巡る悪夢の果てで   作:もちもちおもち

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prologue~巡る悪夢の果てで

 

死体のように白く、それでいて儚げな美しさを感じさせる花が咲き誇る庭園に男はふと現れる。

顔を上げる男の目の前に広がるのは燃え盛る工房。しかし炎は不思議と花に燃え移ることは無く、ただ悠々と燃え続けている。

狩人の狩装束に身をつつんだ男は燃え盛る工房になど目もくれず、何度潜るか数えることすら忘れた格子の扉を潜った。

そこにいるのは車椅子の老人。大樹を背にして男を待っていた。

 

1歩、また1歩と狩人は老人へと足を進める。

 

それは何度繰り返した事か、今では思い出すことすら出来はしない。されど悪夢は繰り返す。

 

覚めない夢、終わらない悪夢。

ヤーナムの血を輸血したその時、それは始まった。時には獣狩りを行おうとし、自らが獣に堕ちた事にも気付かずに獣狩りを続けようとする群衆を。

時には血や狩りに酔い、オドン墓場にて己を見失い自分の妻にさえ手をかけた狩人と。

聖職者の獣、血に乾いた獣、教区長エミーリア。

元は人であったもの。悍ましい怪物を狩る狩人など聞こえはいいが、その実は人殺しと何ら変わりはない者。

最初は何度も殺されたその者達を狩人は狩ってきた。

 

殺されたとしてもそれは悪い夢のようなもので終わる。しかしそれは夢と言うには悍ましく忌々しい悪夢として脳裏に焼き付き、それは現実と混濁する。

 

狩人は老人へ自らの手に持ったその歪な鉄塊をゆっくりと老人へと向ける。その行為に意味はあっただろうか、問いを投げれども返ることは無い答え。

真実を垣間見、身を滅ぼすほどの膨大な世界の理。雫ですら劇薬になる宇宙の神秘。それはまるで深淵に絶望を焚べるかのよう。

 

突きつけられた得物に、老人は薄く笑った。

 

「ハッハッハ……なるほど。君も何かに呑まれたか、狩りか、血か、それとも悪夢か?……まあどれでも良い」

 

ゆっくりと車椅子に手を掛け、老人は立ち上がる。

 

「そういう者を始末するというのも、助言者の役目というものだ……」

 

腰に差してある歪な曲刀。背中に背負っているボロ布が巻かれた二つ折りの柄のようなそれに、甲高い音を響かせながら手に携えた曲刀を合体させた。

足を開き、腰を下げながらその手に握りしめたのは既に曲刀などではなく、身の丈ほどまである巨大な大鎌であった。

 

「ゲールマンの狩りを知るがいい」

 

 

狩人と古狩人が対峙する。対する敵は人か獣か

 

 

どちらが獣かなど、既に意味など無いのだけれど

 

 

 

 

 

 

───────────────────

 

 

 

 

 

 

「全ては……長い夜の夢だったよ……」

 

小さな光の粒子となって霧散していくゲールマン。安らかに眠るよう倒れる彼だったが、それを狩人は道端の石ころを見やるように一蹴すると赤い月を見やる。

何度殺しただろう。何度狩っただろう。そんなことも忘れかけるほど永く、気の狂う永久の時間を費やしてきた。

 

月の魔物は慈悲むような、まるで我が子を抱く母親のように手を伸ばしてくる。だが、それを狩人は拒んだ。手が届く前に左手に握りしめた散弾銃を引き抜き、月の魔物の脳天に見舞う。

 

最早時間の無駄だ。狩人は地を蹴ると、月の魔物に向かって対峙した。

 

 

 

 

──────────────────

 

 

 

 

「はっ、はっ、はっ……」

 

月の魔物を殺したところで、またあの診療所に戻ると思うと心が折れそうになる。だが、前に進むことを辞めてしまえばヤーナムに蔓延る獣のそれと何が変わろうか。

獣の病の罹患者、古き狩人達、メンシスの狂人共。それらを狩り、殺してきた私は人で在れるだろうか、獣に堕ちることすら出来なくなったこの体は本当に『人』として在れるのだろうか。

 

覚めない夢はない。そう信じてきた私にメンシスの悪夢で出会った狂人は声高に言った。

 

『悪夢は巡り、そして終わらないものだろう!』

 

その通りだ。終わりなど無かった。巡る悪夢で聞いたその言葉の意味を理解した時、もう既に遅かった。

夥しい血の遺志によって変質し、強化された肉体は獣より強靭になり、その体は人と言うには既にかけ離れ過ぎた。

出来の悪い物語だ。物語の初めと終わりを繋ぎ合わせ、何度も、何度も繰り返してなお終わりの見えない物語。

 

意識が消えていく、存在が朧気になっていく。上位者となる感覚、忌々しい上位者共の仲間入りになるなど吐き気がしたが、それでも──それでもなお、俺は意味が欲しかった。

救いなど、今更望んでなどいない。それはとうの昔に捨て去ったもの、絶望の闇の中でも光を信じて進み続けた結果がこのザマだ。

 

「ああ……私は、俺は、また───」

 

誰でもいい。

 

───この悪夢を止めてくれ。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

狩人の夢、狩人の工房へと繋がる坂の下に静かな灰色の髪色をした美しい女性が膝をつきながら祈っている。

苔むした墓を包むようにして咲き誇る死体のように白く、そして美しい花が風になびいて悠々と揺れ動く。

女性は髪に付けている小さな髪飾りを嬉しそうに撫でると、手を組んで目を瞑った。

 

「──行ってらっしゃい。狩人様。あなたの目覚めが、有意なものでありますように」

 

女性の声色はとても穏やかだ。誰も居なくなったその場所で、人形は一人祈りを捧げてゆく。

 

 

 

 

 

────────────────────

 

 

 

 

 

混濁した意識の中、ふと体の感覚を感じ始める。霧がかかった意識が覚醒すると同時に、血が体に巡っていく。

目覚めを拒むように瞼が重い。しかし鉛のように重いその瞼を無理やり開いた。ゆっくりと、今から始まる終わりのない悪夢に目を焼かれながら。

 

「────?」

 

だが現実は違った。目覚めた場所はヨセフカの診療所では無かった。それは気の狂う程の悪夢を繰り返した狩人でも見たことのない場所。

目に広がったのは巨大な空間。天井や壁に覆われ、全く光の差さぬ場所だが、不思議と暗さをあまり感じない。

洞窟のような空間には辺りを照らすように淡い光が漂い、あまり暗さを感じない程度に光があった。

 

壁にもたれ掛かっていた体を起こし、狩人は立ち上がる。砂ぼこりを払い、軋む体を動かしながら周りを見渡す。

奥深くまで続く広い空間に狩人は首を捻る。それは、悪夢を繰り返している狩人も見たことのない景色。何故、こんな場所にいるのか。

月の魔物を殺したことは覚えているというのに、それから何があったのかが思い出せない。朧気な記憶を閉ざすように思考に霧が掛かる。

 

「そんな事、今更か」

 

諦めるように言葉が漏れた。何があったのか思い出せない事など、今まで幾度もあった。血の医療により失った以前の記憶。ヨセフカの診療所にあった自筆の殴り書き。

青ざめた血を求めよなど、よく言えたものだ。記憶を失う以前はその正体など知る由もないのだろう。それを何故知ったのか、何の為に求めたのか。考えれば考えるほど疑念が浮き上がってくる。

記憶を失う以前の自分に憤りを覚える。何故求めたのか、始まりも過程もあってなお、終わりの見えない道筋。既に決まっていた悪夢の輪廻を繰り返していた自分は、なんと滑稽で無様なことか。

 

「………」

 

考えを振り払う。何故此処にいるのかなど分からない。此処がヤーナムか聖杯の中なのかは検討もつかないが、今は前に進むしか道は見つからない。

狩人は腰からあるものを取り出した。それは、狩人の夢で水盆の使者たちから授かって以来、獣を、狂人を、狩人を、そして──上位者を。

ありとあらゆる異形の化け物共を狩り続けた狩人にとって原初の仕掛け武器であり、その最も愛用した仕掛け武器。

最初の狩人達の武器から改良され、獣を狩ることに特化した鋭利かつ歪な刃はより酷い獣化者に効くとされ、獣狩りに用いられたその武器を右手に握る。

 

そして、左手には古びた散弾銃を。それは獣狩りの時代、獣の獣皮に対して鉛の弾丸など効果が無かったとされ、その代わりに用いられたのは水銀。

水銀に血を混ぜることによって、水銀は弾丸の形をとり、その威力を確保した。

 

狩人は両手に武器を持ち、しっかりと握りしめた。そして、右手に持った歪なノコギリを前方に振るう。

縦、横、斜めへと続けざまに振るい、その連撃は幾度の狩りで洗練され、狩人が磨き上げてきた。ヤーナムに蠢く異形を狩り続け、如何に早く、効率的に敵を狩ることに特化した独自の技術。

 

軋んだ体を動かして調子を確かめ終わると、その動作を確認するように一つため息をついた。

手に持った武器を一頻り振り終わる。そして、ゆっくりと狩人は武器を持った腕を体の横に戻そうとすると、突如として空気が変わる。

ピリピリと肌を伝って体に信号を送るそれは、狩人に警戒心を植え付ける。

耳へと聞こえる微かな足音、無差別な殺意は感じ取りやすく、それは狩人の背後に忍び寄る。

狩人は一つ溜息を吐くと、手に握りしめた歪な得物を真後ろに振るった。

 

──ああ、全く

 

「匂い立つなぁ……」

 

「ギッ…!?ギギッ……」

 

狩人は背後を見ることなく、歪なノコギリを『何者』かの首元に深々と喰い込ませた。

聞くに耐えない呻き声が聞こえる背後へと顔を向けると、狩人は黒いマスクの中に覆われた口を開き、歯を剥き出しにする。

狩人の目に映るのはヤーナムでは見ることのなかった緑色の体色をした人型の獣であった。狩人が獣だと判断した生物、ゴブリンと呼ばれるそれは踠き苦しむこともせず、事切れたように痙攣していた。

肉を切り裂き、骨を断つ感覚。それを狩人は嫌という程知っている。何度も何度もその手で屠ってきたのだから、忘れる事はありえない。

くすんだ灰色の目に宿るのは憎悪の灯火。酷く淀み、その灯火は深淵の如く塗り潰されている。狩人はその眼をゴブリンへと向けると、地に響くような低い声で言った。

 

「──えづくじゃあないか」

 

手に持ったノコギリに更に力を込め、痙攣し事切れているゴブリンの首を寸断する。血飛沫が降りかかり、狩人の体を赤く染め上げる。

首を絶たれた胴体は力なく地面に倒れると、その体が、絶たれた頭部が、小さな粒子となって宙へと霧散した。

 

だが、これだけでは終わらない。

 

ゴブリンは、ダンジョンの壁から這い出てくる。それはまるで卵の殻が割れ孵化するように、目を光らせながら獲物に目を付け、攻撃するのを今か今かと待ち望んでいる。

周りに見えるだけで何十体もいるそれは狩人に向かって地面を蹴り出した。

何十体のゴブリンが狩人へと一斉に襲いかかる。しかし何の技術もなく、ただ力任せに振るったゴブリンの攻撃を狩人は難なく横へと避けた。

 

「グギャギャ──!」

 

更に攻撃を仕掛けようと襲いくるゴブリン。それを狩人は軽く横にステップし続け、ゴブリンの攻撃を躱し続ける。

すると、あろうことにもゴブリンは狩人の姿が見えないかのように攻撃の矛先が同種のゴブリンへと向き、同士討ちをしてしまう。

 

「所詮は獣か」

 

あまりにも知性が低いゴブリンに狩人はそう吐き捨てた。警戒していた自分が馬鹿馬鹿しくなるほどの知性の無さ、まるで赤子が中途半端な力を身につけたように知性の無い行動に呆れ果てると、狩人は同士討ちをしていたゴブリンたちに肉薄した。

 

「ゲギャ──」

 

「グギャギャッ──!?」

 

一体、二体、三体とまるで紙切れのようにゴブリンを屠っていく狩人。大振りの攻撃を躱し、大きく隙の出来た胴体に歪な鉄の刃を見舞う。

逃げる者や、無謀に立ち向かう者、それを何体と狩り続けていく。

逃がしはしない。逃げようと走り出した最後のゴブリンの頭蓋を潰すようにして鉄塊を振り下ろした。

 

すると粒子のように光の粒となって霧散したゴブリンから紫色の小さな石がふと地面に落ちる。

ゴブリンから出てきたそれを拾い上げると狩人は辺りを見渡す。

先程まで狩り続けていた緑の体色をした獣がいた場所には手に持ったそれと同じ様な意思が幾つも落ちていた。

 

形も大きさも不出来な紫色の石は先程の獣から出てきた事もあり、血石の欠片のような素材に似ている。だが、血石の欠片は狩人の仕掛け武器を強化する為の下位素材。

手の平に収まる程度の紫色の石は、小さいながらも神秘に近しいものを感じる。だが、見た限り狩り道具の様な触媒として使用するものには見えなかった。

何に使うかはっきりとしないものだが、使えなければ石ころのように獣の陽動に使えるだろうと思い、それを懐へと仕舞おうとしたその時。

 

「────ォォォォ」

 

突如、空気を振動させるような獣の咆吼が狩人の鼓膜を大きく震わせた。

空気が変わった。大気が震え、振動が肌を直接伝わって響き、その振動は洞窟内を揺るがすほど。

音は大きくなる。それも徐々に狩人のいる方向へと向かってきている。少しづつ見え始める咆吼の主と同時に、小さく白いものが見えてきた。

 

「──ヴヴオォォォォォ!!!!」

 

「うわああぁぁぁぁぁ!!!?」

 

それは少年だった。白髪の少年は涙ながらに角の生えた人型の獣から追われている少年。

狩人は驚愕に目を見開いた。自分の知る限りではあんな青年は見たことがなかった。それに獣の病が蔓延り、まともな人間が数えるほどしかいなかったヤーナムでは子供など直ぐに死んでしまうからだ。

その事実に少なからず驚きを覚えている狩人。すると、白髪の少年は狩人の方向へと来る前に横道へと走っていってしまった。そして、それを追うようにして牛型の獣は少年へと向かっていった。

 

「拙いな」

 

狩人はそう言葉を零すと地を踏みしめた。それは少年を助けたかったからではない。欲しかったのは情報。此処がヤーナムなのか、それとも聖杯の中なのか、全くと言っていいほど判断材料がない。

それに緑色の体色をした獣、そして牛のような人型の獣など、何度も悪夢を繰り返している狩人でも知りえない情報。

今あの少年を死なすわけにはいかない。漸く掴んだ手掛かりを潰してしまう訳にはいかない。そう考えた狩人は少年が逃げ込んだ横道へと足を走らせた。

 

 

 

 

 

───────────────────

 

 

 

 

少年──ベル・クラネルは後悔していた。

 

美少女を求めてダンジョンに潜ろうなど、そんな浅はかな考えを持って日々何人もの人間が死んでいるダンジョンへと潜ろうなど考え無ければ良かったと。

 

『冒険者は冒険してはいけない』

 

ギルドのアドバイザーに言われた言葉が脳内を反復する。浮ついた考えでダンジョンに挑もうなど、考えが甘すぎた。

背後から迫ってくる牛頭人体の怪物。本来ならばもっと上の階層にいるはずのミノタウロスが今まさに自身を喰らおうと襲いかかってくる。

レベル1ではどう考えても勝てない相手に、ベルがした行動は逃げの一手だった。

勝とうなど思ってはいけない。相手は矮小な自分より強大で絶対的な捕食者。狩る側と狩られる側、今のベルはその後者だった。

 

走る、走る、走る──

 

「ヴヴォォォォォ!!!」

 

「うわあぁぁぁぁぁぁ!!!」

 

背後からミノタウロスの咆哮が唸りを上げる。恐怖が声となって叫びを上げる。

追いつかれてはいけない。走りを止めてはならない。息が上がり、今にも崩れそうな体は寸での所でベルの体を繋ぎ止める。

だが、それも長くは続かない。何十もの通路を抜けて辿り着いた先は広いフロア。正方形の空間の隅に追いやられたベル。

 

「ひっ……」

 

ミノタウロスの赤い瞳が妖しく光る。圧倒的な力の差を見せつけられ、恐怖で歯がカチカチとなる。

物語の英雄に憧れ、それを目指そうとした自分は英雄のようには戦えず、尻餅をついて無様に後ずさりするだけだった。

絶望に打ちひしがれるベルにミノタウロスが筋骨隆々のその腕を振り上げる。振り上げた右腕が自分を潰す未来を幻視する。

 

だが、その未来が訪れることは無かった。

 

「ヴヴォッ!?」

 

「えっ──」

 

今の今まで自身を恐怖の淵に陥れていた筈のミノタウロスがくぐもった苦悶の呻き声を上げると共にその巨大な体の体制が崩れた。

今まで何も出来ずに逃げ回っていたミノタウロスの初めて見せた苦しみに踠く様子。

何が起こっているのか把握出来ずに唖然としているベルに真っ赤な粘性のある液体が降り注いだ。

 

「うわわぁっ!?」

 

血だ。赤いそれは、真っ赤な血だった。思わず後ずさりし、ミノタウロスを見る。すると、足を崩したミノタウロスの足元に血が吹き出し、吹きこぼれた多量の血が地面へと広がり、血溜まりと化している。

それと同時に肉が引きちぎれるような、もしくは生きている者から『何か』を奪うような不快な音が這うようにその耳に届いた。

ぐちゅり、ぐじゅり、と聞いていて身体中に凄まじい怖気が走る音は思わず耳を塞ぎたくなる。

されど既にベルの体はミノタウロスから逃げている時の恐怖で耳を塞ぐ気力も無い。

 

すると、その音がより一層高まった。

夥しい血が降り注ぐ。『それ』を引き抜かれたミノタウロスは一頻り呻き声を上げると、そのままベルに向かって勢いよく倒れ込んできた。

ハッと我に返ったベル。倒れ込んでくるミノタウロスを地を這うようにして寸での所で避けると、荒々しく呼吸を繰り返す。

死にかけの状況だった今、酷く心臓の鼓動がうるさい。しかし、自分が生きているという証明を感じれたことは凄く嬉しかった。

 

「た、助かった……」

 

ダンジョンの中だというのに、ベルは安堵の溜息を吐いた。張り詰めていた緊張の糸が切れ、ダンジョンの壁へと凭れ掛かる。

ベルは呼吸を整えながらミノタウロスを倒してくれた人物に視線を向けた。

 

立っていたのは枯れた羽根つき帽を目深に被り、鼻から口元を覆うようにしてマスクを付けている男。

男の右半身はミノタウロスの血がべっとりとこびりつき、尋常ではない程の血を被ったのか、その体からはまだ温かい血液が滴り落ちていた。

見たことのない歪なノコギリのような武器と、左手に持っている意匠の彫られた金属製の筒のような物を持っている。

明らかに不気味で近寄り難い雰囲気のある人物だったが、この状況においてベルを救ってくれた恩人。

ベルは意を決して感謝の言葉を言う。

 

「た、助けてくれてありがとうございます」

 

「…………」

 

男は感謝の言葉を意に返すことも無く確かな足取りでベルに向かって歩みを進める。ベルの方、無言で体を血塗れにしながら近づいてくる男に少なからず恐怖を感じ、声が出せなかった。

男は更にベルのすぐ側まで寄った。そして灰色の瞳でベルを見下ろすと、重苦しい張り詰めた空気の中その口を開いた。

 

「少年、聞きたいことがある」

 

「き、聞きたいことですか?」

 

突然の事にベルはおどろおどろしい口調になりながらもそう聞き返す。

ミノタウロスを倒すほどの実力を持っている人物が聞きたいことがあると言った。

どこにでもいるレベル1の自分に聞きたいことがあると言ってきたことが不思議で、どこか不相応にも見える。

 

「此処はどこだ?」

 

「えっ?」

 

男は真剣な眼差しでそう聞いてきた。何故そう聞くのか、何故知らないのか、疑問に思う点は幾つもある。

迷宮都市オラリオ。それは世界有数の大都市であり、世界唯一の迷宮都市。その中心に存在するダンジョンと呼ばれる神々でさえその全貌が明らかになっていない地下迷宮。

今まさにその場所に立っていながら、この場所のことを全く知らないとばかりに問い掛けてきた男は捲し立てくるように言った。

 

「どうした。口が聞けぬわけではないだろう」

 

「いっ、いえ!その、此処はダンジョンですけど……ご存知ないんですか?」

 

「ダンジョン……聖杯の中か?」

 

訝しげに眉に皺を寄せる男の口からそんな言葉が漏れる。だが、ベルは『聖杯』という言葉に聞き覚えはなかった。

 

「……聖杯って言うのは分かりませんけど、此処はダンジョンで間違いないですよ」

 

「聖杯を知らない……ならば何故君はここにいる。儀式を行わなければダンジョンは生成されないはずだが?」

 

「儀式?えっと、その……すみません。多分、貴方が言うダンジョンとは違う……と思います」

 

多分──いや、それは確信に近かった。男が言うダンジョンとオラリオのダンジョンには明らかな相違点があった。まず、男が言った『聖杯』『儀式』『生成』という単語。

オラリオに来て日があまり経っていないベルでもその単語はダンジョンの話を聞くにあたって聞かされることは無かった。

知らないならばギルドのアドバイザーが伝えるだろうし、それを伝え忘れるようなアドバイザーではないことはベルも知っていた。

男はベルの言葉に苦々しく眉を顰めた。心の何処かで確信していた事が現実味を帯びて突きつけられる。

 

「……確認したい事がある。君は、ヤーナムという都市を知っているか?」

 

「ヤーナム、ですか?いえ、聞いたことないです。それに、このダンジョンがある場所はオラリオという都市ですけど……」

 

男が目を見開いた。──オラリオ。その地名は男にとって重要なものだった。何故なら、幾度もの悪夢を体験している狩人でさえその名前を一切聞くことがなかった地名。だが、それが問題だった。

最早ヤーナムを知り尽くしたと言っていい狩人が知らない地名というのはまず有り得ない事だった。否が応でも知ることになる場所は幾つもある。だが、知らない地名、場所となると、それは狩人にとって異常な事であるのは間違いなかった。

 

「クククククッ……」

 

だが、自然と笑いが込み上げてくる。自身が夢を見ているのか、それとも此処はまだ悪夢の中なのかは分からない。

それでも、此処はヤーナムではないという事実に狩人は歓喜した。そして情報源であるベルの前でしゃがむと視線を合わせた。

 

「少年、悪いが洗いざらい話してもらおうか。オラリオとは何なのか、このダンジョンは何なのか、この世界は何なのか、全てだ。全て答えてもらおう」

 

狩人はベルを食い入るように顔を寄せ、黒いマスクで覆われた口が狂うような笑みで歪ませた。

啓蒙が高まるのを感じる。

 

それは世界の真実を暴く瞳。

それは高次元の思考。

それは宇宙のように際限無く広がる智慧。

 

「えっ……いや、その……」

 

ベルはその言葉に戸惑う。命を助けてもらった以上その恩義に報いたいという気持ちもあるが、その反面、ここでの常識的な知識が欠落している目の前の男はとても歪で、言い知れぬモノを孕んでいる気がした。

 

「と、取り敢えず、ダンジョンから出てからでもいいですか?」

 

「ああ、構わない。外にも興味がある」

 

ベルが話を逸らすようにそう言うと男は立ち上がり、未だに尻餅をついているベルに手を差し出した。ベルは少し戸惑ったが、その手を取って立ち上がった。

 

「ありがとうございます。あのっ、僕ベル・クラネルって言います!すみません、名前を聞いてもいいですか?」

 

「私の名、か……」

 

男の眉がピクリと動く。名乗る名前など、既に持ち合わせてなどいなかった。名前など、最後に名乗ったのは何時だったか。

度重なる狩りによってそんな物は何時しか不必要になった。

カインハーストの招待状にあった名前、一体それは何だったか、自身の名前だったというのに。

死んだことですら夢と化す。そんな悪夢と夜に囚われていた狩人。夢と現の境目が混濁するほどの狩りは、自らが最初に与えられた筈の記憶が霧で覆われるように思い出せなくなっていた。

 

「?」

 

暫く思考に耽っていた所為か、思考の海から脱すると、少年が首を傾げていた。

しかし、どうしたものか。狩人自身、名乗れるような名は持ち合わせておらず、仮の名前も存在しなかったが特に隠す必要も無かった。

 

「生憎だが、私に名は無い」

 

「な、名前が無いんですか……?」

 

名がない。そう狩人が言うと、ベルはバツの悪そうな表情で顔を歪ませた。まるで聞いてはいけない事を聞いてしまったかのように、申し訳なさそうに口を噤んだ。

すると、それを見た狩人は顎に手を当てて考えるように言った。

 

「だが、そうだな……私の事は狩人とでも呼んでくれればいい」

 

「……?狩人……ですか?」

 

「『私達』の総称だ。それといって思いつく名も無いんでな」

 

「……分かりました。狩人さん、外に行くのでついてきてください」

 

「分かった」

 

そうしてベルが歩き出す。ミノタウロスの血が被って血塗れになっているが、それといって傷を負っていない為、足取りは重くない。

そして、そのまま歩き進めようとしたその時、突然ベルの動きが止まった。

 

「どうした?」

 

狩人が訝しげに聞くが、ベルは返事を返す様子はない。何かがあったのかと視線を先に向けた。

 

「あの……」

 

ベルの視線の先にいたのは少女だった。長く伸ばした金髪は煌びやかに輝き、その髪の色と同じく透き通るように美しい金色の瞳。

一見華奢に見える少女でも、その身には身動きを重視したライトアーマーと細身のサーベルを身につけている。

この世界を知らない狩人にとってそれが第一印象だった。だがしかし、ベルは目の前の少女の名を知っている様に口を開く。

 

「あ、アイズ・ヴァレンシュタイン……」

 

オラリオの中でも1、2を争う探索系ファミリア。ロキ・ファミリアの探索組メンバー、アイズ・ヴァレンシュタインその人だった。

だがそんなことは全くと言っていいほど知らない狩人はベルが驚いている事に疑問符を浮かべる。そしてその理由を聞こうとしたその時、ベルが肩を震わせた。

 

「ベル、どうし──」

 

「う、うわあぁぁぁぁ!!!?」

 

狩人が言い終わる前にそう叫ぶと、ベルは全速力で走って行ってしまう。突然のことに一瞬唖然とした狩人。金髪の少女がオロオロとした表情で狩人を見たが、それを無視して地面を踏みしめると、狩人はベルの後を追うように走り出した。

 

 

 

 

─────────────────

 

 

 

 

何かに取り憑かれているかのように走り去ったベルに追いついた狩人はベルの首根っこを掴む。すると、前に走っていた体が急に止まり、その勢いで衣服に首が引っかかる。

「ぐえっ!?」というカエルの潰れたようなくぐもった声と同時に、ベルは地面に伏せると、首を抑えて咳き込みながら悶えた。

 

「か、狩人さん……」

 

「言った筈だ。全て話してもらうと」

 

「……すみません。少し気が動転しました……」

 

「詮索はしない。それよりも外について聞きたい。ここから外まではまだかかるか?」

 

「あっ、いえ、もう少しで着きます」

 

ベルと共に外へと歩き出す。すると、狩人の視界にちらほらと徐々に人が多くなっていくのが分かった。それは子供から大人まで、老若男女問わず様々な人種の人々がいるのが分かった。そのほとんどが大小様々な武器を持ち、ベルと同じようにこのダンジョンに潜っている者達だと分かる。

その光景に狩人は思わず立ち止まった。その人種の中に耳が尖るように長い者、背は低いがその体は筋骨隆々としている者、そして──獣の耳を持つ者。

だがそのどれもがこちらに敵意を向けるどころか人の仲間と談笑しながら歩いていた。

 

人と獣が共存している。そんな事実に目を疑うが、一つだけヤーナムとは違うところがあった。それは、此処には肉が焼け、死臭が立ち上り、血の噎せ返る醜悪な臭いが全くと言っていいほどない。

それこそそれは人と同じであり、血を啜り、他者を利用し、己が欲を満たす獣特有の『獣臭さ』が一切感じられなかった。

それどころか、賑やかに笑い合い、肩を並べて楽しく歩く様はどうしようもなく『人』と変わらなかった。

 

「……?狩人さん?」

 

「……ベル、奴らは獣か?」

 

「獣?いえ、彼らは『獣人』と言って、亜人に分類される人達です」

 

「そう、か……ベル、『血の医療』『獣の病』という言葉に聞き覚えはないか?」

 

「血の医療と獣の病ですか?うーん……聞いたことないですね……」

 

やはり、ここではヤーナムの常識が通用しない。『血の医療』『獣の病』とはヤーナムの民ならば知らない者はいないと言っていいほど重要なものだった。

余所者だろうと、ヤーナムに一度訪れれば嫌でも知ることになるだろうそれをベルは知らない。

つまり、此処には獣の病は蔓延しておらず、原因である血の医療による輸血もないという事。

迷宮都市オラリオ──ベルの言ったその都市の名前が頭の中に反復する。目の前の光景を目にして、改めて此処はヤーナムではないと思い知らされた。

 

「いや……知らないならばそれで構わない」

 

「そうですか……あっ、見えてきましたよ!」

 

そう言ってベルが指差した先には巨大な空間が広がっていた。円柱状の空間には上へ向かう為の螺旋階段が設けられており、人々はそれを登って上へと言っているようだった。

そして、それ以上に驚いたのが空だった。太陽が立ち昇り、人々のいる地上を明るい光が照らしている。

 

ヤーナムの鬱蒼とした月夜の光とは違い、なんと豊かで美しいことか。太陽の光が目に入り、眩しく感じる。瞼越しでも伝わるその光はその世界の情景と共に狩人の心に焼き付く。

それはとても心地のいい光であり、地上の人々を照らす。

 

「はははっ……随分と、眩しいじゃあないか」

 

月夜の暗がりとした闇とは裏腹なその光に、狩人はそう呟いた。

 

 

 

 




──『魔石』

モンスターの体内で生成される形も大きさも不出来な紫色の石。

それは神秘の触媒にも似て、だが決して遠いものだ。

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