────コンパス。
それはある時代に生まれた、完全な現実別離型の電脳世界の名称だ。
人間は古来より、現実の不平等を呪っていた。あるいは、現実の不条理を呪っていた。才能の差、出生の差といった優遇の差から、道理の通らない事がまかり通る理不尽さに至るまで、人は現実のありとあらゆる不具合を呪っていた。
そんな呪いが続く現実が、ただひたすらに続く中で────人はついに、現実そのものに牙を向いた。
電脳世界を作る事にしたのだ。現実の法則を無視し、現実と違い
電脳世界はバイナリプログラムの産物だ。即ち、0と1の組み合わせだけで全てが作れる。有限という言葉は消失し、人は奪い合う咎から解放される。
人は、その構想に期待した。そして、人類の3割がこのプロジェクトに携わった。
全ては理想郷を作る為。人類が、クソッタレた現実からおさらばする為。
故に、その理想郷、電脳世界の名は、こう名付けられたのだ。
人の選ぶべき
この物語の主人公────コカネーションもまた、そんな電脳世界に生きる者だった。
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「はぁぁぁ……」
大きなため息が、都市の喧騒に紛れて消える。
見渡す限りの人の群れ、その中に一人憂鬱そうに歩く少女の姿があった。
「なんでこんな地図使わないといけないの……それにテレパス禁止って……」
ため息を吐くだけでは気が済まなかったのか、少女は愚痴まで吐き出す。どうも、何処かに向かおうとしているようだが、使い慣れない地図に悪戦苦闘しているといった様子だ。
何を地図如きで、と笑ってしまうだろう。しかし、
何故なら、この世界は────
地図など開かずとも、三本指を開く動作だけでウインドウが出現する。その中のマップにビーコンを置けば、目的地に一瞬で飛ぶ転送サービス『テレパス』も既に実装されている。
そのような機能が実際に存在するコンパスで、地図などもはや旧時代の遺物に過ぎない。テレパスが使えないのはもちろん、ルート検索も使えないただの画像データを好き好んで使う物好きはそう多くないだろう。
ならば何故、少女は地図などを使っているのか?────その答えは、彼女自身が愚痴と言う形で答えてくれた。
「ほんと、なんでこんな都市郊外に徒歩で行かなきゃいけないの……しかもマップ禁止、ピン留め禁止、テレパス禁止なんて条件までつけて……めんどくさい……えっと、コンパヌ邸、コンパヌ邸……」
……どうやら、少女は何者かから条件をつけられ、制約のある中で目的地に向かわねばならないらしい。しきりに口にする『コンパヌ邸』というのは、恐らくは目的地の名称であろう。
少女は隠す気もないのか、『面倒臭い』と露骨に顔に出しながら道のりを歩いていた。
────ああ、面倒臭い。
何故、師匠はわざわざこんな条件を設けて私を送り出したのだろう?普通に考えればマップを開くだけで移動の労力は全て解消するというのに。徒歩で移動など、余程の野暮用か目的地を設定せずに遊び回っているかのどちらかしか考えられない。まあ、
だが、私の場合は違う。目的地は明白に設定されているというのに移動手段が徒歩など、時代錯誤も甚だしい。いや、これはコンパスという世界と現実という世界の考え方の取り違えなのだから────世界錯誤、とでも言ってみようか。
しかも、私の不満はそれに留まらない。あろう事か、師匠はコンパヌ邸に行けと言っておきながら
普通ならブチギレていい。師匠の言う事だから、渋々従っているだけだ。
……本当に。全く、師匠の意図は分からない────。
と、少女は物思いに耽りながら、早足に都市の街並みを抜けていく。
────元より、人というのが好きな人間ではない。人混みともあれば尚更地獄だ。こんな所、さっさとおさらばするに限る。
少女は尚も歩調を早め、いつしか都市の喧騒からも離れていった。
周囲が随分と静かになった。少女はいくらか表情を柔らかくし、少しスローペースに歩き出した。
いつの間にここまで来たのか、目的地であるコンパヌ邸からもそう遠くない場所まで来ていた。ここまで来ればもはや地図すらも要るまい────少女は、手に持っていた地図を
────その時だった。
少女の身につけていた髪留め、それに付いている宝石が────目も眩む光を放ったのだ。
少女はその光に一瞬驚いて、直ぐにその表情を固くした。少女の脳裏には────『師匠』の言葉が蘇っていた。
『この宝石は、とある条件を満たすと光を放つ。その条件は────』
「────所有者の近くに、バグ空間がある時」
少女は、知らず知らずの内に師匠の言葉を復唱していた。
バグ空間とは、そのものずばり『バグの空間』の事だ。電脳世界たるコンパスにおいて、通常あってはならない
当然、そのようなバグはコンパスの世界に悪影響を及ぼす。ユーザーとてそれは例外ではない。故に、バグ空間を発見した場合は迅速に空間を展開するバグを削除しなければならない。
少女は師匠の指南に従い、髪留めの宝石を空に翳した。
────同時、先程まで何の変哲もなかったフィールドがぐにゃりと飴細工のように歪んだ。
そして────次に目を開いた時、視界に飛び込んだのはまるで知らない景色だった。
テレビの砂嵐を彷彿とさせるような、荒れた空間。色彩の狂った視界に、少女は顔を顰めた。誰だって、こんな空間に来れば不快を覚えずにはいられまい。
────いや、そのような事を考えている暇はない。少女はすぐさま、バグ空間の主であるバグの捜索を始めた。