演義にその名を刻まれぬ男がいた。戯志才。彼の最初で最後の物語。
※この作品は暁様にも掲載させていただいております。

1 / 1
第1話

「桂花、貴女ならばこの状況、どう動く?」

 

 地図に幾つもの石を置き、現状を分析していた華琳は、両目を閉じ思考に沈んでいたかと思うと、思いついたかのように桂花に声をかけた。

 

「敵は百万。それに対して此方の動員できる兵力は約三万。実際に戦闘に参加する敵兵は遥かに少ないでしょうが、それでも十倍程度の差が出ます。動くと聞かれましたが、守りに徹して動かないのが最良では無いでしょうか」

 

 質問を振られた桂花は、少しだけ考える素振りを見せつつ、意見を出した。彼我の戦力差が違いすぎるのである。勝ち目があるとは思えなかった。青州で暴れていた百万の黄巾の残党。それが兗州まで流れ込んできていた。その対処に追われているのである。

 

「そうね。それが最良の案でしょうね。だけど、これは好機なのよ。私が飛躍する為の。だからこそ、勝たなければいけない。曹孟徳の力を、示さなければいけないのよ」

 

 桂花の言葉に、華琳はそう応える。誰が見ても勝てない戦い。それに勝つ事に、意義があるのだ。 

 

「華琳様。わかりました。一人、推挙したい者がおります」

「へぇ……。この状況で推挙したい人物ね。良いわ、言ってみなさい」

「はい、その男の名は――」

 

 圧倒的劣勢な状況。それを覆すため、桂花は一人の男の名を上げた。

 

 

 

 

 

 

 寝台に座したまま、書簡を開く。竹簡では無く、書簡であった。つまりは、紙である。紙は、竹簡と比べて貴重なモノであった。自分に連絡を取るぐらいならば、竹簡に筆を下ろせば良いにも拘らず、紙が使われていた。それは、此度の要件がそれだけ重要と言う事を示している。十中八九厄介ごとだろう。予想では無く、確信。別に自分に予知能力がある訳でも無く、単に経験則だった。

 

「――ごほごほっ。まったく、相も変わらず、勤勉な奴だ」

 

 咳を零す。右手を口元にあてるだけで、それ以上は構わない。と言うよりも、できる事は無かった。暫くすると、僅かに揺らいでいた視界が正常に戻る。対処法は心得ていた。いや、正確には対処法では無いのだが、慣れた事であった。それは、何時もの事だったのだ。

 ゆっくりと右手を見詰めた。そのまま傍らにある、汚れを拭う為の布を一枚手に取りながら、腐れ縁とも悪友とも取れぬ少女の顔を思い出す。黄色い独特な帽子が特徴的な、黙っていれば可愛らしい少女だった。以前あった時に、自分の得た主人の素晴らしさを延々と語っていたのを思い出す。自分の主人に心酔しているのは構わないのだが、見ず知らずの人物の話である。最初は興味深く聞いていたのだが、度が過ぎればその限りでは無い。会いに来る度に、日が沈むぐらいの時間、延々と同じ人物の話をされれば、誰でも嫌にもなるだろう。好奇心が許容する範疇をゆうに超える長さのアレは、一種の拷問であったのではないだろうか。未だにそんな事を思う。

 とは言え、それほど熱心になれる主を見つけた事に関しては、正直羨ましかった。自分は未だに、主君として戴くべき人物を見いだせてはいなかったからだ。

 主君とは何か。王とは何か。天とは何なのか。常々、そんな事ばかり考えていた。答えは未だ、出てはいない。

 今でこそ考えてばかりいるが、若い頃は――いや今も十分若いのだが――己の腕を頼りに諸国を見聞したこともある。だからこそ、見た。今のこの国は、酷い有様だった。民に笑顔は無く、希望の無い姿ばかりが目に映ったのである。食べるモノも食べられないのなら、それも仕方が無いだろう。

 勿論、笑顔が皆無と言う訳では無い。だが、諦念や絶望の表情を見る数に比べれば、その絶対数は遥かに少ないと言えた。言葉に筆舌し難い有様だった。そんな現状は、今の上に立つ者のやり方が間違っていると言う事ではないだろうか。千の言葉を並べるよりも、一度でも下の者たちの顔を見れば解るような事であるのだが、上に立つ者達が顧みる事は無い。否、解っているからこそ、絞るのだろう。既にそこまで腐っているのだ。それが、この国の現状だった。

 

「曹孟徳か。文若の話は宛てにならんが、噂を聞く限り中々の人物なのだろう。が、それとこれとは話が違うな……」

 

 流麗な文字で認められた書簡に目を通したところで、呟く。内容は、何度か要請を受けたものと同じであった。推挙してやるから、曹操軍に来ないか。大雑把にいえばそう言う話であった。傍らにある剣を手に取る。命を預ける、戦場での相棒であった。手にすると、ずっしりとした重さを感じた。手に出来ないと言う訳では無い。寧ろ、自由自在に振り回せる。だが、今の自分にとっては、重いのである。剣は戦場を駆ける者にとって、命を預ける物であり、自分の体の一部であった。その体の一部が、重いのだ。それがどう言う事かを考えると、気軽に返事をする訳にはいかなかった。

 

「まさか、文若が俺の状態を知らないわけでは無いだろうに」

 

 以前に比べて、身体の調子は良くなかった。異変に気付いたのは、それほど昔の話では無かった。身体が万全であれば、此処まで悩む事は無かったと思う。だが、今は不調であった。本気で力を出し尽くせば、死に至るのではないだろうか。そう考えてしまうほどの焦燥を、時折であるが感じた。だからこそ、悩んだ。

 武芸についてはそれなりのモノを持っていたとは思う。が、天賦の才とまではいわない程度のモノだった。弱くは無い。だが、剣を極めるにまでは至っていないかった。兵士としてならば人並み以上に戦えるだろうが、歴戦の将軍と戦えば、勝つ事はまず無理だろう。その位の才であった。ソレは男としてどこか情けなく感じるが、もって生まれた才、いわば天分である。ならば、其処までのモノだと諦めもついた。何よりも、自分の最大の才は、武芸では無いのだ。だからこそ諦めもついた。自身の最大の才と言うのは、用兵だった。兵士を率い、陣形を組み、縦横無尽に動き回る。それが、自分の持つ才だった。将帥として、或いは軍師として戦場を駆ける。個では無く、群れで勝つ。それが自分にできる事であった。気付いたのは、賊徒と戦っていた時の話であった。余談だが、一飯の恩により賊徒として戦った事もある。猛将として誇る武勇は無いが、戦場で身を守るには充分な武芸を身に付けていると考えれば、自分にとって武芸については充分だと言えた。

 

「いっその事、断って、奉孝でも推すべきだろうか。あの娘も十分な才気を持っている。……いや、無理か」

 

 現状を鑑みるに、真剣にそんな事を考える。郭嘉。字を奉孝。真名は稟。尤も真名については受け取っただけであり、その名を俺が呼ぶ事は無い。最初に真名を呼ぶのは、主とした人物。そう決めていたからだ。真名を受け取った際、その旨については告げていた。兎も角、奉孝は諸国を見聞していた時に得た知人の一人であった。才にかけては申し分ないだろう。機を見て敏と成す用兵。戦場での機転。刃物のような鋭利な気質。その全てが、将として申し分が無い。そう思える程の人物であった。賊徒相手に肩を並べた。実力は十分に解っている。

 だが、無理だった。そもそも彼女がどこにいるのか見当もつかないのである。良案ではあるのだが、実行できないのではないのと同じなのだ。さて、どうしたものか。考え込む。

 

「――っ、ごほごほ、かはっ」

 

 ううむ、と両腕を組んだところで、違和感を感じた。胸の奥から怖気がせり上がってくるのを、実感する。直ぐさま右手を口元に添えた。堪らず咳き込む。何度も咳が続き、視界が揺らいだ。今日は多いな。そんな事を思考の隅で思う。やがて、咳が止まり、視界の揺らぎも治る。右手からは、紅いものが絶え間なく広がり、寝台を染めている。自分の口から零れた血液だった。それが、赤く赤く寝台を染めていた。その光景が、どこか愉快であった。何を悩んでいるのだ。体が自分にそう告げた気がした。血を吐いた。身体の調子は最悪である。だが、気分は何処までも晴れ渡っていた。

 

「時間は余り残っていないか。ならば、身体の赴くまま、駆けるのも悪くは無い」

 

 どこか晴れ晴れとした気持ちで呟く。腐れ縁の友から来た手紙。鮮血に染まっていた。

 

 

 

 

 

 

「若様。荀彧様が来られました」

「そうか、解った。文若が相手とは言え、流石にこの服ではまずいな。いや、文若が相手だからこそか。アレは小言がうるさい。兎も角、服装を改める。用意を頼む」

「畏まりました」

 

 家人である、老人が言った。若と呼ばれるほどの年齢でもないのだが、生まれてからの付き合いだった。自分の事は好きに呼ばせていた。その言葉を聞き、読んでいた竹簡から目を離す。内容は黄巾賊の残党について調査されたモノであった。内容は中々凄まじい。青州で暴れまわっていた百万の黄巾賊の残党が、兗州に集結していると言うものだった。普通の家ならばそのようなものは無いだろうが、幸いな事と言うべきか残念な事と言うべきか、自分はそれなりの家柄に生まれてきていた。つまりはそれなりに伝手があったと言う訳だ。尤もそれは自分が構築したわけでは無く、元々あった力ではあるが。

 とは言え、百万のうち、実際に戦えるのは半数にも満たないだろう。寧ろほとんどのモノは武器すら持っていないのかもしれない。記されていた情報を元に、そんな事を思う。そもそも百万の大軍など、国であっても容易に養えるものでは無い。それを賊徒が用意するなど不可能なのだ。見た訳ではないが、そう思った。そんな蓄えがあるのなら、そもそも乱など起きないのだ。食べられないから、乱は起る。単純だが、それ故疑い様の無い道理であった。

 そんな事を考えつつ、用意された着物に袖を通す。藍色に染められた着物であった。深い色は、どこか落ち着いた感じがして、好きであった。着替えた事でやる事も無くなったので、寝台に腰を下ろす。客人に対して非礼に当たるが、文若とは何度もこの状態であっている為、気にならない。あの娘とて、ソレは承知の事である。部屋の外から足音が遠ざかっていくのが解った。

 坐したまま、窓から空を見上げた。竹簡や書簡を寝台に座り読んで過ごす事が多い。それ故、窓の近くに寝台は置いてあった。見渡す限り青が続き、その傍らに白が点在している。天。人の手が、決して届かない場所であった。

 帝は、自分の事を天子と称する。解りやすく言えば、自分は天の子だと称するのだ。人でありながら天を冠するのである。自分は、人は人でしかないと思っていた。人は、人以外にはなれないのである。だからこそ、人であることを脱する事を望むのだろうか。古の帝が、不老不死を求めたのもその為なのかもしれない。そんな事を思った。届かないからこそ、望む。凄まじい欲である。ある意味では帝と言うのは、何よりも人間らしいのだろうか。

 

「お久しぶりね、戯志才」

 

 思考が脱線していたところで、名を呼ばれた。戯志才。それが俺の名であった。久方ぶりに聞いた声色に、少しだけ懐かしさを感じた。

 

「はい、荀彧様。其方はご健勝そうですね。最近では、曹操軍は有能な人材を多数得て、天にも昇る勢いだと聞きます。その名臣の筆頭がこのような場所に何かご用でしょうか?」

「貴方は何時にも増して、死にそうな面をしているわね。存外しぶとい。……本来なら、貴方の力を借りるのは癪だし絶対に嫌だったのだけれど、私個人の感情でそんな事を言っていられない状況になったわ。あと、その慇懃無礼な感じはやめなさい。似合わない上に、腹が立つから」

 

 何度も書簡を送ってきたうえに、遂には出向いてきた知人に僅かばかりの意趣返しをするも、しれっと返される。その姿を見て、変わらないなと笑みを零す。相変わらず、欠片も歩み寄る気配が見えない。相変わらずである。これぞ、荀文若と言ったところか。

 

「なに、少しばかり意趣返しをしただけだ。同じような書簡を何度も送られれば、皮肉も言いたくなると言うものだよ」

「それについては素直に謝罪するわ。ごめんなさい」

 

 荀彧が頭を下げる。僅かばかりに目を見開いた。此れまで、どれほど文句を言っても頭を下げる事など無かった文若が、頭を垂れた。それだけ切迫しているのかも知れない。と言うか、しているのだろう。独自に得ていた情報で、ある程度の事は推測できていた。青州黄巾賊。それに襲われた刺史が、曹操軍に援軍を依頼したと言うところだろう。数の上では百万の軍勢である。幾ら精鋭揃いの曹操軍とは言え、まともにやれば敗北は必至だった。だが、戦わざる得ない。曹操の本拠地もまた、兗州にあるのだ。だからこそ、文若は焦るのだろう。

 

「少しばかり拍子抜けだが、良いか。状況は?」

「いちいち引っかかる言い方ね。その点については後々追求するとして、最悪ね」

「成程、端的に現状を現している、良い言葉だ。勝算は?」

「正直見当もつかないわ。けど、華琳様は勝つ気でおられる」

 

 俺の言葉に文若は答える。勝算は未だ見えず、それでいて主は勝つ気でいる。成程、文若が焦る訳だ。他者より優秀な所為で、現状を理解し、身動きが取れない。そんなところだろう。だからこそ、俺にすら助力を求めてきたと言う事か。少しだけ姿勢を崩す。

 

「ほう、それはまた凄まじい。苛烈な人のようだ。ならば、我が命、それ程の人物の下で燃やし尽くすのも面白い、か」

 

 文若の言葉に、笑みを浮かべる。曹孟徳。百万の軍勢を相手に勝つ気でいるとは、噂以上の人物なのかソレともただの愚者か。どちらにせよ、並の器では無いのだろう。

 

「それじゃあ……」

「ああ、我が力、曹操殿に預けてみよう」

 

 告げる。既に結論は出ていた。未だ、主とするべき人間を見つけた訳では無い。王とは何かという問いの答えも出ていなかった。だが、既に時間は多く残されていないのだ。悠長に考えている時間は無かった。だからこそ、最期に回ってきた天命に、身を任せてみようと思う。文若が認めたほどの人物である。少なくとも、並の人間でないのは確かだろう。だからこそ、動くのだ。どちらにせよ、それ以外の道はもうないだろう。

 

「本当に良いのかしら?」

「何をいまさら。再三、出仕する様に言って来たのは何処のどいつだ」

「ソレはそうだけど、あんたは……」

 

 文若が言い辛そうに口を噤んだ。俺の体の事を言っているのだろう。

 以前より病を得ていた。病を持つ前ならば、腕一つで大陸を旅した事もある。だが、病を持ってからは、体力は格段に落ちたと言わざる得なかった。それほど多くは無いが、血を吐く事もある。どこか、焦燥に駆られていると、はっきり感じる。その事を文若は心配しているのだろう。尤も、この少女の場合は、まともに働けるのかと言う意味合いが強そうだが。

 

「何、気にする事では無い。俺は曹操殿に力を貸すだけだよ。主として戴くつもりはない」

「どういう事?」

「見極める時間も無いと言う事さ。だからこそ、天命に従うのだよ」

「もしかしてあんた……」

 

 文若が、顔色を変えた。何か言葉を発しようとする。それに被せるようにして告げた。

 

「なぁ、文若。俺は、この世に生を受けたからには、何かを成したいのだよ。歴史に名を残す程の偉業など求めてはいなかった。できるならば、自身が心から認めた相手に、命を奉げたいと思っていた。だが、ソレは無理なのだろう。だからこそ、せめて自身の才で何かを成したいのだ。男として生まれたからには、臥して往生する気は無い」

「……。解った、何も言わない。精々頑張りなさい。あんたの命、残さず使ってやるから。だから、華琳様を勝たせてほしい」

 

 文若が目を見ていった。腐れ縁である。恐らくこちらの意思を汲んでくれたのだろう。その気持ちがありがたかった。文若らしい言葉が、どこか心地よかった。

 

「勝つさ。敵は百万の軍勢。その圧倒的劣勢を覆す。それを以て我が才を示すのだ。男として、人として、これ程心が躍る戦いもあるまいよ」

「そうね。あんたの才能だけは信頼してる。頼むわよ」

「ああ、最初で最後の大戦なのだろう。我が才、使い尽くそう」

 

 寝台から立ち上がり、剣を持った。重量感を感じる。軍人ならば、感じる筈が無いものであった。それを感じるのだ。剣とは命である。その重さが心地よい。そう思った。

 地図を出し、机に広げる。自分で持っている情報もあるが、文若が持つ情報はその比では無いだろう。それは個と組織の明確な差であった。情報を交換する。最初にそれを始めた。

 

 

 

 

 

 

「お初にお目にかかります。我が名は戯志才と申します。我が力を必要としていると聞き、助力に参った次第」

 

 曹操軍居城。軍議の間にて、拝礼を取る。直ぐ様本題に移れるよう、軍議の間での謁見となった。文若と曹操殿。二人の女性に向き直った。

 

「ふぅん、貴方が桂花の言っていた戯志才ね。さて、現状は何処まで解っているのかしら?」

「三万程で百万に挑み、威を示そうとしていると愚考いたします」

 

 視線の先には、美しい月色の髪を左右で結い、更には結った髪を回転させるような複雑な髪形をしている女性がいた。艶やかでありながら、冷めた瞳と視線が交わる。此れが、曹孟徳か。そんな事を考えつつ、言葉に応じる。文若ともある程度情報交換をしていた。だからこそ、解ったことがある。

 

「ええ、そう言う事ね。この戦いは私にとって飛躍の時。だから絶対に負ける訳には行かないの。だからこそ、聞きたい。貴方はこの戦、勝てると思うかしら?」

 

 静かに、曹操殿が尋ねてきた。その物言いは率直で、裏表がないように聞こえる。だが、そう思えるだけなのだろう。現状を鑑みるに、幾ら精強と名高い曹操軍といえども、相手が悪いのである。文若に聞いた情報から、相手は物資方面で致命的なまでの欠陥を抱えていると言えるのだが、それでも尚覆しがたい兵力の差が存在している。まともにぶつかれば勝負にならない。それが、両軍の戦力差を考慮した結論であった。

 

「まず、間違い無く敵を撃破る事はできないでしょう。どのような名将が戦ったところで、勝利することは不可能でしょう」

 

 間髪入れずに、自分の考えを述べる。そもそも、百万(・・)を相手に三万(・・)で撃破るなど、現実的では無い。どのような言葉を紡ごうと、夢物語でしかないのだ。だからこそ、断言する。勝てないと。

 

「ちょっと、戯志才!?」

「あら? 随分はっきり言うのね。でも、それだと貴方がここにいる理由が無いわね」

 

 俺の言葉に文若が慌てた。当たり前だろう。文若からすれば、勝つために呼んだ人材が、勝てませんと言ったのだ。その動揺も仕方が無い。

 だが、曹操殿は、俺の言葉と文若の様子を見て、楽しそうな笑みを浮かべた。その表情を見れば、言葉の意味を十分に理解しているだろうことが、容易に解った。試したわけでは無いのだが、曹操殿の実力はそれだけでも感じ取る事が出来た。文若の言葉通り、優秀な人なのだろう。

 

「然り。ですから、百万相手に勝てないと言うのならば、百万に勝たなければ良いのですよ」

 

 淡々と答える。相手が百万だから、勝つ見込みが無いのだ。ならば、倒すべき敵を変更すれば良いのである。黄巾残党の内訳は、かなり大雑把に言えば、精鋭が十万とそれ以外の者たちに分けられる。百万と言えば凄まじい大軍に感じるだろうが、実際に戦える部隊の数はそれほど多くは無かった。そもそも武器どころか食糧すらも足りておらず、だからこそ青州から兗州まで足を運んできたのだ。

 

「前線となるべき場所に、砦が二つあると聞きました。其処を基点に、蛇となり戦い、時を待つのが上策かと」

「成程ね。と、するならば、遊撃部隊も欲しいところね。亀の様に手足を砦に隠し、背後から撹乱する部隊が」

「一つの砦が襲われれば、もう片方の砦から出陣し、遊撃部隊と連携し少しずつ切り崩す。それを繰り返せば、痺れを切らした本隊が現れる筈でしょう」

 

 首を打てば尾が助け、尾を打てば首が助け、胴を打てば首と尾が助ける。二つの砦と遊撃部隊を駆使し、そのような状況に持ち込み耐え続ける。曹操軍が勝つためには、それが必要だった。やがてしびれを切らした黄巾賊本体が出て来た時、勝負を決める。それが作戦の全容だった。気付けば、曹操殿も身を乗り出し、言葉を紡いでいた。目つきから変わっていた。此方の言葉を、興味津々と言った感じに耳を傾けてくれている。机の上に置かれた地図の上に、様々な駒が置かれていく。

 

「奴らにも時間は余りないでしょうからね。二つの砦にはたんまり食糧があると、情報を流しましょうか」

「遊撃部隊が補給できるよう、山野にも幾らか隠しておくのが宜しいでしょうな」

「ええ、桂花。食糧の手配、直ぐに取り掛かりなさい。私は、戯志才ともう少し話を詰めるわ」

「畏まりました。戯志才……、後方は気にしなくて良いから、華琳様を頼むわよ」

 

 曹操殿の言葉に、文若は一言だけ残すと、直ぐ様踵を返した。兵糧は戦の要である。その手配に向かうのだろう、一瞥だけして見送り、視線を地図に戻す。今は他人の事より、戦の事が大事であった。圧倒的劣勢の戦。それを我が手で覆すと思うと、心が熱く燃え滾る。武人と言うよりも、軍人とするのが自分には合っているのだろう。天下の安定を願う気持ちはあるが、それとは別の次元で戦と言うものが好きで仕方が無いのが、軍師と言う生き物なのだ。

 

「やはり、遊撃部隊が肝心でしょうね」

「はい。だからこそ、其処には曹操軍最強の者を当てて頂きたいところです」

「そのつもりよ。うちで言うなら春蘭かしら。……ああ、夏侯惇のことよ」

「夏侯惇将軍ですか。音に聞こえたその武勇ならば、妥当でしょう。補佐には私が回ります」

 

 聞き覚えの無い名前に一瞬考え込むが、曹操殿が直ぐに補足してくれた。夏侯元譲。曹操軍きっての猛将と聞いていた。その武勇は凄まじく、名を聞いただけで敵兵は怯えると謳われるほどの女性であった。その武勇故か、指揮は猪突猛進との一言であるが、その突破力は遊撃部隊として最適であると言えた。猪突猛進なところは、上手く手綱を取れば問題ない。寧ろ、将が勇猛なほど都合が良い。

 

「……意外ね。遊撃部隊と言ったら、一番過酷な戦場になるわよ。軍師がそんなところに好き好んで出向くなんて、変わっているわね」

「まず間違いなく、地獄を見る事になるでしょうね。だからこそ、此度の戦の要となるべき部隊であるともいえます。その死地に身を置き、指揮を執る。軍師とする者ならば、それは忌避するべき事では無く、歓喜すべき状況なのですよ」

 

 初めて表情を変えた曹操殿に、にやりと笑みを浮かべ答える。最も厳しき戦場で、自身の才覚を持って戦況を覆す。将として、軍師としてそれが成せると言うのならば、それは命を燃やすのに相応しい戦場と言えるだろう。時が経てば立つ事すらできなくなり、臥する運命である。確証は無いが、確信していた。自分の体の事である。自分が一番分かっていたのだ。時が経てば、衰弱し、床に臥し、何も成す事無く死を迎える。そのような終わりは、望むところでは無い。ならば、死地など如何と言う事は無いのだ。

 

「戯志才?」

「つまらない事を言いましたね。話を続けましょうか――」

 

 曹操殿が、怪訝そうな顔をして名を呼んだ。柄にもなく、語り過ぎていた。強引に話を戻す。顧みるモノなど無い。そう自分に言い聞かせ、話を進めた。

 

 

 

 

 

 

 頬を風が撫でた。優しくありながら、どこか残酷な柔らかな感触を懐かしく思う。体が何の不自由も無かったころは、慣れ親しんだその感覚だったが、今では酷く懐かしく感じた。まだ、生きている。狂おしいような衝動は無い。だが、確かに生を実感していた。まだ、自分は戦えるのか。そう思うと、それが酷く嬉しかった。まだ、命を燃やせることが、嬉しいのだ。

 

「ふっふ、逃げずに来たか戯志才!」

「此処まで来て逃げたと言うのならば、男が廃ると言うものですよ」

 

 久方ぶりの戦場の感覚に浸っていたところで、夏候惇将軍に声をかけられた。曹操軍に客将として身を寄せると決めた日、戦の事を曹操殿と語り合った日から、彼女とは面識を得ていた。自身が補佐する事になる人物である。戦場で 実際の指揮を執るのは彼女なのだ。だからこそ、友好関係を築く事は必須だと言えた。

 

「正直、お前の話は小難しくて解らん事も多い。だから難しく考えるのはやめた。今この場に逃げずにいる事が、信頼するに足ると思う」

「夏候惇将軍ほどの方にそう言って貰えるのならば、私も鼻が高いと言うものです」

 

 夏候惇将軍は、理屈ではなく野性的な感覚を持つ将軍だった。予想だにしない事を言いだす事もあり、驚かされることも多々あったが、なんだかんだ言って憎めない人なのだ。一言で言えば、純粋なのだ。だからこそ、愛嬌を感じると言う事だろうか。

 

「今回の戦、我らの部隊が最も厳しい戦場だと聞いている。華琳様にも、念を押された。細かい指示は任せるぞ」

「承りました。夏候惇将軍には、縦横無尽に駆け抜けて貰いましょう。貴方の武技の冴えが、全軍の心の支えとなります。期待させてもらいます」

「ふふ、そう言われると、些か照れるな! この夏侯元譲に、先陣は任せると良い」

 

 どんっと胸を叩き、気合を入れる夏候惇将軍。普通の将軍ならば、並み居る敵の数に呑まれ意気消沈しても不思議では無いのだが、彼女からはそんな気配が微塵も感じられない。百万の敵の圧力を感じていないように見える。実際にはそんな事は無いだろうが、そう見えるだけでも充分すぎる器だと言えた。そんな人物と馬を並べ、語っている自分に酷く奇妙な感覚を覚えた。

 

「では、行きましょうか」

「ああ。この戦、勝つぞ!」

 

 敵軍に目を向ける。百万の軍勢である。実際に戦える兵士は半数にも満たないだろうが凄まじい圧力であった。数の力とはそれ程までにすさまじいのだ。だからこそ、この戦に勝利すれば、曹操軍は飛躍的に強くなるのだ。負ける訳には行かない戦いだった。力強く頷いた、夏候惇将軍の存在が心強く感じた。

 

「ええ、行きましょう。この一戦を、天に示す」

 

 ただ、応えた。あとは戦場を駆け抜けるだけである。そう思うと、不思議と体が軽くなるのを感じた。

 

 

 

 

 

 城壁から見下ろすと其処には夥しい量の人の群れが目に入る。どこを見渡しても、人人人。老若男女、様々な世代の人間が、その地に集結していた。青州黄巾賊。総数は百万を超えると言われるほどの大軍が、秋蘭の守る砦に向かい、気炎を上げる。圧倒的物量から繰り出される気勢、歴戦の将夏侯淵を以てしても、その圧力には冷や汗が零れる。

 

「解ってはいたが、凄まじいな。姉者は上手くやれるのだろうか」

 

 強固な砦に籠城しているが、春蘭率いる遊撃部隊と華琳率いるもう一つの砦に駐屯する部隊とうまく連携しなければ瞬く間に呑み込まれる事だろう。だからこそ、秋蘭の呟きは仕方が無いと言えた。

 

「いや、心配しても詮無きことか。あの桂花が推すほどの男が補佐にもついている。今は信じて耐えるだけか」

 

 春蘭の補佐には、戯志才が付けられていた。今回の作戦の根幹を華琳と共に立案した男であり、あの男嫌いの桂花が、現状を打破するために推挙した人物でもあった。戯志才には何の実績も無いが、秋蘭は桂花の実力には信頼を置いていた。何よりも、あの桂花が、華琳の進退を決める程の戦において、推薦するほどの人物であった。桂花の男嫌いは周知の事実であるし、その桂花が男を推挙すると言う事自体、極めて珍しい事だった。

 

「さて、戯志才と言う男。どれほどの才覚を持っているのか」

 

 そんな桂花が、この局面において呼び寄せた男。戯志才。華琳と面会するや、そのまま戦術の話に移り、華琳をその気にさせていた。秋蘭の興味を引くには充分だった。

 

「来るか。この戦い、生き残れたならば、一度語り合ってみたいものだ」

 

 秋蘭は城壁の上から、弓を構え矢を番える。砦に群がる、無数の人の群れ。途方もない数の、人間。その全てが、頭に黄色い巾を身に付けていた。黄巾賊。その存在の象徴だった。全ての兵が弓を構えていた。号令をだす。眼下に広がる一面の黄色に向かい、矢を放った。僅かに動揺が敵軍に広がるのが解った。だが、それだけであった。

 

「姉者、頼むぞ」

 

 秋蘭の呟き。黄巾賊の挙げた雄叫びに溶け、消える。黄巾賊と、曹操軍。今後の行く末を決める戦いの火蓋が、今切られた。

 

 

 

 

 

 

「続け! 黄巾の有象無象共を、蹴散らすぞ!!」

 

 夏候惇将軍が気炎を上げる。眼前に広がるのは、圧倒的物量を持つ敵軍の群れであった。一人一人は碌な武器を持っておらず、中には木の枝や石を持ち、此方に向かってくるものも少なくは無い。その為体でありながら、凄まじいまでの圧力を感じさせられる。彼我の戦力差は、報告を鵜呑みにし馬鹿正直に計算するならば三十倍を超えている。武器がどうだと言う次元の話では無いのだ。其処にいるだけで、抗いがたき圧力を感じる程の差が、明確に存在していた。それを肌で感じ取る事が出来た。

 馬上で剣を握り締める。戦場の圧力が懐かしく、血が騒ぐのを感じた。

 夏候惇将軍が率いるのは、曹操軍の誇る二千の騎馬隊であった。精鋭の中から精鋭を選び取ったその部隊は、兵力を見れば二千と一割にも満たない数だが、その練度と機動力、戦闘経験を考慮すれば、数万の軍勢に匹敵すると言えるほどの部隊であった。その先頭を、夏候惇将軍が駆け抜け、砦を攻撃しようとしていた黄巾賊の横腹に食らいつく。

 

「皆、続け。将軍を死なせたとなれば、一生の恥だ。追いすがり、敗残兵を討ち果たす」

 

 先陣を駆け抜ける夏候惇将軍の後姿を一瞥し、号令を下す。即座に騎馬隊が陣形を組み、駆け抜ける。夏候惇将軍の一喝によって広がった動揺を突き、放たれた矢の如く、峻烈な一撃を加える。

 

「矢、放て」

「おお、戯志才。追いついて来たか」

 

 突き崩した前衛が再起する間を与えず、矢を放つ。その隙に先行し、敵陣に斬り込んだ夏候惇将軍と馬首を並べる。たった一人で敵の大軍に切り込む姿は、まさに万夫不当と言うに相応しいが、そんな事を口にしている暇は無い。視線だけで賞賛を送りながら、言葉を紡ぐ。

 

「将軍、即座に引きます。呑み込まれれば、それで終わります。未だこの地は、命を賭す場ではありません」

「む、そうか、解った。引くぞ!」

 

 俺の言葉に夏候惇将軍は即座に頷き、馬首を返した。自分もそれに倣い、追走する。彼女ほどの猛将が、異を唱える事も無く従ってくれるのが、有りがたかった。俺を信頼していると言うよりは、曹操殿や文若を信頼しているのだろうが、それでも夏侯惇ほどの武人を意のままに動かせると言う事は、軍師として僥倖だと言えた。その背を負いながら、ただただ感謝の念を持つ。彼女を動かし、自分の戦ができる事はそれ程までの事だといえた。

 

「む? アレは華琳様の軍か?」

「左様。そのまま勢いのまま突っ込むでしょう」

 

 一撃離脱をした後、遥か東方から一直線に黄巾賊に向かい駆け抜ける部隊を見つけた。夏候惇将軍が声をかけてくる。ソレに応えた。

 

「何!? ならば私も馳せ参じなければいかん!」

「おやめください! 貴方がここで駆けて行けば、それで終わりです」

「しかし、華琳様が敵と当たると言うのなら、私も行かなければ」

「行けば、それで敗北します。曹操殿の部隊も即座に離脱します。次に我らはその撤退を援護する様に、再び敵にぶつかる。それを繰り返す事が、この戦の要だ」

 

 主の下に馳せ参じようとする夏侯惇将軍に、叫ぶように告げる。ここで彼女を行かせれば、なし崩し的に我等も彼女を追う事になり、曹操殿の部隊と合流する。二つの部隊が一つになれば、戦力が集中するが、ソレは敵にも言える事である。寧ろ敵の方が圧倒的戦力を保持している為、それを一つで受け止めなければいけなくなるため、現状で合流するなど論外なのだ。

 

「しかし、華琳様が」

「どうしても行くと言うのならば、我が首を刎ねて御行きください。此処で貴女が離れると言うのならば、我らに勝利はありません。ならば、この首に未練など、無い」

 

 それでも尚、動こうとする女性に、言った。命など、惜しくは無い。その覚悟を、随分と前からしていたのだ。一命を賭して挑む、戦。その半ばで倒れると言うのならば、本望だった。

 

「行けば、本当に負けるのか?」

「必ず。それは我らの、曹操殿の望む事ではない」

「解った。従う」

 

 夏候惇将軍は何とか思い直してくれた。ならば、やる事を成さねばならない。剣を強く握り、言葉を紡ぐ。

 

「ならば、再び転進、激突後、即座に兵を引きましょう」

「敵に突っ込めばいいのか?」

「然り。突き崩し、即座に引く。それを只管繰り返します」

 

 今必要な事は、敵を焦らす事だけだった。それを夏候惇将軍に言い聞かせる。短く頷いた。それだけで良かった。

 

「行きましょう」

「ああ、背中は任せるぞ!」

 

 互いに一声かけ、馬首を返し、そのまま駆け抜けた。

 

 

 

 

 

 

 

 当たっては退く。そんな事を繰り返し続け、何日がたっただろうか。黄巾賊が砦を攻撃しようとする度に、機先を制し、奇襲をかける。只々それだけを行い続けていた。既に二千騎居た兵の内3割ほどの姿が見えなくなっている。離脱しきれず飲み込まれたのだろう。事実として、受け止めていた。それでも敵の犠牲は此方の比では無く、万単位に及ぶのだろうと、荒れ果てた地で横たわる屍を眺め、思い至った。

 

「あら? 貴方もちゃんと生きていたのね、戯志才」

 

 陽も落ちかけ、兵たちが兵糧の準備に取り掛かり始めたところで、そんな言葉を聞いた。曹孟徳。自身の味方する軍の、総大将だった。

 

「この戦が終わるまでは、死ねませんよ」

「そう。それならいいわ」

 

 俺の言葉に、曹操殿はただ微笑を浮かべた。

 

「数日前に流言を流した。袁紹が南下してくるってね。それがようやく実を結んだのよ。敵は主力を前面に押し出しての総攻撃を計画している。だから、明日全てが終わるわ」

「ならば、明日が正念場と」

 

 黄巾等の主力。それを完膚なきまでに打ち破り、無力化する。それがこの戦の最終的な目標だった。数は多いが、本当に強い相手は敵の主力だけである。それを完膚なきまでに打ち破れば、敵の勢いは一気に削げる。ならば、戦う以外の余地もできると言う訳であった。その状況に持っていくのが、俺の役目なのだ。

 

「ええ、だから貴方に聞いておこうかと思ってね」

「何をでしょう?」

「貴方は、私に仕える気は無いのかしら?」

 

 

 曹操殿は何気なく言った。力を貸すのではなく、正式に臣下にならないかと。

 

「……」

「そう、直ぐに答えは出ないのね。なら、この戦が終わればもう一度聞くわ。それまでに考えて置いて」

 

 そのまま背を向ける曹操殿。ただ見送った。紡ぐべき言葉が見当たらなかった。多くの時を過ごしたわけでは無い。だが、それでも自分の力を駆ってくれている事は理解ができた。現在も黄巾賊と戦えている事からも解るように、彼女は並の器では無いだろう。主として戴くにたる器なのだろう。それは解った。だが、それでも尚、応えられなかった。

 

「これも、天命か」

 

 空を見上げ、呟いた。戦場に在りながら、身体は驚くほどに調子が良かった。だが、それは長く続かないと解っていた。体から何かが絶えず零れ落ちている。そんな奇妙な感覚が、確かにあった。だからこそ、応えられなかった。ならばせめてこの戦だけでも、共に戦おう。そう思った。

 

 

 

 

 

「アレが、敵の主力のようね。はぁ、漸くこの徒労とも思える根競べに決着が付くようね」

 

 決戦の日。眼前に集結した黄巾賊の戦陣を見、曹操殿が楽しそうに呟いた。総数約三万の曹操軍が集結し、整然と隊列を組んでいる対面には、大凡賊軍とは思えない程の錬度と思われる一軍が集結していた。黄巾賊の主力であった。百万の軍勢の核となる、精鋭部隊。その力はこれまで相手にしてきた烏合の衆とは異なり、気力に満ちているのが解った。

 数にして十万程の軍勢。その背後に布陣する形で残りの軍勢が集まってきている。敵軍もここが正念場と理解しているのだろう。対陣しているだけで、我らを打ち破ると言う気概が感じられた。否が応にも両軍の気勢が上がる。

 

「然り。今日起こる衝突。それが、曹操殿の軍の道を決めると言っても過言では無いでしょう」

 

 淡々と答える。決戦を前に、散っていた軍が曹操殿の下に集結していた。今まさに行われようとしているぶつかり合い。それが、曹操軍の存亡を決めるのは誰の目にも明らかである。決して負けられぬ戦だった。だからこそ、此度の主力同士のぶつかり合いは総力戦と言える。

 

「そうね。此処で負けてはこれまでの犠牲が無駄になるわ。だからこそ、私は全力を以て勝利する。けど、一つだけ心残りがあるわ」

「心残り、でしょうか?」

 

 此処に来て、曹操殿の言葉の意味が計れなかった。大凡思いつく限りのことはした。決戦の前にやり残した事は無いと思えた。

 

「ええ。貴方は、我が軍とは言ってくれないのね」

「……」

「くす、別に良いわよ。今言ってくれないなら、貴方がそう言いたくなるようにするだけだから」

 

 言葉に詰まる俺に、曹操殿は悪戯っ子がするような様な楽し気な笑みを浮かべ、やんわりと言った。思わず目を見開く。この局面に来て、そんな事を言われるとは予想だにしていなかったからだ。心の内に、じんわりと温かいモノが生まれた気がした。あの文若が惹かれたと言うのも、今ならば素直に納得できた。

 

「戯志才。この戦、勝つわ。だから、貴方もいきなさい」

「承知。それでは、御武運を」

 

 曹操殿が俺の目を見て、静かに、だが楽しそうに告げた。ソレに、万感の思いを以て答える。また、曹操殿がふんわりと笑った。その笑顔は何処までも自身に満ちており、気高いと思った。

 この戦に生き残れたのならば、曹操殿に最期まで仕えるのも悪くは無い。そう、思った。

 

 

 

 

 

「皆、これまで良く戦ってくれた」

 

 全軍が前を見据えたまま、曹操殿が言葉を紡ぐ。

 

「連日に続く、徒労とも思える小競り合い。その甲斐あって、敵の主力を引き摺り出す事に成功した」

 

 語るのは、百万の賊徒との戦い。

 

「これまでの戦いは、今日この日の為にあったと言える。先の見えない戦いの果てが、漸く見えてきた。今日ここで戦は終わる」

 

 曹操軍の兵士で犠牲になった者達は少なくなかった。だが、その数倍、数十倍の相手を倒しこの日を迎えた。

 

「皆、剣を抜き鞘を捨てろ! 眼前に在る敵を殺し尽くし、今此処で戦を終わらせる」

 

 今こそ死力を尽くす時。全軍にそう宣言し、馬上で号令を下す。全軍が気炎を上げる。数において遥かに劣る曹操軍。だが、それでいて尚、戦場を支配している。曹操殿の才に、全ての人間が引き込まれていくのが解った。

 

「全軍、我に続け!!」

 

 馬腹を蹴り、大鎌を振りかざし号令を飛ばす。全軍が『応!』っと、咆哮をあげた。すべての軍が、我先にと駆け始める。全ての兵が曹孟徳に魅せられていた。その覇気に、敵軍が呑まれていくのが感じられる。それが合図だった。そして、

 

 

 

 

 ――血戦が始まった。

 

 

 

 

 

 

「死にたい奴から前に出ろ! 命が惜しくば、道を空けろ!!」

 

 夏候惇将軍が雄叫びを上げる。その覇気に引っ張られ、兵士たちもが咆哮を上げ突き進む。曹操軍の中でも選び抜かれた精鋭中の精鋭。これまでは押しては直ぐに退くと言う、煮え切らない戦い方を続けてきた為、皆が皆鬱憤がたまっていたのだろう、方々から気勢が上がり続けている。

 

「全軍、二列縦列! このまま突っ込み、敵軍を完膚なきまでに叩き潰すぞ!」

 

 勢いに乗った騎馬隊に即座に指揮を下し駆け抜ける。数舜後には、黄巾賊にぶつかり血飛沫が吹き荒れる。 先頭を走る夏候惇。その戦いぶりは、最早同じ人間とは思えない。迫る敵すべてが手にする大剣、七星餓狼に吸い込まれるかのように、血風が巻き上がる。これが夏侯惇。これが、曹操軍最強か。

 

「敵陣を断ち割った! 全軍、転進、再び――」

 

 やがて、黄巾の本隊を文字通り斬り抜け、一直線に駆け抜ける。そのまま、大きく迂回し敵本隊の側面からもう一度突っ切り、指揮系統をズタズタにしてやろうと叫んだところで、背中から言い知れぬ悪感が駆け昇る。来たか。咽び上がる、怖気にそんな事を思う。

 

「が、はっ……」

 

 喀血。堪え切れず鮮血を吐き出す。燃えるような紅が、弧を描き降り注ぐ。剣を取り落としそうになるのを、気力で持ちこたえる。馬上から振り落とされなかったのは、奇跡と思えた。

 

「戯志才殿!?」

 

 すぐ傍を駆けていた兵士が慌てたように声をかけてくる。ソレを手で制し、言葉を紡ぐ。

 

「ぐ、問題ない。それより、お前の名は?」

「が、楽進と申します」

 

 まだいける。だが、最期まで保つかは解らなかった。その為、やるべき事を伝える。一度、相手の目を見た。まっすぐな、良い目だと思った。

 予め軍を割る事は決まっていた。その為、自分と並走する相手は夏候惇将軍が選んだ者だった。軍を二つに割った時、夏候惇の代わりに隊を引っ張れる器量を持つ者。ソレを宛がって貰っていたのだ。

 

「ならば楽進よ。もう一度敵陣を割いた後、此方の軍を二つに割り、二方向から撹乱し続ける。俺の身に何かあった時、お前が指揮を取れ。できるな?」

「……っ、承知しました」

「もしもの時は、頼む」

「……はい」

 

 楽進の返事を聞き、血で濡れた口元を袖で拭う。血を吐いた。だが、不思議と頭はすっきりとしていた。手に持つ剣を握り直す。重さを感じなかった。正面を見据えた。二度目の衝突。それが目前に来ていた。口元が吊り上がる。

 

「全軍、駆け抜けろ! 我らの力、この戦で示す!!」

 

 剣を掲げ、叫んだ。応っと、兵士たちが気勢を上げた。僅かに、咳き込む。美しい紅が手を彩る。命を燃やし尽くす。そう思い駆け抜ける。

 

 

 

 

 

 

 陽が、暮れた掛けていた。曹操軍と、黄巾賊。その二つぶつかり合いは、曹操軍が多大な犠牲を出しながらも、敵の本隊を散々に撃ち破る事に成功し、壊滅させていた。未だ敵軍は膨大な数を擁しているが、主力は全滅していた。更には食料と言う問題点があり、主力を欠き食糧も無いと言う事実により、士気が大きく下がり脱走兵がすらも出かねない状態であった。既に戦意など、欠片も見当たらない。事実上、戦は曹操軍の勝利で終わっていた。あとは、どのように彼らと交渉を進めるか。ソレを考える局面に来ていた。自分が成すべき事は、全て終わったと言ってよかった。

 

「……戯志才殿」

「なん、だ?」

 

 楽進が、俺の手を取り名を呼んだ。口から、血がごほっと零れ落ちる。頬を伝う熱が、心地よい。

 

「我等は、勝利しました」

「そうか」

「はい」

 

 楽進の言葉を聞き、ふぅっとため息が零れた。ふいに、ぽつぽつと冷たいモノが顔に当たる。涙だった。戦場に横たわる俺を見詰めている楽進の瞳から、ひとつふたつと、滴が零れ落ちる。ソレを拭おうと手を伸ばそうとするが、上手く動かなかった。

 

「すまない、な」

 

 だから、謝る事にする。今の自分はそれ以外出来なかった。

 

「あら、生き残ったのね」

 

 不意に、声が聞こえた。身体が動かないため、視線だけを声のした方に動かそうとする。

 

「ああ、動かなくていいわ」

「そう、ですか」

 

 声と共に、背中に温かさを感じた。ゆっくりと腫物を扱うように抱き起される。此処に来て、漸く相手の顔をみる事が出来た。曹孟徳。この軍の最高責任者であった。

 

「約束を守ってくれたのね」

「約束、ですか? そのような事、何かしたでしょうか?」

 

 曹操殿の言う事に、見当がつかなかった。聞き返す。すると、にやりと笑みが深くなるのが解った。

 

「したわよ。あなたも、生きなさいって」

「……、嗚呼、あの時の言葉ですか」

 

 いたずらが成功した子供の様な笑顔で語る曹操殿の言葉を聞き、思い当たる。それは、出陣する前の言葉だった。『戯志才。この戦、勝つわ。だから、貴方もいきなさい』。あの言葉は、生きなさいだったのか。持ち場につけと言う事だと思っていた。

 

「随分と洒落た事をされる」

「それが、私よ。どう、惚れ直したかしら?」

「全く、ですよ。貴女に、文若が心酔するのも頷ける」

 

 楽しそうに笑みを浮かべる少女に、ただ笑みを浮かべた。想像以上の人物だった。まったくもって、度し難い。

 

「私の臣下になるって話、考えてくれたかしら?」

「そう、ですね。貴女ならば、仕えるのに申し分が無い――」

 

 俺の目をじっと見詰め、そう尋ねてきた。答えなど、既に決まっていた。

 

「ですが、貴方に仕える事はできそうにありません……」

 

 気持ちの問題では無かった。自分は、この戦に全てを使い切っていたのだ。何かをする力は、もう残っていなかった。

 

「そう。また、振られてしまったのね」

 

 俺の言葉を聞いた曹操殿は、ただ小さく笑う。綺麗だ。ただ、そう思う。

 

「曹操殿」

「なに、かしら?」

 

 だからこそ、最期に言葉を残す。

 

「真名を、受け取ってもらえませんか?」

 

 自分にはもうできる事は無いだろう。だけど、主としたい人物は決まっていた。曹孟徳。乱世を終わらせるにたる人だと、思った。だからこそ、主に捧げると決めていた名を受け取ってほしい。

 

「ええ、解ったわ。ならば私の真名も教えてあげる。私の真名は華琳と言うの」

「華琳様、ですか。貴女らしい、綺麗な響きだ」

 

 言葉を遮り、華琳様が真名を託してくれた。その気持ちが、嬉しく思う。

 

「我が真名は……、奉。最初に主に捧げると決めていた名です。貴女と共に戦った者の中に、そう言う者がいたと覚えて頂ければ――」

 

 そう言葉を紡ぎ、目を閉じる。先ほどから、言葉を続けるのが億劫だった。瞼が重く、酷く眠かった。笑みを浮かべる。ちゃんと笑えているだろうか。それだけが気がかりだった。

 

 

 

 

 

 

「ええ、大丈夫よ奉。あなたの事を、私は忘れない。あなたのおかげで、私は飛躍できるのだから」

 

 戯志才が息を引き取った後、華琳は小さく呟いた。その言葉に、どれほどの思いがこもっているのかは誰にも解らない。それは曹操だけが知る事だった。

 

 




この小説を読んでいただきありがとうございます。
戯志才で何かを書きたかった。その一心がこの小説になっております。
短編の為短いですが、一人の男の生きざまを感じて頂ければ嬉しいです。
※北方謙三先生の三国志をベースにアレンジを加え書いたため、恋姫†無双の時系列にはこの状況は存在しません。


▲ページの一番上に飛ぶ
X(Twitter)で読了報告
感想を書く ※感想一覧 ※ログインせずに感想を書き込みたい場合はこちら
内容
0文字 10~5000文字
感想を書き込む前に 感想を投稿する際のガイドライン に違反していないか確認して下さい。
※展開予想はネタ潰しになるだけですので、感想欄ではご遠慮ください。

評価する
一言
0文字 一言(任意:500文字まで)
※目安 0:10の真逆 5:普通 10:(このサイトで)これ以上素晴らしい作品とは出会えない。
※評価値0,10は一言の入力が必須です。また、それぞれ11個以上は投票できません。
評価する前に 評価する際のガイドライン に違反していないか確認して下さい。