机の引き出しに書類やボールペンをしまい、顔を上げる。正面に見えた窓の外は暗かった。保健室に俺以外誰もいないことを確認すると、部屋の戸締りを始める。窓やロッカーを施錠し、廊下に出て保健室の扉に鍵を掛ける。
廊下から職員室へと移動した俺は、職員室へ鍵を返し、社員寮へと向かった。
今日も一日の仕事が終わった。あとは部屋に戻って夕食と入浴を済ませ、就寝時間まで読書や録画しておいたドラマの視聴。代り映えしない生活だが、こうした普通の人間らしい生き方が俺にとっては非常にありがたい。
手に持った鞄を揺らし、短い距離を歩く。学生寮と併設された社員寮へと入る。
「……問題なし」
途中で俺は周囲に気を配りつつ、部屋へと向かった。最近、更識さんが俺の部屋に侵入してきたこともあって少し警戒心を抱いている。織斑先生による指導を受けた更識さんだが、いつまた何か良からぬことを企てるかわからない。
だが、俺の心配は杞憂に終わった。部屋に入ると誰もいなかった。
「ただいま」
形だけの挨拶をし、室内の照明をつける。広い部屋の隅々まで適度な光が行き渡り、部屋の内装が目に映る。窓を背にした執務机や本棚、観葉植物。執務机から離れた場所にソファーやテレビが設置されている。キッチンやベッドはそれぞれ別の部屋にあり、他の部屋も十分な広さを誇っていた。俺は他の一般的な社員寮を知らないが、この学園の社員寮は他に比べて設備が充実していると思う。
いつも通り執務机の席に鞄を置き、スーツから部屋着に着替えた俺が向かったのはキッチンのある部屋だった。社員寮には食堂もあるが、足りなくなった食材を購入する以外の目的で利用したことがない。昔から、料理は自分でするものという意識が強かった。今日の夕食はあさりのトマトスパゲティにしようと考え、調理を始めた。
大鍋でスパゲティを茹でながら、フライパンにオリーブオイルを入れて火を通す。香りが立ったところであさりや半分に切ったチェリートマトを加え、蓋を閉める。
あさりやトマトに熱が行き渡るまで待っていると、ポケットに入れていた携帯電話が振動した。この振動回数は、電話ではなくメッセージアプリの通知だろう。
『お腹空いたー。りょーくんの今日のご飯はなにかな?』
携帯電話を確認すると、やはりメッセージだった。送ってきた相手は、俺が敬愛している女性だった。そのメッセージと同時に送られてきたのは、目を細めて力なく地面に突っ伏す白兎のデフォルメ絵。彼女の心境を示しているのだろう。
『今日の夕食はあさりとトマトのスパゲティです』
彼女のメッセージを見て頬を緩めつつ、メッセージを返す。
『ずるいずるいずるいずるいっ!』
メッセージと共に送られてきた、地面で両手足をばたつかせて駄々をこねる兎のデフォルメ絵。くすりと思わず笑ってしまう。彼女とは電話やメッセージなどで定期的に連絡を取り合っているが、その度に心に欠けていたものが満たされるような充足感を覚える。それくらい、俺にとって彼女は大切な存在だということだ。
『今度、作りにいきますよ』
『本当? わーい! 約束だからね? 約束破ったら、容赦しないから』
その言葉に合わせて、異様に筋骨隆々とした八頭身の体で仁王立ちする兎の絵が送信された。円らな瞳とリアルな筋肉の対比がおかしくて、またしても笑みが零れてしまう。それにしてもバリエーション豊富な兎だ。
『えぇ、楽しみにしていてくださいね?
俺は主である篠ノ之束様に返事をし、フライパンの蓋を開けてコンソメを少量加えた。立ち昇る湯気と火の通った食材の香ばしさ。こうして一つ一つの素材が組合わさって何かを産み出すことが堪らなく好きだった。自分の成果を喜んでくれる人が身近にいればもっと良い。
「楽しみだな」
大切な主と会える日を想像し、俺は口許を綻ばせた。
食卓の席に座り、皿に盛りつけたスパゲティを食す。そうしながら頭に浮かんだのは、IS学園での初日を迎えた新入生たちのことだった。教師としては、生徒一人一人のことが気になる。特に今年はいろいろと注目していきたいと思える子ばかりだ。
そう言えば、今年は束様の妹さんも入学したと耳にした。束様から何度も聞かされた話によれば、真面目で優しい子だという。困っていたら助けてあげてほしいとも言われていた。養護教諭という立場で何ができるかとも思ったけど、機会があれば力になってあげよう。
「ん?」
フォークを回してスパゲティを巻きつけ、口へ運ぼうとした俺の耳にインターホンの音が届いた。誰かが俺の部屋を訪ねに来たらしい。しかし、この時間に誰だろうか。候補としては織斑先生か山田先生、もしくは生徒である更織さん。あとはそれ以外の先生方で、何か緊急の連絡事項を伝えに来たのかもしれない。
食事を中断し、玄関へと向かう。そのまま扉を開けても良かったのだけど、気になって扉の覗き穴から共用廊下を確認する。
「え?」
そこに立っていた人物を見て、俺は目を軽く見張った。
扉を開き、廊下に立っていた人と顔を向き合わせる。その人は切れ長の双眸を不安げに震わせ、緊張を覚えているのか唇を引き結んでいた。視線はしっかりと俺を捉えていて、澄んだ黒い瞳には俺の姿が映っている。
君は、と漏らしかけた言葉は声にはならなかった。予想を大きく裏切る来訪者の登場に俺自身かなり動揺しているのかもしれない。
「初めまして、幸野先生」
口から紡がれた少女のよく通る声。声に見合った凛とした雰囲気と束ねられた艶のあるポニーテール。白い制服を身にまとったその少女が、来訪者だった。
「私は、篠ノ之箒といいます。その、こんな時間にすみません」
さっきまで俺がメッセージでやり取りをしていた束様の妹さん。篠ノ之箒さんが目の前に立っていた。手には包装された箱を持っている。それが何なのかはわからないけど、生徒にとっては立ち寄りにくい社員寮に足を踏み入れるほどの何かがあるのかもしれない。
「あの?」
少しぼうっと考え事をしていると、篠ノ之さんから声を掛けられた。俺はそれで我に返り、慌てて口を開いた。
「あぁ、ごめん。初めまして、篠ノ之さん。俺は幸野良助。知ってるかもしれないけど、養護教諭をやってるよ」
「はい。よく知ってます。姉が言っていたので」
「束――さんが?」
危うく様付けで呼びそうになってしまったのを食い止める。束様が篠ノ之さんに俺のことをどう話したのかわからない以上、普段通りの呼び方ではまずいだろうと思ったからだ。束様と俺の主従関係を知らない者に、俺の口から束様という呼び方を聞かせるのはあまりよろしくない。
「はい。姉からは幸野先生の話をよく伺っていまして。……それはもう耳に蛸ができるほどに。どうやら、かなりご迷惑をお掛けしているように感じられたので、それで、一度ご挨拶を兼ねた謝罪をと思いまして伺いました。お口に会うかわかりませんが、よろしければこちらをどうぞ」
「ありがとう。ありがたく頂くよ」
篠ノ之さんから手渡された箱を受け取り、包装紙に書かれた名前を確認する。確か、老舗のお煎餅屋の名前だ。生身はお煎餅のようで、それなりの重みを両手に感じられた。
「それで、姉のことなんですが」
篠ノ之さんは言いづらそうに口を開き、続けた。
「ご迷惑をお掛けしてないでしょうか?」
「ううん、そんなことないよ。束――さんにはいつもお世話になってる。彼女のおかげで今の俺があると言っても過言じゃないから、感謝の気持ちはあっても迷惑だなんて思ったことは一度もないよ」
俺がありのまま思ったことを言うと、篠ノ之さんはなぜかぽかんと口を開いたまま身動きを止めていた。何か変なことを言ったかな? 少し不安になってじっと見続けているも、少しして篠ノ之さんが正気に戻った。
「あっ、すみません……」
「ううん、構わないけど、どうかした?」
「いえ、何というか、姉のことをそこまで評価してくださる方と出会ったのが初めてで、少々驚きが強かったもので」
「確かに理解されにくいかもね。束様は」
「……様?」
「あっ……」
篠ノ之さんの訝しげな視線に晒され、ついうっかり口が滑ってしまったことに気がつく。
「ごめん、噛んだだけだから。束さんね、束さん」
「そ、そうですよね……」
そう言いつつも、篠ノ之さんは納得していない感じだった。もしかしたら、束様が俺のことを洗脳しているのではないか、と疑っているのかもしれない。本当に出来てしまえそうで、やけに現実味を帯びていた。
俺と篠ノ之さんの間に妙な沈黙が流れていると、誰かの話し声が廊下の曲がり角から聞こえてきた。それをきっかけに俺は口を開いた。
「ごめんね、ちょっと用事を思い出しちゃって……」
「あ、すみません……」
「ううん。お煎餅ありがとうね。それじゃあ、おやすみ、篠ノ之さん」
「はい、おやすみなさい」
綺麗に一礼をし、その場を後にする篠ノ之さん。俺はその後ろ姿を少しだけ見送った後、扉を閉じて部屋へと戻った。
お煎餅の箱を食卓に置き、席に着く。再びフォークを手にして口に入れたスパゲティは少し冷めてしまっていた。温め直すほどでもないため、そのまま食事を進める。
「もう少し美味しく作れるかな……」
頭の中に浮かんだのは、俺の料理を美味しそうに食べてくれる束様だった。あの人はたぶん何でも美味しそうに食べてくれるだろうけど、やはり本当に美味しいと思えるものを食べさせて喜ばせてあげたいと思う。
口を動かしながら考え続けていると、今度は篠ノ之さんのことが頭に浮かんだ。束様の妹さんだけど、俺は束様の口から聞かされた話でしか篠ノ之さんのことを知らない。その話の中で束様は、姉妹仲は良好だと言っていたが。
嘘っぽいよなぁ。今日見た反応だと、仲が良いという雰囲気は伝わって来なかった。でも、完全に仲がこじれているかと言われるとそうでもなさそうで、本当は仲良くしたいのに仲良くできないような焦れったさを感じる。
これ以上は家族の問題だろうか。少し深入りし過ぎている感じがして、俺はそれ以上の詮索をやめることにした。
少し考えに時間を使いすぎていたようで、スパゲティはすっかりと冷めてしまっていた。