幸せは ここにある
/ 青い鳥 04
(3)
必要な荷物と8人分のお弁当を携えて西へ進む。
大自然。
馬に乗って草原を駆け、林を抜け、野原一面に咲く花の中にある朽ちた廃屋を横目に通り過ぎていく。
はるか遠くに見える連なる背の高い山々、蒼穹の空と白い雲。
瞼を閉じれば聞こえてくる鳥の囀りと馬の足音、肌に感じる風が涼しく心地が良い。
地面の色、草花の色、水の色、雲の色、空の色。
風の音、水の音、動物の声、花の匂い、空気の匂い。
それらが雄大に目の前に広がっている。
「「ヒャッハー♪」」
そんな大自然を前に、馬を駆る蒲公英と蒼が走りださないハズもない。
こんな大草原、馬で駆け巡ってくださいと自然が言っているようなものなのだ。
逆に走らないと馬にも自然にも失礼だ。
「あっ、ちょっと二人とも!勝手に先に行かないでよ!」
鶸が先行しすぎる二人を静止させようと追いかけて、それに悪乗りする蒲公英と蒼。
その口を黙らせようと鶸が追いかけるという状況が出来上がるのに、そう時間はかからなかった。
「おーい! 三人とも、あんまり先に行くなよー………って、もう聞こえてないか」
どんどん先行していく三人の背に長女である翠が声を掛けるも、その声が届くことはない。
「一応三人はねね達の護衛の為に同行していると認識しているのですが、大丈夫でしょうか」
「………大丈夫。恋が守る」
「恋殿が後れを取る様な輩など居るハズがないのです。そうではなく、こう当初の目的というか立場というか………」
確かに名目上三人は護衛という立場であるため、ああして先行しすぎるのは頂けない。
或いは斥候と言えばまだ大丈夫なのだろうか。
どちらにせよ、恋の柔らかな体を背中いっぱいに受けて幸せを感じている今のねねが言っても気が抜けるだけである。
そんな二人を横目に香風は再度真正面に広がる景色を見る。
─────
生まれも育ちも司隷である香風は比較的近場へ出かけた事はあっても、こうして完全な私的な理由でどこかへ遠出をした事はなかった。
公的なモノであれば東西南北に奔走もしたが、
将という立場上、こうして何も考えず自然を感じる心地良い空間も状況も存在はしなかったのだから。
「………カメラがあればな」
「? かめら?」
座る香風の背もたれの役割を(結果として)担っている灯火が零した言葉に反応する。
そりゃあこれだけの至近距離ならば聞き洩らす事も無いだろう。
因みに香風の馬には人の代わりにパラグライダーの荷物が積まれている。
「今見ている風景を一瞬で記憶する媒体………道具のことだよ」
見渡すほどの丘陵は草原で小川も見え、空は青空と白い雲。
絵に描いた様な自然は、何度見ても心に清涼を齎してくれる。
「そんなものがあるんだ」
「いや、そんなものはないよ」
「………??? ないの?」
「何言ってるんだ、ってなるよね。香風は正しいから、気にしなくていいよ」
苦笑する。
カメラなんて道具は存在しない。
今までに積み重なってきた歴史を隅から隅まで探したとしても存在しない。
文字通り現時点で
気にするなと頭を撫でて、清々しいほど雄大な自然へと視線を戻した。
それに釣られる様に香風もまた視線を前へ向ける。
「……………」
此処からもっと東には黄河なんか比じゃないほどの広い海が広がって、その先には島がある。
此処からもっと西には今いる場所よりももっと高い山がいっぱいあって、その先にも世界が続いている。
北に行けば凍える様な大地が、南に行けばずっと温かい場所がある。
以前、涼州から豫洲へ向かう際に灯火から聞いた事を思い出した。
例えば目の前に広がる景色よりもずっと凄くて綺麗で素敵な景色があって。
そこで前みたいにめいっぱい四人で楽しく過ごせたなら─────それは、どんなに素敵で楽しい事だろう。
思わずにはいられない。
いられないが、目的地と指定された場所が近づくにつれて今まで静かだった“期待”という名の胸の高鳴りは大きくなってくる。
「さて、到着だな」
目の前には木が生えていない、急斜面の芝生。
今日、ここで。
─────シャンは、空を飛ぶ。
馬から降り、荷物を地面へ降ろしながら空を見上げる。
「天気は快晴………雲の動きからして上空の風もさほど強くない。風向きは西から東で、東の空に雨雲らしき影もなし、と」
天候に関しては問題無し。
パラグライダーは何よりも天候に左右されるため、雨が降るのは勿論、強風の時だって場合によっては中止。
何かがあれば何も出来ずに地面へ墜落する故に、環境の確認は怠らない。
そしてそれは何も“空”に限った話でもない。
「それじゃ、翠。よろしく頼む」
「わかった。三人とも、ここら一帯を見回るぞ。不審な奴がいればすぐに声をあげる、人喰い動物がいたら追っ払うか討伐だ」
「「「了解」」」
ここは現代と違い、まだまだ人の手が及んでいない大自然。
現代ならば猪と遭遇してしまった、という遭遇率で人喰い虎が目の前に現れたりもする。
安全とは言い難い状況。
加えてこの時代には動物だけでなく治安もいいとは言い難い故に、こうして馬家に警備依頼を申し込んだ。
長女である翠の号令と共に馬家の四名が周囲へ散っていく。
外敵の発見から討伐まで行っている彼女らであれば今回の活動範囲程度の見回りは四人だけも十分。
仮に翠でも厳しい敵が現れたとしてもこの場には“最強”が居る以上、負けは無い。
「ねね、悪いけど荷駄の中身を出してくれ。ここを今回の拠点の場にするから設営を頼む。恋はねねの手伝いを。香風はこっちに来て」
「わかったのです」
「………わかった」
設営と言ったって、軍の遠征で立てる様な立派なテントではない。
少し広めのシートを地面に敷いて、その上に昼食用のお弁当などの荷物を置いていく。
要はピクニックの場所確保のようなモノである。
「はい。これを被って」
手渡されたのは兵が被る兜そのもの。
違う所は凝った意匠などなく、丸みを帯びた、本当に頭の保護だけを目的とした形に整えられているところか。
戦場でも被らない兜をまさかここで被るとは思わなかったが、こうして手渡してくる以上必要なモノと認識して何も言わずに被る。
色合いは香風に合わせた明るい色に塗装しており、内側には分厚い布が敷かれていた。
被ってみれば兜特有の頭にぶつかる硬い感覚はなく、外から軽く小突いてみても分厚い布が頭への衝撃を和らげている。
「どう? 小さいとか頭が痛いとか、そういうのはないよな?」
「うん。大丈夫」
香風の言葉に灯火も頷き、さっそくこれからの予定を伝える。
「最初は今見えている坂の上で、フライト………飛ぶ練習を行う。はっきり言ってこの行為自体に危険はほとんどない」
灯火の視線に釣られてみればかなりの急斜面が見える。
天然の芝生の坂に木は存在しておらず、雪積もる真冬に訪れれば小さなゲレンデにもなりそうな斜面。
「よくこんな場所を見つけましたな。もしや西域との交易の時から場所を選定していたのです?」
設営を終えたねねと恋が会話に入ってきた。
「設営ありがと。香風が空を飛びたいっていう“夢”は
灯火の言葉を聞いた恋がぼんやりと納得する。
涼州西側には何回か赴いたが、毎回毎回通る道は違っていた。
恋としては別にどの道で行こうが灯火と一緒ならば問題無いと考えていたけれど、道を変えていたのはこれが理由だったらしい。
「香風は初心者だから、この練習で一日を掛けるつもり。これは香風の操作技術・状況対応能力とか諸々の経験を積むのと同時、このパラグライダー自体の耐久実験も兼ねてる」
「てっきり山の上まで行くかと思った」
「それは機材の損耗具合と香風の習熟度次第かな」
「ほんと………? なら、頑張って上達する」
「とは言ってもこの坂なら上の方からの練習でもちょっとした滑空は出来ると思うから、上達は二番目として先ずは楽しんでね」
「うん!」
いい笑顔で返事をする香風。
有史以来人が空を飛ぶという前例は存在しておらず、現時点において空想の産物状態。
もし“飛行”が実現したのであればまさしく“大偉業”。
個人的な夢の第一歩として、そんな大偉業の瞬間の当事者として、胸が躍らない訳が無い。
「前置きはそれくらいにして、そろそろ本命をお披露目してはどうです?」
「だな」
そしてそれはねねもまた同様だ。
香風の手前静かに見ているが、内心はこれからの事に胸を期待で膨らませている。
「よし。それじゃあ、お待ちかねのパラグライダーのお披露目だ」
荷物の一つ、大きな布袋の中からパラグライダーの本体であるキャノピーを取り出す。
ねねは灯火と共に点検をしているのでその全貌は知っているし、恋はその耐久実験を手伝ったことがあるのでやはり知っている。
ただ一人、香風だけが当日のお楽しみということで未だに知らないその姿。
袋の口を開けると白い生地が見えて、それをゆっくり慎重に取り出して地面に広げていく。
最初はただの白い生地で、広げていくにつれて青い線が描かれていく。
端から端まで、香風よりも何倍もの大きさの翼を広げてみると。
「おぉ………」
そこに、一羽の鳥が描かれていた。
翼を大きく広げ羽搏いている、青を基調とした鳥。
大空に舞う鳥を下から描いた姿はどこにでもある構図でありながら、羽の先に至るほど白の生地に溶け込んでいく様に丁寧に装飾された“翼”。
その全貌が明らかになった。
「鳥を青色で描いてるのは、何か理由があるのです? 青空を意識しているとか」
「確かに青空を意識したものでもあるけど………」
「けど?」
一瞬三人から視線を外して思惟したが、今更だと息を吐いた。
「…………“幸せの青い鳥”っていう個人的な思想も入ってる」
「“幸せの青い鳥”、ですか?」
ねねが呟くが、その声色には疑問がありありと見て取れる。
隣を見れば香風も─────
「“幸せ”………。今、シャンは幸せだけどこれからもっと幸せになる」
─────特に気にしてなかった。
というより目がキラキラと輝いてキャノピーに釘付けだった。
いつか見た光景が、香風の中に蘇る。
空を飛びたいと、ただ漠然と話した時に見上げた空。
その先に悠然と羽搏いていた鳥。
今までのことを思い出しこれからのことに思いを馳せている香風からすれば、灯火の言った“幸せの青い鳥”はまさしくその通りのこと。
それがどこからの情報だとか気にする理由などなく、例えそれが灯火が作り出した独自のモノであったとしても今の香風は素直に受け止めるだろう。
「ま、気になるねねの為に言っておくとそういう童話があってそこから案を拝借してきた、ってだけだから。気にしないでね」
「………まあ、追及するつもりもないです」
灯火だし、なんて小さく呟くねねであった。
「で………恋、そこの荷駄をこっちに」
「………わかった」
いつの間にか灯火の隣で立っていた恋に声をかけて大きめの、しかし軽い黒い大きな塊を香風の前に置いた。
よく見れば人が背負える様な作りになっているそれは、パラグライダーを構成する機具で“ハーネス”と呼ばれるもの。
「着陸時に安全に着陸するための緩衝材であり、空を飛ぶときの椅子にもなるもの。これを背負って実際に飛ぶことになる」
「おぉー………!」
「香風殿がさっきから同じ言葉しか言ってないのです」
「………目がきらきらしてる」
さっきの言葉に反応はしているので、灯火の声が聞こえていない訳では無いのは分かる。
ただ純粋に、この後のことを考えた時にワクワクやらドキドキやらが限界突破して一時的に言語化能力が低下しているのだろう。
「もう待ちきれない、って感じだな。じゃあ早速準備をしよう」
「うん!」
喜ばせるために色々と準備をしてきた灯火からすれば、想像を超える反応を見せてくれた香風がより一層可愛く見える。
その笑顔を曇らせない為にも、今日一日は付きっ切りで相手をしようと誓うのだった。
◆
「なんだ、もう登ったのか。せっかくならその“ぱらぐらいだぁ”とやらを見てみたかったんだけど」
周囲の安全確認を終えた翠らが拠点へと戻ってきた。
その時には既に香風と灯火は坂の上へと移動しており、翠らはパラグライダーの全貌を知る事が出来なかった。
とは言え、それも時間の問題だ。
「慌てなくともすぐに見れるのです。取り敢えず座って待っていてはどうです? 灯火が用意した茶請けもありますぞ」
「いや、遠慮しておく。一応あたしらは警備の為に雇われたからな。何かあった時にすぐに動ける様に─────」
「おまえの妹は普通に茶を啜っているのですが」
「─────っておい、コラ! 蒼、蒲公英!何寛いでるんだよ!」
長女である翠の言葉を後目に拠点に座り茶を啜る蒼と蒲公英。
恋も灯火お手製の茶請けの中でも、特に好きな菓子を美味しそうに頬張っている。
「お姉様はお茶も茶請けも要らないの? こんなに美味しいのに? なら蒲公英が貰っちゃうけど、いい?」
「よくない!」
灯火の茶請けが美味いのは、一度恋の家に寄った時に口にしたので知っている。
自分の分までちゃんと用意されているのであれば、それをみすみす蒲公英にあげてやる道理などないのだ。
◆
そんな会話から少し離れた場所に一式を身に纏った香風が立っていた。
頭を守る兜、自分の身体と同じくらいの大きさだけれど中身がクッションなので重くないハーネス、そしてその後ろの地面に広げられた“翼”。
まさに見た目だけで言えば文句なしの装備である。
「それじゃ先ずは立ち上げから。当然だけど翼が地面についてたら飛ぶ事は出来ないから、翼を上に持ち上げる事から覚えよう」
「わかった。どうしたらいい?」
はやる気持ちを落ち着かせてしっかりと耳を澄ますも、瞳の中はキラキラと輝き放っている。
香風にとって何もかもが未知であり、何もかもが初めての体験。
しかもそれが他ならぬ空を飛ぶものとあれば、無理もないだろう。
「胸を張って前に走る。腕は肘から先を上にして、今握ってるのは離さない。大事なのは胸を張って前へ進むこと」
「………それだけでいいの?」
「凧上げだって難しい事はしなかっただろ? パラグライダーもややこしい手順なんてないんだよ」
凧上げの時ほど簡単ではないし感覚も異なるが、だからと言って複雑怪奇な手順な訳もない。
灯火の言葉に頷いた香風が、言われた通り前へ駆ける。
………が。
「うっ!? す、進まないぃぃ………!」
駆けだして数歩………まで進んだ直後、後ろへ物凄い力で引っ張られる様な感覚が香風を襲う。
それは現在進行形で“翼”であるキャノピーに空気を送り込んでいる事で発生している抵抗によるものなのだが、当然香風はそんなことは知らない。
下手をすればそのまま後ろに倒れそうな力、前に進もうとして一歩も踏み出せなくなるという経験は今まで体験した事のない感覚だ。
「っ………やぁっ!」
「あっ」
だが、そこは武人たる香風。
氣を身体に巡らせ、大きく一歩前進したと同時に─────
「…………あれ?」
先ほどまであった後ろへの抵抗がなくなり、同時に視界を遮る様に白い布が香風の視界に落ちてきた。
なんてこともなく、ただ頭上に上がったキャノピーがそのまま落ちてきただけである。
「香風。気合を入れるのはいいけど、勢いで両腕が下に下がったぞ」
「あ…………」
氣を使えない灯火ではあまりに想定外の行動を仕出かした香風に、ただただ苦笑するしかなかった。
だが興味を持ったものであれば抜群の記憶能力を有する香風ならば、数回やるだけでコツは掴めるハズだろう。
◆
その光景を、恋たちははっきりと見た。
「………“翼”、浮いてましたね」
鶸の言葉に一同頷く。
翠らが想像していたよりも随分と大きな“翼”が重力に逆らって香風の頭上に展開されていた。
灯火が聞けば驚くほどの事でもないよ、と言うだろう。
だが空気力学はおろか流体力学もない今の時代、あれほど巨大な布の翼が一時的にでも空中に浮いたというのは翠らをして驚愕に値する光景である。
「………これってもしかして、本当に飛んじゃう?」
「おい、お花。灯火がことこの件に関して嘘を言うと思うのですか?」
じとり、と睨む。
睡眠時間を削って服屋に入り浸り、製作図を元に“翼”の雛型を作り上げていたことをねねは知っている。
その作り上げた雛型を耐久試験に持って行って実験をして、ダメになったらまた作り直しをしていたことを恋は知っている。
政務の傍ら、気付かれない様に節約しながら浮いたお金と時間を使って、香風の夢の為に“ぱらぐらいだぁ計画”の陣頭指揮を執っていた事を二人は知っている。
そんな彼の行動が嘘である筈が無いのだ。
「お花って蒲公英のこと!? ………いやいや、別に悪気があったわけじゃないし、見る為に来た訳だけどさ。ちょっと現実に追いついていないというか」
“空を飛ぶ”。
翠らは想像すらしないことを本気で夢見た少女と、それを実現させる術を持つ人間。
夢を鼻で笑うような事はしないしするつもりもなかったが、それでも心のどこかで“人は空を飛べない”という考えはあった。
「言いたい事はわからなくもないのです。─────が、甘い。その“現実”をぶち壊すのが灯火なのですよ。だから間違っても“妖術”の類なんて勘違いはしないように!」
「………もしかして、今回人を集めなかった理由って?」
蒼の疑問にねねが頷く。
「“空を飛ぶ”というのは歴史的大偉業であることは間違いないのです。ですが、それがすんなりと受け止められるかはまた別の話。灯火が言うには最悪何も知らない人間が大騒ぎをして“ぱらぐらいだぁ”を壊してしまうかもしれないと危惧していたのです」
例えばモンゴルフィエ兄弟。
この兄弟が作り上げた熱気球は、制御を失って空を漂い落ちてきた。
そこに居合わせた住人が恐れをなしてその熱気球を破壊してしまったという歴史がある。
無論、今から約千五百年後の未来の出来事だ。
「………なんか不思議な奴だとは思ってたけど。アイツ、何が見えてるんだ?」
翠の疑問も至極当たり前のこと。
ライト兄弟は千九百年代、モンゴルフィエ兄弟ですら千七百八十年代。
千年以上先の常識を知れ、と言う方が無茶な注文だ。
仮に翠に空を飛ぶ方法を提案してくれと頼んでも、せいぜい鳥を模倣した何か程度しかないだろう。
馬鹿にしてはいない。
◆
「香風が今握っているのは“フロントコード”と“ブレークコード”っていう二種類だ。その内、黒い布で束ねてる方が“フロントコード”で“翼”に空気を送って頭上に引っ張り上げるためのもの。だから完全に立ち上がった後はこのコードは手放さないといけない」
講義は続く。
手に握った二種類のコードの説明を真剣に聴く。
先ほどのは凧揚げの時に受けた風の抵抗が物凄く大きくなったモノ、という認識。
実際その通りだと褒めてくれた。
けれど、それを言うならば香風こそ灯火には感謝しかない。
仮に凧あげを経験しなかったら、そもそも“風の力”とはどんなものなのか、という知識も認識もなかったのだから。
「“翼”が立ち上がったかどうかは感覚として分からないだろうから最初は放すように指示を出す。………で、もう一つの“ブレークコード”がパラグライダーを操作する紐の束。右手に持った“ブレークコード”を下に下げればパラグライダーは右に旋回する。左手を下げれば左に、両手を下げれば減速だ。これに関してはまだ操作する必要はないから覚えておくだけ覚えてて。………ここまでで質問は?」
「大丈夫。覚えた」
力強く頷いて返事をする。
視線は前に、握る手には力が籠る。
灯火と視線を合わせると同時に前進する。
数歩目に襲ってくる風の抵抗。
それが“翼”………キャノピーに空気を送り込んで頭上へ展開している証左。
一度目は初めての感覚に戸惑い“氣”を使ったが、二度目にそれは不要。
腕は下げない、常に前へ進もうと姿勢を保つ。
言われた事を頭の中で再生して実践する。
「放して!」
体への負荷が軽くなり始めたところに灯火の合図。
“ふろんとこぉど”を手放して、重く進む事すら困難だったからだはまた一歩二歩と前へ進み始める。
これが初歩の初歩、立ち上げ。
見上げた頭上には視界いっぱいに“翼”が広がっている。
「─────すごい」
時間にすればほとんど一瞬だった。
けれど、それでも確かに自分の上で大きな“青い鳥”が空を飛んでいる姿を見る事が出来た。
「これが離陸への第一歩。言ってみれば鳥が空へ飛ぶために翼を広げて羽搏こうとしている様なモノ。さ、もう数回やってみよう」
「わかった!」
飛ぶための翼、描かれた“青い鳥”。
それを見るだけで、いつかの日の思い出が遠く映った。
数度同様の訓練を行い、その感覚を身に覚えさせた香風は次なるステップへと進む。
そのステップこそが大本命でもある。
「一つは前に足を動かし続けること、もう一つは上に跳ばないこと」
「? 跳んじゃダメ?」
「ダメ。跳ぶと逆に飛べなくなるから、ひたすら前に走り続ける。俺も香風と並走するから香風は前だけを見てて」
坂の下には念のために馬家の四人と恋、ねねが待機している。
ただ駆け降りるだけなので危険は無いだろうが、万が一というヤツだ。
「とにかく恋たちの所に向かって走ればいい?」
「そう。合図をしたら“フロントコード”を放してね」
「わかった」
灯火が離れたのを確認して前進する。数歩後の風の抵抗ももう慣れたモノ。
灯火の合図でコードを放して下り坂を駆け降りる。
「っ?」
股下に通した固定帯が香風を上に締め付ける。
それでも足を止めず坂を駆け降りていく。
駆け降りて、駆け降りて。
足が、地面に届かなくなった。
「………え?」
咄嗟に自分の足を見てみると、地面はすぐそこにある。
足もちゃんと前に進もうと動いている。
単純な話。
香風の身長よりも高い位置に香風が居れば香風の足は地面に届かない。
「浮いて─────」
「腕、下げて香風!」
「っ!」
浮いている、という事実はすぐさま把握したけれど、それに感慨深く耽る余裕は無かった。
飛んで行かないように帯を掴みながら並走している灯火の声。
腕を下げるとすぐさま足に地面がついて、気が付いた時には香風は既に坂を下りきっていた。
『………………』
それを間近で見ていた恋とねねも、そして馬家の四人も。
何よりパラグライダーを身に着けてたった今、坂を駆け降りてきた香風本人さえも、誰も言葉を発せなかった。
灯火は単純に息が上がって喋れないだけだったが。
高さにすれば人一人分の高さすらなかっただろう。
それこそ香風や恋が全力でジャンプした方が高いハズだ。
大よそ飛行と呼べるものではない。遠目から見たら浮いている事を視認できたかどうかも怪しいぐらいの高さしかなかった。
それでも。
香風は地面すれすれに宙に浮いて、宙を移動したという事実は変わらない。
「凄いぞ、香風! ほんの少しだけど浮いてたぞ!」
「ホントホント! ねぇねぇ、どんな感覚だった!?」
「もっと高いところからなら飛べたりする!?」
「え? えっと………」
堰を切ったように三人が香風に詰め寄ってくる。
興奮気味な翠、蒲公英、蒼。
唯一姉妹の中で一番冷静な鶸も、まるで狐に包まれたかのような表情で先ほどの光景を思い返していた。
「ねねさんは確かあれの製作のお手伝いをされていたんですよね?」
「………してはいたのですが、こうして身に着けて人が浮くというのは今回が初めて見るのです」
周りがお祭り状態になっても当の本人である香風は未だに現実味が無い。
何せとにかく前にがむしゃらに前に走り続けた。
そんな中で突然足が地面につかなくなった、とあれば『浮いたという事実はあっても浮いたという現実味は無い』というのはあり得る話だ。
或いはもっと高く、もっと長くその感覚があれば、きっと周囲が盛り上がっている以上の熱が香風にも訪れるのだろう。
けれど、残念ながら先ほどのは短すぎた。
「………よくわからなかった?」
「よくわからなかった。その…………駆け降りるのに必死で、気が付いたら少しだけ浮いてた」
「まあ高く行き過ぎない様に掴んでたからな。けど………うん、次はきっと大丈夫だ」
息を整えた灯火が会話に入ってくる。
こけない様に気を付けながら天然の坂道を全力で駆け降りるのは案外大変なのだ。
「恋」
「………?」
「赤兎馬であの坂は駆け降りれるか?」
「………平気」
「恋の後ろに俺が乗っても?」
灯火の言葉を聞いて考えを巡らす。
人二人分の重量と、あの急な坂道。
赤兎馬であれば二人分の重量でも平気だろうが、あの坂道を下るとなると灯火がしっかり恋に掴まっていないと危ないだろう。
「平気。………ただ、恋にちゃんと掴まってて」
「わかった、俺も落馬はしたくないからね。じゃあ次は一緒に上に行こう」
灯火の了承の言葉にほんのり笑顔になる。
頼まれたからというのもあるし、落馬しないようにという理由もある。
けれど一番の理由は掴まる事による密着、体の触れ合い。
─────昨夜の出来事からちょっぴり賢しくなった恋である。
「灯火、ねねはどうすれば?」
「ねねはここら辺に荷物として持ってきた古着やら古い布団やらをここらに敷き詰めておいて。目印と同時に緩衝材にする。翠たちもねねを手伝ってくれないか?」
「ああ、いいぜ」
「蒼たちのお馬さん達にも載せてた荷物ってこれに使うの?」
「………天気がいいからって流石にここで布団を敷いて寝るつもりはないぞ?」
「………えへ♪」
「………なんか、妹がすみません」
ねねと翠らに拠点付近に残ってもらい、香風・灯火・恋は急斜面を登っていく。
パラグライダーの機具を装着したままの香風一人では、“翼”であるキャノピーを地面にこすらずに持っていくのは難しいので灯火も協力して持ち上げている。
先ほどよりもずっと高い位置に陣取り、見下ろす。
拠点付近一帯には荷物の大半を占めていた緩衝材が敷き詰められていた。
「さて、香風。さっきは一瞬すぎてわからなかったかもしれないけど、この高さなら確実に“空を飛ぶ”」
「………!うん」
「操縦方法は覚えてるよな? 右手を下げれば右へ曲がり、左手を下げれば左へ曲がる。両手を下げれば減速だ」
「大丈夫、覚えてる」
灯火の言葉一つ一つを噛み締めて頷く。
その表情がいつもとは違う、戦場に赴く様な真剣な眼差しに香風もまた気持ちを引き締める。
「ここから目的地であるねねのいる拠点まで。ここであれば間違って大きく左右に動くこともないし、上昇気流に捕まって急上昇することもない」
「? じょーしょーきりゅう?」
「………うん、まあ言うなれば空に向かって吹きあがる風のことだよ。今いる場所よりも空高く飛ぼうとするなら、この風をうまく捉える必要があるんだ」
「ここより、高く………?」
そう言って空を見上げる。
白い雲がゆっくりと流れる青い空。
そんな空に向かって吹く風があるなんて、初めて知った。
「いい事だけじゃなくて怖い事もあるんだけど、それはまた今度。やり方はさっきと同じ、香風はただ前を見て走る。“翼”が立ち上がった時は声をかけるから、準備して」
「わかった」
色のついた糸が絡まない様に整えて、フロントコードとブレークコードを握り、先ほどよりも更に下になった終点を見下ろす。
逸る気持ち、胸の高鳴りを落ち着かせるように深呼吸。
タイミングは香風次第。
瞼を一度強く閉じ、見開いて前傾姿勢。
胸を張り、前を見て足を進める。
数歩だけ強制的に足踏みさせられる感覚ももう慣れた。
灯火の声を聞いてフロントコードを手放し更に前へ。
一歩、二歩と足を前に出したところで走る力とは別の、上に引き上げられる様な感覚。
「─────いってらっしゃい、香風」
それが、離陸直前に香風の耳に届いた灯火の声だった。
耳に届く風切り音に、地面を蹴る音はない。
「────────────────────」
視点は上に、視線は前に、バタバタとみっともなく動かしていた足も止まる。
明らかについさっきまで見ていた景色とは異なる風景。
ほんの少し視点が上にズレるだけで、見え方がこうも違う。
空と呼ぶには少々低すぎて、鳥が羽搏く高さからは程遠い。
それでも。
「────────────────────飛んでる」
胸に飛び込んでくる凄まじい感情の暴力に抵抗する気も起きず、それどころか一周回って何も言えなくなった。
今は、この瞬間だけは、一秒でも永く、この感覚を身体に、記憶に焼き付ける。
そこに嬉し涙なんて要らない。必要ならそれは後で付け足せばいい。
「─────飛んでる!!!」
頬が緩むのが止まらない、胸に広がる感動を表す言葉が見つからない。
「香風~!」
「香風殿~!」
進行方向、視点を下にずらせば着陸地点にいるねね達が遠くからでも分かるくらいに大喜びしてるのがわかる。
見守っていた者達の歓声が耳に届いて、余計に嬉しさが増していく。
操縦桿を握っているため手を振り返すのができないことが、いっそもどかしく感じるくらいには心が躍っている。
だからせめて精一杯、今の気持ちを声で伝えよう。
「みんなー!! 飛んでるよー!!」
全身に風を受けて、足を動かさずに景色が流れていく。
落下とは違う感覚に新鮮さを感じながら、人よりも高い視点から景色を望む。
そのまま彼方まで続く蒼穹に飛んでいけそうに感じるほど、香風の心の中にまで風が駆け抜けていた。
◆
着陸地点へ滑る様に着陸した香風に駆け寄るねねや翠ら。
女三人寄れば姦しいなんて言葉があるが、その倍の六人が集まってその全員が興奮気味となればもう収集が付かない。
ねねが香風の手を掴んでお互い喜びを分かち合う様に手を振り、囲う様に馬家の面々が思い思いの言葉をかけている。
香風の夢を叶えるために色々手伝っていたので、その分ねねの喜びも一入だろう。
飛行時間はきっと十秒もなかった。
それでも歴史上まだ誰もが成していない大偉業、“飛行”は今ここに誕生し、成功した。
それを少し離れたところで赤兎馬から降りた恋と灯火が見守っている。
万が一の時を考えて恋に指示して香風の真下に位置する様に赤兎馬を操って貰っていたが、無事何事もなくフライト出来た事に一息つく。
「………香風も、ねねも、笑ってる」
灯火の隣に立つ恋が、目の前の光景を見て呟いた。
「そういう恋も笑ってる」
「…………そう?」
「そう。けど、それは変でも何でもない。いいことなんだよ」
その言葉にきょとんとした表情になるも、またすぐに柔らかな表情に戻る。
「………灯火は─────」
「おにいちゃーん!!」
「ごふぅ!?」
…………恋が何かを言う前に、灯火の腹部に何かが突っ込んできた。
いや、何が飛び込んできたかなんて言う必要も無いくらいにははっきりしているのだが。
尻もちをついてそのまま背中から地面へ倒れる。
一応受け身は取ったので後頭部が地面に激突するということは免れた。
一瞬『陳宮キック』を幻想するほどの勢いは、見たことが無いほどテンションが高いのが理由なんだろう。
「………どうした、香風?」
もう香風が今まで見たことが無いくらいにハイテンションなのはもう見なくても分かる。
視界の奥で香風が抱き着いてきた事に目を輝かせている人間がいるのを見つけたが努めて意識から外す。
が、そんな灯火の視界制御もやる意味などなかった。
胸にくっついていた香風が顔をあげ─────
「シャン、空を飛んだっ!!」
─────咲かせた最高の笑顔、それに視線が釘付けされたのだから。
「……………灯火も、笑った」
◆
灯火と鶸お手製の弁当、馬家四人と恋&赤兎馬による競馬、そしてパラグライダー。
楽しい事をしていると時間の流れが早く感じるのは今も昔も、そしてきっと未来でも変わらない。
日は傾き、空は茜色に染まる。
山頂からのフライトは香風が遠慮した。
灯火からすれば今やっている坂からのフライトはあくまでも初心者の練習場の様な物で、パラグライダーの醍醐味は山の上からのフライトだ。
機材にも問題はなさそうで、香風の上達っぷりも相まって望むのであれば最後に一度だけやるかどうかを確認したが………
『もっと高いところは、お兄ちゃんと一緒に飛びたい』
香風用の機材を整えるだけで精一杯だったので、灯火用の機材が無い現状では一緒に飛ぶ事は出来ない。
香風がそういうのであれば、灯火が無理強いするわけにはいかない。
そもそも現代の知識を有する灯火からすれば、なるほど今日は“初心者の練習場”だったのかもしれない。
だが、そもそも歴史上未だ誰も飛行を成しえていない現在においては、人が重力に逆らって空に飛ぶ、という行為自体世紀のスクープ。
坂の上から空中へ飛び出せること自体が奇跡である。
「見えてきたよ、香風」
優しい声と共に、一日の余韻に浸っていた香風は瞼を開く。
瞳に映る空は蒼色から茜色へ変わり、黄昏へと変わっていく。
目の前に見えた帰るべき街の城壁が見え、改めて今日という一日が忘れられない一日になったと実感する。
翠らとは実験場となったあの場所で別れた。
香風だけでなく、警備員として呼ばれた彼女らにとっても忘れられない一日になっただろう。
それこそ翠が本当に警備以外何もしなくていいのか? と尋ねてしまうくらいには貴重な、家で待つ母親への土産話には困らないレベルの一日だったのだから。
余談だが、家に帰ってきた娘たちが思い思いに話す表情とその内容を聞いた母親である馬騰。
『婿に迎えるか嫁に行け』と、割と大真面目に発言したとかしなかったとか。
酒の勢いで言った前回とはえらい違いである。
さもありなん、歴史上
文武両道、性格良し、容姿良し(そもそも
これを見逃す馬鹿はいない、少なくとも馬騰はそう考えた上での発言であった。
「お兄ちゃん、今日はありがとう」
「どういたしてまして」
優しく頭を撫でられ、気持ちよさそうにされるがまま。
すぐ隣、恋のふくよかな胸へ靠れ赤兎馬に揺られて幸福を感じていたねねがそんな二人を見て、その視線に気づいた恋が同じようにねねの頭を撫でていた。
「けど、本当によかったのか? 次となるといつになるか分からないぞ?」
「いい。いつになったとしても………シャンは、お兄ちゃんと一緒に飛びたい」
「………そっか」
ささやかな願い。
想像しただけで胸が弾む。
/
失って久しい、輝かしい温かな
「これからきっとゴタゴタしてくるだろうけど………約束だ、香風。次は、もっと高いところから一緒に空を飛ぼう」
「うん!」
「じゃ、小指を出して?」
「小指?」
「そ。こうして小指同士を組んで─────」
今こうして優しく抱きしめてくれている人、大切な人と一緒に同じ夢を見たい。
/
その
「お兄ちゃん」
「香風」
『これからもよろしくね(な)』
─────これからの未来に、想いを馳せる。
あとがき
筆者はパラグライダー未経験者。
構想当初はそのまま書き綴っていたのですが
『おまえ、香風の夢を叶える手段として採用したパラグライダーを体験しないまま書くとか、香風に対する侮辱だぞ』
という心の声が聞こえてきました。
理論的かどうかはさておき、良い機会だということで
この小説のためだけにパラグライダーを体験しに京都へ。
山の頂上からのタンデムフライトでは年甲斐もなく、
キャラでもないのに飛び立ったと同時に「おぉぉぉっ……!!」と大興奮。
語彙力も低下してました(笑)。
インストラクターの方にそれとなく尋ねたところ、
初心者でも百メートル?程度の急斜面からの練習を三十回くらいすれば、標高四百メートル程度の山頂からならば一人でもフライトできるんだとか。
実際初めての私でも三十メートル程度の高さの斜面から、
三回ほどの練習で数メートルの滑空が出来るくらいには簡単に浮きました。
あと一人でパラグライダーの体験に来る人は珍しいとも。
「二次小説のために体験しにきました」なんて言えるはずもなく笑顔で誤魔化しました。
(友人を誘ってみたのですが高所恐怖症とのことで連れていくことは叶わず)
本話はそんな筆者の体験を元に投稿致しました。
パラグライダーを嗜んでいる方々からすれば物申す点があるかもしれませんが、そこは温かい目で見逃してください。
兎にも角にも、良い経験になったかと。
お金と距離の問題もありますが、余裕が出来たらまたやってみたいと思っています。
パラグライダーを体験してみようと思い立たせてくれた香風に感謝。
そしてここまで読んでくださった読者皆様に感謝の気持ちを申し上げます。
ありがとうございます。
次話もまた読者皆様が読んでくれることを願いつつ。
今回は、この辺りで筆を置かせて頂きます。