火花を散らし刃を鳴らすは二振りの隕鉄の剣。
赤い薔薇、正統ローマ皇帝ネロ・クラウディウスは身に纏うドレスと同じ紅蓮の炎を棚引かせ、一気呵成に斬りかかる。
黒い薔薇、連合ローマ皇帝ネロ・クラウディウスは身を包んだドレスを、吹き出る血液によって赤黒く染め、精細さを欠きながらも攻撃を凌ぎ、反撃していた。
吹けば飛びそうなほど散逸している意識をかき集め、必至に現状に抗っている彼女だったが、それでもなお自力ではこの場の誰よりも上を行く。
魔力量に任せた力技で赤剣をかち上げ、体勢を崩す。
流麗さなど欠片もない荒々しい剣が、無防備となった胴体を狙う。
しかし元より、強大な相手に群れで立ち向かうのが人類である。
赤のネロが不利になったと見るや、すぐさまマシュが割って入る。
戦いの構図としては先ほどと変わりはない。
だが明白に変わった点が一つある。
未だこの宮殿内で最強の個は黒のネロである。
だが、絶対の存在ではなくなっていた。
荊軻の宝具の力は不死性を剥奪するに留まらず。
刃に塗られた
塞がらぬ傷からは絶えず魔力が零れ、神経を直接掻き毟る様な痛みが集中力を奪う。体に回った毒が、絶えず
何人だろうと逃れることはできぬ、呪い染みた毒。
筆舌に尽くしがたい苦痛が、黒のネロの全身を駆け巡り、彼女が奮う【皇帝特権】にも影を落とす。
新たにスキルを取得することはできず、今残るランクダウンしたスキルを喪失しないようにするのが精一杯であった。
豊潤な魔力と手札の多さ、なにより驚異の不死性のため、戦いの天秤は序盤から一方に傾いたまま動こうとせず。
だがそれも、荊軻の文字通り捨て身の一撃により崩壊。
秤は拮抗し、水平を取り戻し、まさに今反転せんとしていた。
その事実は黒のネロから余裕を奪い、じりじりと焦燥させていく。
目前で果敢に攻めてくる生前の己と盾の騎士。
彼女たちは確かに難敵であるが、彼女が一番警戒していた相手は他に居た。
先ほどまでしつこいほどに銃を打ち続けたアサシン――エミヤが一転して姿を消していた。
姿が見えないどころか、気配すらまるで感じれない。完璧な気殺。
貧弱になった彼女の【気配察知】では、高いランクを誇る彼の【気配遮断】を破ることができない。
それはエミヤが彼女の致命的な隙を、虎視眈々と狙っていることの、何よりの証左である。
思い出すのは前回の、見事なまでのハートショット。
不死を失った彼女は、それをもう一度喰らうわけには、いかない。
女傑二人の猛攻を凌ぎつつ、一時の油断も許されない警戒網を周囲に張り続ける。
結果、彼女の精神は加速度的に削られていく。
戦士たちからの豪撃は、暗殺者からの奇襲は、否応にも彼女に死を想起させる。
死。
それを思うだけでサーヴァントの身でありながら、その全身から脂汗が止め処なく吹き出ていく。
不死を剥奪された以上、己は死ぬ。このまま劣勢に陥り敗北すれば、一人死ぬ。
それだけは嫌だと、彼女は歯を食いしばる。
彼女はひたすらにそれを恐れていた。
このままでは己は死ぬ。一人死ぬ。
それだけは嫌だと心が叫ぶ。
「死なぬ、死なぬっ、死なぬ死なぬ死なぬっ!!余はこんなところで、みすみす一人死ぬわけには、いかぬのだ!」
萎える気勢を奮い立たせるため、彼女は吼える。
彼女が脳裏に浮かべるは生前最期の記憶。彼女が迎えた三度目の生。その景色。
「余はローマを滅ぼすために、愛したもののまま滅ぼすためにここまでやってきたのだ!その終わりが、ここで一人惨めに躯を晒すことだと!?認めぬ!断じて認めぬ!!」
裂帛の気合は黒炎を巻き上げ、五感をひたすら研ぎ澄ませた。
追い込まれて発揮した驚異的な集中力は、暗殺する余地を微塵も与えない。
「だから死ね!
吐いた気炎を力に代えて、盾と剣を弾き返す。
窮地においてなお奮われる恐るべき力。
その力を前にして赤のネロは……笑った。
「ふっ。落ちぶれたと思っておったが、どうやらそれは余の勘違いであった」
「当然であろう。私は貴様の果てに至った存在。至高の皇帝。貴様らを灰にするなぞ造作も――」
「何のことはない。貴様はもはや皇帝ではなく、ただ一人の
「――なんだと?」
沸々と湧き出るどす黒い殺意。念じるだけで人を殺せそうな意気を、赤のネロは飄々と受け流す。
「皇帝が憎しみのあまりローマを滅ぼそうなぞおかしな話であったが、皇帝でもないただの小娘であればまあ仕方のない話よ」
「否!私はローマ皇帝にして末帝、ネロ・クラウディウスっ!ローマを滅ぼす最後の皇帝なりっ!!訂正しろ
「いいや違う!皇帝であったのは過去の、死ぬまでの話!今の貴様は皇帝としてのガワを纏い、駄々をこね喚き散らす幼子だ!」
吹き上がる炎は憤怒の証か。
ジェットの炎を吹かし、叩きつけられる黒剣。
人間など跳ね飛ばして余りある一撃。
それを受けて、しかし赤のネロは弾かれることなく大地に立つ。
「恐れて、嫌がって、受け入れられないが故に破壊する。これを幼子といわずなんと言う!?」
勢いに押され体は揺らぐ。ここまでの戦いでとうに限界を超えているのか、漏れる息はか細く震え、膝を必至に笑いをこらえ、剣を握る両腕は不規則に痙攣を起こしている。
少し押せばすぐに折れる枯れ木のような有様だ。大国ローマの支柱と言われて、一体誰が信じようか。
五体悉く傷だらけ。満身創痍とはまさにこのこと。
しかし、その中で唯一つ、碧色の両の瞳。それだけがまるで揺らぐことなく敵を、憐れなる己が末路をしかと見据えていた。
まるで過去の自分自身に、全てを見透かされたような。
「死にたくないと思うこと!それのなにがおかしい!」
錯覚だと言い聞かせ、己を騙してなお意気を吐く。
「おかしくはない。余もまた死ぬのは恐ろしい。だが貴様が恐れているのは死そのものではなく……一人ぼっちで寂しく死ぬこと、であろう?」
だが錯覚ではないと、生者は亡者に突きつける。
「今の貴様を見れば、余がどのような最期を迎えたか想像がつくというもの。いや、むしろ初めて会ったときから、余は感づいていたのやもしれぬ。裏切られたという貴様の最期を。すなわちいずれ迎えんとする、余の最期を」
「黙れ」
生者はただ、事実を突きつける。
「服毒か自刃か、どうやって死んだのかは知らぬ。だがどのように死んだかは分かる。愛したものたちに裏切られ、打ちのめされ、最期の最後、死ぬときには誰も傍らに居なかったのだろう」
「黙れ」
亡者が迎えた最期を突きつける。
「貴様は耐えられなかったのだ。誰にも愛されていなかったという事実に。一人で迎えた最期の光景に。だから貴様は決めたのであろう。例え愛されておらぬとも、一人で死んでしまうくらいなら、愛した者たち全てを道連れにしてしまおうとな。」
「黙れ」
囚われている妄執を突きつける。
「分かるか?
彼女の正体を……泣きじゃくる幼子の顔を、突きつける。
今を生きるネロは自らの結末を知らない。知る気もない。
しかし分かるのだ。なぜなら、彼女もまたネロなのだから。
「黙れぇぇっ!」
図星を突かれたものの反応は決まっている。恥じ入るか、誤魔化すか。はたまた激昂するか。
狂乱したかのように剣を滅茶苦茶に振り回し、黒炎を四方に撒き散らす。
外野からの介入は妨げられ、舞台は再度、ネロたちの独壇場となる。
「貴様に分かるか!死してなお諦めきれず期待して、裏切られ、三度目の闇を迎えたときの私の気持ちが!?夜を迎えるたび目を覚まし、それでも誰も来なかったときの気持ちが!」
怒りは熱となって周囲を歪め、大地を焦がし、自らの肉体すら焼いていく。
発せられる言葉、感情は彼女が秘めていた真なる想念。
全ての余裕を剥ぎ取られたからこそ晒された、真実の表情がそこにあった。
「貴様もアレを味わえば分かる!滾々と傷口から沸いてくる血の味を!喉を突き破る刃の感触を!!裏切られた私の怒りを!!愛するローマから見放され孤独に死んでいく恐怖を!!!」
思い起こすのは都合三度の死。その全てにおいて、彼女は常に一人であった。
「怖い!怖くて堪らない!誰にも見取られず、ただ一人で死んでいくのが、とても恐ろしい!!」
彼女の源泉は死の恐怖。
誰にも見送られることなく、惜しまれることなく、一人ぼっちで死んでいく恐怖。
孤独なる死。それが彼女を衝き動かしていた。
「おかしいだろう!?あんなに愛したというのに、奴らは、彼らは、ローマは私を愛してくれてないなんて!一人で死にたくない。誰にも看取られることなく死にたくない。
秩序を失った抑揚は、千々に裂かれた心が上げた悲鳴のようだった。
反転する感情の源泉たる、ローマへの愛。
大きすぎる二つの感情に隠されていた孤独死への恐怖。それこそが彼女の本質。
そう、なんのことはない。未練というのもおこがましい。
彼女はただ、孤独になるのが嫌だっただけなのだ。
それこそ、親と逸れ泣きじゃくる、迷子の少女のように。
「甘ったれるなぁ!!」
だからこそ、ネロはそれを否定する。
何故なら彼女は
「民が余の愛に応えれくれなかった!?なるほど確かに哀しいことだな!だがそこからして貴様は間違っているのだ!お前を愛するからお前もまた己を愛せなどと、如何にローマ皇帝であったとしても傲慢が過ぎようぞ!」
斬撃の嵐、舞い上がる炎。それら全て、彼女の声を遮ること能わず。
「余が愛は誰に押し付けられたものでもなく、余の内から生じたもの!自然に生まれ出でたからこそ、価値があり、意味がある!だのに、それと同じものを余に向けるように強制しようなど、片腹が痛いわ!」
未だなお自力では黒のネロが上回っている。だというのに、一歩一歩と押し込んでいるのは、誰あろう赤のネロであった。
「貴様の全ての行動は独り善がりで、独善的だと決め付けられたのだぞ!」
「――それの何が悪い!」
押されている。その事実から目を逸らすために張り上げた否定の声は、他ならぬ
「独り善がり!?独善的!?結構ではないか!余は誰かに愛してもらいたいがためにローマを愛したのではない!ローマを愛するが故にローマを愛したのだ!」
そう。彼女がローマを愛する理由はただそれだけ。
ただ愛すと決めた。彼らがどう思おうが、たとえ憎まれようが、ただ無条件に愛すると。
「この先に何があろうと、悲劇が待ち受けていようと、余はローマを愛することを止めぬ!ローマが滅亡し、名を変えようとも、人の歴史が続く限りローマは永劫にして不滅!であるならば余が愛したものが滅することなど、余の愛が滅することなど、有りはしない!己が愛したものが世の果てまでそこにある!報いなぞそれで十分だ!それ以外の何が必要だ!」
己が愛したローマが未来へと永劫に続いていくこと。
未来に――自分が居なくなった世界に、なお愛したものが続くこと。続いていくこと。
彼女にとって、皇帝として得られる報酬がそれだった。
見返りを求めぬ無償の愛。ともすれば、誰も己を愛してくれないやもしれぬ、孤独な愛。
いうなれば、それこそがネロ・クラウディウスが定めた
だが、彼女の脳裏に浮かぶはローマの街並み、平和な景色、そして己に笑みを投げかけてくれる人々。
「だというのに!押し付けの、独り善がりの、独善的な愛であっても!そんなものであっても、笑いかけてくれる者が、余を愛してくれる者が、確かに居た!居たのだ!まったくもって過分な報酬!これ以上の幸運あるものか!」
彼女は断言した。
己は既に、報酬以上のモノを貰っているのだと。
ならばもはや迷うことなどない。悲しむことはあるかもしれない。絶望することもあるかもしれない。憎まれることすらあるかもしれない。
それでも、彼女は最期の瞬間まで、ローマを愛し続けるのだ。
黒のネロが一歩一歩押し込まれていく。膂力で勝ち、魔力で勝っていてなお、気迫に負けて後ずさる。
一歩下がるごとに、闘争の天秤は徐々に傾いていく。
勢いに乗るネロは、目前の
「そもそもだ!なーにが三度目の闇だ!たかが
「っ!」
それは彼女の
己が最期の記憶、その僅か一日後の話。己が亡骸を見つけた部下の兵士に労いの言葉を掛けた、という
限りなく近く、どうしようもなく遠い、
まるで見てきたかのように知っているのに、まるで実感の沸かない知らない出来事。
己を救うに足る最期の記憶は欠落し、埋め合わせの記録は非情に突きつけるだけ。
――それさえあれば、ローマを憎まずに済んだことを。
核心を突いたその言葉は、たった一日の差で復讐者に堕ちた皇帝を、意図せずして弾劾した。
「っはあああぁっぁ!!!」
いくら求めても手に入らぬ最期の
絶望は憤怒に変わり、憤怒は怨憎に変わる。
三度洛陽を超えれぬ我が身を呪い、己を超えるであろう目の前の自分を呪った。
眼中にあるは唯一つ、己が失った輝きを持つ己自身。
「黙れっ!黙れ黙れ黙れ黙れぇええっっ!」
死の恐怖を忘れた。這い回る蛇の毒の苦痛を忘れた。
八つ当たりであっても、理不尽な言い分であっても、抱いた怒りと憎しみは本物。
それを晴らさんと何をも省みんとせん姿は、まさに
捨て身の猛攻はその具現。目の前の敵を葬り、復讐を成さんとする抜き身の刃がそこにあった。
「ぐぅっ!」
痛恨の失策。
吹き飛ばされ、たたらを踏む赤のネロ。その手から、原初の火は、失われていた。
空を舞う陰鉄の鞴。どうぞ摘んでくれと言わんばかりに、無防備を晒す赤い薔薇。
即座にカバーに入らんとするマシュに目もくれず、黒のネロは剣を掲げる。
「その減らず口ごと、ここで燃え尽きろぉっ!ネロ・クラウディウスっ!」
吹き上がる黒炎。天をも焦がし、大地を焼き尽くす熱量は、今までのそれとは比べ物にならない。
余波だけで劇場の黄金は溶け、鉛の弾はこの世から消失した。
黒のネロは警戒していなかった。油断していた。そこを突いたアサシンの狙いは、まさに完璧。
しかしむべなるかな。余りにも力不足。黒のネロを暗殺すること、能わず。
なんだ、最初からこうすれば良かったのだと、彼女は思わずほくそ笑む。
一個人に向けて振るうには余りに過剰だが、黒のネロは衝動のまま魔力を剣にくべ続ける。
そこにあるのは、必殺にして必滅の意思。
幕を下ろさんと今、宝具が開帳される――
「骨すら残さぬ!三度目の洛陽など、迎えさせぬ!
「アサシンに
――その直前、一拍の間が生まれた。
突如響いた声。
二人だけの舞台に、袖で見ているだけの人間が、台本にない台詞を喋ってるような、そんな場違いな声。
冷や水を掛けられた様に黒のネロは己をを取り戻す。
昂った精神が沈静し、体を蝕む毒が激痛と共に存在を主張してきた。
痛みに散り散りになりそうな意識を繋ぎ止め、認識した現状に思わず愕然とする。
激昂し、我を失い、周囲を警戒することなく、今まさに宝具を放たんとしていた。
余りに、余りに明確な隙。
アサシンが狙うにはこれ以上ないほどの。
先ほどの弾丸では、何発撃っても仕留めることはできない。
だが、アサシンとは暗殺者であり、サーヴァントである。
すなわち、真骨頂は宝具にあり。
脳裏に過ぎるは、己が心臓を食い破った鉛の味。
死を再び明確に意識した途端、彼女の思考は色を変える。
復讐の黒から、死を恐れる恐怖の黒へと。
それが彼女の、三度目の落陽を迎えられなかったネロの本質。
孤独を恐れるために、ひたすらに死を恐れる、ただの女の子。
燃え上がり続けた憤怒も憎悪も、火種はとてもちっぽけな、……今際の際の、寂莫の恐怖。
復讐者に相応しき怒りと憎悪を抱き、似つかわしくないモノを彼女は求める。
欲するモノを手にするまでは、彼女はただ死を恐れ続ける。
「――フッ!」
その恐怖を振り払うための刃が今、
ネロは一つの疑念を抱いた。
立香の手から令呪が消えているのを確認しているが、果たしてそれは真実なのか、と。
疑いを元に彼女は推測を積み重ねる。
左手や目には映らない部分にも令呪を宿しているのかもしれない。
時間経過で補充・回復される代物なのかもしれない。
後生大事に温存していた様に見せたのは貴重であると思わせ誤魔化すためなのかもしれない。
なるほど、今思えば令呪を隠したり晒したりで動きに統一性がなかったが、こちらの思考を誘導するための一種の偽装工作か。
真に最後の切り札を隠すための作戦をやり通した手腕、見事という他あるまい。
だが、最後の最後に詰めを誤ったな!カルデアよ!
――などと。
僅かな疑念という種は、想像力という栄養を吸い、筋道という標を伝い、確信を芽吹かせる。
その確信が、立香へと刃を向けさせた。
放たれるは人の身長ほどもある大きさの火球。
宝具の詠唱を中断し、迅さのみを求めた一撃。最大の一撃と比べると貧弱と言わざるを得ない。
しかし立香の口を封じるには、令呪を阻止するには、人を殺すにはそれで充分。
黒のネロは内心にて称賛する。
余人の介在を許さぬ超常なる戦場で、ここぞというタイミングで切り札の使用。マスターとしては完璧としかいいようがない。
だが残念ながら、ネロを仕留めるには、一手足りなかった。
……立香が令呪を未だ持っていたら、の話であるが。
黒のネロが抱いた疑念も、想像も、筋道も、確信も、全ては彼女の内側から生じたもの。
いや、はっきり言おう。彼女の確信は確信に非ず。
死の恐怖に囚われ、死を避けるためつらつらと都合の良い
エミヤが必殺の切り札を隠し持っていると思い込み。
立香が令呪を持っていると思い込み。
己が殺されると思い込む。
もう一度、ここで断言しておこう。
藤丸立香はこの戦場において、
故に、彼の口から出る言葉には何の意味もありはしないのだ。
立香は理解している。防ぐことも躱すことも叶わないことを。
だからこそ彼はたったの一言、口に出す。
「――助けて」
悲愴、悲痛、切実――そんな要素など微塵もない、まるで隣の友人に教科書を見せてもらう時のような、極めて軽い調子で呟いた。
黒い焔が飲み込まんとした、まさにその直前、赤い影が立香とフォウを攫って行く。
火球よりなお迅く、時が止まった中を駆けたかのようなスピードで、赤い影――エミヤは死地よりマスターたちを救い出した。
黒子が不要な小道具を舞台から下げるように。
ネロは目を見開く。
己が確信が、盲信であったことを悟ったがために。
彼女が本懐を遂げる機会は、ここに失われた。
チャンスを前に守りに入った者に……
振り下ろされた刃を、マシュが盾で押さえつける。
まるで城が覆い被さったかのように、剣の動きが止められる。
赤のネロは、宙を舞う剣に手を伸ばす。
二人のネロ、その丁度中間に剣は落ちていく。
自由が利かぬ剣を手放し、黒のネロもまた同じく落ちる剣へと手を伸ばす。
「「貰っ、たぁ!」」
空から降る隕鉄の剣は……黒のネロの手に収まり……赤のネロは剣を無視して、敵の懐へと飛び込んだ。
彼女が握るは小さなナイフ。その刃が心臓に向けて突き出される。
即座に張られる魔術の盾。膨大な魔力で作られた強靭なその悉くが、抵抗もなく切られた。
その手に握るは、
黒のネロの魔術回路が無秩序に切って
その表情が歪むは、激痛か、恐怖によるものか。
立香の虚言にチャンスを奪われ、マシュの盾に剣を封じられ、荊軻の刃に不死を剥ぎ取られ、エミヤのナイフで魔術を裂かれた。
剣劇の主役に立っていたのは彼女であるが、この最後の一瞬は全て、彼女の仲間たちが演出したものである。
その事実は、孤独ゆえに貴様は負けたのだと突き付けられているようだと感じながら。
黒のネロは、刃が心臓を貫く様を、恐怖と共に見届けた。