落ちる。落ちる。落ちる。
この身はどこまで落ちるのだろう。いずれにせよ、助かるはずもない。横を向くと、さっきまで共に戦っていた友が、届くはずもない場所に手を伸ばしながら落ちていく。
「南雲!」
振り返った友の顔は絶望に染まっていた。友は戦いに向いていなかった。それなのに勇気を振り絞ってあの怪物の前に立ち、クラスメイトたちを救おうとしたのだ。
「クソっ…」
勝手にあふれ出た涙が、耳元で轟轟と唸る風に乗って空に散っていく。間もなく訪れるであろう死を前に、彼は思い出していた。
ファンタジーが二次元であった地球から、ファンタジーが現実であるこの世界に来た経緯を。
今日は週の始まりである月曜日。
自由な二日間が終わってしまった直後のこの日は、誰しも通勤通学の足取りが重くなるし、駅のホームで電車を待つ者たちは、さながら出荷前の家畜のようだ。
南雲ハジメは、憂鬱な人々の中でもより一層憂鬱だった。ハジメは地元の私立高校に通う高校生である。高校と言えば青春時代の時間の多くを過ごす場。だがハジメにとって学校という空間はまさに地獄のようである。
とはいえ高校に行かないわけにもいかない。いつものように始業ギリギリの時間に登校し、教室のドアを開ける。ハジメにとってはこの瞬間こそが一番憂鬱なのだ。何せこの学校を地獄たらしめている要因こそ、自分のいるクラスなのだから。
「ちっ。今日も来たよ」
「早く消えればいいのに」
「キモっ。もう来なければいいのに」
教室に入るなり、舌打ちやハジメを罵倒する言葉が聞こえる。ハジメはクラスの大半から嫌われているのだ。下を向いて突き刺さる侮蔑や嫌悪の視線を極力無視し、自分の席に向かう。
だがその途中、ニヤニヤと笑みを浮かべながら声をかけてくる者がいた。
「おいキモオタ!今日も徹夜か?どうせエロゲでもしてたんだろ?」
「おいおい檜山。エロゲーくらい許してやれよ!画面の向こうにしか彼女いないんだからさ!」
ハジメをからかってゲラゲラと笑うのは、檜山大介、齊藤良樹、近藤礼一、中野信治の四人。彼らはハジメのことを毎日飽きることなく絡んでくる。
ハジメがオタクというのは正しい。アニメやゲーム、漫画は大好きだ。両親もサブカルチャーに関連する仕事をしており、その仕事を好きで手伝っているためにいつも寝るのが遅い。だから学校ではほとんど寝ている。
とはいえ、“キモ”が付くほどの見た目ではない。そんな彼が以上に嫌われている原因は、近づいてくる彼女にあった。
「おはよう南雲くん。また遅刻ギリギリだね。もっと早く来て私とお話しようよ!」
檜山らとは違い、人好きのする笑顔を浮かべて近づいて来た女子の名前は白崎香織。ハジメに偏見を持たずに接してくる、数少ない女子生徒だ。
腰まで届く艶やかな黒の長髪、垂れ目気味の大きな瞳、形の整った唇。そこら辺のモデルならば裸足で逃げ出すほどの美貌を持っている。加えて優しく、面倒見が良い。内面も外面もできている香織は、学校の二大女神と呼ばれている。
「ま、まあね。おはよう白崎さん」
曖昧な笑みを浮かべてハジメがあいさつを返す。“趣味の間に人生”をモットーに生きているハジメは香織の言うことをあまり聞き入れたことはない。それなのに香織はこうやって彼のことをいつも気にかけ、あまつさえ言葉を返すと花が咲いたように笑顔を浮かべるのだ。ハジメにとっては全くもって不思議である。
しかしこれが他の生徒にとって我慢ならない。なぜあいつが、とハジメは香織から一方的に話しかけられる度に睨みつけられる。
突き刺さる視線に冷や汗を浮かべていると、三人の男女が近づいて来た。全員香織の友達だ。
「南雲くんおはよう。毎日大変ね」
「香織、今日も彼のお世話か。本当に優しいな」
「全くだ。俺だったらそんなやる気のないやつなんてとっくに見放してるぜ」
慰めるような声をかけた、クールビューティーな少女が八重樫雫。実家が道場を営んでおり、剣の腕前は全国クラスだ。
その次に声をかけてきたのが天之川光輝。眉目秀麗、文武両道、モテモテを体現しているまるでアニメの主人公のような男子。彼も八重樫道場に通っており、剣の腕前は雫同様全国クラスだ。
最後は坂上龍太郎。友情・努力・勝利が大好きな男子。光輝の親友。大柄な体格で、脳筋と呼ばれるようなタイプだ。二年生ながら柔道部部長を務めている。
「おはよう皆。なんかごめんね」
こうまで言われているのに曖昧な笑みを浮かべるハジメに対し、男子二人が苛立つと同時に、教室の扉が開いた。皆が先生かと思い、扉の方を見る。その瞬間、ハジメを貶す声が一瞬で収まった。
そこには小柄な担任ではなく、大きな筋肉が立っていた。外国人の血を色濃く継いでいる褐色の肌といかつい顔。高校生とは思えない高身長とそこに搭載された圧倒的筋肉量は、他の者を圧倒する雰囲気を放っていた。
彼はハジメを見つけると、まっすぐ近づいて来た。
「よう、八雲。香織。雫。八雲の方が早いなんて珍しいな」
「おはよう鷹裕君」
「おはようたかちゃん!」
「あ、鷹裕。そうね。明日は槍でも降るんじゃないかな?」
彼の登場に、ハジメは救われたような心地だった。
彼の名前は越鷹裕。ハジメの数少ない友人である。彼とは中学からの付き合いだが、そもそもなぜ自分が彼と友達になったのか、ハジメには分からない。最初は威圧するような見た目のせいで人を殺したことがある、前科があるなどの噂が絶えなかったが、話してみれば優しい人だったので、今でも仲良くしている。
いずれにせよ、クラス内ではその外見のせいで彼も浮いている。というか恐れられている。特に光輝と坂上は、過去に何があったか知らないが、鷹裕とは関わりたがらない。そのため彼といるだけで面倒な生徒が寄って来ないのだ。
「むっ、それはいい訓練になるな。俺としては大歓迎だ」
「やめて。あなたが良くても私たちが死んじゃうわ」
鷹裕の実家も道場をやっている。八重樫道場とは方向性が違うものの、交流があり、雫と光輝のことは幼いころから知っている。また、彼は香織の幼馴染でもある。そうでなければこんな筋肉をちゃん付けで呼ばないだろう。幼いころから可愛かった香織を守るために、香織が外出するとき、香織の父はよく鷹裕を同伴させていた。香織に今まで一人も彼氏ができなかったのは、おそらくその父と鷹裕のせいだと雫は当たりをつけている。
間もなくして、担任の先生が教室に入ってきた。朝のSHRが始まるのだ。
キーンコーンカーンコーン…
「はいじゃあ、今日はこれでおしまいです。お昼ご飯食べて午後も頑張りましょう!」
午前中の授業が終わり、多くの生徒が席を立つ。およそ3割が購買に行くために、それ以外は友達や担任の愛子先生と食べるために。
鷹裕は弁当組だ。彼は席を立ち、イスと大きな弁当箱、タッパーを持ってハジメの席に行く。ハジメは机に突っ伏しており、どうやら授業中はずっと寝ていたようだ。
「南雲、南雲。昼休憩だぞ。昼餉の時間だ」
「ん…ああ。もう昼休みか」
肩をゆすられる振動と声に、ハジメの意識は覚醒した。それを確認した鷹裕は彼の反対側に座り、弁当箱とタッパーを開けた。
「さて、米を持ってきたか?」
「うん。言われた通り持ってきたけれど…。ところでなんで持って来させたの?」
「ならよし。ほら、これを食べろ」
そう言って鷹裕はタッパーの方をハジメに差し出した。タッパーの中には、大雑把に切られた肉の山賊焼きと野菜が入っていた。
「え、いいの?」
「ああ。借りた漫画の礼だ。それに実は去年から父が小さな畑を作ってな。この前実ったんだが、身内以外からの評価が欲しいらしい。ちなみに肉は牡丹肉だ」
「牡丹?」
「イノシシだ。一昨日俺が狩ってきた」
「買ってきた?」
「いや、弓矢で殺して捌いて血抜きして焼いた」
「まじか…」
お前はいったいいつの時代の人間だと、ハジメは内心激しく突っ込みたかった。だがさあさあ食べてくれと迫ってくる巨体に圧倒され、とりあえず口に入れる。すると口の中に濃厚な旨味が広がった。
「あ、美味しい。それに臭くない」
「臭いのはオスだけだしな。…うん。うまい」
野菜もおいしいと褒めてくれるハジメに鷹裕が気分を良くしていると、香織が近づいて来た。
「たかちゃん、今牡丹肉って聞こえたんだけれど」
「あ、そういえば香織も牡丹肉が好きだったな。食うか?」
「うん!」
「切るからちょっと待て。…よし。ほら、あーん」
その瞬間、クラスが凍り付いた。
なにせクラスのアイドル白崎香織が男からあーんされているのだ。いつもならハジメに刺さるはずの視線は全て鷹裕に刺さって、いや、突き刺さっていた。鷹裕突き刺さる視線を物ともせずに幸せそうに肉を噛みしめる香織を見つめる。その様子を間近に見たハジメは思わずドキッとした。
「鷹裕君と白崎さんは仲がいいね。付き合ってるの?」
その言葉に教室の空気は絶対零度のごとく冷えあがる。
ハジメはこうなることが分かっていたが、あえて少し大きめの声で言った。彼はそれで自分へのヘイトが向いてくれればなあ、と思って言ったのだが、その言葉に香織が激しく動揺し始めた。
「ち、違うよ!たかちゃんは私のお兄さんみたいな人で!」
「そうだぞ南雲。というか分かっていないのか?香織が好きなのは俺じゃなくて、お」
「わー!わー!わー!わー!言わないでぇ!」
「おっと!」
鷹裕の口を押えようと飛び込んできた香織から守ろうと、弁当を高く持ち上げる。恥ずかしがっている香織をからかってやろうと彼女を見下ろしたとき、彼は凍り付いた。視線の向かう先は香織ではなく、足元。そこには真っ白に光り輝く円と幾何学模様がった。その異常事態に他の者もすぐに気づいた。突然のことに全員が金縛りにあったように硬直する。
硬直した生徒たちをよそに、魔法陣のようなものから発する光は徐々に強くなっていく。強くなっていく光にようやく自分が異常事態に巻き込まれていることに気づき、みんなが悲鳴をあげる。
その悲鳴に気づいた愛子先生が「みんな逃げて!」と叫んだのだがもう遅い。魔法陣は光は最高潮に達し、視界が真っ白に染め上げられた。
数秒、あるいは数分たった後、光はようやく収まった。しかし、そこには既に誰もいない。開かれたままの弁当箱、倒された椅子はそのままに、人間だけが姿を消していた。
この事件は、昼間の学校で起きた集団神隠し事件として、大いに世間を騒がせることになった。
本来弓矢による狩猟は法律で禁止されています。持山だろうとたぶん違法だろうけれど、そこは目をつむってほしい…