淹れ立てのコーヒーの香りが保健室に広がる。芳醇な香りを楽しみながらカップを口へと運び、適度な苦みと甘さを楽しむ正午近くのひと時。正面の窓を通じて見える青空を眺めながらパソコンを操作する。今は、来月の健康診断についての書類について目を通していたところだ。もう計画はとっくにできていて、あとは当日になって滞りなく行えるように手配を進めるだけだ。
「あとで校内掲示板に紙を貼っておこう」
ひと仕事終えてのんびりとコーヒーを堪能する。心休まる時間だ。
「あのっ、幸野先生……!」
心休まる時間だった。たった今、扉を強く開け放った来訪者が現れるまでは。
「どうされました、
俺は回転椅子ごと後ろを振り向き、来訪者である女性を見た。
急いだせいで眼鏡が少しずり落ちている山田先生を見て、俺は首を傾げた。
「怪我人が出ましたか?」
「い、いえ、そういうわけではなく……」
言ってから山田先生は保健室内を見渡した。今、保健室には俺以外誰もいない。仮眠用ベッドもマッサージ用のベッドも全て空いている。それを見て、山田先生は少しほっと胸を撫で下ろした。
「よかった。今日は珍しく、誰もいませんね」
「まだ昼休みが始まったばかりですからね。それで、何かお困りですか?」
「え、えぇ、困っていると言えば困っているのですが……」
どうやら救急ではなく、相談事のようだ。
「それでしたら、どうぞお入りください」
俺が椅子を勧めると、山田先生は頷いて部屋へと入室した。
来客用のカップにコーヒーを注ぎ、山田先生に手渡す。山田先生は「ありがとうございます」と言ってそれを両手で受け取り、ゆっくりと飲み始めた。
「ふぅ……」
息をつく山田先生。砂糖とミルクの配分は適量なようで、美味しそうに飲んでくれた。
「落ち着いたらいつでもどうぞ。お仕事の悩みでしょうか」
「いえ、どちらかと言えばプライベートのことなのですけど……」
「構いませんよ」
山田先生は言いにくそうにしていたけど、俺が微笑みかけると決心してくれた。
「実は、親から縁談を勧められていまして」
「縁談ですか」
「はい。私がIS学園で教師をしていることを危惧した両親から話を持ち掛けられて。この学校って実質女子校じゃないですか。だから、行き遅れる前に身を固めさせようという両親の思惑で……」
「素敵なご両親ですね」
俺には親がいないのでわからないけど、とてもよい両親だと思う。娘のことを思ってのことだ。確かにIS学園には男は少ないため、ここで働き続けるということであれば外部での出会いを探すのが必須だ。山田先生が直接外へ出会いを求めなければ独り身のまま年を重ねることになるだろう。行き遅れるというには山田先生はまだまだ若いような気がしないでもないけど。
「ただお節介なだけですよ」
「世話を焼いてくれるということは、愛されている証拠ですよ。とても羨ましいです」
まともな生まれ方をしなかっただけに、一般家庭の愛に溢れた家族が羨ましかった。
「そうですか。えっと、ありがとうございます……」
山田先生は嬉しそうに笑い、しかし次の瞬間には疲れたような表情をした。
「お疲れですか?」
「はい、少しだけ。実は、この縁談というのはこれが初めてではなくて……。もう五度目ですかね。毎回断っているのですけど、両親がすぐに話を持ってきてしまって、困っているんです」
「そんなにですか。断るのには、何か事情があるんですね」
俺が何気なく言うと、山田先生が困ったように俺を見つめた。
「えぇ、そうなんです。実は、私には好きな人がいて……」
「あぁ、なるほど」
「ですが、その人は少し鈍感というか、私がアプローチしても受け流されるというか」
「そういう人いますよね」
多分、恋愛の経験が少ないからなのだと思う。俺も経験はないから、異性から好意を向けられても気がつける自信はない。まぁ、俺には到底縁のない話であるから、別に気にする必要はないわけだけど。
「えぇ、いますよね……」
山田先生は何故か、ジト目で俺を見ていた。何だろう。何か変なことでも言ったか?
少し変わった空気を正すべく、俺はコーヒーを一口喉に流し込んでから一呼吸置いた。
「つまり、山田先生は意中の人がいるから、縁談を受ける気はないということですね」
「はい」
「ご両親にそのことを説明されたことは?」
「一度だけ話してみたのですが、倍率が高すぎると言われて……」
山田先生の意中の人は結構な有望株のようだ。山田先生のような可愛らしい方であっても倍率が高いというと、想像ができない。世の中には凄い人がいるものだなぁ、と俺は思った。
「山田先生ご自身は、その人のことが好きなんですよね?」
「はい。優しくて格好良くて落ち着いた声で、傍にいるとほっとできて」
「なるほど」
「それと、マッサージが得意で……」
「マッサージですか」
俺と同じだが、珍しくはないか。現代は女尊男卑の風潮で、女性の立場の方が男性よりも強い場合が多くなってきている。男性には昔ほどの立場の強さはないため、主夫というのもそう珍しくはなくなってきているようだ。そうなると男性側が家事や妻の補助をすることも多くなって、マッサージもその一環に含まれてくるのだろう。
「それと、耳掻きも得意で」
「耳掻きもですか」
最近になって耳掻きサービスを保健室で始めるようになった俺には他人事と思えない話だった。マッサージと耳掻きが得意な夫。そして、山田先生曰く、優しくて格好良くて落ち着いた声で、傍にいるとほっとするという。何というか、完璧超人だろうか。他の何かしらの要素が壊滅的であっても目を瞑れるほどの人材だろう。その人が鈍感であっても、倍率が高いというのは頷ける。
「素敵な方ですね」
「えぇ、本当に……」
山田先生は据わった目で俺を見続けた。どうやらお疲れのようだ。
これはどう、助言するべきなのだろうか。簡単な話ではなく、言葉を誤れば機嫌を損ねそうな気がした。
俺は養護教諭として主に生徒の相談に乗ることはあるが、こういった恋愛話への対応は苦手としていた。単純に恋愛経験がないためだ。経験がないのに不用意な助言などできるわけもない。ドラマや小説で得た知識を伝授するのも何か違う気がする。
この分野で、俺が山田先生の力になれることはないに等しい。
そうなると、俺にできることは限られてくる。
俺は机にカップを置くと、椅子から立ち上がって山田先生の方へと近づいた。
「え、あの、幸野先生?」
「何というか、俺は山田先生のことが好きですよ」
「え、そ、それって……」
「はい。俺は山田先生の味方です。その人との恋が実るよう、応援しますよ」
何故か顔を赤くして、潤んだ瞳で俺を見上げる山田先生。どうしたのだろうか。俺は不思議に思いながら山田先生の背後に回ると、肩に両手を置き、軽くマッサージを始める。山田先生は織斑先生と同じで結構肩が凝る体質のようで、少し触っただけでも張っているのがわかった。
と思ったら、ため息とともに山田先生の肩から力が抜けた。何やら無駄な力が入っていたようだった。
「はぁ……。まぁ、そうですよね……。一瞬期待した私が馬鹿でした……」
「山田先生? どうかされましたか?」
「いえ、何でもないです……」
疲れたように言う山田先生。疲労が溜まっているらしい。これは本腰を入れなくては。
最初は何故かあまり乗り気ではなかった山田先生だったが、俺のマッサージを受けているうちに全身を預けてくれた。華奢だけど出るところの出た体を俺に委ね、甘い声を発して身を震わせた。
「あっ、そこ、んっ……」
何か如何わしいことをしている気分になってきた。だけど、やると決めた以上は途中でやめることはできず、俺は山田先生の肩を念入りに揉み解すしかなかった。
後日、俺と山田先生が保健室で如何わしいことをしているという噂が立った。何故か山田先生が事実と異なる噂を否定せずに微笑み続けたことで真実だと思われてしまったが、噂の火消しを手伝ってくれた織斑先生の助力もあってどうにかなった。
「もう、既成事実を作るしか……。睡眠薬とかで……」
山田先生の呟きを偶然耳にしたとき、俺は正体不明の悪寒に襲われた。