幾度の夜を越えたのだろう。太陽が沈み、月が昇って、また太陽が昇る。繰り返す月日、時間の流れは私を待ってくれない。マグノリアの街を出て何度、月が欠け、満ちたのか。
–––私はこんなところで何をしてるんだろう?
自問自答は答えが生まれず、水泡のように消えてゆく。考えたくないから、私は浮かび上がった疑問に見て見ぬ振りを続ける。
此処はマグノリアから遠く離れた湖畔の街。
片田舎のこの街で私は酒場に住み込みで働いていた。
理由は特にない。
逃げた先がこの街で、私のことを気に掛けた老夫婦が拾ってくれて、酒場のマスターだったというだけだ。
行く宛もなく、彷徨っていた私は此処で立ち止まった。停滞し、次はどうしようか、なんて考えることもできなかった。
ただ住ませてもらうのも気が引けるので、酒場で働いていたら看板娘になった。老夫婦の家族には気に入られていて、娘夫婦のそのまた息子に至るまで私は良くしてもらっていた。
家族って、親って、きっとこんなものなのだろう。
あたたかい夢に私は浸っていたかったのかもしれない。
素性の知れない私を受け入れてくれた、この場所は居心地が良かった。
だからなのかも。私はここに来て、とても長い夢を見ていたような気もする。
「ミラちゃんが此処に来てもう一年くらいか……」
老夫婦のその孫、ロナルドさんが唐突に呟いた。開店準備にテーブルを拭いたり、椅子を並べたり、朝の忙しい時間、老夫婦やそのまた娘夫婦が買い付けに行っている時間だ。残された私とロナルドさんは残された業務に身を投じていた。感慨深げに浸りながら、下拵えされた食材の準備を進めていた彼がこう話し始めると大抵は決まっている。
「もう、そんなに経ったんですね」
私も気のない返事をして自分の仕事に精を出していた。スープを煮込んだり、野菜を切ったり、肉に下味をつけたり、元々得意だった料理を任されるほどには信頼されているのだ。
だけど、この人の信頼はちょっと違うというか……。
「ミラちゃん綺麗になったよね」
「いえ、そんなことないですよ」
気に入られている、というのも少し違う。時々こうして口説いてくるし、私も意図には気づいているのだけど、あまりそういう気にならないのも事実。「綺麗」だと口説かれる度に私の脳裏には大切な人の姿が浮かんだ。
老夫婦や娘夫婦も私に浮いた話がなかったり、それなら彼ならどうだろうかと勧めたりするけど、私は愛想笑いでどうにか切り抜けることを繰り返した。あの人達は、孫の、息子の、幸せを願っているだけだというのはわかってる。私が色好い返事をしないのが分かると仕方ないと諦めるあたり、押し付けないいい人達なのだ。
けどまぁ、ロナルドさんはこうして何度も忘れた頃に口説いてくる。
「……ねぇ、今度、街に遊びに行かない?」
「すみません。今度の休日はやることがあるので」
特に酒場で口説かれることの多い私はもうひらりひらりと躱す術を身につけていた。この人が口説きに来るのも、大体私目当てのお客さんが私に声をかけた次の日あたり。お陰で私は前日にどう躱すか考えながら眠る毎日だ。彼の老夫婦からは恩もあってあまり無碍にしづらいから余計に困っているのだけど、その度に私の中で、失くしてしまったあの子が引き止めてくれていた。
–––ミラ姉、本当にいいの?
後悔はないのか。このままでいいのか。頭の中で何度も問い掛けた。まるで自問自答するようなそれに、私の心は確かに激しく動揺していたのだ。
「……僕は本気だよ、ミラちゃん」
いつになく真剣な表情のロナルドさんに私は笑みを返す。愛想笑いか、苦笑いか、取り敢えず上手くは笑えていないんだろうなと自分でもわかっていた。
なら、もういっそ話してしまおうか。この人も私に好きな人がいれば諦めるかもしれないと思い、脳裏に思い描くあの人の背中、今でも鮮明に思い出せる彼の顔を浮かべ、そして同時に愛しさが浮かぶ。
「……私、好きな人がいるの」
「えっ!?」
「だから、ごめんなさい」
「えっ、嘘だろ!?」
今までそんな素振り見せなかったから仕方ないのかもしれない。私自身前いたところに好きな人がいたとかそんな話はしていない。彼らもまた私から詳しい話を聞こうとはしなかったから。ロナルドさんは取り乱したように問い詰めてくる。
「酒屋のニック?肉屋のジャック?いやそれとも魚屋のアバン?いや大本命は最近出来た高級レストランのジェフか?」
「……いいえ、この街の人じゃないわ」
全てをNOで否定する。すると、ロナルドさんは何かを察したようにハッとした表情。
「……もしかして、前住んでいた街に?」
コクリと頷くと、ロナルドさんは何を思ったのか頭をぐしゃぐしゃと掻き乱した。
「……いや、でも、随分と前の話だろう。それでも、まだ……」
「ええ。あの人は、私の初恋の人だから……」
「だけど、でも……!こんなに時が経つのに探しにも来ない人のことがなんで今更!」
「……そうね。あの人はきっと私のことなんて探さないわ。優しいけど、昔から無関心で、無愛想で、切り株のような人なんだもの」
「だったら尚更!」
「それでも私、夢を見てるのかしら。それとも私自身、約束を果たすのも、踏み込むのもきっと怖いんでしょうね」
私の表情はどうなっているだろうか。
ただ、目の前のこの人が口籠るくらいには酷い顔をしていたのだろう。
◇
開店。営業。閉店。翌日の準備。毎日がその繰り返し、夕刻を過ぎた頃だった。此処には柄の悪いお客様も来店する。闇ギルドの魔導士、盗賊のような風貌の者、客は迷惑でなければ相手を選ばないのが酒場だけど、もっとも選べないというのもあるのだろう。見るからに柄の悪い席には近寄り難く、私が代わりに対処していることもある。その私も今や魔法は使えないのだけど。
「ミラちゃん凄いわね」
「いえ、慣れてますから」
荒くれ問題児だらけのギルドで活躍していた私は、もっとも昔はやんちゃしていたのもあって柄の悪い客と意気投合するのも簡単だった。それを素直に褒めた老夫婦の娘メリーさんにそう笑顔を返す。
そんな時、フラフラと新規のお客様が来店するのを目の端で確認した。此処では珍しい旅装束のマントを着た、フードを深く被った男の人。顔が見えないが私にはその人がかなりの手練れに見えた。
珍しいので私は注文を取りに行くついでにその人に近寄ってみる。何かマグノリアの情報を持っていないかと少し期待していたのかもしれない。此処では「またフェアリーテイルが問題を起こした」くらいの情報しか入ってこないのだ。勿論、ローゼンは問題を起こさないから話題に上がるのは畏怖を込めた噂のみなれど、私の弟が問題を起こした噂を聞くと姉として恥ずかしくもなってくる。
此処はある意味で私にとって都合のいい場所だった。
酒場はそういった情報が手に入りやすいから。
「御注文はお決まりですか?」
その旅人に私はいつもの仕事通り接した。水の入ったコップを置き、空になった木の盆を胸に抱く。それから数秒して遅れて聞こえた声に私は全身が震えるのを感じた。
「……あぁ、何かオススメはあるか?」
何気ない一言。だけど、その声を私は知っている。
思わず、私の中の細胞という細胞が反応してしまうほどに、待ち焦がれていた声だった。
最初の第一声がそれというのがとても残念だけど。
そんなことを気にする余裕もないほど、私は歓喜していた。
盆を落とした。木製の盆らしい鈍くて優しい音が鳴る。しかしそれに動じず、硬直してしまった私の方を見ると、旅人は私の代わりに盆を拾い上げた。
「大丈夫か?」
「あ、えぇ、はい。大丈夫です」
今度は目が合った。間違いなく彼–––ローゼンだった。
しかし、彼は気づいていないのか憂鬱そうに視線を水の入ったグラスに戻す。
「……そ、そうですね。今はミードとジェノサイドキングサーモンの塩焼き、それと……シチューがオススメですよ」
「なら、それを頼もう」
「お酒は大丈夫ですか?」
「問題ない」
つい、ローゼンが飲酒をしたことがほとんどない事に気付いて聞いてしまう。飲酒をしたのだって、潜入した船上パーティー以来ではないだろうか。しかしなんとなく気づかれていないことが悔しくなって意地になってシチューだなんて言ってしまった。昔、彼のためによく作っただけのその料理を。でも、作り置きもあるのは確かなのだ。前に作ったシチューがお客さんに好評で常時メニューとして取り置かれているのだから。
厨房に戻ってメニューを伝え、ミードだけを準備して席に戻る。彼は何故か水の入ったグラスの縁を指でなぞっていた。そこからリィンと音が響き渡る。とても綺麗な音色だった。
「何処から来たんですか?」
「……さぁな。前の街の名前など覚えていない」
てっきりマグノリアが答えかと思ったが、どうやら違うようだ。ローゼンはグラスの縁をなぞるのも飽きたようでミードを口に運ぶと一口飲む。
「この街には何が目的で?」
「少し、探し物をな……」
また、一口飲む。「探し物」という言葉に少しだけ、私は期待を抱いた。
「探し物ですか。それっていったい……?」
「……だが、中々見つからなくてな。もう一年近く探しているんだが……探し物は得意じゃないんだ。大事なものを……よく失くす」
何か言い澱み答えづらそうにしていたが、お酒も入っているせいか素直に答えてくれた。しかしそれ以上を聞いても答えてくれない。また一口飲むとグラスの中は空になっている。割と強めなお酒を入れたがあまり効果がなく、おかわりはいるかと聞いたところ頼まれたので悪戯心で私はもっと高い度数のミードを用意した。彼はまた一口飲んだ。
「……それって大事な人だったりするんですか?」
あまりに口を割らないのでこちらから質問してみる。すると、彼は何処か遠くを見る眼差しでこう答えたのだ。
「……あくまで客観的に見ればだが。俺はどうやらそいつのことが大切だったらしい。こうして探すくらいにはな」
まるで他人事のように言う彼にちょっとムッとする。普段は絶対にローゼンは認めたりしないだろうが、意地でも私は彼に色々と話させてみたいことがあった。彼が本心を吐露することなんて滅多にないのだ。
「そんな曖昧じゃ、見つけられても相手は困っちゃいますよ。世の中そんなに甘くないですから」
「…………」
思わず説教地味た事を言ってしまい、ローゼンは視線を私の方へと向けてきた。あぁちょっと言い過ぎたかな、なんて思っていると彼は再度グラスに手を伸ばす。
「……こんな事を話すのはなんだが。自分でもわかっているんだ。大切なものだと認めたくないから、こうしてくだらない戯言を口にしているだけだと」
「他の人の意見とかじゃなくて、あなたにとってその人はどういう人だったんですか?」
「……」
「ほ、ほら、私に喋っても本人が聞いてないならいいじゃないですか。酒場ってそういう愚痴漏らしたりするところですよ」
「……まぁ、それなら話してもいいか……」
酒が入ってるせいだろうか。やけに素直だ。しかも、どさくさに紛れて確認したところ私のこと本気で気付いてない様子だった。それはそれでなんだか心に来るものがあるというか、ほっとしたのと少し残念な気持ちになる。
「言葉というのは曖昧なものだが……大切だったのは確かだ」
「……そう、なんですね」
「大切」だと言われて、嬉しくないはずがない。今、私の頰は赤く染まり、表情は可笑しくなっていることだろう。料理を取ってくると言ってどうにか誤魔化して一時撤退したものの、新鮮なローゼンと話したい私がいる。料理を揃えて戻ると相変わらずの無表情でお酒を口に運んでいた。そういえばローゼンが完全に酔ったのを見たことがない。それもあまり酒を口にしないからだけど。
しかし、同じ席に長いするわけにもいかず、私は酒場の中を馳け廻る。注文を取ったり、酒が足りないだの対応したり、そんな中で柄も悪く酒癖も悪いお客さんがいるわけで。
「姉ちゃん、ちょっと此処に座って話そうや」
「すみません。業務中ですので」
「そんなのいいだろう?それとも嫌なのか?おぉ?」
「は、離してください」
その席から離れようとすれば腕を掴まれる。その席は運の悪いことにとっても柄の悪いお客さん達。本来の私ならこんな人達相手にすらならないのに、今の私は魔法を使うことはできない。それに彼の前で魔法を使うのも、何故か躊躇われた。
「すみませんがお客様。此処は酒場ですのでそういった行動はお控え願えますかな」
そこに酒場のマスターであるお爺さんが割って入った。
「あぁ?なんだジジイ」
「私の身内も困っております。ですので、そういった行為はお控えいただけないでしょうか」
「テメェにゃ関係ないだろうがよぉ!」
「ぐぅ!」
荒くれた男性客の鉄拳がお爺さんに突き刺さる。お爺さんは他のお客が着いていたテーブルに突っ込み、テーブルが破壊され、床へと呻きながら
倒れ伏した。
「ゲイツさん!」
「じいちゃん!」
私を拾ってくれたお爺さんの名前を叫ぶ。駆け寄り身体を起こすと、ゲイツさんの意識は辛うじて残っている程度でかなりのダメージが窺えた。
「お、お前らこんなことしていいと思ってるのか!」
「なんだやるのか?いいぜ、相手になってやるよ」
今の私でもわかるくらい熾る魔力の波動。男から吹き上がる魔力は完全に攻撃の意思を示していた。そして、その肩にはギルドの紋章。確かあれは正規ギルドではない。闇ギルドのものだ。同じテーブルを囲う三人の男。おそらく彼ら全てが魔法に通ずる者なのだろう。ロナルドさんは立ち向かおうとしたものの萎縮してしまっている。
「……っ」
静寂が酒場を包んだ。他の客達も事の成り行きを見守るように傍観に徹している。そんな中で銀製のスプーンが音を鳴らし、ガタリと私の背後で席を立つ音が聞こえた。ゆっくりと歩いてくるその足音、私はそれがとても聞き慣れたもので、店内にいた彼の事を久しく思い出した。
「やれやれ。煩くてまともに食事もできやしない」
「テメェ、俺達が誰だかわかってんのか?」
「さぁ、見たことも聞いたこともないな。そんなギルドの紋章にも覚えはない」
「俺たちは六魔将軍傘下の闇ギルドだ。手を出したらどうなるかわかってんだろうな!」
「……生憎知らん」
ローゼンは何処からともなく杖を取り出しゲイツさんに翳す。淡く漏れた光がその身体を包み、癒していくのを見て私は驚愕してしまう。まさか、回復系統の魔法まで持っているとは知らなかったからだ。
「テメェ、舐めやがって!」
「俺の炎で消し炭にしてやる!」
「よし、三属性合体魔法で……!」
男達の魔力が高まったその瞬間、それを掻き消すように膨大な魔力の波紋が波打った。ローゼンは涼しげな顔で杖をドンと突き、それと同時にさっきまで攻撃の意思を見せていた三人が床へと突っ伏した。テーブルに額を突き刺し、床に穴を開け、椅子に座り直しその上で椅子を破壊して床に突き刺さる。それぞれ苦悶の声を上げて、床へと伏した。
「コイツらはこのまま評議員に送りつけてやろう」
「あ、はい」
そしてそのまま、ローゼンが杖を一振りするだけで三人組の姿が消える。忽然と姿を消したのに同じくゲイツさんに駆け寄っていたロナルドさんは目を白黒させていた。ついでとばかりにもう一振りし、壊れた机や椅子、店内は元通りになった。
「邪魔したな」
それだけ言って一袋の金貨を落として去って行く。当然のように酒場を去ろうとしたあの人へ、私は手を伸ばしかけ引っ込めるとこんな事を口にしていた。
「……あの、また来てくれますか?」
ローゼンは一度立ち止まると振り返る事なく、返事もなしにまた歩き出し去って行った。