前世は真田幸村で御座る   作:賀楽多屋

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真田幸村の章 平成の世で、拳を振るう

 この平成の世には、牢人も野武士も、乞食に落ちた農民もいない。しかし、人々を害する人物が居ないと言うこともないのだ。

 

 

 今の世でも、人が人を害することはあり得ることで御座った。

 

 

 長之兄上が怪我をして我が家に来た時は、家中大騒ぎになりもうした。

 

 

「長之君!? どうしたの! その怪我!? 父さーん、赤チン!赤チン持ってきて!! あ、それと絆創膏!! 早く持ってきてー!!」

 

 

 長之兄上が我が家を訪ねられたのは夕飯時であった。いつもならば、呼鈴が鳴ればこの時間帯は私が客の対応をする。

 

 何故、私がその様に玄関を見張っているからかというと、最近は長之兄上がよく来られるので、私はそうするようにしていたのだ。

 

 しかし、その日に限って父上の帰宅時間がずれこみ、私は夕餉を突いている頃合いであった。

 

 呼鈴が鳴った際には、私が行こうと腰を上げたのが、母上の鋭い眼光を浴びて、結局は渋々玄関に向かうことを諦めたのだ。雪也の母君の一睨みは、私の父上のものと同じくらいに鋭く、あの目で睥睨されると、心臓が縮こまるような思いをする。

 

 母上が私の代わりに客の対応に向かったかと思えば、次いでそんな母上のひっくり返った声が玄関から聞こえてきた。

 

 

 

 私は急いで米を平らげ、母上の下へと馳せ参じた。そこには、頬にか擦り傷を付けた長之兄上の姿もあった。

 

 

「長之兄上!? そのお姿は如何なされたのですか!!?」

 

 

「ちょっと騒ぎに巻き込まれただけだ。そう大事にはならないから心配ない」

 

 まさか長之兄上が傷を拵えて我が家を訪ねて来られるとは思わず、私は取り乱してしまった。母上も私と同様に乱心しているようで、長之兄上の顔をペタペタと触っては「勿体無い!」と声を荒らげる。

 

 

「折角の男前がこれじゃあ台無しだよ! 父さん! 赤チンまだ!?」

 

 

「母さん、あんなとこに置いてあるから取るに手間取ったよーーーーーああ、本当だ。長之君、大丈夫かい?結構な傷になってるけども」

 

 

 漸く、救急箱を持って玄関に現れた父上は、長之兄上の傷付いた顔を見て眉を八の字にしていた。父上から救急箱を受け取った母上が労りながら、長之兄上に手当を施していく。

 

 

「ったく、どこのどいつだい! 長之君の折角の顔に傷をつけてくれちゃって! おばさん、今から仇討ちにでも行こうかね!!」

 

 

「大丈夫ですよ、叔母さん。そんなに大きな傷じゃないですし、向こうは私よりも大きな怪我を負っていますから」

 

 

「あら!? 長之君がやり返したいのかい?」

 

 

「いえ。たまたま通行人の方に助けて頂いたのです」

 

 

 私にそんな気概はありませんよと長之兄上は手を振って、母上の疑問に答えた。

 

 長之兄上が言うように、確かに傷は大したことがなく、一週間も経たずに塞ぐだろうと思われるものばかりだ。母上は血が滲んで大層に見えた傷が、猫の引っかき傷よりも浅いものだと知って少し安堵したようであった。

 

 

 

「長之兄上、誰にやられたのですか?」

 

 母上に治療された長之兄上は、我が両親の心配を手を振って宥め、私の部屋にまで足を運ばれた。

 

 長之兄上との勉強会は、私の部屋で行うことになっているので、私も彼に追従して己の部屋へと入る。

 

 長之兄上は肩から提げていた教科書類で膨らんだ鞄を隅へと置き、折りたたみ式の机の前に腰を下ろされた。私も長之兄上の側に寄って座り、隣りにある絆創膏を貼られた顔を眺めてついそんな質問をしてしまった。

 

 

「そう案じるな。たまたま帰り道で不良に因縁をつけられただけだ。相手も虫の居所でも悪かったのだろうな。一人でいたところを狙われてしまったのだ」

 

 

「不良で御座るか」

 

 

 

 平穏なこの日本には、呼称が変わっているが未だに傾奇者がいるらしい。不良という、秩序や規則を破ることを好み、人を害することに悦びを覚える者達が日本にはまだ存在するのだ。私は沖野雪也の記憶から引っ張ってきた不良とやらの実態を改め、渋い顔を長之兄上に見せてしまう。

 

 長之兄上は私の渋面に苦笑なさり、「雪也も注意するのだ」と今度は私が気を遣われてしまった。

 

 

「最近、この近辺では不良による被害が相次いで引き起こされていると聞く。まだ、この付近では聞くことのなかった話だからと私も油断していたが、情けないことに私自身が一例となってしまった。雪也は部活に入っていないから遅くに帰宅しないとは思うが、気をつけておくことに越したことは無いからな」

 

 

 長之兄上の忠告に私はしっかりと頷いた。後で、母上と父上にもこの話をお教えせねば。

 

 今はひ弱になってしまったこの身だが、一人か二人くらいであれば私一人でも対処できるで御座ろう。ただ、母上と父上は武道に縁もなかった方達だ。十分に注意してもらうことに越したことはない。

 

 

「よし、じゃあ雪也。早速だが、今日は英語をしようか。宿題が出ているのであれば一緒にしよう」

 

 

「はい、長之兄上。和訳の宿題が出されてるゆえお願いします」

 

 

「うん。心得た」

 

 

 長之兄上は相変わらず物を教えるのがお上手だ。沖野雪也の記憶があるとは言え、初めて触れる異国の言葉に戸惑いばかりを覚えていた私は長之兄上のお陰で、どうにかシャーペンをノートに走らせることが出来た。私が嘗て、身に付けた勉学があまり役に立たないことが正直申して驚きであったが、これはこれで面白いとは、思う。

 

 

 数学も物理も、英語であっても戦ならば役に立つであろう。数学は水位を測ったり、兵糧などを数えたりする際に役に立つだろうし、物理も新しい仕掛けが作れそうだ。英語は暗号の際に使うことが出来る。

 

 やはり、勉学の先に戦を当てはめてしまう私は、この平穏な日本で生きていくには些か物騒すぎるのではないだろうか。

 

 

 

 もし、この時間に兄上が居られたら、兄上はこの日本をどう見られるのだろう?

 

 

 兄上の慧眼ならば、この日本の世界を正しく見渡すことが出来るのでは無いだろうか?

 

 

 

 

 

 

 ***

 

 

 

 三国高校の春の定期テストは五月の下旬に行われる。既に葉桜が枝に芽吹く頃、私は学生生活で己を忙しくさせていた。

 

 

 日付の変わらない内に床に入り、目覚し時計のけたたましい音で朝を迎える。玄関で待つ明依殿と共に学校へ行き、目を回しながら授業を受け、三輝殿と兼人殿と帰宅する。

 

 

 太陽が天に昇るのと同時に鍛錬をするために、外へと這い出たあの頃とは全く生活習慣が違うが、私は順応性があるのか、日々の生活を苦にしていなかった。

 

 

「あ、今週に早川先輩の『本好きの集まり』があるみたいよ!」

 

「あれ月一しかないもんね。逃したら先輩と話す機会が無くなっちゃう」

 

 

「図書館に行ったら何時でも会えるけど、貸出の時の営業スマイルじゃなくて、ガチのスマイルが見たいのよねぇ。あの人の笑顔ってなんかほっこりするっていうか」

 

 

「分かる分かる! もしアイドルだったら『百万円のスマイル』とかって売り出し文句付けられそうだよね」

 

 

 座っている席の近くで女子達が賑やかに一枚の紙を見ながら会話をしていた。私は、無意識に彼女達の見ている紙を見ようと目を細めていたようで、その紙の上に印刷されていた文字を目で追っていた。

 

『五月の図書館便り。今月の本好きの会は第三水曜日、放課後に行います。もし、お薦めの本や雑誌等が御座いましたらご持参ください。図書委員会』

 

 

 本、で御座るか。

 

 兵法書は頁がよれる程読み込んだが、この時代の本はあまり存じない。沖野雪也も本とは無縁の生活を送っていたようで、精々記憶にあるのはゲームの攻略本とやらくらいだ。少々、心惹かれる催し物であるが今の私が赴いた所で何か出来ることも無いだろう。

 

 私はその紙から視線を外す。

 

 最近癖になりつつある頬杖を机の上につくと、直ぐに思考の海へと潜ることができた。

 

 

 

 真田幸村としての意識が覚醒してもう二週間。学校にも慣れてきつつある私は、武士として情けないことにこの状況に恐れを抱きつつあった。武士としてしか生きられない私はこの平成の世で、どう生きれば良いのか。この世で生きている少ない時間で私は何度も問答した。

 

 

 戦もない、武士もいない、敵もいないこの平和な平成の世で、私は己の存在意義を見失っていたのだ。

 

 

 小県で生を受け、物心つかない頃より兄上を支え、真田家を次世代に繋ぐよう父上や周りの者達に言われて育った。兄上も私に二人で真田家を盛り立てようと告げた。武田が滅んでしまったあの時も、一緒に生き残る道を探そうと兄上は仰った。真田家が二つに分かれてからも兄上は、私に真田家を残すのだと語った。

 

 戦で勝ち、負けても真田の血だけは残すために這い這いになって逃げ残った私は最期、戦で己の意地を貫き通すため殉死した。

 

 そんな私が、この時代で果たして生きていけるだろうか。戦のない、この世界で武を振るうことも、策略を立てるために頭を使うこともせずに、安穏と自らが掴みとった平和では無く、誰かが齎した平和の下で。

 

 

 

 時代に乗れない過去の私はーーーどう考えても相応しくない。私は頬杖をついたまま、チャイムが鳴るまで目を瞑って動じなかった。

 

 

 

 

 ***

 

 

 

「悪い、雪也! 今日は担任の仕事を手伝うゆえ一緒には帰れないのだ」

 

「俺もだ、雪也。今日は委員会があって雪也とは帰れない。昨日、言っておけば良かったのだが俺も担任に言われるまで忘れていたのだよ」

 

 

 

 いつも通りに、玄関口で三輝殿と兼人殿の二人を待っていると、二人は何か言い合いながら私の下へとやって来て、それから同時に頭を垂れたのである。私は二人の致し方ない事情に顔の前で手を振る。

 

 

「それならば仕方ありませんね。また、明日から一緒に帰ってくださると嬉しいです」

 

 

「本当にすまぬな、雪也。明日は必ず予定を入れないゆえ一緒に帰ろうぞ!!」

 

 

「俺も明日は何もない」

 

 

 お二人方はどうも必要以上に悔恨しているようで、それが私にとっては恐れ多い。私などと帰途を共にするよりも、担任の仕事を手伝ったりする兼人殿やクラスの委員長を担っている三輝殿の用時のほうがよっぽど大事なことで御座る。

 

 

「では、明日は共に帰りましょう。お二人方共、頑張ってくださいね」

 

 

「あいわかった! 雪也の声援もあるのだ。私は精一杯務めを果たそう!!」

 

 

「雪也・・・お前は本当に純粋だな」

 

 

 力強く頷いて朗らかに笑っている兼人殿隣で何故か三輝殿が私を目を細めて見詰めてくる。窓から差し込む夕日が眩しいのでござろうか。

 

 

 

 お二人方と生徒玄関で別れて、私は校門を潜って家路を急ぐ訳でもなく散歩をするような歩調で歩く。学校から一人で帰ることは初めてのことであった。いつも両隣にいる三輝殿や兼人殿がいない帰り道は、なんとも不思議な気分に陥る。いつもは話しながら帰るため、家路まである建物の景観を私は具に眺めたことがなかった。

 

 

 そう言えば、朝は明依殿と来るゆえ、そもそも私が一人で学校に行き帰りすること自体が初めてのことだ。高貴な姫君の身分でも無いのに、行き帰りは必ず人と共にということが信じられないような話である。

 

 

 

 嗚呼、でも、村を一人で出たことも無かったで御座るな。小県を出て、京や大阪に赴く時も、大阪から小県に帰る時も私は誰かと共にあった。その誰かはくのいちであったり、父上であったり。私はいつも身内の誰かと共にあった。

 

 

 あの最後の時くらいではないだろうか。兄上に真田家を託して、家康殿の下へと参ったあの時だけが私一人であった。私は、本当に沢山の人に支えられて生きてきたのだな。だが、もうこの時代には誰も居ない。私だけが、この時代で目覚めてしまった。

 

 

 

 田圃や畑が何処にも無く、人が住む住居だけが居並ぶ。その住居も無機質な造りをしており、マンションならば首を痛めなければ、その全貌を見ることが叶わない。歩いている道とてそうだ。砂利の音が一つもしないアスファルトは運動靴では足音一つ立たない。自然の息吹は、人が思い出した程度に植えた街路樹や住宅の一角に植わっている花壇でしか感じられない。住宅の群の向こうへと消えていく夕日も、何故かあの時代に見た夕日の何分の一にしか見えないのだ。

 

 

 足元から生えている影が濃くなったように見えた。細く伸びている影が私を嘲笑うように揺れたような気がした。

 

 

「私は、何故この時代に居るのだろうか」

 

 

 

 ポツリと飛び出た独白はしかし、前方から聞こえた誰かの争う声によって掻き消された。いつの間にか俯いて歩いていたらしく、私はその賑に促されて顔を上げる。目前には一人の女子と二人の男子がいた。女子は私と同じ三国高校の制服を着用している。二人の男子は見たことがない制服を着ていた。

 

 女子は顔を顰めて、肩から提げている鞄を頼りにするよう握りしめ、荒げた声を出す。

 

 

 

「行かないって言ってるじゃないですか! 私は、知らない人にはついていかないよう父上に言われています」

 

 

「ありゃー。こりゃ、またえらい箱入り娘を捕まえちまっったなぁ俺達。今時、パパの言いつけを守るだなんて小学生だってやらんぜ」

 

 

「つっても俺達も面子があるんだな、これが。ここですごすご引き下がったら他の連中に笑われるんだわ。『お前、パパに負けたんかよ! ギャハハっ』って感じで」

 

 

 

「そりゃあ、嫌な恥だなぁ。弟よ」

 

 

「おうよ。そんな恥はかきたかないね」

 

 

 

 三人の会話を聞いて、私はこの三人の諍いの原因を察した。どうやら、女子一人に男子二人が野暮を働こうとしているようだ。男子の方に人の心が無いようで、私は口の端が下がるのが分かった。

 

 

「何をしているのだ!?」

 

 

 私は駈け出して、女子と男子達に体を割り込ませる。女子が「沖野君!?」と私の名を呼んだ。もしかしたら、私の知り合いであろうか。確認したい気持ちがないわけではないが、一先ずはこの目前にいる男子達だ。

 

 男子達は私の割り込むをやはり心良く思っていないようで、眉間に皺を刻んでいる。しかも、この男子達。よくよく見れば、髪を茶や金で染色しておれば、開襟シャツの下に派手なTシャツを来ていたりとだらしのない格好をしている。この者たちは不良であったのだ。

 

 

 男子達のうち一人が、顎を引いて私を上目遣いに見た。私より五センチ背が低いのだ。そうなっても仕方あるまい。

 

 

「なんだぁ、お前? このご時世にヒーロー気取りか? 絡まれてる女の子助けるだなんて優しいねぇ」

 

 

「マジそれな。俺等『平安高校』だぜ? お前、それ分かってんの?」

 

 

 

 私を上目遣いで凝視している男子の隣で、呑気にポケットに手を突っ込んでいる男子が手を叩いて私を優しいと褒めそやす。上目遣いをしている男子は脅しなのか、己が通っている高校名を出して私の顔色を伺っていた。

 

 

 

「平安高校・・・」

 

 

 

 確か、三国高校の近くにあるあまり評判の良くない高校だ。もし、沖野雪也が三国高校を受験して落ち、もう一つの候補であった『室町高校』も落ちていたら入学する予定になった高校でもある。長之兄上が決死の顔で沖野雪也に忠告する場面も記憶に紐付いていたのか思い出した。

 

 

『雪也。平安高校に行くくらいならば、少し遠いが私立に行きなさい。おばさんとおじさんが難しいと言うのであったら私のお年玉をあげるから。大学の資金にあてるつもりだったのだが、雪也があの様な輩とつるむよりは断然マシだ』

 

 

 沖野雪也よ。私は、今日初めてそなたに感動した。沖野雪也が必死に勉学に勤しみ、無事三国高校に入学したことにより、長之兄上が私達のために銭を使わなくて済んだのだ。勿論、雪也も長之兄上から銭を受け取るつもりはなかったようだ。そもそも、長之兄上の話を冗談だと思っていたらしい。

 

 しかし、私は分かっているのだ。あの真剣な目は正に兄上と同じ眼差し。兄上は一度決めれば意見を取り下げないところが御座った。長之兄上は本気で私のために多くの銭を使うつもりであったのだ。

 

 

 

 長之兄上の心意気にはこの幸村、感無量で御座るが長之兄上のお手を雪也の頃より煩わせていたのかと思えば、気が滅入って来そうで御座るな。

 

 

 

「なぁお前、返事くらいしたらどうなの?」

 

 

「・・・そっか、そう言えば今は不良で絡まれたんだっけ」

 

 

「お前、マジムカつくなぁ」

 

 

 

 不良に対しては沖野雪也の言葉になるらしい。沖野雪也は少々軟弱な言葉を使い、上の者にも礼節を欠いた物言いをするのだ。私はいつもそのことに萎縮してしまうのだが、このことについてはどうかならないのであろうか。

 

 

 そうこう考え事をしている間にも、事態は急変している。私を上目遣いに凝視していた男子はこめかみに青筋を立てて私に殴りかかってきたのだ。私は何拍か反応が遅れてしまったが、鼻先を拳が掠めることなく躱すことが出来た。

 

 

 

 思っていたように、この身は動かし慣れていない。どう動かせば一番効率よく動くのかこの身は、まだ知らないのだ。

 

 

 

「お! お前、これ躱すんのな!! おもしれぇ、こうなりゃ一発やり合おうじゃねぇか」

 

 

 

 男子の二撃目が今度は私の鳩尾に沈み込もうとしている。それを後ずさることでまた躱し、私はやり慣れていないながらも反撃せねばと拳を握って今度は私が男子の鳩尾を狙う。遅い。こんなにゆっくりでは相手に躱されてしまう。私はあまり体術は得意としていないのだ。紅牙飛燕が欲しい。この手にいつも握っていたあの私の得物が今、切実に欲しい。

 

 

 だが、私の憂いは杞憂に終わった。私の拳はしっかりと男子の鳩尾に入った。しかし、威力は見込みがなかったようで、男子は鳩尾に手をやり一歩下がっただけだ。そう体力は削れなかったに違いない。

 

 

「くそ・・・ってぇな。こいつ、なかなかやんぞ、兄貴」

 

「なに三高に負けてんの、おめぇ。俺等天下の藤原四兄弟だぜ。マジそれ以上ダセェことやんな」

 歯を食いしばって私を見詰めるだけで、それ以上の追撃をしてこない男子は、傍らで勝負の行方を見守っている男子にそんな可笑しなことを告げた。

 

 だが、兄貴と呼ばれた男子は彼の嫌味をよく聞きもせず、私と男子を見てせせら笑っている。

 

 

 私としても納得がいかない評価だ。こんな欠片しか体力の削れない拳で、なかなか出来ると言われても困惑する他ない。そして、そんな私を他所に今度は兄貴と呼ばれた男が私の正面に立った。

 

 

「不肖な弟を持つ兄ってぇのは辛いねぇ。よし、んじゃ行くぞ!」

 

 

 正面に立った兄貴は掛け声を出して、私に大振りの拳を見舞ってきた。私は、それを見切ってまた後ろに下がることで躱す。あの拳を流して、一撃を食らわせるくらいはせねばならぬが、流石にこの身ではそれも出来ないだろう。私は相手の目が完全にまだ拳の着地点である私の顔に縫い付けられていることを確認して、兄貴の口元を殴り飛ばした。

 

 

 前歯は折れたかと思ったが、この頼りない拳では折ることも出来なかったようで、兄貴は血さえ流さなかった。しかし、少しは体力も削れたようで兄貴の動きが鈍る。上目遣いの男子のように痛みに攻撃を妨げられることもなく、兄貴は血走った目で蹴りを放ってきた。

 

 

 私の腹にまで上げたかったのだろうが、上手いこといかずに膝に着地しようとした蹴りをやはり躱して、相手の喉を容赦なく突いた。

 

 

 急所を付かれて兄貴もそれ以上の攻撃が出来なくなったらしい。喉元を抑えて、生理的に浮かんだ涙の膜を目に浮かべるや私を睨み上げてくる。背後にいる男子が青褪めた表情で兄貴の側に寄った。

 

 

「あ、兄貴! 大丈夫か!?」

 

 

「う・・・る、い。い、ぞ」

 

 

 

 兄貴は私を射抜かんばかりに睨み上げるも、それ以上の争いは不利と悟ったのか私に背を向けると男子を連れて引き下がっていった。私はどうにか、男子達をこの不甲斐ない身で追い払えたと安堵の息を吐く。予想以上に頼りない拳しか繰り出せなかったが、相手も私と同等の実力で助かった。

 

 

 

「沖野君! 大丈夫ですか? 何処か怪我をしていたりとかしませんか?」

 

 

 背後から聞こえたのは私を心配する声であった。いきなり視界に現れたのは頭頂部で高く一つに結った黒髪だ。真っ直ぐに背へと流れている髪を目で追っていると見覚えのある大きな瞳に行き着く。

 

「おお! 貴女でしたか、天野殿」

 

 

 あの男子達に絡まれていたのは、私とクラスメイトである天野殿であった。一度、長之兄上のことについて聞かれて以来、言葉を交わしたことがなかったが、まさかこのような出来事でまた顔を合わせることになるとは露にも思わなかった。

 

 

 天野殿は私に名を呼ばれてたじろいだ。提げている鞄の取っ手を何度か握り直し、それから腰を深く折る。

 

 

 

「有難う御座います! 私としたことが、まさかあの様な不埒者を一人で対処出来ないだなんて不覚です。もっと精進しなければなりません」

 

 

「そう思い詰めることは御座いません。この時代に、そう物騒に巻き込まれることもあまり無いでしょう。しかし、精進することは良いことです。私も、今回で思い知らされ申した。己の身がなんと軟弱なことか・・・」

 

 

 

「そんなことないです! 沖野君はしっかりと戦えていました」

 

 

 

 天野殿はそう言って私を励ましてくれるようだが、私はその天野殿の言葉を素直に受け入れられなかった。あの男子二人が一人ずつ私の相手をしたお陰で私は勝つことが出来た。もし、二人同時に相手をしていても勝てたと余裕ぶることは出来ない。勝てる見込みは半分も無いだろう。

 

 

 指の関節がまだ痛みを訴えてくることに奥歯を噛んでいると、天野殿が明るく振る舞ってこの場に蔓延る私の陰気を蹴散らす。

 

 

「さぁ、そろそろ帰りましょうか。沖野君も帰る途中でしたよね? こんな所で燻っていても仕方ありません」

 

 

 笑みを浮かべて、私の顔を覗き込む天野殿が「帰りましょう」とまた告げるので、私はなんとか頷いた。

 

 

「・・・送ります、天野殿。またこの様なことが無いとは言えません」

 

 

 せめて、天野殿の身は守ろうと私が拳から視線を外すと、彼女はまた首を赤くしてたじろいでいた。しかし、私の言に一理あると思っておられるようで暫くしてから小さく「お願いします」と言って頭を下げられるので、私も「おまかせ下さい」と漸く笑みを見せることが出来た。

 

 

 

 




幸村と稲姫の義姉弟は癒やされます。

天然×天然なので、周囲の人間にとったらとんでもなく冷や冷やする二人なんでしょうけど、私はこの二人のふわふわ感が好きです
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