末記 『愛しい人が目覚めるまでは』 了
やってみたかった。六条御息所……生霊になりませんように。合掌。