時間は少し遡る。
夜遅くまで研究をしていたブルマは、ふと部屋の外の廊下を、誰かが歩いて行くような気配を感じた。やや速い歩調の足音は、ベジータのものだとすぐに分かったが、夜9時には寝てしまう健康的な娘と一緒に、彼も既に、眠っているはずの時間だった。
「また強盗でも出たのかしら……?」
しかしそれなら、呑気に歩いて向かうような真似はしないはずだ。手洗いか何かとも思ったが、15分ほどが経過しても、部屋に戻る気配が無い。ふと胸騒ぎを感じたブルマは、薄手の上着を羽織ってから、彼と娘が暮らす部屋に向かっていた。
夜中という事もあり、照明の光量を落とした廊下は、薄暗く肌寒い。小さく身体を縮こませながら、ようやく目的の部屋に辿り着いたブルマは、ドアの奥から、少女のすすり泣く声を耳にして、血相を変える。
「……ナッツちゃん!?」
すぐさまドアを開いた彼女が見たものは、ベッドの上で顔を覆って号泣する少女の姿だった。ブルマは駆け寄って、泣いているナッツの小さな身体を、己の胸にしっかりと抱き締める。
悲しみのあまり、周囲の事も判らなくなっていた少女は、突然の優しい抱擁に、びくりと身体を震わせた後、温もりをむさぼるように、目の前の温かい身体に両腕を回して、涙に濡れた顔を、柔らかな胸に押しつける。
「……母様?」
思わず呟いたナッツが、彼女の顔を見て、たじろいでしまう。まるで母親とブルマと、両方に対して、失礼な事をしてしまったと言わんばかりに。
そんな少女の思いを察したブルマは、ナッツを抱く腕に力を込めながら、優しい声で言った。
「私はあなたの母様じゃないけど、あなたが落ち着くまで、こうしていてあげる」
何も言えず、ナッツはただ、目の前の女性に縋り付いた。温かく柔らかい身体は、どこか良い匂いがして、苦しかった気持ちが、少しずつ癒されていく気がした。
そのままの姿勢で、しばらくしゃくり上げていた少女は、やがてぽつりと呟いた。
「ありがとう、ブルマ……あっ!?」
涙やその他で、ぐしゃぐしゃになってしまったシャツを見て。
「ご、ごめんなさい……」
ばつが悪そうに謝るナッツに、ブルマは苦笑する。
「いいのよこのくらい。それでナッツちゃん、どうして泣いてたの?」
「うん……」
沈んだ顔で、少女はぽつりぽつりと説明する。母様の身体が、生まれつきの病気を抱えていたこと。死因は寿命であること。母様は弱っていく一方で、子供を生んだ事が、きっと負担を掛けてしまったに違いないこと。それさえ無ければ、今もまだ生きていたかもしれなくて、外にいる父様も、寂しい思いはしなかったかもしれないこと。
何も言わず話を聞き終えたブルマは、わずかに瞳を潤ませながら言った。
「……あなたは優しい子ね、ナッツ」
思わず少女は、目を見開いた。優しいだなんて、サイヤ人の戦士としては、受け入れがたい言葉だった。そんな言葉が似合うのは、悟飯くらいのものだ。
「……私はサイヤ人よ。今まで両手の指に余るほどの星を滅ぼしてきたわ」
「それでも、ベジータやお母様の事は好きなんでしょう? お母様もきっと、あなたの事が好きだったのよ」
その言葉に、少女は顔を伏せてしまう。母様が私を好きだなんて、言われるまでもなく分かっている。そんな母様の命を、私が縮めてしまったから苦しいのだ。
「ナッツちゃん。あなたのお母様は、あなたを生んだ時、とても嬉しかったはずよ」
「……ええ。そう言っていたわ」
「たとえそれで身体が弱ったって、あなたが元気に成長していたのなら、苦しいのも忘れるくらい、毎日が楽しかったに違いないわ」
ブルマが口にしたそれは、半分彼女自身の言葉だった。彼女もまた、3年以上も一つ屋根の下で暮らして、少女の成長を見守ってきたのだ。
外見はさほど変わらないけれど、それでも少しずつ地球での生活に慣れていくうちに、笑顔でいる事が増えて、家事や料理を手伝ってくれるようになって、ずっとしっかりした子になったのだ。
そんなナッツを見ているうちに、自然と言葉が口をついた。
「母親ってのはね、自分の子供のためなら、死んでも良いって思えるものなの。だからナッツちゃんが悪いと思ったり、謝る必要なんてないわ」
そしてブルマは、優しく笑って言った。
「ありがとうって、言ってあげなさい。それが一番嬉しいと思うから」
「……!!」
ナッツは頭の中が、一瞬真っ白になるのを感じた。そんな簡単な事に、どうして気付かなかったのだろう。母様はずっと、私の事を愛してくれていたのに。きっとこんなに泣いて、心配を掛けてしまったはずだ。
少女は窓の外を見上げて、震える声で、ただ感謝の言葉を告げる。
「母様、ありがとうございます。私を生んでくれて。母様の命をくれて、ありがとうございます」
「約束したとおり、私、強い戦士になりますから。それで毎日を楽しく過ごして、好きな人と子供を作って、幸せに生きて、そしていつかまた、きっと会いに行きますから……!!」
言い終えた少女の瞳からは、再び涙がこぼれてきて。ブルマは何も言わず、それを拭いて、震える小さな身体を、また優しく抱き締めるのだった。
しばらく時間が経過して、落ち着いたナッツは、ぽつりと口を開く。
「ねえ、ブルマ?」
「何かしら、ナッツちゃん?」
彼女の温もりに包まれながら、戸惑うように、少女は問い掛ける。
「どうして私に、こんなに優しくしてくれるの?」
ブルマは思い出す。ナメック星で初めて会った日にも、同じような質問を受けた事を。
あの時は、こんな子供がいくつもの星を滅ぼして、大勢の人を殺していると知って、何とかしてあげたいと思ったのだ。地球のありふれた出来合いの料理を、本当に美味しそうに平らげる少女の姿が、子供の頃の孫君みたいで、可愛いと思ったのも理由のひとつだろう。だから子供には、幸せになる権利があると答えたのだ。
けれど、共に暮らすうちに、ブルマの中で、少女への思いはより深まっていった。今の彼女の答えは、もっとシンプルなものだ。
「あなたの事が、好きだからよ。ナッツ」
「……っ!」
ナッツの瞳が、大きく見開かれる。今この瞬間、彼女から感じるのは、まるで子供に対する母親のような愛情だった。それは幼くして母を失くした少女が、何よりも欲しかったものだった。失くしてしまったはずのものが、今目の前にあった。
「あ……」
その瞬間、反射的に、地獄から見守ってくれているはずの、母親の事が頭をよぎる。私には母様がいるのに、ブルマからのこれを、受け取ってしまっていいのか。
けれど、いくら考えても、母様がこれを、駄目だと言う姿は思い浮かばなかった。母様はいつも、たとえ自分が死ぬ事になっても、私が幸せになる事を願ってくれていたから。
脳裏に浮かぶ母親の顔は、まるで背中を押すように、優しく微笑んでいた。不思議と、今この瞬間、地獄にいる母様も、きっと同じ顔をしていると、ナッツには確信できた。
意を決した少女は、身体の力を抜いて、腰から伸びた尻尾を、ブルマの脚に巻き付けた。
「……私も、ブルマの事が好きよ」
大事な尻尾を相手に預けるという、サイヤ人にとって最大の愛情表現。その意味をブルマは知らなかったけど。この瞬間、自分とこのサイヤ人の少女との間で、何かが変化したのを感じていた。
縋り付いてくる小さな身体の温かさを感じながら、この子のためなら、死んでもいいと思っている事を、彼女は自覚して。少女を抱く腕に、力を込めた。
ブルマからの愛情に、心の中が温かく満たされていくのを感じていたナッツは、外で母親の事を思い忍んでいるのだろう、父親の事を考えていた。
優しい父様は、きっとこのままでは、何十年も、穴の開いた心を抱えて、寂しい思いをして暮らす事になる。いつかはまた、地獄で母様と会えるのが分かっているとはいえ、見ている母様や私の方が、そんなのきっと、可哀想で耐えきれない。
地獄で母様が、弟か妹ができるかもしれないと、言っていた事を思いだす。父様の事をよく解っている、頭の良い母様は、こうなる事が分かっていたのだ。
少女は自分にとって、家族のように大切な存在になった、青い髪の女性を見つめて言った。
「……ねえ、ブルマ。あなたにお願いしたい事があるの」
「いいわよ、ナッツちゃん。遠慮しないで、何でも言ってみて」
それは少女にとって、とても勇気のいる言葉だったけど。
「……父様のことも、助けてあげて」
はっきりと、そう口にした。