コーヒーって美味しいですよね。
普段飲まないので、仕事中に眠たくなったら飲むと効果覿面です。
やっぱりのんびりほのぼのだと筆が早い。
始まります。
電子化というのは偉大なモノだ。
確かにそこに情報は存在するのに、物理的なモノは一切存在しない。
まあデータベースサーバーやら電子データを読む為の端末やらが必要ではあるのだが、本を何百冊保持するのと何百冊のデータを保持するのとでは物理的空間の点から見ても圧倒的に電子化は省スペースである。
つまり何が言いたいのかというと。
「…………眠い、疲れた、多すぎ………」
この山の様に積まれた竹簡と書簡を前に現実逃避している訳である。
机に突っ伏した首だけを持ち上げて、何も変わらない山の前に再び額をぶつけた。
「電子化は夢のまた夢だとしても、竹簡はダメだ。せめて紙にしてくれ………」
紙も紙で貴重なモノであるため重要度の高い情報に対してしか使用されない。
今の時代はまだまだ竹簡が主流である。
竹簡とはすなわち竹であり、当然紙よりも分厚い。
そのくせ書き込める量に限りがある為、少し長い情報を書き込もうと思うとすぐに巻物レベルの大きさになる。
おかげで気力を削がれる様な山が目の前に広がっている。
加えてこの時代にボールペンなんてモノはなく、それどころか鉛筆だって存在しない。
筆と墨で文字を書いていくのが今の世の中。
当然文字を書いてすぐさま折りたたもうものなら悲惨な事になるのは目に見えている。
書き終わったものをすぐに片づける事が出来ずに乾燥待ちという状況が、この部屋の竹簡書簡の山に拍車をかけていた。
つい先日まで豫洲へ赴き諸侯の相手や軍の指揮などを執っていたが、あくまでも本業は“文官”。
武官は勿論、軍師でもない。
日々発生する様々な事柄の対処から始まり、戦が終わった後は武官らが持ってくる報告書の取りまとめだって仕事の内である。
軍事的な報告はそのまま筆頭軍師である詠に横流ししたとしても、発生した経費や消耗品の補充、消耗品の在庫が厳しいようならば商人とのやりとりなど、その仕事は多岐にわたる。
そして今回は漢全土に広がる黄巾党討伐。しかも詠の方針により多方面同時作戦。
誰一人欠ける事なく無事に帰還した事を喜ぶ一方で、戦後処理の仕事を担う文官はその後が地獄である。
その例に自分自身が漏れる事は無い。
ましてや他の文官とは違い、董卓軍の将らと直接やりとりが出来る立場で関係も良好。
言ってみれば董卓軍文官の筆頭。
そんな人物が豫洲討伐から帰ってきたからと言って、他の武官と同じ様に休息に入れる筈もない。
むしろいなかった期間に溜まった仕事の対処もしなければならない。
『長期休暇から仕事に復帰してみたら仕事が大量にあった』
実際は長期休暇どころか前線で戦をしていたのだが、文官という仕事を見れば休暇である。
休暇である。
大事なことなので二回言う。
戦場ですら見せない様な虚ろな目をしながら竹簡や書簡に目を通していく。
憂鬱な気分であるが、それも今日で終わる。何せ今日は超強力な助っ人を呼んであるのだから。
「とはいえ眠気が………せめてコーヒーがあればカフェイン摂取で眠気を飛ばせるのに………」
普段コーヒーなんぞを呑まない人物が飲めば、その効果は絶大であるというのは経験談。
無いものねだりばかりしている辺り、昼食後の時間帯というのも相まってそろそろ本気でノックダウン寸前である。
コンコン、と扉がノックされる。因みにノックをしてくれる人は現在一人だけ。
返事をすると一人の少女が入ってきた。
「お兄ちゃん、手伝いに来たよ~」
ふにゃり、と笑いながら天使こと香風がやってきた。
竹簡書簡との格闘の末にダウンしていた身にとって癒しそのものである。
癒しとはすなわち香風のことであり、香風とはすなわち─────
「お兄ちゃん?」
「あ、いや………ちょっとボーっとしてた。ありがとう、香風」
疲弊しきった脳が暴走したらしく気付けばすぐ傍まで香風が近づいていた。
戦場だったら死んでいるなと思いながら香風の頭を撫でる。
サラサラな髪に漂う香り。
手触りは勿論抜群であり、こうしているだけで荒んでいた心が浄化されていくような気分になる。
頭から頬へ移せばむにむにの柔らかな感触が伝わってくる。
「………お兄ちゃん、やっぱり疲れてる。ちゃんと休まないと、ダメ」
「んー…………」
休みたいのはやまやまだが、休むにしてもせめてキリのいいところまで終わらせたい。
帰って来てからまともな休みを取っていないので香風は勿論恋やねねとのやりとりも最低限になってしまっている。
とは言え今の状況ではもう限界であり、事実悪魔的な考えが脳裏を過った。
「………そうだ。香風、コッチに来て」
「?」
椅子を少し後ろに引いて香風を手招き。
最初は首を傾げていた香風も意味を理解したらしく、猫の様な軽やかさで膝の上に座った。
「あぁ~、香風~~」
「んにゃっ、くすぐったいよ………」
その背丈の関係上後頭部が胸元に来るので頭頂部は鼻先にある。
甘い香りが漂ってきて、思わず香風を抱きしめて髪に顔を埋める。
細身ながら肉付きある太腿や殿部。
片手はすべすべ柔らかなお腹に触れて、もう片方はサラサラいい香りの髪を撫でる。
もしかしなくても現代ならば即警察行きの事案であるが、今の灯火にそこまでの思考的余裕は無い。
「……しゃんふーはかわいいなぁー………」
意識が朦朧とする中で香風の温かさも相まって急速に眠気が襲ってくる。
戦場では大斧を振り回す香風であるが、体重は灯火一人で抱きかかえられる程には軽い。
程よい重さと温かさ、昼下がりの室内と昼食後の仕事、そして眠気といつも夜眠る時の香り。
これだけの条件が揃っていて眠気に打ち勝つ事など出来るハズも無い。
「お兄ちゃんも、あったかい………」
仕事を手伝いに来たということも忘れ、香風もされるがまま凭れ掛かる。
灯火のこの状況は珍しい事ではない。意識が朦朧とする眠る直前や寝起き直後はこういった事は起きる。
いつもはどちらかと言えば頼りになるお兄さんポジションを確立している灯火が、半分夢見心地とはいえ甘える様に優しく抱きしめてくる。
ココロが溶けるような、そんな温かさ。
甘えられていて、香風も甘えている。
見ず知らずの人に見せる態度ではなく、完全プライベートで一切の着飾りをしていない素の状態。
知っているのは香風とねねと恋の三人だけ。
それが特別である様な気持ちになって、少しだけ頬が緩む。
香風を抱きしめていた腕から力が抜ける。
指が太腿に触れてビクリ、と一瞬震えたがその指が動く事は無い。
背後から伝わる規則的な呼吸とそれに合わせて上下する胸元。
「………寝ちゃった」
顔は見えないが、ほとんど毎日感じている雰囲気を間違える筈もない。
起こさない様に慎重に振り返ってみれば椅子の背もたれに凭れて眠る灯火の姿。
「………」
どうしようかと考える。
当初の目的を遂行するのであれば、起こさない様にこの竹簡書簡の山を片付けるのがベストだろう。
けれど。
「………重くないかな」
姿勢を変えて座りなおす。
背中を預けていた姿勢から、対面の姿勢に変われば眠っている顔が正面になる。
「えへへ………」
ぽかぽかと胸が温かくなるのを感じながらゆっくりと胸元へ凭れ掛かった。
涼州に居た頃や洛陽に来てからも寝る時に同じ事をしているが、こういう状況は初めてだった。
寝台ほどぐっすり眠れるワケではないだろうけれど、昼寝くらいなら問題ない。
一度、二度と深呼吸。
自身を包む温かさと、上下する胸が擦れてくすぐったさを生み出している。
それも少し時間が経てば心地良さに昇華する。
「お兄ちゃん………」
返ってくる事の無い独り言を小さく呟きながら、香風も瞼を閉じた。
傍にいるだけで凄く安心できて心がぽかぽかするのに、ここまで密着すればもうそれを通り越して一種の幸福感に包まれる。
そんな香風が眠りに落ちるのに、そう時間は必要なかった。
◆◆
しばらくして目覚めた灯火は香風を起こして仕事を再開した。
一緒になって眠っていた香風に苦笑しながらも内側から湧いてくる愛おしさによって強く抱きしめ、それを仕事への切り替えとした。
眠っていた時間は四半刻程度だろうが、随分と回復したようにも感じる。
これが癒しの効果か、と内心驚きながら香風と手分けして竹簡と書簡を撃破する。
こういう時に役人仕事の経験もある香風は何よりも頼りになるのだ。
そして同時に自身の報告書の作成も行っていく。
黄巾の乱の終結。
最大規模を誇った豫洲黄巾党本隊は官軍、孫呉軍、曹操軍の三軍によって壊滅。
時期をほとんど同じくして青洲黄巾党の討伐、荊州黄巾党の壊滅も達成された。
漢全土に広がりを見せつつあったこの大騒動は官軍の多方面同時作戦により終結することになる。
だが、それだけでは不十分。
何せこの騒動は民すらも嫌という程に認識している大騒動。
口頭や触書だけでの通達ではイマイチ実感が湧かないだろう。
民は、何よりも分かり易い結果を求める。
それがこの時代であれば尚更。
黄巾党首謀者である“男性”張角の
日本風の知識で言うならば獄門。
刎ねた首を台に載せて見せしめとして晒しものにする公開処刑の刑罰。
この時代ならば
そんなモノ、少なくとも現代日本の知識が残る灯火からすれば見ようと思って見に行く気はない。気分が悪くなるだけだ。
もう数えきれないほど散々人殺しをしている身ではあるが、だからこそ切り替えというのは必要だ。
この精神性の切り替えこそが独りで長い
もはや一種の自己暗示にまで昇華されてしまったその精神性を正しく評価する者は、灯火本人を含めて誰も居ない。
もし評価が出来る者がいるとすれば、同じ価値観を持つ“天の御遣い”のみだろう。
「次」
では三姉妹の張角はどうなったのか。
結論から言うと曹操の預かりとなった。
そもそもこの黄巾党の起こりを正確に把握していたのが官軍と曹操軍。
事前協議にて確認してみれば曹操もまた三姉妹に目を付けていたらしい。
兵を呼び込むのを主として考えている曹操に対して、灯火側はあくまでも歌姫………すなわち一種の娯楽として内側に取り込みたいと考えていた。
三姉妹は利用されていただけであり、処刑するほどの罪は無し。
ただし無罪放免というワケにもいかない為、官軍もしくは曹操軍のどちらかに属してその力を提供すること。
加えて名前を捨て、真名で今後の活動をする事で方針が決定した。
真名呼びに対して張宝は一時猛反対。
やはり真名とは謎文明と内心思う灯火。
それに対して張角と張梁はその手もあるねと賛同。
やはり真名とは謎文明と呆れる灯火であった。
灯火からすれば真名呼びが罰に含まれるのか甚だ疑問ではあるが、まあ当人らにとって罰だと思っているのであれば有効だろう。
因みに全く知らぬ者がいきなり恋やねね、香風を真名呼びしたら無表情のままゆっくりと刀を引き抜いて首目掛けて振るうつもりである。
慈悲は無い。
所謂『それはそれ、これはこれ』。
両者の思惑を考えれば三姉妹は此方側に来るだろうと考えていた灯火。
だが実際三人が選んだのは曹操側。
理由を尋ねてみるとどうやら三姉妹は“あの”冀州黄巾党内に居たらしい。
つまりは恋の単騎攻城戦を間近、しかも自分達も討伐対象となっていた状況でモロに見ていた。
言ってみれば
『………なるほど。あの黄巾の最後の抵抗、官軍に対して一際あたりが強かったのはその所為ね』
頷きながらちらりと此方を見てくる曹操に対して、ただ空を仰いで視界を掌で覆うことしかできない灯火であった。
そんなこんなで三姉妹は陳留に滞在している。
今頃は黄巾党の爪痕が残る村々を訪問してその歌声を響かせているだろう。
此方側に引き込む事はできなかった。
強く、それこそ官軍権限で強制する事も可能ではあったが、そんな軋轢を生むような手法を取る必要はない。
そんなことをすれば曹操に睨まれる事になるし、三姉妹だってよい顔はしない。
それでは本末転倒もいいところだ。
灯火の目的はあくまでも娯楽の提供。そこに不和を持ち込む気は無い。
今後曹操と連絡を取って彼女らを洛陽に招いてコンサートを行う、くらいの事ならば出来るだろう。
三姉妹を利用した曹操とのパイプが出来て定期的に陳留に訪問する理由が出来た、と逆に考える事にする。
『喜雨、終わったよ』
曹操軍の陣内に居た喜雨と会った。
黄巾党の被害者は各地に大勢いる事は間違いないが、心を痛めていたのは彼女も同じ。
特に一時は自分が居る城を包囲されかけもした。
文字通り死ぬ思いをしたわけである。
『うん。ありがとう、灯火さん』
『………黄巾の乱の首謀者である男はもう
『望むことって………。─────ううん、戦場では曹操さまに従うって決めてたから。あの三人に何かを望む事はないよ』
『………そうか。立派だな』
文句は山ほどあるだろうし、憤りだってあるだろう。
多少乱暴になるくらいは許される。
それでも理性を働かせて冷静になっているあたり、年齢も相まってすごく立派に思えた。
『そうでもないよ。聞いたけどあの三人、官軍に対して過剰に怖がっていたみたいだね』
『………あー。まあ色々重なった結果だな』
『不謹慎かもしれないけど、それを聞いた時ちょっとだけ胸がスッとしたんだ。………うん。だから、ボクからは何も。灯火さんにはお礼を言わなくちゃいけないね』
『─────くっ、ははは。そうか。けどそれは俺じゃない、恋に伝えておくよ。喜雨が恋に感謝してたって』
思わず笑いが出てしまった。
それに吊られる様にほんの僅かにではあるが、喜雨からも笑みが零れた。
『うん、伝えておいて。………あ、望む事、っていう訳じゃないんだけど』
『ん? 何、遠慮しないで言っていいよ』
『また、農業について話がしたい、かな。今すぐはお互い落ち着かないから無理だろうけど、復興と、“今後”の事も兼ねて』
『ん、そうだな。やり取りしている間に洛陽に来ちゃったから色々中途半端に止まってたし。………こっちも時機を見て連絡する』
曹操と陳珪の関係性はこれからどうなっていくのか。
少なくとも豫洲が曹操の配下になったという連絡はどこからも来ていない。
少し気にはなりつつも、現状は静観する方針で進める。
「次」
劉備義勇軍について。
詠の策略によって随分と渋い状況に追い込まれていた義勇軍は、想定通り此方と接触してきた。
並みの義勇軍であれば解散による自然消滅か、或いは黄巾党に返り討ちにされるだけだっただろうに良く生き残っていたとも言える。
その後、徐州牧である陶謙と接触したらしく、把握しているところでは徐州内の黄巾の残党を排除中とのこと。
今ではもう黄巾党の規模は縮小しているし、義勇軍でも十分に戦っていけるだろう。
落ち着くのはもう間もなくのハズである。
その劉備については
というより話題に挙げた、というべきだろう。
月の味方になりそうな外部協力者はいないか、という詠の問い。
そんなモノを問われてもそう簡単に出てくるものではないと頭を捻っていた所に思い出した劉備の名前。
彼女もまたこの漢を憂いで義勇軍を立ち上げる、或いはもう立ち上げているかもしれない人物。
『義勇軍って………月の協力者になりそうな人って言ってるのに、そんな人物しかいないワケ?』
まあ当然こうなる。わかってた。
今や主である月は中郎将という立場、それに対して相手は名前すら聞いたことが無い、義勇軍を率いる者。
立場が圧倒的に違いすぎる。
ならばあとは幽州の公孫賛くらいしかいない。
彼女も涼州と同じで外部からやってくる烏丸相手に戦っている太守。
通じるモノはあるだろうし何より野心的な人物ではない。(偏見)
『公孫賛………居たわね、そんなヤツ。時々噂くらいは聞くけど………地味ね』
哀れ公孫賛。
現代社会の知識がある身としては彼女こそ理想の女性だろうに、と涙を流さずにはいられない。
特筆するほどの強い個性があるわけではないが、普遍的に万能というのは灯火的に好感である。
言い方を変えれば器用貧乏でもあるのだが………同じ器用貧乏な者として同情を禁じ得ない。
『………分かっている範囲でその劉備とかいうヤツの事を教えなさい』
とは言っても灯火自身劉備と面識がある訳ではないし、“知識”がどこまで正しいかの確証も無い。
あくまでも確定情報ではないけれど、と前置きした上で朧げな“知識”の断片を伝えていく。
劉備には義理の妹である関羽と張飛なる者が居るらしい。
劉備には伏竜鳳雛と呼ばれる天才軍師が居るらしい。
劉備は月と同じ漢王朝の復興の為に義勇軍を立ち上げ、名をあげようとしているらしい。
何とも曖昧な回答に、しかし詠は視線を逸らして思考に耽っていた。
『………最後に一つ。その劉備は、これから大きくなると思う?』
今言った事に間違いがないのであればなると思う。
そう伝えると詠は椅子の背もたれに体重を預けた。
『なら、確認はしないと。先ずは本当に劉備義勇軍なるものが存在するのかどうか、ね』
話を出した此方が言うのもなんだが、今の話を信じるのか。
『─────はっ』
そんな問い掛けに鼻で笑われる。
『………思わずアンタの頬を打ったボクに、それでも静かに月の為といって進言してきた。こんな夜中、誰も聞かれない一対一の状況で』
或いは詠と初対面であればそもそもこの状況は生まれない。
『─────ボクは董卓軍の筆頭軍師。
或いは詠とそれほどの関係性を構築できていなければ、話を挙げた時点で論外と言って切り落とされ、この会合も消え失せる。
『否定できない時点で、ボクはアンタを信じる。そもそもアンタが何も考え無しで言う筈も無いだろうし。だからさっきの劉備何某の話も信じるだけよ』
そう言い切った詠の瞳には強い意思が垣間見えた。
机の上で握る拳には力が込められている。
『月の為なら何だって利用する。コトが不確かなら調べればいい。後になって時間が足りないなら今からやればいい。月の夢を叶えるのが軍師であるボクの役割』
じっと見つめるその表情は真剣そのものであり、けれど僅かに笑う表情は─────
『そんなボクを灯火は焚きつけた。─────なら、責任とって地獄の底まで一緒に来てもらうから』
「灯火? 入るわよ」
そんな言葉と共に入ってきたのは詠。
別名ツンデレ軍師。
「……詠さま。お兄ちゃんの部屋に入るなら、ノックしないと」
「ノック?………ああ、そういえば言ってたわね。必要なの?」
「………まあしてくれた方がびっくりしなくて済むかな」
「ふぅん。どっちも同じようなモノだと思うけど」
因みに灯火が返事を待たずにノータイムで詠の部屋に入ろうものなら飛行能力のない飛翔物体が飛来することになる。
まあ女性の部屋に無断で入ろうとする輩には当然の報いとも言える。
勿論そんな愚行は今までした事はない。
「仕事の方はどう?」
「香風が来てくれたおかげでもうすぐ終わる。……そこに置いてあるのが詠に渡す分」
「………多いわね。これ、盛ってないでしょうね」
「残念ながら」
肩をすくめた。
これでも必要最低限にまで絞ってまとめた方である。
何せ今回は多方面同時作戦。
必然的に報告書としてまとめる量も多くなる。
「悪いわね。けど、
「…………最悪を想定して、か」
「ええ。今のところはまだ黄巾騒動が終わったばかりだからそれほどだけど、今後どうなるかは分からない」
あくまでも可能性の話。
そうなるという確定ではない。
それでもその可能性を馬鹿馬鹿しいと斬り捨てないのが詠である。
「にしても流石に疲れてきたからこれが終わったら休ませて貰うけど、いいよな?」
「それはそうよ。アンタに倒れられても困るんだから。………というか、仕事は任せると言ったけど、休むなとは言ってないわよ?」
「………自分の執務室に戻ってきてうず高く積まれていた竹簡書簡の山を見たら、休んだら働きたくなくなりそうだった」
「休む時は気兼ねなく休みたい、というその気持ちは汲んであげる」
遠い目をして魂が抜けそうな表情を見て、しかし淡々と回答する。
灯火の大変さは詠も承知しているところだが、詠自身も筆頭軍師という立場である。
洛陽に来てから誰にも悟られない様に動き回っていることもあり、灯火に負けず忙しい身だ。
「………ボク自身が行きつく先が地獄だったとしても、月の為ならそれも厭わない。でも、アンタはそんなボクを引っ張り上げてくれるんでしょ?」
「誰が好き好んで地獄に行くか。そして名も知らない人物ならともかく、どこかのツンデレが地獄に行くなんて言ったら腕を引っ張るに決まってる」
傍から聞いていた香風には疑問符がつく会話内容であるが、全貌を知っている二人は最低限の言葉で会話を成立させる。
「なら、頑張ってよね。生憎、ボクはアンタの為に止まってあげるほど優しくはないわよ。─────それと」
机の上に置かれていた報告書の一つを読み終えた詠は、カツカツと足音を立てて近づいてきた。
そんな詠を訝し気に見た灯火の背中にゾクリ、と悪寒が奔る。
薄っすらと笑う詠の目元から上には影がかかり、頭上に怒りマークを幻視した。
「ねぇ………“灯火辞典”って、知ってる?」
「すみませんでした」
この漢には存在しない語録を纏めた辞典。著者は香風。
香風はその武もさることながら、一度覚えたモノは忘れないという転生者である灯火も真っ青なチート能力を有している。
そんな彼女が暇を持て余した際につらつらと書き綴っている語録辞典。
それが灯火辞典。
正式名“お兄ちゃん辞典”(香風命名)である。
そこには香風との会話の中で灯火が呟いた漢のモノではない単語とその意味が書き記されている。
それ自体を灯火は咎めるつもりはない。
灯火からしてみれば何気ない会話の一部であり、言ってみれば“知識”の中の基本教養にあたるモノ。
しかし香風からしてみれば知らない単語と意味ばかり。
文官仕事をあまり好かない香風が気紛れにとは言え本を作っているのであれば、灯火が止める理由もない。
ただ問題はその存在を知っているのが恋やねねはともかく、詠も知っているということである。
「ふん………誰がツンデレか、誰が」
「(………そう言う所なんだけどなぁ)」
「何か言った?」
「イイエ、ナンデモアリマセン」
勿論日常生活においてこの辞典を読む必要性は皆無。精々が灯火との会話の中で意味不明な単語が少なくなるだけの代物。
この漢の時代で使用する事は無く、灯火との会話を不自由無くする事以外に意味がない。
そんなモノを知っているということはつまりそういうことであるのだが、言うと鉄拳が落ちるので努めて口を閉じておく。
「ま、いいわ。コッチのは持って行っておくから、残り分を済ませちゃいなさい。それで早く恋に構ってあげること」
「? 恋がどうかしたのか?」
「………中庭で大量の肉まんを黙々と食べてるわよ」
「……………」
紙袋いっぱいに肉まんを買ってねねの静止も空しく食べ続ける恋の姿は容易に想像できた。
「分かった。蔵に行くときに中庭通るから、声をかけるよ」
「そうしなさい」
両手に報告書を抱えて執務室から出ていく。
後ろ姿が扉の向こうへ消えたあと、一連の会話を聞いていた香風が申し訳なさそうに尋ねてきた。
「………シャンのアレで、迷惑かけちゃった………?」
「いいや、何も問題ない。今のは俺が不注意だっただけだから、香風は悪くない」
むしろツンデレと言われてそれを肯定する人物を灯火は見た事がない。
すなわち意味を知っているのであれば、詠のあの反応は至極真っ当な反応であった。
◆
「お兄ちゃん、終わったよ」
「ん、ありがとう。香風」
凝り固まった肩と首を解しながら背筋を伸ばす。
コキコキと骨が鳴るのを聞きながら片付いた竹簡と書簡を纏める。
手元に残しておくべきものは戸棚に収納し、手元に無くてもかまわないものは蔵へ収納する。
「それじゃあ蔵に持っていくか」
「うん、わかった」
竹簡というのは非常に嵩張る。
ましてやここは漢の中心である洛陽。
洛陽自体で発生する数もさることながら、地方の情報も嫌という程に入ってくる。
文官の仕事が多くなるのは自明の理であり、故に保管場所も相応の大きさを有しているのは必然であった。
二人して両手いっぱいに竹簡や書簡を持って、中庭の奥にある蔵へと向かう。
勿論、詠の連絡にあった恋に声をかける事は忘れない。
「居た。おーい、恋、ねね!」
両手が塞がっている為に腕を振る事は叶わないが、その声に反応しない恋ではない。
聞こえてきた方角に首を向ければ、文官仕事に忙殺されていた灯火を見つけた。
既に残り二つとなった肉まんを紙袋に入れてすぐさま駆け寄ってきた。
「……お仕事、終わった?」
「あとはこれを蔵に持っていくだけ。香風も手伝ってくれたから早く終わったよ」
「頑張った」
むふーと少しだけ胸を張る香風の両手にも仕事の束。
武器よりも全然軽いので両手が塞がるほどの量であっても余裕の表情である。
「やぁっと終わったのですか。戦後の文官仕事が増えるのは知ってますが、もう少し早くならなかったのです?」
「そう言うならねねも手伝って欲しかったんだけど?」
「ねねは恋殿が寂しい思いをしないように付きっ切りで一緒に居たのです!」
「つまりいつも通りだな、ありがとう」
それはそれで問題ない。
元々は自分の仕事であり、ねねを強制させるようなことは出来ないし権利もない。
ねねが恋の相手をしてくれていたのであれば、灯火が言う事は何も無かった。
「………で、それが件の肉まんか。何個食べたんだ?」
「……十個」
「………ねね?」
「うぅ、ねねは止めたのですぞ。─────いや、これは灯火が悪いのです!仕事にかまけてばかりで恋殿とねねを放置する愚行!責任を取りやがれです!」
「だから今日は美味しい料理作るからゆっくり食べようなって言ったんだけど………」
とは言え灯火も強く言う事は出来ない。
ねねの言う事も理解できるし、灯火自身も飢えを満たすが如く香風を抱き寄せてそのまま眠ってしまったのだから。
「……大丈夫」
そして恋もまた同じであった。
戻ってきて休暇が与えられるも本来文官である灯火はそのまま仕事場へ赴き忙殺状態。
武に関して誰にも負けない自信はあっても、文官仕事で手伝えるとは流石に思っていない。
結果、灯火の仕事が落ち着くまではいろいろ我慢を強いられる事になるのだが、元々遠征から数日経過しただけでうずうずとしていた恋。
そんな恋がどれだけ早く帰還したいと思っていたのかを正確に理解しているのはねねだけであり、それが数日延長となれば我慢の限界というもの。
それを“最低限”で解消するために肉まん十三個を購入し、モクモクモクモクと食べ続けていた次第である。
因みに一つはねねのお腹に消えていった。
「……灯火のごはん、一粒たりとも残さない」
「………まあ、恋がご飯を残すなんて微塵も考えていないけどさ」
作れば作るほど実に美味しそうに食べてくれる恋の姿は、灯火を完全なる主夫の道へ爆走させていた。
二本のアホ毛がピコピコと動きながら黙々と頬ばる姿は灯火にとって癒しである。
食費? “飛将軍”と“英雄”が薄給なワケが無い。
「…これ、香風と灯火に」
「買ってきたの?」
「……一つずつ」
こくり、と頷いて持っていた紙袋の中身を見せた。
これから夕食ではあるが、恋が買って来てくれたモノを無碍にするわけにはいかない。
肉まん一つ程度であれば問題もないだろう。
「ありがと。けど今は両手塞がってるから、後で貰うよ」
「……………」
ちらりと見れば確かに両手は塞がっている。
肉まんを持てるだけの余裕はないだろう。
「………あーん」
なら、手の空いている自分が食べさせてあげればいい、という結論に至る。
一瞬どうしようか迷ったが、ここは素直に
「あー………んぐ。………ん。うん、肉まんだな」
「……肉まん」
モグモグと頬張りながら味わって食べる。
見た目通りの何の変哲もない肉まんである。
恋が買ってきた以上はそこに意外性なんてモノはなく、普通に美味しい。
「……香風も」
「ありがとー」
両手持ちだった竹簡を片手で下から支える様に持ち替えて肉まんを受け取る香風。
その力もさることながら一切バランスを崩さずに肉まんを頬張るあたり、流石は武官である。
因みに灯火が同じことをしようとすると秒で竹簡の山が崩壊する。
「あ~~~ん」
「………あー……んむ」
口元に出されるがまま肉まんを頬張りながら蔵へと赴く四人。
傍から見れば“英雄”に荷物持ちをさせて、“飛将軍”に肉まんを食べさせて貰っているというトンデモ光景。
内情を知らない者が見れば絶句する事間違いなし。
「ん、着いた。ねね、開けてくれないか?」
「まったく、しょうがないですな」
肉まんを食べ終えて蔵に到着した一行は扉を開けた。
中は竹簡や書簡、巻物がうず高く積まれている。
ここは数ある保管庫の中でも機密情報を取り扱う場所。故に滅多に人はやってこない。
「恋、悪いけど入口で誰か入ってこないか見張っててくれ」
「……わかった」
こんな洛陽の中でも更に内側の、数あるうちの一つの蔵をピンポイントで窃盗しにくる盗賊はいないだろうが念のためである。
それだけここに置いてある情報は見る者が見れば価値あるモノである、ということだ。
流石に漢の都である洛陽の保管庫はしっかり整っているらしく、乱雑に収納されてはいない。
香風と二手に分かれて分類ごとに整頓していく。
とは言っても所詮は蔵。
どれだけ整っていると言っても埃っぽい感じは否めないし、当然ながら薄暗い。
さっさと置いてここから出よう。
そう考えていたからこそ。
「だ、誰………!?」
「えっ」
香風以外の声が聞こえてきた。
正直この蔵に人と鉢合わせる事など考えてもみなかったため、灯火も驚きを隠せなかった。
声色からして女性、しかもかなり若い。
瞬時にそう判断して、視線を声の方へ向ける。
そこにいたのは─────
「け………献帝、さま………?」
思わず口元が歪む。
両脇に本を大量に積んで座り込んでいた、“知識”でしかまだ姿を見た事のない献帝だった。
感想、お気に入り登録、評価、誤字報告ありがとうございます。
もっと寄こせよバルバトス。
QP落とせよバルバトス。
サーバー落とすなバルバトス。
そんなことをしてたらGWが終わってた。
今後の展開に繋がるいくつかを散りばめて次回から幕間へ。