天から落ちた、雫。曇天よりポツポツと降り注ぐそれは静寂に包まれた部屋に反響し、大自然の旋律を奏でる。アスファルトに跳ね返り、地面に溜まった水に波紋を描き、木の葉を跳ね、屋根を叩き、たった一つで様々な音を鳴らした。
灯りのない部屋の窓際で魔導書の解析を続け、無意識に淹れた紅茶に手を伸ばし口につけると生温く意識が魔導書から引き戻された。随分と前に淹れたからか、冷めている。
「むっ。……淹れ直すか」
残っていたカップの中の紅茶を飲み干し、火を起こす魔法陣の上に置いたフラスコで湯を沸かす。いつもならちゃんとキッチンでやるのは、ミラがいる時だけ。フラスコの中の水が沸騰したら、ポットに湯を注ぎ数分待って、カップに出来立ての紅茶を注ぐ。一口飲んで、いい出来だと薄く笑みを浮かべた瞬間だった。
ギィッと音がして扉が開いた。視線を向けるとミラとエルフマンが濡れ鼠になって立っていた。幽鬼のようにゆっくりと歩き、部屋に入ってくる。「ただいま」といつもは言うのに、何処か元気がなく意気消沈とした姿に違和感を覚える。
「……湯を沸かしてやる。少し待て」
だが、その違和感が何かを考える前に、タオルを三人分取り出し、目前にいたミラへと渡し風呂場へ行こうとした時、不意に失意の声で彼女は雨音よりも小さな声で呟いた。
「……もう、いらないんだ」
「?」
振り返り、ミラを見る。
そういえば、リサーナはどうしたのだろうか。
四人でクエストに行くと言って、ナツは当日帰って来ていたが。
ならば、三人は一緒のはずだとナツには聞いている。
この雨の中、ギルドにでも行ったのか。或いは……。
「……タオルも、部屋も、何もかも、三人分はいらない」
「……どういうことだ?」
察しが悪い俺には分からず終い。きっと想像もしたくないのだ。想像もできないのだ。それでも、俺は痛む頭で無理やり察することにしてリサーナの帰って来ない事実を、受け止め切れはしないが、理解することにした。
「……そうか。取り敢えず、ミラ。お前から風呂に入って来い」
魔法で風呂を沸かせばすぐ用意はできた。しかし、戻ってみるとミラは風呂に入る用意をしていない。仕方なくミラの部屋に入り替えの服を準備する。エルフマンの服も一応、準備をしておく。
ミラの着替えを持って脱衣所へと押し込むように送り出し、それでも動く気配がないので冗談半分にこう言った。
「脱げないなら脱がせてやろうか」
後になって思えば、自分が絶対に口にしない言葉。それでもミラは虚ろな瞳をこちらに向けてくるだけで、大丈夫そうじゃないことがわかりきっているがどう対処しようものかわからない。ここはもう無理やり服を脱がせて風呂に突っ込むべきか。それくらいしないと動きそうにもない。体調を崩しでもしたら……。
取り敢えず、脱衣所を出て十分ほど家の中をせわしなく歩き回ってみる。それから戻ってみるとまだミラは脱衣所で立ち尽くしたままだった。
「……後で文句言っても聞かないからな」
がりがりと頭を掻き、ミラの肌にぴったり張り付いた服に手を伸ばす。水を吸っていて重く、張り付くそれを優しく剥がすようにまずは上から脱がそうとしてみる。抵抗する気配がないのでそのまま脱がした。次に下。服を籠に入れて、あられもない姿になっても動く気配のないミラを押し込むように風呂場へ。
蛇口を捻り、シャワーを浴びさせる。頭頂部から浴びせた湯は滑らかにミラの体を流れていく。上から下へ。重力に流れる。そうしてあったまったところで浴槽に突っ込もうと近づいたところ、あちらからぎゅっと抱き着いてきた。まさか動くと思ってなかったので俺はぎこちなく受け止めるしかなかった。
「……ひっく…ぐすっ…私のせいで、リサーナが…!」
甘えるように胸元へ顔を埋めるミラが嗚咽を漏らす。シャワーの跳ねる音に重ねて、嗚咽が混じり、泣き噦る子供のような声に俺は胸が締め付けられるようだった。エルフマンの前では素直に泣くこともできなかったのだろう。こんなにも弱り切った彼女を見るのは初めてだった。
「……そうか」
何を語るべきか、どう慰めるべきか、掛けるべき言葉を模索しても浮かばず、ただ抱きしめてやることしか出来ない俺は、今にも壊れそうなミラを抱きしめるしか出来ることなどなかった。
泣き疲れて眠ってしまったミラの体を拭き、服を着せ、エルフマンに風呂場を明け渡す。どうやらエルフマンの方はミラほど重症ではないようで、俺の腕の中で眠るミラを……というより、俺を見るなり俯いたまま懺悔の言葉を口にする。
「……兄ちゃん。今更、兄ちゃんの毎日のように言っていた言葉の意味がわかったよ。『己の力に溺れるな、過信するな、慢心するな、魔法は誰かを傷つけるために存在するものじゃない』って。俺は未熟だった。それはわかってた。なのに、俺が二人を守るって……無理な話だったんだ。姉ちゃんより弱いのに、何言ってんだって自分でもわかってたつもりなんだけどな」
「……そうか」
「兄ちゃん、姉ちゃんのそばにいてやってくれねぇか。俺は大丈夫だからさ」
「……わかった」
「何も聞かないのか、兄ちゃんは」
実際、どうしたものかと悩んでいたのだが本人達が話さないものを無理やり聞くというのは憚られ、時が来るに任せようとしたのだがミラの塞ぎ込みようが気になる。が、話していないことがあるといえば、俺も同じだ。
「……人には話せないことの一つや二つある。だから、無理には聞かない」
「そっか。……俺が失敗したんだ。姉ちゃんのせいじゃない。俺が全部悪いんだ」
まるで譫言のように呟くエルフマンは後悔の色を瞳に宿していた。そして、語るのは魔法に失敗して暴走してしまったということ、自らの手でリサーナを殺してしまったこと、それだけ告げると風呂場へとゆらゆら歩いていく。
掛けるべき言葉はやはり持ち合わせておらず、ミラを部屋に運びベッドへ寝かせる。布団を掛けて退散しようとしたところで、袖口が不意に引っ張られ振り向いた。
重い瞼を開けて腕を布団の中から伸ばし、ミラは俺を引き止めようとしていた。
「……もう少しだけ、隣に…」
夢現の中、必死に伸ばした手は誰を思ってのものなのか。非常に弱々しい姿を見ていられず、だが逸らすことなかれ、傍にあった椅子を引き寄せ座り頭を撫でた。
「いつまでもいてやる。だから、今は眠れ」
そう約束をするとミラは「ごめん」と謝罪の言葉を口にした。それは彼女が眠りに着くまで延々と続き、その言葉が聞こえなくなったのは夜も深くなってきた頃だった。
◇
「……ゼン」
声が聴こえた。優しく誰かを呼ぶ声が。意識も覚醒しきらない頭で誰の声か、誰を呼ぶ声か、深い海の中で揺蕩う意識を引き戻し俺はその声の主を見上げた。
「ローゼ…」
誰かが俺を見下ろしていた。
「ローゼン」
再度呼ばれて、視界がクリアになる。
「……すまない。いつのまにか眠っていたようだ」
ベッドの毛布に半分身を入れたままのミラが俺を呼んでいた。酷く懐かしい声に呼ばれた気がしたが、どうやら半分眠っていたせいでそう感じてしまっていたらしい。ここがミラの部屋だと気づくのも遅れて、何故ここで眠ってしまったのかを思い出し、ようやく現状が理解できたところだ。
「……なぁ、ローゼン」
「なんだ?」
「ど、どうして私の部屋で寝てんのか…気になって…」
……まさか昨日のことを忘れたのだろうか。ミラはいろんな感情が飽和したような顔で問いかけてくる。戸惑い、迷い、悲しみ、痛み、それはもう本当に色々なものを混ぜたような顔で、俺はベッドに俯せにしていた上半身を起こして答えた。
「どうしてってミラが言ったんだろ。傍にいてほしいって」
「た、確かに言ったけど……」
「いつまでいればいいのかわからないから、起きるまではいようと思ったんだが」
「べ、別に眠かったなら部屋に戻ってくれても良かったのに……」
「それは先に言え」
「いや、その…わかるだろ…そりゃ、ずっといてくれたのは嬉しいけど…」
欠伸を噛み殺し、少しだけ元気を取り戻したらしいミラを薄目で見つめる。彼女は気の抜けた表情で、思い出したようにがばっと顔を上げた。
「そ、それと、昨日のことは忘れてほしい」
「昨日?」
と、言われて思い浮かぶ忘れてほしいこと。
「引き止めたことか?」
「そ、それもだけど……私の、裸、とか…」
顔を赤くして毛布で必死に隠しながら詳細を語る。確かに見たが……下心とかそういうものをあそこで起こす余裕などなく、実際殆どこちらも覚えていない。思い出そうとしても湯煙に細部が隠れてしまう記憶。その代わりに心ボロボロで悲痛に顔を歪ませる彼女の顔が浮かび上がった。
「安心しろ、殆ど見てない」
「私が泣いたのも、忘れてほしいんだけど……」
「それは無理だ」
ミラの要求を突っぱねる。対してミラは困ったような顔をした。
「……大切な誰かを喪って泣くのは当然のことだ。その涙を忘れるな。たとえどんな事情があろうと、その涙を消してはならない。自分の気持ちに嘘をつくことになってまで、それは誰の記憶から消していいものでもない」
「ローゼン……」
「いくら悔やんでもいい。泣いてもいい。停滞したっていい。最後に歩き出せたのなら、それでいいんだよ」
「…………」
それがたとえミラの心に届かなくても、俺は何度だって口にしたろう。慰めるためでもなく、叱るわけでもなく、偉そうに助言するわけでもなく、願うような言葉を贈る。きっと君には前を向いて生きてほしいから、押し付けるわけでもなく、ただ願う。長居時間を賭けてでも歩き出すことを。俺は少し道を違えてしまったから。だから、ミラには光溢れる道を歩いて欲しいと。
「そろそろ食事にしようか」
黙り込んでしまったミラを連れて、階下へと降りて行った。
食卓の用意はいつも通りだった。いつも通りに四人分作り、四人分の食器を並べ、そこでようやく気づく。一人分多いことに。二人が何かを言う前に俺は慌てて片付けようとした。その手を横から掴まれる。
「姉ちゃん……」
俯きながら懇願してくるミラの意思を汲み取り、そのままにしておくことにした。三人がいつも通りの席に座る。ミラが俺の隣で、その対面にエルフマン。俺の前は空席の状態。いつもリサーナが座る席が空いている。
合掌し各々の食事に手をつけ始める。ミラもエルフマンもいつもは口を開くが今回ばかりは無言で黙々と食事を続けた。俺は当然のことながら、普段から寡黙を貫いているので普段とは違う行動を取るということもできない。こういう時、慰めの言葉はあまり意味をなさないからだが、何か言葉を掛けるべきかと頭の中はいっぱいになった。
静寂の中でカチャカチャと銀製の食器の音が鳴る中、静寂を破ったのは意外にもエルフマンだった。
「兄ちゃん、姉ちゃん」
「……」
「なんだ、エルフマン」
ミラがエルフマンの言葉に口を開かず、視線を向けるだけなので俺が代わりに聞いてみた。普段はミラとは逆の立場であるが、今この場でそれを指摘するものはいなかった。
エルフマンは持っていたスプーンを置き、真面目さと何処とない暗さ、そして迷いの果てに辿り着いたであろう男の顔をした。
「俺、ギルドの寮に入って一人暮らしを始めてみようと思う」
それは、今までのエルフマンからは考えられない発言だった。
「……ど、どうしたんだよ急に?」
ミラが此処で初めて口を開いた。少し俯き加減だった顔を上げて、エルフマンの顔を見据える。
「色々考えたんだ。俺はこれからどうしたらいいんだろうって」
「どうしたらって……」
まだ、ミラでさえ迷宮の中で迷子の最中で、突然の弟の言葉に返す言葉を失う。消え入るように言葉が続かなかったミラはそのまま黙り込んでしまった。
そこでエルフマンはキッと顔を上げる。
「どうしたらいいんだって考えて、答えなんて出なかった。兄ちゃんが昔言ってくれた言葉がなけりゃ、俺一人でなんて答えの一つも出せなかったと思う。そんで思ったんだ。今度はもう後悔しないように、強くなりたいって。誰かを本当に守れるように強くなりたいって。だけど強くなるためにはどうしたらいいかわからないから、取り敢えず、一人で生きられるように一人暮らしを始めてみようって思ったんだ。そこからスタートにしようって思ったんだ」
そこにあるのはミラの弟という存在の顔ではなく、少し不安や後悔に苦笑混じりなものの、瞳は小さくも強い決意を表していた。
「そ、そんな、別に一人暮らし始めることなんて……」
「姉ちゃんを一人にするのが不安だ、なんて言い訳でしかないんだよな。俺自身が姉ちゃんから離れられない言い訳にしてんだ。だって兄ちゃんがいれば、姉ちゃんのことは安心だから。姉ちゃんの傍に兄ちゃんはいてくれるだろ」
きっとそれは心の何処かでいつも燻っていた思いなのだろう。エルフマンなりに、そろそろ姉から離れることを考えていたのかもしれない。
「兄ちゃんにはまだ魔法で頼る事もあるだろうけどさ。俺は俺なりに強くなりたいんだ。だから、兄ちゃんには強くなる方法を教えて欲しい。これは俺のわがままなんだけどさ」
「……そうか。教えはするが、強くなれるかはお前次第だぞ」
「わかってる。ありがとう、兄ちゃん」
そもそも、力というのは一朝一夕で手に入るものではない。それはエルフマンとて今回のことでわかっているのだろう。そして、この日エルフマンはこの家を去って行った。