突如キーボードが壊れ、余計な出費が重なる。
明日も早いのにまだ起きてる不具合。
午前2時に何をしているんだい?
始まります。
─────暇。
そんな感想がふと浮かんだ。
曹操軍軍師、荀彧。
紆余曲折を経て曹操の下で軍師としての立場を確立させた彼女は、現状に言い得ぬ感情を抱いていた。
有り体的に言って、暇なのだ。
無論今とて戦いの準備を進めている。
それはそれで仕事である以上、荀彧もまたそれに奔走しているのは事実。
だが、それは軍師の仕事ではない。
─────今この現状において、軍師が出来る事は非常に限られている。
こと曹操主義である荀彧にとってこの乱は曹操の名を世に知らしめる絶好の機会だった。
事実既に苑州内の各地は自分達の太守よりも陳留太守である曹操を頼るようになっているし、定型文ではあるが苑州刺史からの感謝状も一応貰っている。
この乱に乗じて力をつけて、一気に飛躍する。
少し前まではこの事ばかりを考えていた。
「官軍………余計な事をしてくれたわね」
周囲に誰もいないことを確認した上で愚痴を零した。
今や黄巾党の数はどこもかしこも大所帯。まだマシなのは徐州くらいか。
手に入れた情報では青洲もこの豫洲も相手の規模は既に十万を超えている。
別に黄巾党が短期間で爆発的に増加したのではなく、単純に一ヵ所に集まるように裏から官軍が手を回しただけだ。
総数としてはむしろその後の策略で減っているというのだから、黄巾党が如何にあちこちで発生していたのかがよくわかる。
そう。
ここまで黄巾党が大規模になったのは間違いなく官軍………中央連中の怠惰から来るものだ。
まともな政策もせずに重税ばかり課していれば叛乱の一つも起きる。
それを鎮圧するどころか敗走して相手を勢いづかせるなど、もはや失笑ものだ。
地方軍閥が立ち上がり、義勇軍も発足した後。
官軍は見違えるような立ち回りを見せた。それこそ先の失敗を取り戻すが如く。
………アレを官軍と言っていいのかは甚だ疑問ではあるが。
いや、それはいい。
よくは無いが騒ぎ立てるほどの問題ではない。
問題なのは。
「なぜ董卓軍はこんな策を仕掛けたのか………」
確かに黄巾党の最大の特徴である“流動性”は脅威の一言だ。
討伐したと思ったら何時の間にか別の場所、最悪は自治領内で黄巾党が蜂起した、ということだってありえるのだから。
それを殺すために、董卓軍は黄巾党を肥やした。
各地散り散りになっていた連中を一ヵ所に纏める様に外と内から働きかけた。
“流動性”を消すには有効な手だが、兵法の基本を全く無視した策。
おかげで一地方軍閥では手に負えないほどの規模になってしまっている。
いくら何でも曹操軍だけで十万を超える黄巾党をどうにかする事はできない。
時間と策を用いれば出来なくも無いだろうが、少なくとも今官軍が行っている以上の事は出てこない。
加えて今の黄巾党には官軍の手の者が入り込んでいる。
曹操軍ではその見分けができない以上、下手に策略を仕掛けることは官軍の策を潰しかねないことにもなる。
それはそれで非常に面倒だ。余計な苦労事を抱え込むべきではない。ましてや主たる曹操の手間を増やすなど言語道断。
つまるところ軍師でありながら、荀彧が出来る事といえば精々この後に開かれるであろう戦の戦術を練る程度。
これが冒頭に繋がる『暇』である。
「桂花、準備はどうかしら?」
「! はい、華琳さま。兵站、武具。先日の陳珪救出にあたり消費したモノは全て補充できました。此方が報告書になります」
「そう」
手に持っていた報告書を曹操に渡す。
さらさらとその内容に目を通す横顔に熱視線。
「一日の猶予があったとは言え、ここまで回復できるのであれば上々。流石桂花ね」
「ありがとうございます!」
「………ただ、ここで考え込むのは頂けないわね。戦いはこれからなのだから、最低限周囲には気を付けなさい」
「え………?」
「桂花の独り言、聞こえていたわよ?」
曹操の言葉に顔が真っ赤になる。
一応周囲に人がいないことを確認したつもりだったが、荀彧程度の者が曹操の上を行く事は叶わない。
恥ずかしさをごまかす様に謝罪する荀彧に、静かに笑って応える曹操。
「けれど、桂花の言う事ももっともよ。なぜ董卓軍はこのような策を用いたのか」
こと自軍の被害を抑えるのであれば、多少手間や時間は掛ったとしても黄巾党を確固撃破していく方が被害は少なくて済む。
それをせずに一ヵ所に集めて、決戦の舞台を作り上げた意図は?
多少の被害増加を覚悟の上で、この状況を作り上げた理由は?
「この規模になると一つの地方軍閥では対処が困難。時間をかけて策を弄するか、或いはどこからか友軍を用意するか。どちらにせよ時間がかかる事には変わりないわね」
言うまでも無いことだが黄巾党を野放しにしていればしているだけ被害は拡大する。
賊に与えてやる米粒一つすらないのだ。
「けれど官軍という立場ならばその時間は大幅に短縮できる。事実孫呉軍は自領である揚州から北上してこの豫洲にやってきている。しかもその越境行為に対して文句を付ける者はどこにもいない」
曹操が苑州から豫洲に越境しても問題がないのは、豫洲側の相である陳珪がその様に図ったから。
相手の許可が必要なのが地方軍閥の限界であり、許可を求めずとも悠然と越境できるのが官軍であり、勅命の力でもある。
「時間をかければ我々でもやれるでしょう。けれど官軍は冀州黄巾党壊滅を初戦として多方面同時作戦を決行。荊州では“神速”が占拠されていた城を奪還し、青洲では“猛将”と後に冀州から合流した“飛将軍”により壊滅。─────そしてこの豫洲。今までと比較すればその武もさることながら事態収拾への速度も異様に早い」
「………つまり官軍………いえ、“董卓軍”はこの黄巾の乱の早期終結を望んでいた、と?」
「まあ、この乱が長期化する事を望む者はいないでしょう。けれど董卓はそれに輪をかけて早期決着を望んだ。故にこの策なのでしょう」
「そこまで急ぐ意味………華琳さまは何かお心当たりが?」
「心当たりがあるわけではないけれど、ある程度の推測は出来る」
漢全土に広がりつつあった黄巾党。
青洲・徐州・苑州・冀州・荊州・豫洲・揚州。
13の州があるうちの半分以上に黄巾党は確認されており、司隷にほど近い冀州と荊州に至っては城の占拠までされていた。
官軍に“董卓軍”という存在が加わったのはその後。
大よそ今の戦力では司隷に南北から攻め入られるかもしれない、という考えがあったのだろう。
連敗に連敗を重ねた軍では司隷すら守り通せるのか不安、というのは十常侍でなくとも抱くモノだ。
董卓という人物はあの魑魅魍魎が跋扈する中での良心とも言える存在。清廉潔白というのはあの場所においてむしろ異質である。
それ故に中央では疎んじられる傾向が強く、つまりは裏方に従事する傾向が強く、つまりは成果が出ないし認知もされない。
それが今回招集されたことに伴い、“中郎将”という立場まで一気に上り詰めた。
大抜擢。
大した戦果も挙げていない、裏方ばかりに従事していた人物がそんな地位に付けば都にいる他の役人らはどう思うか。
そんなものは考えるまでも無い。むしろそれを狙いにその地位に付けたと思ってもいいだろう。
ここでその地位を与えた十常侍に不信感が行かないあたりが“腐っている”と称される所以でもある。
董卓はじめその部下達もそれに気付かない筈がない。断ろうと思えば断る事も出来た筈だ。
清廉潔白であると情報が入ってくるくらいの人物であれば、十常侍に断わりを入れるくらいの強さは持っている。
それでもなぜあえて自治の街から離れ、毒の沼地へと赴いたのか。
─────合流することにより大量の賂を得た?
それは否だろう。少なくとも出会った董卓軍の将、二人を見る限りその様な事をするとは思えない。
将とはすなわち主を表す鏡。主が愚かであればその下にいる将もそれに倣う。
あの二人を見る限りこの可能性は考えづらい。ゼロでは無いだろうが。
─────裏方ばかりだった状況を変えようとしている?
正解ではないだろうが、そう遠くもないだろう。
過程はどうであれ、“中郎将”に抜擢された以上、必要最低限の表舞台には立つことになる。
裏方から脱出する、という意味であればこれだけでいい。
決して─────今の様な状況を作り出す必要はない。
「桂花、青洲には劉備なる者が率いる義勇軍が居た、という事は覚えているかしら」
「はい。青洲にて活動していた、という情報があります。ですがここ最近はその音沙汰も聞こえなくなっていましたが………」
もし曹操の考えが間違っていなければ、もはや今の漢の情勢から見ても義勇軍の存在する意味自体が希薄である。
何せ地方軍閥ですら単体では苦戦するというのに、義勇軍ではどうあがいても状況を覆すことは叶わない。
事実それ以外の義勇軍もちらほら決起したという話はかつて聞いていたが、今ではその影すらない。
そういう意味では現時点まで、それこそ官軍と共闘したと噂されるくらいの義勇軍が残っていた事には驚いた。
「ええ、その通り。だからこそ、義勇軍は官軍に共闘を申し入れるしかなかった」
自然消滅か、黄巾党に蹂躙されるか。
その二択しかなかった中で劉備なる者は三択目を選んだ。
「青洲では黄巾党によって太守が殺害され空席の状態。近年発言力が衰えている陶謙殿が劉備義勇軍を気に掛けているという噂。………義勇軍がどこまでこれらの情報を得ていたのかは分からないけれど、更なる躍進という意味では絶好の機会でもある」
そこへ官軍と共闘し黄巾党を撃退した、という事実があれば“今”の官軍であれば確実に“箔”が付く。
その“箔”は軍閥ではない義勇軍からしてみればあまりにも影響力があるモノだ。
青洲刺史や徐州の陶謙が今後どのように接触を計るかは曹操の知るところではないし、義勇軍としての力と統治の力は比例するわけではないが良い宣伝文句になる。
「しかしそれでは官軍………いえ、“董卓軍”の利点がありません。ましてや青洲にはあの“飛将軍”も居たという情報があります。単騎で城を落としたかの者が居る中で、義勇軍という不安定な戦力を欲する理由はどこにあるのでしょう?」
「戦力という意味では最初から当てになどしていなかったのでしょう。最低限のことが出来ればよし、と言った具合に」
「………? それでは官軍はただ義勇軍に対して“箔”を与えただけになります」
荀彧は劉備なるものを文面上、しかも業務的な観点からしか情報を持っていない。
後方支援が欲しい義勇軍と目玉になる存在が欲しいと思っている陶謙や青洲刺史。
或いはそのまま劉備は一つの街を治める地位に就く可能性すらある。
「逆ね。劉備は街を治める器を持った者。その切っ掛けを与える共闘を受ける事で劉備との繋がりを持つ。………こう考えればどうかしら」
「官軍は劉備なる人物を知っていた、ということでしょうか?」
「それは分からないわ。ただこれが事実である、またはそれに近しい結果であった場合、言えるのは董卓に新たな繋がりが出来たという事」
劉備という人物は董卓に対して悪い様には思わないだろう。
恩を恩として受け取る様な人物であれば、の話であるが。
「………董卓という名を広める、ですか」
少しだけ納得がいった。
今の今まで、董卓という名前は全くの無名。
涼州にて自治をしていたらしいが、涼州と聞いて出てくる名前は馬騰だ。
それほどまでに無名の存在。
『董卓軍第四師団師団長、徐公明です。………よろしくー』
つまるところ董卓にとって、己の名を広めるのは急務だったということだろう。
事実今や“董卓”という名を知らぬ者はいない。
荀彧や曹操だって少し前の自分と今の自分を比較した場合、“董卓”という名前の認知度は雲泥の差なのだから。
「名を広め、武を見せつけ、功績を挙げた。
名を広めた、武を示した、文句を言われない様な実績を残した。
─────本当にそれだけなのか。
「華琳様、此方に居られましたか」
「秋蘭。何かしら」
「はっ。先ほど官軍の遣いの者がやってきまして、この封書を渡してくれと」
そう言って差し出してきた書を受け取り、中身を確認する。
顔色一つ変えずに最初から最後まで読み切った後、なるほどと言って荀彧に手渡した。
「軍議を開くわ。全員を天幕へ─────!」
◆◆◆
届けられた報告は、予定を繰り上げるに十分な内容だった。
元より準備は整えていたが故にすぐさま作戦行動へ移行する事が出来たが、これが間に合っていなければ恐ろしく被害は拡大していただろう。
この作戦の肝は此方が常に機先を制する事にあり、間違っても十万を超える軍勢が攻勢に出ていいモノではない。
「ここは死地にあらず!黄巾の賊どもに孫呉の軍勢の恐ろしさを見せよ!官軍に我らの力を見せよ!─────いざ、出陣ぞ!!」
南から攻め入るは孫文台。
両翼に黄蓋と程普を伴い、雄叫びをあげる。
相も変わらず総大将が前線に立っているが、誰もそれを咎める事はない。
「弓兵隊、敵の方が数は多いんだ!狙いを定める必要はない!─────てぇっ!」
北側からは官軍。
涼州から洛陽にやってきた兵達を指揮するのは灯火。
弓兵隊と歩兵隊から成る陽動部隊。
黄巾党相手に弓の間合いから一方的に矢の雨を降らせる。
当たり所が悪ければ致命傷、そうでなくても己の身体を傷つける凶器の雨。
防具をまともに整えられていない黄巾党を怯ませるには十分な脅威。
だが。
「進めー!ここが死に場所ぞ!我ら一人残らず、大賢良師さまの盾となるのだっ!」
『おおおおおおっっ!!』
まるで空から降り注ぐ矢が見えていないのか、いっそ狂気とも言える士気によってどんどん間合いを詰めてくる黄巾党。
その数は走る土埃によって本陣の影が見通せなくなるほど。
「敵、止まりません!突っ込んできます!」
「弓兵隊、もう一斉射のち後退!塹壕後ろまで後退せよ!」
無論灯火の声が隊の端まで声が届くわけもないため、銅鑼で後退の指示を出す。
矢を放ちつつ後退する官軍陽動部隊。
この時点における官軍側の負傷者はゼロ、黄巾党は矢の雨によって少なくない被害が出ていた。
「後退し始めたわね」
西の少し小高い丘に陣を張る周瑜、孫策、一刀、香風は後退していく兵達を確認する。
前哨戦で孫呉軍を主体に戦わせたのは何も敵増援を恐れただけではない。
決戦に向けて布陣する予定の場所に兵を送り、即席の塹壕準備も行っていた。
涼州から共に中央へやってきた兵達にしてみれば、この程度は苦にならない。
何せ涼州の治めていた街の外に空堀を作った経験がある。あの時は何十日もかけて訓練と称してひたすら土を掘り続けた。
深さも幅もあの頃と比べれば人一人分の塹壕なんて楽なもんだよ、と軽口を叩く涼州兵に、洛陽から一時的に加わった兵達は戦慄を禁じ得なかった。
多分、この件については洛陽の兵士達の感覚は間違っていない。
仮に兵士をやめても土木作業員として食っていけるレベルである。
「塹壕は足止めが目的。入り込んだ敵に対して、奥からの射の照準は完璧。………数が多くても地形を無視できるワケじゃないから」
「なるほどな。例え少ない時間であろうと、弓で射るには十分。加えて相手は勢いに任せて突撃してくる。すぐにでも塹壕から脱出できないと後続に圧死させられるということか」
香風の言葉に納得する周瑜。
的を絞るために相手の機動力を削ぐのは当然の行為。
恐ろしくはここに到着してから今の間までに塹壕を作り上げる技術。
改めて董卓軍の力を再認する。
「策が上手くいってるのはいいことだけど、あれじゃあ文字通り足止めにしかならないわよ。それに相手の戦力、北側に偏ってない?」
「そうだな。やはり連中は官軍相手の方が余計に士気は上がるらしい」
「………………」
孫策と周瑜の言葉に香風はうずうずしていた。
灯火が指揮する隊は陽動としては十二分の働きをしているが、聊か釣れた数が多い。
相手が官軍だからという理由もあるのだろうが、何より黄巾党内部での士気向上が原因だろう。
「………!炎が!」
黄巾党本陣から炎が見え、煙が夜空へ昇る。
陽動は黄巾党内に潜伏した工作員への作戦開始の合図。
炎が無事に黄巾党本陣に立ち昇れば─────
「よし!南北に分かれている黄巾党の横を突く!………徐晃殿、其方はよろしいか」
「うん。シャンは北側、孫策殿は南側から」
「ま、徐晃ちゃんなら何の心配もいらないわね。─────それじゃ、いくわよ!一刀、振り落とされないでよ!」
「お、おう!」
僅かばかりの緊張の混じった返事にクスッと笑うも、すぐに戦場へ赴く表情に切り替わる。
剣を掲げ、後ろに控える兵達へ号令をかけた
「さあ、決戦の時ぞ!この機に敵を徹底的に叩く!反撃の意思を奪い、黄巾党を東へ押し出せっ!全軍、進めぇええ!!」
『おおおおおおっっ!!』
「ここで戦いを終わらせる………!騎馬隊、黄巾党を踏み倒す………!!」
『おうっ!!』
涼州にて譲り受けた名馬を駆り、一気に丘を駆け降りる。
風は西風。
本来であれば風上である西へ逃げるのが普通だが、そこに全てを蹂躙せんと大量の騎馬隊が丘を駆け降りてくる。
南と北は既に戦線が張られており、逃げるには風下になる東しかない。
「炎蓮様!敵本陣に炎が!」
「西から孫策隊と徐晃隊の旗もあります!」
黄蓋と程普の報告。言われずとも孫堅の目と耳にもしっかりと見えているし届いている。
相手はいきなり本陣から炎が上がったのを見て明らかに動揺している。
戦場。これこそが戦場。
常に状況が変化する生き物。敵の士気向上が此方側の想定外であれば、あの炎は黄巾党側の想定外。
ニィ、と口角を吊り上げた。
「─────さぁて、チマチマ戦うのはこれで終わりだ。粋怜、左翼から戦線を上げろ!敵を火の中に押し込め!祭、右翼の敵を東へ流せ!」
「ハッ!程普隊、前進せよ!!」
「心得た!黄蓋隊、弓を構えよ!─────放てっ!!」
本陣南の戦線が動き出す。
右翼の黄蓋隊は東側の敵を南下させないように矢の嵐、左翼の程普隊は前線を押し上げ西側から突撃してくる孫策隊と共に敵右翼の崩壊を狙う。
ならば中央の孫堅は─────
「うるぁあああああああっっ!!」
虎の咆哮を以て敵本陣へ強襲を掛ける。
南海覇王の一振りで数人まとめて斬り伏せて、屍を踏み越えていく。
「孫堅め!この化け物が!!」
本陣は混乱の極みだが士気はまだ落ちない。
防具らしい防具はなく、武器だって剣ではなく農具だったりする。
明らかに武具として劣っている中、それでも果敢に攻め入ってくる上に数も多い。
だが─────それでも孫堅の想定通りの数ではなかった。
「そうさ、オレは悪鬼だ。だが何だてめぇら………この程度でオレを倒すって? えぇ?」
「っ………!?」
ゾクリ、と黄巾党らの背中が総毛立った。
先ほどまでの様な怒声とも言える大声で相手を怯ませるモノとはまた別の悪寒。
孫堅の前に立つ黄巾党全員が、その足を止めた。止めざるを得なかった。
孫堅の眼光は武人でもない黄巾党にすら、命の危機を明確に感じ取らせた。
己を捕食せんと虎が口を大きく開いている、その眼の前に立っている光景を幻視する。
「先の戦いであれほどこのオレの力を見せつけたというのに、このイナゴどもが。………そんなに北部戦線が好きなら送ってやるぞ? 南部戦線、孫文台を甘く見た事、………精々“向こう側”の連中に伝えてこい─────!!」
怒髪冠を衝く獣が地を蹴った。
瞬く間に彼我の距離を詰め、一振りで複数の首が飛ぶ。
それこそ瞬間移動とすら見間違えるほどであり─────眼前に刃が迫ってくる映像を脳が処理する時間すら存在しなかった。
◆
北部戦線。
そこからも敵本陣が炎に包まれる様子は確認していた。
本来ならばそれを合図に此方も攻勢に出て、敵を炎の中へ追いやるのが作戦だ。
だが、実際は追い込むどころか現状維持で精いっぱい。
「チ─────」
予感はしていた。
相手は官軍に対して並々ならぬ意思を抱いている。
それは官軍駐屯地を重点的に攻撃していた経歴からも明らかである。
だからこそ前哨戦は孫呉に任せた。
前哨戦がそのまま決戦にならないように。決戦に向けて準備を整えるように。
孫呉軍の力を示し、敵戦力の偏りを緩和させるために。
─────ただ、誤算があったとすれば。
それは大賢良師さまと呼ばれている張三姉妹が冀州黄巾党討伐の現場に居合わせ、恋の武を直に見ていたこと。
それによって彼女らにトラウマが出来ていたこと。その状態で兵の鼓舞をすべく歌を歌ったこと。
手元に“太平要術の書”があったこと。
歌い手本人達が意図したことではないし、戦えと言ったわけでもないとはいえ、結果官軍へのヘイトが上がるのも当然だったと言える。
“太平要術の書”とは、即ち持ち主の望みを叶える書。
大陸一の歌い手を目指す彼女らの為に書がコトを示したように、此度もまた持ち主の不安を払拭すべく働いただけの話。
「報告!右翼、戦線が崩れました!」
右翼。
洛陽から合流した兵を中心に構成された場所。
西側から攻め入るにあたり真先に香風と合流するポイントとなる部隊。
兵力合わせの為に元々から官軍だった者達を連れて来ていたが、やはり香風が言う通りダメダメだったらしい。
短期間の付け焼刃では間に合わなかったと取るべきか、ここまでよく保ったとポジティブに考えるべきか。
或いは最も早く香風率いる騎馬隊が合流する地点だからこそ、崩れて攻め入られたとしても背後から強襲することが出来ると考え直す。
とは言え崩れたのは事実なのだから幾分かは持ちこたえなければならない。
「………香風が来るまであと少しか。─────接敵に備え!弓兵隊は前へ!抜けてきた所を一斉掃射!味方に当てるなよ!ここで踏ん張れば背後から騎馬隊が敵を蹂躙する!持ちこたえろっ!」
『おおおっ!!』
本来の役職は文官なのだが、今この場においては指揮官。
流石の灯火でも指揮官が慌てふためくのはよろしくない事くらい重々承知。
不安が無いと言えばウソになるが、それを表面に出す必要もない。
「左翼より報告!曹操軍からの援軍が到着しました!」
北部戦線に一気に活力が満ちる。
それまで均衡を保っていた前線は、少しずつ燃え盛る炎へと押し込まれていく。
数で押していた黄巾党も燃え盛る炎と軍閥との地力の差によって、狂気じみた士気に陰りが見え始めた。
「大賢良師さま万歳!」
「全ては大賢良師さまの為に!」
それでも過激派というモノは一定数居る。
その襲い掛かってくる姿は“死兵”そのもの。
相手は策を見破るほどの視野も知識も持ち合わせていないが、生半可な策を無視して突撃してくる。
そんな連中が相手では損害は増えるばかりだ。
何せ相手は自分を顧みない。捨て身の攻撃は此方にとっても脅威そのもの。
ただし─────
「はぁああっっ!!」
─────互いの実力に大差が無い時に限る。
北部戦線、左翼。
官軍の要請により曹操が選抜した部隊。
将としては二度目の出陣となる三羽烏。その内の一人、楽進。
無手でありながら生半可な剣を拳だけで粉砕し、槍すら届かない距離からの“氣”による攻撃。
近・中距離を漫勉なく網羅するオールラウンダー。
特に“氣”の射出、などという離れ業は曹操軍において彼女一人の専売特許。
将としての経験はまだ浅いものの、武人としては今の曹操軍において夏侯惇や夏侯淵に続く力の持ち主。
「進め!進め、進め!!我ら曹操軍の力を連中に見せつけろ!!」
そんな楽進の後ろ姿をどこか微笑ましく見るのは残りの二人。
「凪ちゃんってば、凄いやる気~」
「それもそうやろ。話しか聞いてへんけど、あの官軍の人が居るんやから」
「ああ、都に行った時の─────」
「おい、二人とも!戦闘中だぞ!今は目の前の事に集中しろ!」
戦場に似つかないおしゃべりな二人は于禁と李典。
所謂楽進と同期となる二人だ。
個人の“武”としては楽進に及ばないが、かつて義勇兵を率いて賊から村を守った経歴もあり、三人一緒に曹操に仕官している。
「了解了解っと。せっかくここまで来たのに、凪の奴にサボってましたって報告されるのは敵わんわ」
「なの!」
先端がドリルの様な武器と二本の剣。
武としては楽進の後塵を拝すが、かつては義勇兵を率いて賊と交戦した記録を持つ。
その力、経験ともにまだ発展途上だが、それ故にまだ限界は見えない。
「「「進めえええぇぇぇぇっ!!」」」
右翼が崩壊する光景は、疾走する香風からも確認できた。
香風にしては非常に珍しく、苛立ちが募った。
右翼が崩れたという事はその先は本陣、つまりは灯火が居る。
せめて自分達が到着するまでは保って欲しかったと思わずにはいられない。
「師団長!我らはすぐさま追い付きます!ですので─────」
すぐ後ろを駆ける小隊長が声をかけた。
香風が駆る馬は馬家から譲り受けた、言ってみれば特注品。
こと疾走するのであれば、後ろに居る兵達の馬を引き離せるほどには馬力がある。
「………わかった」
返事と同時に腹を蹴り、他の馬と合わせていた名馬はその全力を示す。
ぐんぐんと後続との距離を開け、すぐさま北部戦線右翼の最後尾が見えてくる。
「………!」
追い抜きざまに大斧を振り払ってそっ首を刎ね、なおも進撃を続ける。
進行方向にいる敵は馬に蹴り飛ばされ、側面にいる敵は為すすべなく大斧の餌食となる。
油断はしない。慢心もしない。慈悲もない。
死にたくなければ戦場に出るべきではなかった。死にたくなければ逃げるべきだった。
それを促す様に敵内部へ働きかけて、なおこの場に居るという事はつまりそういう意味である。
故に容赦はしない。
後方からの強襲にようやく気付いた黄巾党も、後続の騎馬隊に次々と刈り取られていく。
騎馬隊は止まらず進行方向の敵を蹂躙していく。
伊達に“神速”張遼との鍛錬を続けてきた訳ではない。
本業である彼女ほどではないにしろ、黄巾党相手であれば騎馬で蹂躙する事は難しくもない。
ましてや相手は陽動部隊本陣に気が向いており、背中はほぼ無防備。
この状況で負ける筈がなかった。
「見えた………」
黄巾党を背後から強襲し存分に荒らしまくった香風の視線の先、特徴的な黄巾と防具で固めた兵士。
辺り一面は矢と人の墓場になっており、その先で剣戟の音が響いてくる。
「沈め………!」
馬から飛び上がり、敵を背後から叩き潰す。
一撃で人ではなくなったモノに見向きもしないで、先ずは周囲の敵を掃討する。
「!?何だ!このガキッ!」
「コイツ、孫堅のところに居たヤツだぞ!」
見当違いも甚だしい。
いくら情報を渡さない様に立ち回っていたとは言え、官軍が掲げている“徐”の旗が見えていないのか。
或いは香風の姿と名前を一致させていないのか。
どちらにせよ、香風にとって関係はない。
「董卓軍第四師団師団長、徐公明。─────お前らはここでシャンに倒されろ」
最低限の名乗りだけ済まし、巨大な戦斧が戦場を蹂躙する。
敵の異様な士気はいっそ狂気と言っても刺し違えないソレに、香風は動じない。
雄叫びと共に斬りかかってきた敵を受け止め、鍔迫り合いにすらなることなく相手を弾き飛ばした。
「(前に三、左右に一、後ろに二)」
敵味方入り乱れ、剣戟は更なる剣戟と悲鳴に上書きされる戦場の中、自身に迫る敵を瞬時に把握する。
周囲を敵に囲まれているこの状況は絶体絶命。数秒先に死が待っている。
相手もそれを確信した。
如何に目の前の少女が信じられない力を持っていようと周囲からの一斉攻撃は避けられないし防げない。
故に勝ったと狂信者達は確信し、
「─────」
キン、という甲高い音が狂信者らの音源を断ち斬った。
香風が敵を屠ったのは正面の一人だけ。
左右の敵だった者が残る正面の二の敵を屠り、背後の二人は既に絶命している。
「報告は後で聞く。ご苦労様」
灯火の労いの言葉に敬礼で応えた黄巾党は、その布を解き地面へ捨てた。
つまり最初から香風は包囲されてなどいない。
左右の敵は味方であり、背後の敵は数舜先の未来も無かっただけである。
「お兄ちゃん」
「ん、俺は大丈夫。傷一つないよ。香風も無事で何より」
ひらひらと掌を軽く振りながら、その右手を香風の頭に置いた。
変わらぬその感覚に、少しだけ荒ぶっていた心の内側もすんなりと収まった。
「左翼は?」
「もう会ってきた。楽進殿、于禁殿、李典殿の三隊。向こう側も問題無し」
息を吐く。
軍議終了直後すぐさま曹操軍に伝令を送り、若干の作戦変更を通達したのが間に合った。
香風の到着も想定よりも随分早く、おかげで本陣の兵達の損耗はそれほど大きくもない。
左翼は数で劣る中均衡を保っていたが、これで一気に形勢有利。
一番手厚く守っている正面は問題無し。
崩れた右翼は背後からの強襲によって相手の戦力を削ぎ落とし、なおも騎馬隊が戦場を駆け巡っている。
「よし、よく耐えた!これより攻勢に移る!─────全軍抜刀、突撃!戦線を押し上げる!反撃の時だ!」
『おおぉぉぉぉぉーっ!!!』
陽動部隊本陣の長を務める灯火の飛び切りの号令。
伴い合図の銅鑼が鳴り、北部戦線の士気が高まっていく。
周囲に残る黄巾党。
士気は逆転し、じりじりと距離を離そうと後ろへ下がっていく。
だが、その行動はもう致命的なまでに遅かった。
生き残る事を優先した境界線は失われ、殲滅を目的とした最前線に切り替わったのだ。
「俺達も行こう、香風。
「うん、任せて。─────この一撃はお兄ちゃんのため。大地でも穿ってみせる」
数多の傷が残る地上に、轟音が響き渡る。
反撃の開幕を告げる一撃。それは耐えてきた兵達の躍動を導く音となり─────
◆
─────最後の形勢は覆った。
最大敵であったはずの官軍、北部戦線。
南も西も既に前線は崩壊し、中央は炎揺らめく地獄。
包囲殲滅される前に東へ逃げようとする者達。
それを。
「ここに来てなお逃げられると思っている、その傲慢。─────どこまで保つかしら」
凛とした声と共に風切り音。
寸分違わずに額に打ち込まれるは一本の矢。
「な─────」
逃げてきた、その全てが停止する。
日は完全に落ち、周囲は闇夜一体。
その状態で寸分違わぬ一撃は、射手の技量の高さが伺える。
「“曹”………!? 曹操軍だと!?」
「進めぇえええええーーーっ!!」
「「おおおーーーっ!!」」
夏侯惇の号令と共に、包囲殲滅と炎から逃れようと東に出てきた黄巾党の横っ腹へ突撃をかける。
「さあ皆さん、突撃です!」
夏侯惇、夏侯淵、許緒、典韋、曹洪、曹仁、曹純。
曹操軍の将総出で油断なく相手を殲滅しにかかる。
「破れかぶれの特攻には気を付けろ! 中央に押し込む事を念頭に!─────全軍、放て!」
突撃隊にあたらぬ様に矢の嵐が降り注ぐ。
それはある種、恵の雨でもあった。
どの道、この先に待ち受ける運命は変わらないのだから─────
◆◆◆
最後にして決定的な戦線、東部戦線。
これにて包囲は完了する。
行き場を無くした者は自暴自棄に死兵となり、今になって恐れを抱いた者は無意味な救援の声をあげる。
黄巾の陣が燃える。
火の粉が赤い星のように夜空へ舞い上がり、辺りからは断末魔が風に乗って響いてくる。
さながらここは地獄の窯底。
これが戦争。
現代であろうとそうで無かろうと、大勢の人間が死ぬ。
それが指先一つで行われないだけ、きっとこの世界の戦争は─────まだ“マシ”なのかもしれない。
お気に入り、評価などなどありがとうございます。
最後駆け足。
後は後日談挟んで黄巾の乱終わり の予定。長いよ!
皆さんはGWは10連休でしょうか、或いはそうではない人もいるかもしれません。
とりあえずワーカホリック気味だったので休息チャージしてきます。
皆さまもどうか健康と事故にお気を付けて。
※灯火は文官です