昨日の放課後は織斑先生、今日の昼休みは山田先生が保健室を訪れた。となると、もう一人の常連がそろそろやって来るような気がした。別に順番が決まっているわけではないため、あくまで俺の勘だ。
「先生? 手、止まってるよ?」
「あぁ、うん。ごめん」
少し考えに没頭していたとき、俺は生徒に声を掛けられて慌てて手を動かした。今はマッサージ中だ。放課後ということもあって、保健室には生徒で賑わっている。ベッドでうつ伏せになってマッサージを受ける生徒。マッサージの順番待ちをする生徒の列。保健室の椅子に座って談笑する生徒。丸テーブルでトランプに興じる生徒。もはやマッサージ室兼談話室のような有り様だ。
「あー、気持ちいいー」
俺のマッサージを受けて、生徒が緩みきった顔をしていた。そんなに凝っているわけではなく、体は至って健康体だ。あえて受けに来る必要はないのではないだろうか。仮に凝っていたとしても、一晩寝て翌朝になれば治っているだろう。思ったが、随分と気持ち良さそうだったため、俺は口には出さずにせっせと手を動かした。
「次は背中、お願いしまーす」
生徒がリラックスした声音で言うと、タイマー音が鳴り響いた。
「はい、その申請却下。もう三分経ったよ!」
「交代交代!」
「えぇー。もう終わりー?」
人数の関係上、生徒一人に対するマッサージ時間は三分となっている。これは生徒から提案されたルールだ。他にもいろいろなルールを提案されたのを受け、俺が検討し、保健室内での公式ルールとして幾つか採用している。勿論、これらのルールの前提として、怪我人や病人の治療など、俺の仕事を優先するというのは言わずもがな。
「次は私ね、先生!」
マッサージを受けていた生徒に変わって、別の生徒がベッドにうつ伏せになる。その生徒にマッサージをしながら、俺は思っていた。もう、新しい養護教諭を入れて、俺は別の役職に就いたほうがいいのではないだろうか。今の保健室のあり方を見て、今後の進路に悩みつつあった。
その後も、何人もの生徒のマッサージを行い、時間は過ぎていった。マッサージは結構体力を使うが、俺の体に肉体的な疲労はない。時々、妙に艶っぽい声を出す生徒がいて、そのせいで精神が削れることはあったが。
「はい、終わり」
そして、最後のマッサージが終わった。既に保健室には他の生徒の姿はない。
「はふー、幸せやった……」
「あはは、またおいで」
ふらふらとした足取りで去る生徒を廊下で見送り、俺は保健室へと戻った。
生徒でいっぱいだった保健室には誰もいない。空から差し込む西日に照らされ、寂しい印象を受ける。そう感じるのは、俺が特別だからなのだろうか。それとも、普通の人間が抱く普通の感情なのだろうか。
「……仕事するか」
残っている仕事は少ない。早く片づけてしまおうと、俺は机へと向かった。
仕事をしながら、結局現れなかった一人の存在を思い浮かべた。保健室の常連とは言っても、毎日来るわけではない。向こうにも予定はあるだろうし、何も不思議ではない。それなのに、何故だろうか。このままでは終わらなさそうな感じがした。やはり確信はなく、勘でしかない。だが、俺の勘はあまり外れることはなく、少し気がかりだった。
IS学園は海の一部を埋め立てて作った人工的な島を敷地としている。そこには校舎や寮、ISの運用を目的としたアリーナ、その他にも関連施設が立ち並んでいる。俺は施設内にある社員寮に住んでいて、仕事が終われば毎日そこへ帰宅している。
部屋に帰ってしまえば、貴重な一人きりの時間が続く。
そう思っていた。鍵を開けて、部屋に入るまでは。
「お帰りなさい、幸野先生」
裸エプロンの少女が俺を出迎えた。
一瞬だけ硬直していた俺は、開いた扉をそっと閉じた。右手の指先で眉間を揉み解した。妙な幻覚を見た。肉体的疲労はないが、精神的に疲れているようだ。今日は早く寝て、疲れを明日に持ち越さないようにしよう。
そう思ってから改めて部屋の扉を開いた。
「私にします? 私にします? それとも、わ・た・し?」
しかし、結果は変わらなかった。現実は非情だ。
部屋にいたのは女子生徒だった。明るく端整な顔に浮かぶ笑顔には悪戯好きそうな性格が滲み出ている。色白く、抜群のスタイルを誇る体には純白のエプロン以外身に着けていない。毛先が跳ねたショートヘアと深い谷間を形成した胸をたゆんと揺らし、その少女は俺のことを楽しげに見つめていた。
俺はその少女、
「はぁ……」
「あら、大きなため息。お疲れ?」
「たった今、どっと疲れたような……」
「鞄お持ちします」
「いいから」
俺は両手を伸ばしてくる更識さんの横を素通りし、部屋の奥にある執務机に鞄を置いた。スーツのジャケットを机に掛け、ネクタイを緩める。
「全くもう、君は本当に――」
「――魅力的?」
「はいはい、早く着替えなさい」
「え、全部脱げって?」
「言ってない」
着ているエプロンすらも脱ごうとし始めた更識さんに、またため息が出る。というか、今の動作で本当に裸エプロンだということがわかった。下に水着でも着ているのかという淡い期待を抱いていたが、そんなことはない。完全な裸エプロンだ。
更識さん。彼女こそ保健室の常連。いや、言い換えると俺の下へ訪れる常連だ。とにかく場所を選ばず俺の前に現れ、あの手この手で誘惑してくることが多く、毎度驚かされる。
そして今日、初めて部屋の中まで侵入された。
俺は執務机の椅子に腰掛け、更識さんに事情を聞くことにした。
「そもそも、どうやって部屋に入ったの?」
「合い鍵」
なるほど。施錠されていた部屋を、合い鍵で開けて堂々と侵入したと。そして、内側から扉の鍵を閉め、俺が帰ってきて部屋に足を踏み入れるその瞬間まで、中に誰もいないと思わせたわけだ。
「没収」
「残念だけど、仕方ないわね」
「どうやって入手したかは聞かないでおくよ」
手を差し出すと、更識さんは大人しくその手に合い鍵を乗せた。俺はそれを回収し、机の引き出しの中へと入れる。
「それと、女の子がそんな格好しちゃいけません」
「いいじゃない減るものじゃないし」
「いろいろと擦り減るんだよ」
主に俺の精神とか。生徒を邪な目で見てしまわないように理性の制御をかけるので必死だった。
「風邪引くから、早く着替えなさい」
「はーい」
そう言って、更識さんは脱衣所へと向かった。今日はやけに素直だな。もしかして、日頃口うるさく注意したのが効いてきたのかもしれない。
長かった。この一年間、更識さんに何度注意したか。直るどころか悪化し、その度にのらりくらりと躱してきた子が、成長したものだ。
「じゃーん、着替えましたー」
「アウト」
脱衣所から早々に姿を現した更識さんの格好、裸ワイシャツを見て、俺は考えを改めた。駄目だ、この子。早く何とかしないと。いや、もう手遅れか。結局、俺の一年は何だったのだろうか。自分一人で解決しようとせず、素直に織斑先生に相談しておけば良かった。
「裸ワイシャツも嫌いなのかしら」
「好きとか嫌いとかじゃなくて」
どちらかといえば好きだけど。生徒の裸ワイシャツ姿を見て素直に喜ぶ教師がいたら、その人は教師失格だろう。
「嫌いじゃないならいいじゃない」
「良くないから」
「でも、これ以外に服はなくて」
「……どうやってこの部屋へ?」
「ひ・み・つ」
楽しげに言う更識さん。この子はいったい何を考えているのだろう。たぶん、俺が学園内でたった一人の男性教師ということもあって、からかいたいのだろうけど、よくも飽きないものだ。
「とりあえず、そこに座りなさい」
「はぁーい」
更識さんの近くにあった椅子を指差すと、更識さんはそこへ腰かけた。相変わらず俺の反応を楽しむような微笑みを浮かべている。やはり、からかわれているようだ。
「いいかい? 俺と更識さんは、教師と生徒。やっていいことと悪いことがあるよね?」
「私としては、早く先生には私のお婿さんになって先生を辞めて欲しいのだけど。そうすれば、先生と私は一般男性と生徒。ほら、これで問題なし」
「問題しかないからね?」
俺の言葉に、更識さんは不満そうに口を尖らせた。
「もう、先生ったらガード硬すぎ。これだけアプローチしてるのに。……こうなったら」
「え、なに……?」
突然席を立ち、俺の方へと向かってきた更識さん。何をするつもりなのか。先の行動が予測できずに戸惑っていると、椅子に座る俺の背後に回り、抱き着いてきた。
「先生」
「え、あのっ、更識さん……!?」
背もたれのおかげで、背中に胸を押しつけられるという事態は回避できた。だが、更識さんが俺の右肩に顎を乗せたために、顔が凄まじく近い距離にある。右側を振り向こうものならばその顔は触れてしまうだろう。だから正面に向けた顔を不用意に動かすこともできず、俺は視線だけを右に向けた。
蠱惑的に微笑む更識さん。その口が、俺の耳に近づいた。
「私のお婿さんになったときのメリットを教えてあげる」
耳に当たる吐息。そのこそばゆさと刺激に、俺は茫然とした。
「それは――」
更識さんが言葉を続けたところで、部屋の扉が大きく開いた。
「なっ……!」
驚いた更識さんが立ち上がった瞬間、何か黒い物が更識さん目掛けて飛来した。更識さんが瞠目して反応を示す中、俺は即座に警戒態勢に入って左腕につけた腕時計へと意識を向けたが、飛来してきた物の正体に気がついて緊張状態を解いた。
俺の動体視力が捉えた物は、出席簿と書かれた黒い帳簿だった。
更識さんはどこからともなく取り出した扇子を振るい、出席簿の進路を逸らす。凄まじい速度で飛んだ出席簿はそのまま壁に当たって大きな音を立て、床に落ちた。
「誰っ!?」
更識さんは扇子を開き、声を響かせた。その扇子には『常在戦場』と書かれていた。
達筆な字だ。俺が呑気に考えていたとき、出席簿を投じた主が廊下から姿を現した。
ここは社員寮。そして、出席簿を投じる攻撃方法。姿を見るまでもなく俺は相手の正体がわかっていた。
「私だ」
織斑先生だった。部屋の前で仁王立ちし、胸の下で腕を組んでいる。スーツ姿であるところを見ると、寮に帰ってきたばかりのようだ。
織斑先生から放たれるプレッシャーを優しく表現するならば、修羅だろうか。口元は引き結ばれ、鋭く細められた眼が鈍い光を発しているように見える。気のせいだ。背には暗いオーラのような物が可視化できるレベルで表出していた。これも多分気のせい。
圧倒的強者の登場。それに対して、更識さんの喉から息を呑む音が聞こえた。
更識さんは冷や汗を垂らしながら一度扇子を閉じ、開きなおす。その扇子に書かれていた字は、『絶体絶命』だった。うん、だいぶ余裕がありそうだ。
眼光を光らせ、更識さんを見つめる織斑先生。扇子を開いたまま身構える更識さん。緊張する場面だ。俺は二人の動向に目を向けながら、鞄から取り出した水筒に残っていたお茶を飲み干す余裕しかなかった。
「では教育してやろう」
更識さんは裸ワイシャツのまま織斑先生に連行された。生徒指導室へ。
これで、更識さんも生活態度を改めてくれるだろうか。難しいだろうな。せめて校内では、そろそろ入ってくる新一年生の模範になる生徒であってほしい。一縷の望みを抱き、更識さんのことは織斑先生に任せ、俺は食事を取ることにした。