-- 前日譚
鈴虫の音色が響く。
微かな風が吹く今宵は涼しいというには少しばかり寒すぎた。
雲一つない空だがそこに浮かぶハズの月はなく、俗に言う新月の夜はいつもよりも一層に闇夜を濃くしていた。
天空まで届くほどの明かりなど有さない今の文明は、精々が蝋や薪でくべた炎で得た明かりだけ。
良いところでは油を使っているが、ほとんどは木材による明かりだろう。
日の出と共に一日が始まり日の入りと共に一日が終わる、それは電気という文明が開化する時まで変わらない不変の事柄。
仮に今照らしている炎を吹いて消せばあっという間に闇一色。
そんな夜、宮中にある一室にて告げられた一つの情報。
─────江賊の討伐遠征に失敗した。
月と詠にその情報を齎したのは十常侍の一人だった。
「何進殿が………?」
「左様。これは間違いのない事実だ」
相手は男で、此方は女二人。
窓から差し込む明かりはなく、逆に部屋の明かりを外へ漏らさぬ様に気を配る徹底ぶり。
親友であり一番の臣下でもあると自負している詠が、この状況に対して最大限の警戒をするのも無理はなかった。
無論、相手が低俗低能な男ではないことは理解している。
漢王朝を腐敗させつつも長年君臨してきた十常侍の一人、軽薄な行動は取らないだろう。
反吐が出る様な信用の仕方だが、しかしコトが終わるまでは一瞬たりとも気を抜くつもりはない。
何かがあれば現在まで積み重ねている全てを無にしても月を守り抜くと密かに意気込む詠である。
「しかし、私達には討伐に関して何の連絡も………」
「知れたことよ。奴はな、黄巾の乱の失態を江賊討伐で補おうとしたのだ」
「失態………?」
詠の内心の決意とは裏腹に月と老齢の男との会話は続く。
月が男の言葉に眉を顰めると、相手は呵々と嗤いながら月の表情に得心がいった。
「黄巾の乱は間違いなく終息した。他ならぬ董仲穎、貴殿らの活躍によってな。下手な小細工なく正面から叩き潰す豪腕、それでいて多方面同時攻略。地方軍閥を協力させての鎮圧。見事と言わず是を何と言うべきか」
「ありがとうございます」
「良い。だがな忘れてはなるまい。貴殿らは以前から向こうと此方を行き来していたが、元々涼州の地を治めていた者。それを今回呼び寄せ、官軍として編入した。………その理由、原因は貴殿らも知っていよう?」
「………黄巾の賊との戦に敗走、でしょうか」
詠の言葉に頷きで返す老齢の男。
「仮にも主上様を御守りする軍であるにも関わらず、賊如きに敗走する。言うまでも無く軍の指揮者は大将軍である何進だ。“我ら”が其方らを呼ばなければどうなっていた事か、考えたくもない。以前から奴は能が無いとは思っていたが、ここまでとは思わなんだ」
「……………」
月と詠は押し黙る。
男の言葉の節々に見えるのは“大将軍”何進への怒り………ではなく侮蔑、そして嘲笑だった。
「結果として乱は終息したが、それは我らが
「では、今回私達に江賊討伐の声が掛からなかったのは」
「奴としては証明したかったのだろう。だが、実際は先ほど聞いた通りの顛末よ。江賊全てと全面衝突になった訳でもなく、気付かれた時には接敵され、将を易々と殺され、兵は無様に逃げ帰り、あろう事か楼船を拿捕されてしまった。自らの手で己の無能を証明してしまったのだ」
それは軍師である詠も頭を抱えざるを得ない情報だった。
楼船は言わば現代でいうところの戦艦クラスの大型船であり、頑丈な装甲と大きな矢倉を多数備えている。
─────それを江賊に拿捕されてしまった。
現代とは違いこの時代の船は木製ではあるが、だからといって軽いものでは決してない。
造船にはそれなり以上の資材、そして金を要する。
それを破壊されたならばまだしも、拿捕されたとあれば軍事的な意味でも財政的な意味でも全く以て“最悪”の一言に尽きた。
そして率いていた将は殺されてしまっている以上、この落とし前をどうするのかと何進に問いたくなるのも一軍師として理解出来る話ではある。
「しばらく荒れる事は容易に想像がつくが故に、二人は誼もありこの事を話した。中郎将ということで奴と会う事も多かろう。何かあれば言うがよい。先の戦果もある。ある程度は力になろうぞ」
「………ありがとうございます」
「無論、この事はこの部屋に来た事含めて他言無用だ」
そう言って机の上に無造作に置かれたのは麻袋。
置かれた際の音で二人はすぐにその中身が何なのかを理解した。
「どうした? 要らんのか?」
「お気持ちだけで十分です。何事においても、そういう類の物は受け取らないと決めておりますので」
「………物好きな奴め」
先ほどまで話を聞いていた時とは打って変わり、凛とした表情で断わりを入れる月。
表情だけでなく雰囲気までもが様変わりした姿に、しかして老齢の男は嗤いながら麻袋を懐へ戻した。
「物好きと言えば、確か仲穎殿の配下にはあの“聖人”と呼ばれる男が居たな」
「………!」
「………ご存知なのですか?」
「辺境の地であれば兎も角、長安は旧都、この洛陽のすぐ隣だ。ましてや無償で塾擬きや食の配給をしていれば話の一つくらい聞こえてくる。“都の英雄”と懇意にしている、なんて話も聞こえてきたくらいだ」
黄巾の乱が本格化する前、都周辺に巣食っていた賊共を一掃せしめたという事は男も知っている。
あれはあれで鬱陶しいとも感じていたので、一掃してくれたことには一定の評価は与えていた。
「だが、以前奴が提案してきた“がっこう”とやらの話が出てきた時には耳を疑ったぞ」
あくまで評価であって、関心も感心もなかった。
が、自分達の地位を脅かしかねない案を出してきた、と聞いたからには目を通さない訳にはいかない。
数年前、この洛陽から排除した“清流派”の生き残りかとも思ったからだ。
そうして調べてみれば………“清流派”とは全くの無縁であった。
「………」
男の言葉を、月は表情を変えずに静かに聞く。
だが、その隣で同じように聞いている詠の心中は穏やかでは無かった。
(よりによって……! 月、お願いだから変な事起こさないでね……)
つい先ほどまで自分が考えていた事を棚に上げて、心の中で親友に祈る。
灯火の言う“がっこう”という案は、月が大変気に入っていた政治計画なのだ。
短期的には効果は薄いものの中長期で見れば確実に国民の学が上がり、統治や軍略は勿論、日々の生活の質だって高められる。
解決すべき問題も多いが、国を良くしていくという点では必要不可欠なモノとすら、今の月は考えていた。
だからこそ西域との貿易で利益を出しつつ資金を貯めて“学校”の前身となる機関の準備も行っていたのだから。
「学問好きにとっては良いのかもしれんな。提案書にあった道理も理解でき、その効果も理解できる」
「………では、なぜ?」
「単純。民に学を与える事は危険なのだ」
だが。
それは視点が変われば意見も変わる。
「学があれば頭が回る。頭が回れば良からぬことを考える輩も増える。かつての始皇帝が行った“焚書坑儒”の様な事をするつもりはないが、何事にも限度はある。由らしむべし知らしむべからずというものだ」
(単純に今自分達がやっていることを知られたくないだけでしょうが!)
心の中で詠が目の前の男に吐き捨てる。勿論表情にはおくびにも出さない。
ここで反論しようものならどうなるかわかったものではない。
その思いが通じたのか、月もただ黙って聞いているだけだった。
「結局案は案のままで終わり、そうしない内に長安から消え失せた。どこに行ったのかも興味はなかったが………なるほど董仲穎殿の下に居たか。思い返せばあの男もまた賂の受け取りを拒否していたと聞く。そういう意味では物好き同士、一緒になるのも道理よな」
「………少なくとも彼は私が統治していた街、ひいてはこの漢を想って私に仕えてくれています。そこに間違いはありません」
「だろうな。宮中で見かける事があったし、実際話した奴から聞いた限りでも、邪な考えは持っていないようだ」
月の確固たる意思を宿す瞳を見ても、男は然したる興味もない。
目の前の少女と論を交わすつもりがないのだから。
「頭は回る様だが全てを見てはいない。この国の頂点は言うまでも無く主上様だが、残念ながらその主上様をよく思わない人間がいるのも事実。そういう輩に知恵が回ればどうなるか、仲穎殿も理解できよう?」
「………はい。それは私も理解しています」
「話が早くてよい。幸いなことに奴自身には何進に見られる様な野心はない。それは長安での役職歴を見る限り事実だろう。ある程度の金を給金としておけばそれで満足する輩よ。であればその使い方は董仲穎、貴殿次第ということになる。これは我らだけではない、“中郎将”たる貴殿もまた無関係ではないことだ」
善意で国を治めてはいない。
それは十常侍も何進も、地方最大軍閥の袁紹、洛陽から近い陳留にいる曹操、そして建業を治める孫堅すら同じ。
何かしらの欲があるからこそ、民から税を集め、民を養う。
民を守っているという虚構こそが支配者であり上流階級である。
“がっこう”という仕組みは少なくとも十常侍である男にとって“理想論”でしかなく、悪く働けば己らの支えを失いかねず、そうなる可能性の方が高い。
その中で“中郎将”である月だけは例外、ということにはならないのだ。
故の警告。
それは何進に向ける視線とはまた違った視線であった。
「ではな。明日からの働きにも期待している」
男が部屋から出ていくのを見送り、扉が閉まる。
だが二人は気を緩めることなくしばらく無言で座り続け、その後席を立った。
「ボク達も戻ろう。明日もあることだし」
「………そうだね」
どこに間諜が潜んでいるかも分からない状況では下手な会話は出来ない。
ましてや今回は向こう側が指定した部屋にやってきたのだ。確実にどこかに見張っている奴はいるだろうと踏んでいる。
前を歩く月を視界に入れつつ、先ほどの話を分析する。
何進については放置。むしろ予定調和でさえある。
ぐうの音すら出ないほど完璧な黄巾討伐を行った甲斐があったというものだ。
何進側もしくは十常侍側の不穏な行動を見逃さなければいい。
気になるのはその後の話。
流石に内密に進めていた“がっこう”に関する計画が男の耳に入ったからこの話をした、という訳ではないだろう。
ではあの状況で灯火の話を出してきたのは偏に月と詠の反応を見る為か、或いは本当にただの思いつきなのか。
どちらにせよ涼州に来る前に灯火が持ち掛けてきた密談で語られた懸念は多少なりとも的を得ていた、ということになる。
こうなってくると普通であれば灯火の身が多少なりとも心配になるだろうが、ことこれに関しては香風と恋がいるため全く心配していない。
本人達はそういう意識は微塵もないだろうが、周囲を含めた灯火の防衛能力は結果として主である月すら上回っているのではないだろうか。
むしろ“飛将軍”“英雄”が二人もすぐ傍にいて、それでいて防衛に不安あるなどと言ったら、ほとんどの防衛戦力が不足だと言っているようなものである。
そして聞いた話によれば………恋は敵意やら悪意やら殺意やら、そういう直感で隠れている敵が分かるらしい。
意味が分からない。
詠の素直な感想である。
野生の勘だとでも言うのか、真偽のほどは本人である恋にしか分からない事である。
と、言うより。
ここまで考えておいてなんだが、どちらかと言えば万が一灯火が何者かに怪我をさせられてしまった時の方を考えないといけない気がする。
─────主に、ブチ切れた恋をどう制御すればいいか、という点で。
「詠ちゃん? どうしたの?」
「えっ? ああいや、ちょっと考え事」
少し深く思考しすぎたらしい。
灯火・怪我 という連想から馬超こと翠との一戦まで思い出してしまったのは、流石に今回のこととは無関係が過ぎた。
「夜も遅いし、今日はもう早く寝ましょ。月、体拭いてあげる」
「え? そんな………いいよ。詠ちゃんだって今日は疲れてるんじゃ………」
「全然。それよりも月が綺麗になる事の方が大切。中郎将でもあり、主でもある月が汚れているのは月が良くてもボクが良くないんだから」
渋る月を納得させるように背中を押しながら月の自室へと入っていく。
当たり障りのない会話。
詠は詠で、月は月で今日話した内容についてお互いの意見の交換はしたいとは思うが、壁に耳あり。
視界も良くない夜では誰が聞き耳を立てているかわかったものではないので、今日は大人しく眠りにつく。
老齢の男の見誤りがあるとすれば二つ。
一つは自身の目の前にいた董仲穎という女性は“完全な善意”で街を統治しており、内密に進めていた計画は“がっこう”の前身となるものだったこと。
もう一つは。
(邪な考えがない、野心がない、ね。アイツは
詠は薄く笑う。
(節穴め。アイツはこの洛陽に来る前に話をボクに持ち掛けてきた、ボクの知る限りで最大の“共犯者”だよ?)
考えてすらいやしまい。
自分だってそれを聞いた時は驚きでいっぱいだった。
何せいつも通りの感覚で話があると呼び出され、いつも通りに話しだした内容がまさか─────
(─────あの男の反応を見る限り、ボクと灯火がやってることはバレていない。当たり前だ、月にすら秘密にしてるんだ。漏洩なんてしないしさせない。万が一しても反逆罪で裁かれるのはボクと灯火だけだ)
準備は着々と進んでいる。
多方面同時展開による作戦は何も黄巾の乱の早期終息のためだけに実行したわけじゃない。
官軍に小細工は不要、などという何進の戯言を律儀に守るために黄巾党内部へ兵を潜入させたことも明るみにしていない。
それどころかそれを利用して別の任を与えた兵だっている。
十常侍側で活動をしているのだって何も十常侍に召喚されたからという理由ではなく、もっと別の理由がある。
(どちらにせよ決行するか否かは月次第。ボクはその時になって直ぐに手を打てる様に手札を整えておく。………せいぜい油断しておいて頂戴。コッチの準備が整うまでは言いように使われてあげるんだから)
焦ってはならない。必要なモノはまだ揃っていない。
せっかく灯火から反則めいたモノを受け取ったのだ。
今はまだ爪を研ぎつつ隠しておく段階である。
詠は暗躍する。
いずれ来たる日、主であり親友である月がその決断を下す時に備えて─────。
(………バレて灯火が殺されそうになったら、恋が大暴れしそうな気が………いや絶対に暴れるわね………)
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