天涯~雁編~   作:清夏

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『心配の種』

「う……」

 今までに、もっと凄惨な現場を見たことがある。にも関わらず、真佳は思わずその光景に呻いた。

 大通りからちょっと奥まったところにあるその小路には、人だかりができていた。

 普段は人通りも少ないところなのだが、この時ばかりはまるで祭か何かのようだった。

 

 血が、おびただしい血がその一角にぶちまけられていた。

 およそ尋常な光景ではない。

 地面の血溜りから立ち上る臭気に、思わず吐き気がこみ上げてくる。

 大量の血がそこにはあったが、その血を流したはずのものがそこには居なかった。既にどこかへ運ばれたとか、そういったことなのだろうと真佳は思ったが、周囲からもれ聞こえてくる話からすると、そうではないらしい。

 この場所には、遺体もけが人もなく、ただこれだけの血があったのだという。

 真佳は、その不気味な話にも筋道の通った理由というものがあるはずだと、本能的に思考を巡らせた。

 これだけの血だ。これの持ち主が一人だとしたら、生きてはいまい。死んでいないとしたら、複数人のものであるだろう。

 ここで殺人が行われ、被害者の遺骸は加害者によって持ち去られたのかもしれない。

 ここで大人数での斬りあいがあり、決着はつかず、互いに怪我を負いながら、それぞれこの場を離れたのかもしれない。

 そもそも、この血が人のものであるかどうかもあやしい。

 

 皆、口々に憶測を話すが、誰も正しい答えを知らなかった。

 ただ、誰もが不安をかき立てられていた。

 この街は、平和だ。めったに刃傷ざたなど起きはしない。こんな文字通り血なまぐさいことには慣れていない。何があったのか、血を流した者も、流させた者も分からぬ現状では、いつ自分にその刃が降りかかってくるか、知れたものではない。

 

 真佳は、その人々の危惧の渦を何となく離れて眺めている自分に驚いた。所詮は、通りすがりの者の気安さなのだろうか、それとも真佳自身が血に慣れてしまったのだろうか。

 いや、絶対に後者ではないと、真佳はムカムカする胸の辺りに教えられた。

 真佳は、そっとその現場を離れた。

 少し、不安はあったが、それも直ぐに消えた。

 

 

 

 寺小屋の門を潜ったとき、真佳は鼻の奥にツンと血の匂いが残っているような気がした。

 何気なく真佳は通りの方を振り返ったが、特になんてことはない。人々が歩いては、すれ違っているだけだ。

 確かに、先に見た血なまぐさい現場のことを考えれば、雁も平和だとは言えない。

 しかし、街に妖魔が現れるような柳に比べれば、実に平和で、にぎやかで、あきらかに栄えている。つまりは、柳はどこか不穏で、寂しく、廃れているという印象だったということだ。

 国境を少し越えただけで、こんなにも違うものなのかと、今更ながら痛感する。

 国とは何なのだろうか。真佳は溜息をついた。

 

 寺小屋の中も実に平和そのもの。

 神妙な顔をしながら筆を握り、半紙に向かっている子供もいれば、隣の子にいたずらをする子もあり。

 その子供らと机を並べて眉間に皺を寄せながら字と格闘している、おそらくは二十代の男もいる。

 真佳は、門下生の間をゆっくりと歩いてまわる堺仁の柔らかな微笑みに、安らぐものを感じた。

 堺仁と目が合う。真佳は、目で挨拶をした。

 珊揮とともに仕事をし始めた頃からここに出入りしているが、真佳がここに来るのは、一年ぶりだ。

 堺仁は真佳に歩み寄り、挨拶もそこそこにこう言った。

「戒莉が昨日から帰って来ないんだよ。居場所に心当たりあるかい」

 

 真佳は、いきなり聞かされたその名に、眉をひそめた。

「いえ」

「そうか」

 堺仁は、視線を下に向けながら、この後の差配を思案顔だった。

「そんなに心配しなくても、そのうち帰ってくるんじゃないですか。あれも朝帰りぐらいするでしょうし」

 堺仁は戒莉を心配しすぎると、以前から真佳は思っていた。子離れの出来ない親のようだ。それは、珊揮にも言えることだ。

「そういえば、珊揮は?」

 きっと珊揮のことだ、戒莉を探し回っているのかもしれない。

「あいにく本宅の方でね。あちらも取り込み中で、まだ戒莉のことは知らせてないんだ」

 堺仁は、溜息を落とした。

 気付けば、門下生が全員手を止めて、真佳と堺仁の方を見ている。

 堺仁は常弘を呼ぶと、その場を任せ、真佳を客間に誘った。

 廊下を歩きながら、なおも堺仁は戒莉を心配する言葉を発し続けた。

「戒莉は、どんなに遅くなっても夜には帰って来るんだよ。なにしろ、夜遊びとかしない子だからね」

「はあ」

 全く以って、甘い。生返事をするしか、真佳には術はなかった。

「それに、気になることもあってね」

「はい?」

 

 昨日の朝、女がひとり珊揮を尋ねてきたのだという。女は珊揮に妓楼から身請けされたのだと言い、珊揮を追ってここまで押しかけてきたらしい。 珊揮の拾い癖がまた出たらしい。真佳は苦笑した。

 その女が戒莉にからんで、珊揮の元に連れて行けと言って暴れていたという。

「それで、かまわず戒莉は岳昭のとこに行ったらしいが、女はその後を着いて行ってしまったんだが……」

 堺仁の説明に、真佳は戒莉の苛立つ様が目に見えるような気がした。

 女は荷物を常弘に半ば強引に預けていったということだ。

「だが、その女もここには戻って来て居ない」

 堺仁の言いたいことは分かる。

 戒莉がその女と居るとは考えにくいが、女も戒莉の元を放れては呉れない勢いだったのだ。しかし、状況はこうだ。戒莉は女もろとも、姿を消した。

「でも、まだ昨日のことですよね」

 そんなに心配することはないはずだ。戒莉とて、成人していないとはいえ、全くの子供でもない。

「まあ、こう気をもんでいるのが笑い話にでもなればいいが、どうも嫌な感じがするんだよ」

 堺仁は自嘲し、声を落とした。

 

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