莫名灯火   作:しラぬイ

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空を見上げて、手を伸ばした。
届くハズもない空に飛ぶ鳥を掴むように。


その中で紡がれた常識を覆す言の葉は、風の音すら消してしまった。


少しだけ得意気に笑う姿。
差し伸べてくれた手を取り、一緒に見上げた蒼穹。
同じ空でも、あの時だけの一瞬の光景。


─────それは。
目を閉じれば今でも遠く胸に残っている。



The Blue Bird 香風 04 (1/3)

◆(1)

 

 

透き通る様な青空。

青いキャンパスに描かれた白い雲。

西から東へと吹き抜けていく風。

 

穏やかと言うよりもずっと溌剌で、騒がしいよりは物静か。

そんな天気模様。

 

「………よし」

 

強風吹き荒れる天候でもなく、空に浮かぶ雲の流れも見える限りはゆっくり。

悪天候であれば中止と伝えられていただけに、今日の空はベストコンディション。

思わず拳で喜びを顕わにする。

 

「恋~、風呂掃除終わった? もうご飯出来るぞ~」

 

調子のいい包丁の音ともに、この家唯一である男性の声が耳に届く。

今朝から慌ただしいのも理由があって、それはいつも早起きな人が少し寝坊をしたから。

 

そんな人が台所から風呂掃除を任せた恋へ声を響かせる。

その間も料理の手が止まらないのは長年の積み重ねの結果なのだろう。

 

「…………水浴びもしてきた」

 

“ご飯”という単語を聞きつけて足早に戻ってきた恋。

しっとりとした髪は見るからに濡れており、十分に水気を拭き切れていない。

元々寝ぐせを直すついでに軽い風呂掃除を頼んだ、という経緯なので濡れているのは当然か。

 

「髪、濡れてる。ほら、こっちに来て」

 

「………………」

 

招かれるがままに近寄っていく恋と、調理を一旦止めて髪を拭く灯火。

香風の居る場所からだと灯火の顔は見えず、俯いて拭かれるがままの恋の顔が見える位置。

その口元が、ほんのりと笑っているのが見えた。

 

「灯火、動物達の餌やり、終わりましたぞー」

 

「ん。じゃあ布巾で机を拭いてくれ、もう出来上がるから。………はい、恋も朝から手伝いありがとう。座って待ってて」

 

「…………うん」

 

微笑む恋の表情が、何だかいつもより柔らかく見えた。

見間違えなのか、実際にそうなのか、気のせいなのか。

 

ぼんやりとそんなことを考えていると、部屋の中をほんのりと漂う朝餉の匂い。

気持ちのいい朝の、いつも通りの風景。

それを当たり前の様に噛み締めて享受する。

 

 

 

─────当たり前?─────

 

 

 

「香風。悪いけど、食器を並べてくれるか? もう出来上がるから」

 

「─────うん」

 

─────思えば。

同じ屋根の下に住み始めた、その初日からずっと似た光景を目にしていた。

一人で住んでいた頃には考えられない光景。

 

ここよりも幾分か狭い借家に居た頃から、目覚めたら必ず“おはよう”と声をかけてくれた何気ない日々。

それが“当然”と思える日和の日々。

そんな、いつも通りの朝の会話。

 

「香風、どうかした?」

 

「………ううん、欠伸をしただけ」

 

少しだけ視界が霞んだ。

気持ちのいい朝のいつも通りの風景。

それが幸福すぎて、欠伸でもしたのだろう。

 

「なら、ちゃんとご飯を食べて目を覚まさないとな」

 

「うん」

 

意味もなく足早に灯火の元へ赴く。

いつも通りの朝の景色に、名残りを惜しむコトもないのだから。

 

 

 

 

「「「「いただきます」」」」

 

時間は若干遅いものの昨日と変わらぬ朝の合掌ののち、カチャカチャと食器の音が静かな食卓に響く。

先ほどまでの慌ただしい準備から一転、小鳥の囀りさえ聞こえてくるような穏やかな食事風景。

 

涼州という土地は洛陽やそれより東と比べて高い位置にあるので、比例するように朝は薄寒い。

おかげで食卓に並ぶのは御粥を始めとした体を温める食事が中心で、食卓の中央には少し大きめの鍋に湯豆腐が鎮座する。

しかしてその実態はただの湯ではなくちゃんとダシによって薄く味付けされていたりするので、湯豆腐というよりかは豆腐だけの鍋料理とも言える。

 

そこに加えてどこか遠い未来の島国で見かける様な朝食料理も並んでいたりする。

四人で囲うには少々大きめの机にズラリと並べられた朝餉の数々は、穏やかというには少しばかり賑やかすぎる気がした。

 

「…………じー」

 

「? どうしたの、ねね?」

 

ふと隣を見ると卵焼きを美味しく食べていたねねの手が止まっている。

その視線の先には恋と灯火。

 

「なんだ、ねね。卵焼きが欲しいのか?」

 

「そうではなく………いえ、欲しくはあるのですがそうではなく。………灯火、昨日何かあったのです?」

 

「昨日? 何かって………ああ、もしかして寝坊した事か? それは悪いと思ってるけど、朝食は手を抜いてないぞ? それともどれか味付けが悪かったか?」

 

味付けを間違える様な料理を作った覚えは無いが、何せ量が量だ。

もしかしたら細部にまで味付けが行き渡っていなかった可能性もある。

 

「違う、というか朝食から離れて下さい。恋殿との距離がいつもより近い様に見えるのですが、何かあったのですかと聞いてるのです」

 

「む」

 

「………………」

 

口に運ぶ食事は止めずに隣に座る恋を見る。

恋も恋でねねの言葉を聞いて隣を見たので必然お互いの視線が重なった。

………そのまま見つめ合う事数秒。

 

「んー、言われてみればそんな気もしなくは無い。けど、誤差の範疇だと思うぞ? なあ、恋?」

 

灯火の問いかけに肯首する恋。

だが、ねねは引き下がらない。

 

「ぐぬぬ………視線だけのやりとりをしていたのは明白! さあ、言うのです。何があったのかを!」

 

他人ではそもそも恋の表情から何を考えているのかを正確に判断することすら難しい。

しかし灯火ほどの付き合いとなれば判断する事は勿論、言葉を交わさずに意思疎通が出来る。

その事実に驚愕し、その領域まで己が至っていないが故に嫉妬し、故に追及の手は止めない。

 

「………一緒にお風呂に入った」

 

口いっぱいの食べ物を呑み込んだ恋が答える。

あの後は少しだけ長めのお風呂で温まり、そのまま床に就いた。

ただそれだけである。

 

「………それだけなのです?」

 

当初この家にやってきた頃はそれだけでも“陳宮キック”案件だった。

現在そうならないのは一重にねねの身に起きた事件と、その後の短くない付き合いが故。

 

「別にねねが眠った後でこっそり美味しいお菓子を食べただとか、そんな事はしてないから」

 

探られても特に痛くは無いが面倒な追及を逃れるべく、サラリと何でもないように別の話題をあげる。

 

「前科があるのでイマイチ信用に足りない言葉、というのは認識して言ってるのですね?」

 

「あれは試作だから数に入れない。ちゃんとねねも食べただろ?」

 

苦笑しながらそう答える灯火の隣で恋も頷く。

灯火は兎も角恋にまでそう答えられてはねねとしては気のせいかと下がるしかなく、改めて食事を再開する。

 

「お菓子? お茶請けの?」

 

キョトンと首を傾げる。

お菓子と言われると時折お茶と一緒に出されるお茶請けを思い出す。

 

「いや、そっちじゃない。………そういえば香風がここに来る前だったか」

 

であれば香風が知らないのも無理はない。

 

「んー………よし。じゃあこの後、お弁当と一緒に作るから食べてみるか? 材料があればの話になるけど」

 

「うん。けど、それって何のお菓子?」

 

「焼き林檎。食べたことある?」

 

「林檎………。香りづけに使うあれ?」

 

実は林檎というのは既にこの時代に存在している。

小ぶりだが香りがよく、枕元に置いたり衣服に香りを移すなど、食用というよりも香りを楽しむために用いられる事が今の時代の常識。

無論食用として見られていないだけで食べられないモノではないが、それを思いつくところが灯火が灯火である所以である。

 

「あの小さいのを食べるの?」

 

灯火の“知識”の中にある林檎はそのほとんどが西洋の品種ばかり。

そしてもちろんこの漢の時代に西洋品種の林檎がある筈もなく、この地にあるのは和林檎の様な小さな品種だけ。

故に林檎を食用として見る人は少ないだろう。

 

「そ。ホントはもっと大きい林檎の方が食用に向いてるんだけど、それこそ西域からその種かモノそのものを輸入する必要があるからな。流石にそれは望み薄だ」

 

「へぇ~」

 

朝食を美味しく頬張りながら灯火の話に耳を傾ける香風とねね。

恋も聞いている事には聞いているが、あまりよく分からないので専ら食事に専念している。

 

「ねねとしては西に食べる事を目的とした林檎がある、というのを知っている事が不思議なのですぞ」

 

「お兄ちゃんは物知り。誰も知らない空の飛び方も知ってる」

 

「………それもそうでした。しかし香風殿は気にならないのです? 灯火がどうやって誰も知らない様な知識を得ているのか、というのを」

 

時折灯火が見せる知識はねねを以てして一体どこから手に入れているのか今でも皆目見当もついていない。

この家のどこかに隠し部屋があってそこに見た事も無い様な書物がうず高く積まれているのかと思い、徹底的に探し回った事も過去にあったくらいだ。

まあそんな隠し部屋など終ぞ見つける事は出来なかったのだが。(そもそも存在しないので当たり前である)

 

「うーん………別に」

 

目の前には恋の口元を甲斐甲斐しく拭く灯火の姿。

自分が知らないコト、想像もしないコトを教えてくれる。

何の役にも立ちそうもない事から、文字通り空を飛ぶ事まで。

 

例えば家計簿。

我が家の財産管理は専ら灯火の仕事で、几帳面に書物に収支の記録を付けていることは香風も知っている。

 

香風とて元役人。

かつては手伝いをしようと灯火の部屋の本棚にある家計簿冊子を手に取って中身を見たこともあった。

だが─────

 

『……………?』

 

読めない(・・・・)

 

役人仕事で様々な情報をその頭に叩き込んでいる筈の香風でさえ、その冊子に掛かれている文字が一つも読む事が出来ない。

 

それは決して冊子に掛かれている文字が汚すぎて読めない訳ではなく、達筆すぎて逆に読めない訳でもない。

単純に、記述されている文字がこの国に存在しない(・・・・・・・・・・・・・・・・・・・)が故に読む事が出来ない。

お金を扱うのであれば絶対に存在していなければならない数字すら、その冊子には存在しなかった。

 

『お兄ちゃん、これはなんて読むの?』

 

『ん? ああ、それは─────』

 

後に聞けば“ひらがな”“かたかな”“ろおまじ”“えいご”“あらびあすうじ”なる文字だとか。

どれもこれもこの漢の国の文字ではなく、一部はここから海を渡った先の文字とのこと。

 

『使う予定もないし、使う意味もないけど。それでもまあこのまま記憶の彼方に消し去るくらいなら、頭の運動も兼ねて、かな?』

 

『─────………なら、これ。暗号とかに使える?』

 

『え?』

 

これが後に出来上がる著者香風の“灯火辞典”作成の切っ掛けでもある。

 

知っても使う機会はないよと言われもした事も多々あったけれど、それでもよかった。

なぜなら─────。

 

「シャンはこうして知らない事をお兄ちゃんから教えて貰ってる時、凄く楽しいから」

 

思い出す。

 

見上げた空に手を伸ばした。

夜空へ星の様に輝きながら昇っていく灯りを見た。

届かぬ空に吹く風の力を感じ、軽く放り投げるだけで飛んでいく紙飛行機を見た。

 

 

─────そこには未知があり、夢があった。

 

 

軽く、今までの事を思い返した香風の顔には笑みが零れていた。

 

「お兄ちゃんはお兄ちゃんで、シャンの先生。一緒に居るとぽかぽかするし、教えて貰っている時はワクワクする」

 

知識の大元はどこなのか、なんて関係ない。

重要なのは“お兄ちゃん(灯火)から教えて貰えること”なのだから。

 

「………それは、ねねも否定はしないのです」

 

香風の表情を見て、ねねも考える事をやめた。

 

『実は魔法使いなんだ………って事で』

 

『何を馬鹿な事を言ってやがりますか』

 

問いただしても苦笑しながら頭の中にしかないだの、実は未来からやってきただの………荒唐無稽な言葉ではぐらかされてばかり。

そんな状況が続いたのち、気が付けばいつの間にか“灯火だし”という言葉で納得している自分がいた。

 

因みに隣で幸せそうに食事をしている恋には一度も聞いていない。

聞いたとしても自身が敬愛する恋にとっては関係ないことだと分かっているからである。

 

「で、これを食べ終わった後にお菓子作りですか。………いつもの事ではあるのですが、よくもまあこれだけの朝餉を一人で用意出来るものですな」

 

そう言いつつ慣れた手つきで自分の皿に盛りつけられた卵焼きを頬張るねね。

本人としては要求するのは少し恥ずかしいので何も言っていないが、いざ食卓に出てくると一口目に食べるくらいには好きな料理である。

そしてしっかりこの家の料理人に見抜かれている。

 

「これだけ用意出来て、質を落とさないのは凄いと思う」

 

「………美味しい」

 

「うん。そう言ってくれるなら、作る側としては嬉しい限りだな」

 

幸せそうにパクパクと食事を進めるねねと、味わう様にコクコクと食べていく香風、そして口いっぱいに頬張っていく恋。

三者三様の意見と様子を見れて満足に浸る。

 

元々たくさん食べる恋の為に(結果として)磨かれた料理の腕。

質はもちろん、その量も突き詰めていったが故の到達点である。

 

「恋殿が満足しているのであればねねも言う事はないのですぞ。………といいつつ、ねねがこの量をそのままただ食べるだけだと………しかし美味しいが故に食べ過ぎて………っこれは、もしや灯火の奸計………!?」

 

対面の席でブツブツと小声で何やら驚愕しているねねはとりあえず置いておく。

むしろいっぱい食べて運動して健やかな日々を送ってくれるのであれば灯火として本望である。

奸計に恐れおののかなければいけないくらいには成長してほしいと願う。

 

「………いっぱい、おかわり」

 

食事の時に見せる幸せそうな恋の表情を駄賃に茶碗におかわりをよそう。

灯火が一杯の茶碗を空にする間に既に三杯、山盛り。

 

「はい、どうぞ」

 

「…………♪」

 

喜々とした表情を浮かべながら茶碗を受け取り、美味しそうに頬張っていく。

そんな恋の横顔を眺めながら、ねねの先ほどの独り言から灯火の中では一つの仮説が密かに浮上していたりする。

 

すなわち、“恋は氣を使う=体のエネルギーの大量消費=エネルギー補給の為に大量の食事を要する”という説である。

仮に灯火が無理して恋と同じ量を食べたのであれば相当の運動をしなければカロリーの消費が追い付かない。

にも拘らず恋の体型は理想形を保っている、ということは相応の消費する機会があるわけだ。

しかし、ほぼ一日の大半を共に過ごす身としてそんな特別な機会を見た覚えもないわけで。

 

「………ダイエットに最適なのは“氣”の習得か………」

 

未だに習得はおろか感じる事すらも出来ない、灯火にとっては未知の存在にただ遠い目をするしかない。

仮に現代にその方法が確立されたのであれば世の中から肥満体型はいなくなることだろう。

満足するまで食事をして、“氣”を使って体を動かせば太る心配がないなどと、一部の人達からすれば夢物語である。

 

「…………?」

 

「何でもない。─────それで今日は香風のパラグライダー実験になる。食べ終わったら早速準備に取り掛かるから………ねね、悪いけど手伝ってくれるか?」

 

「む。別に構わないですが、例えば………そう。労力に対する対価の支払いとして、その卵焼きを前払いで所望するのです」

 

視線の先は皿の上の卵焼き。

一人分を三回に分けて巻いていくという手間をかけ、焦げ目の一切ない鮮やかな黄色は今となってはこの家の定番。

表面もさることながら中身も均一で鮮やかな黄色であり、味も食す三人が満足するレベル。

 

「相変わらず好きだな、卵焼き。………はい、どうぞ」

 

ねねの皿の上はとっくの昔に空っぽ。

灯火が食す分が無くなる訳だが、美味しそうに食べてくれるねねを見れるのであれば一品分など安いモノ。

第一自分が作った料理を自分が食しても三人ほどの感動は得られない。

それだったら─────

 

「んむっ♪」

 

こうして見ている此方が微笑ましく思えるほど美味しそうに食べてくれるねねにあげた方が、卵焼きも浮かばれるだろう。

 

「美味しい?」

 

「美味しいのです!」

 

「それは良かった」

 

単純にもっと卵焼きが食べたかったので卵焼きを得る手段として対価云々の話をしました、と丸わかりの反応。

そういう一面もまたねねらしいと苦笑する。

 

「恋は馬の準備を頼む」

 

「………─────ん」

 

口に食べ物を含んでいる時はしゃべってはいけませんという教えと、灯火からのお願いに対する返答。

言葉での両立が出来ないので代わりに灯火の瞳を見る。

その恋の口周りが汚れていたので布で拭きとりながら、目線に応えるように行先を伝える。

 

「西に行く。おあつらえ向きな斜面があるし、ここら辺の近くだと一番立地がいい。距離はそれほどないけど荷物はそれなりにあるから、積める様にだけ頼む。後は帰り道に水を汲んで帰るからその準備も頼んでいい?」

 

「………わかった」

 

唇に伝わる布越しの指の感触は、拭き終わると同時に離れていく。

お礼代わりにその左手を軽く握って、柔らかく優しい微笑みを輝かせた。

 

「香風、おかわりはいる?」

 

朝から仕事が入っていない限りはこうして家で朝餉を食べる、というのは香風が長安で居候していた頃からの習慣。

最初は不思議に思いながらも否定する要素もなかったため流れのままに席に着いていたが、今となってはこの光景こそが香風にとって日常。

 

だが、この習慣も周囲の他の家と比べるとそれなりに外れている。

城に住む者は城の料理人が用意した料理を食べるし、お金持ちの家であれば料理人を雇うのが一般的で、それ以外は外で軽食というのが普通。

朝食を自炊するというのは少数派だったりする。

 

外食可能な店が無い様な貧しい村は兎も角、少なくとも大勢の人が集まる場所では朝になれば店に人が並ぶ。

その方が自炊をするよりも時間と手間、そして金銭を考えても安上がりになる事が多いからだ。

 

「じゃあ、少しだけ」

 

今までの一人での生活サイクルが間違っていたとは思わないし、不自由に感じていた訳でもない。

それでも─────今この光景の方がとても温かく感じている。

そう断言できるだけの心地良さがあった。

 

そして、それと同じくらいにワクワクと香風の胸が躍っている。

 

「お兄ちゃん、シャンはどうすればいい?」

 

何せ今日一日は間違いなく素敵で最高で幸せな一日になるのは決定事項。

以前の様に途中で延期になる事も無い。

 

「そうだな…………」

 

皿によそいながら考える。

 

今日の予定は決まっている。

であれば万全を期すためにも香風にも何かを手伝ってもらう、というのは有りかもしれない。

そんな事を考えて、香風の服装に改めて気付いた。

 

「……………?」

 

じっと見つめられる香風が首を傾げるが、視線は微妙に合わない。

 

香風の服装は全体的に薄着であり、即ち太腿やお腹、背中は勿論上からのぞき込めば小さな胸の膨らみがよく見える服装。

もはや改める必要性もないが、中々な露出度である。

 

「服装をどうにかしようか、香風」

 

むしろなぜ今になって気付いたのか。

今の光景が当たり前になり過ぎてすっかり忘れていた。

慣れとは恐ろしいものである。

 

「服?」

 

香風の前によそった皿を置いて改めて視線を合わせる。

 

言葉に釣られる様に香風が自分の今の服装を見るが、特に大きな問題は見受けられない。

至って普通の着こなしであり、問題点が分からず疑問符を浮かべる。

 

「??」

 

「そりゃあパラグライダーがどんなものか知らないとそうなるか。…………ほら」

 

「ふにゃっ」

 

無防備な脇腹をちょんちょんと突くと何とも可愛らしい反応。

その仕草に思わず香風の頭を撫でた。

 

「…………朝から何やってるのですか、灯火」

 

「ん? ねねも味わってみる………うん、冗談だから。恋もステイ、ステイ。話が進まなくなる」

 

ジトリ、と擬音が付きそうな視線を送るねねと、どこか羨まし気に無言で視線を浴びせてくる恋を宥めながら手を引っ込めた。

昨夜、そして今朝の事も相まって少々ハメが外れかけていたらしいので、今一度気を引き締める。

 

「と、まあこの様に今の香風の服の防御力は皆無だ。戦いにおける防御力っていう意味じゃなくて、防寒っていう意味な。空を飛んでるときは風をモロに受ける。だから………夏場の海に泳ぎに行くんだね、ってツッコミを入れたくなるような装いはダメなのです」

 

この家の三義姉妹の中でぶっちぎりの露出度を誇る香風。

恋は正面から見るとマシに見えるが背後から見たら負けず劣らず肌を露出しており、一番まともなのがねねという現状である。

 

「先ず1つに離陸の際に木の枝にぶつかって怪我をしたり、着陸の際に転倒して怪我をしたりする可能性がある。それを少しでも軽減するために長袖長ズボンの服装にする」

 

「………暑くない?」

 

「良い質問だ、香風。けど、そこは大丈夫。今日は快晴で過ごしやすいけど地上でこの体感ならパラグライダーで空を飛んでいる時はむしろ寒い。その服装だと凍えちゃうかもしれない」

 

ほぼ水着同然の服装で空を飛ぼうという人はいないだろう。

というより飛ぼうとすれば止められる。

 

「同じような理由で靴も違うヤツの方がいいかな。ほら、香風の靴って足の指とか見える靴だろ?」

 

「うん」

 

「空から着陸する時、それなりの速度があるからこける事もあるんだ。その時に香風の靴だと足の爪とかが割れちゃうかもしれない。そういうのを防ぐためにも靴は恋やねねみたいな靴の方がいい」

 

「………なるほど」

 

この後に行うイベントの事前準備とも言える説明なだけあって、真剣に灯火の説明を聞く。

“ぱらぐらいだぁ”なるものが一体どういうモノなのか、その全貌を知り得ない以上一言一句漏らさず頭の中に叩き込んで想像を働かせる。

 

「で、本題だけど」

 

朝餉を食べ終えた灯火がゆっくりと茶を啜る。

何も無意味に無防備な香風の脇腹を擽った訳でも、教師の様に振舞ったワケでも無い。

今言った事は全てこの後に控える一大イベントに必要な事前知識。

 

であれば。

 

「今言った条件に当てはまる服及び靴、あと手袋は持ってたりするか?」

 

 

 

 

恋は出立の準備。

灯火とねねは此度のメインとなる器具の最終チェック。

そして当事者となる香風は─────

 

「…………ない」

 

─────こてん、と部屋の床に横倒れ、力尽きていた。

若干涙目になっているのは見間違いでは無いハズだ。

 

箪笥の中身をひっくり返しては周囲に散らばる服や手拭いの数々。

その凄惨な現場は激闘の末の光景である。

 

そもそも香風の記憶の限りだとこんな日差しがあって暖かい日に着るような長物を購入した覚えはない。

元より服に頓着しない香風は、戦場に出る事も相まって常に動きやすさを一番に考えていた。

 

加えて“汚部屋”から長安の頃の灯火の借り家へ引っ越すタイミングで不要分を捨てていたので、服装も最低限しか保持していなかった次第。

着た服を脱ぎ捨てて放置したらシミになってた(※オブラートな表現)、とは“汚部屋”を掃除した灯火の言である。

 

勿論今の一着だけという訳では無い。

全く同じ服だったり、同じ装いの色違いだったり、似たような服装だったり、寝間着だったりとそこはちゃんと日常生活に支障をきたさない程度に所持している。

 

だが、逆に言うと生活に支障をきたさない程度しか持っていないという意味でもある。

 

この世界には太陽照り付ける暑い日もあれば積雪を観測する寒い日だってある。

それに合わせて長物を着るかいつもの服装を着るか、という使い分けはする。

 

─────それだけである。

故にこうした非日常に適応できる様な服装は………今、この現状が物語っていた。

 

「こうなったら─────」

 

決意した表情で手に持つは現代で言うところのスウェット風の服。

普段着として外に行く用の服ではなく、戦場に赴くための服でもない。

涼州の夜は冷えるという事もあり寝間着の一つとして購入した服だ。

 

灯火が言うにはこんな日でも空を飛べば寒く感じるという。

であればきっとこの服でも問題は無いハズ、なんて思考が巡る。

 

因みにもう一着はもこもこした一枚モノの着ぐるみ風寝間着である。

 

「香風? 服は見つかっ…………」

 

「あ、お兄ちゃん」

 

点検を終えた灯火が香風の様子を見に来て、それは一目瞭然だった。

散乱する衣服の数々、香風が手に持つ服。

 

─────それで、理解が及ばない灯火ではない。

 

確かに空を飛べば風をモロに受けるため、真夏でも涼しく感じるほどの体感となる。

のだが、それは小さな山の頂上以上の高度から飛び立った時の話だ。

 

「香風? 俺の記憶が正しければ、それは寒い時に着る寝間着だった気がするけど?」

 

「………………ダメ?」

 

絶句する灯火と無自覚な上目遣いで手に持った服を見せてくる香風。

その破壊力は普段であれば灯火の思考を骨抜きにするほどの威力を持つが、だからこそ今の灯火には通じなかった。

長物を用意してくれとは伝えたが、限度はある。

 

「………ダメ。熱中症で倒れるか、脱水症状で倒れかねないから却下だ」

 

香風はパラグライダーなるものを灯火からの伝聞でしか知らない。

空を飛べば寒くすら感じる事がある、と伝えたのがまずかった。

初心者がいきなりそんな高度から飛ぶなんてことは出来ないのだ。

あと道具的にも初手でそれを行うのは怖い。

 

やるとすれば先ず精々高さ三十メートルはあるかどうかの急な下り坂、それを駆け降りながら飛行訓練を重ねる事から始めなければならない。

つまりそれは三十メートルの落差がある坂道を飛ぶ度に登らないといけない、という意味でもある。

 

許可したら汗だくになって香風が倒れる、と半ば確信があった。

 

「香風─────服を買いに行こう」

 

「………うん」

 

気落ちする香風を慰める様に優しく頭を撫でる。

 

「気にしない気にしない。どうせ今日の昼用に食材の買い出しにも行く予定だったし出かける準備をしよう、香風。善は急げ、だ」

 

その言葉に素直に頷いた香風だった。

 

 

 

 

 




次話は近日アップします

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