第一話 魔法病
不気味に蠢く肉腫の感触が手のひらに伝わり、口から音のない悲鳴が漏れた。
母の叫び声に咄嗟に掴んだ母の右腕がボコボコと盛り上がり形を変えていく。いや、右腕だけではない。母の全身のあらゆる場所が、まるで別の生き物になっていくかのように蠢き、盛り上がり、不気味な肉腫へと変貌していく。思わず、「母さん!」と声をかけたが、その声が届いているのかも分からない。母の体は既に肉腫に埋もれて、顔がどこにあるのか分からない、いや、それどころかそれが人間であることが分からない程の有様だ。
僕は必死になって声をかけ、変わりゆく母さんの体を揺さぶる。だけど、母さんからの返答は無かったし、僕の行動が母さんに伝わっているようにも見えなかった。
その時、僕は掴んだ腕から伝わる脈拍が徐々に遅くなっていくことに気づいた。僕は半乱狂になって母に声をかけ続けるが、母の変貌は止まらない。だけど僕には何もできない。やがて、すっかり肉腫の塊となった母はゆっくりと地面に崩れ落ちた。
喉の奥が締め付けられるような感覚を感じ、目の端から涙がこぼれる。目に入る光景だけでははっきりとは分からなかったかもしれない。だけど、新たに生み出された器官により拡張された感覚は、母の命が永遠に失われたことを僕にはっきりと伝えてきた。
母だけではなかった。一緒にピクニックに来ていた父も、目の端にかかる他の家族たちも。そのほとんどが、見る間にその姿を蠢く肉の塊に変え、やがて地面に倒れ伏していく。数多の命が、次々と喪われていく。
まるで地獄のような光景。
いや、たとえ地獄であっても人間は人間でいられるはず。では、この有様は一体何なのか?
「…お兄ちゃん」
余りの事態に呆然としていた、その時。
背後から妹の声が聞こえ、僕は弾かれたように後ろを振り返った。
そこには、地面に倒れ伏す妹の姿。
まだ人間の姿のままの、妹の姿があった。
「――!」
思わず、妹の名前を呼んで彼女のもとに駆け寄る。
彼女を助け起こす。妹は少し顔色が悪いものの、体はまだ変容していないし息もある。それを確認し、ホッと一つ安堵のため息をつく。
だが、その事に安堵したのもつかの間。僕はまだ彼女が助かっていないことに気付いた。
妹はまだ元の姿のままであるが、それはギリギリのところで拮抗を保っているだけ。そしてその拮抗も、時間が経てば崩れてしまう。本来であれば知りえないその事実に、僕は気付いていた。
それは、新たに開いた感覚により得られた事実。
そして、その解決法も、僕は感覚的に把握していた。
その新たな感覚に従い、自身からあふれ出た見えない手を妹の心臓に伸ばす。自分の心臓と妹の心臓を心霊的に繋ぎ、『毒素』を自分の体で引き受ける。それが、僕が把握した唯一の解決方法。今までの自分では知りえない知識であったにも関わらず、その結論には奇妙な確信があった。それだけではない。彼女の心臓に伸ばした不可視の手も、不思議と本来の手足のように自在に操ることができた。まるで、それが元から自分に備わっていた機能であるかのように。
永遠のように感じる数秒。何か良く分からないものが自分の中に流れ込んでくる感覚に、僕は自分の処置が成功したことを察した。青ざめていた妹の顔に赤みが差し、荒くなっていた呼吸も徐々に落ち着いたものに戻っていく。いつの間にか自然に受け取ることができるようになった第六感も、彼女の状態が安定したことを伝えてくる。
助けることができた。
その実感に、目頭が熱くなる。
思わず、彼女の体を掻き抱いた。母が死に、父が死に。それも、ただ死ぬのではなく、人間とは思えないような肉腫に変貌して。そんな地獄の光景の中、自分の腕の中のぬくもりだけは護ることができた。そのことが、どうしようもなく嬉しかったのだ。
そして、僕は誓う。何があっても、妹だけは護りきる、と。
だから、決して妹を離さないように。僕は彼女をギュッと抱きしめた。
***
特殊変異性悪性腫瘍。
通称『魔法病』。
十年ほど前に突如現れたその病状は、人間たちに新たなる世界の一端を突き付けた。
罹患者にもたらされる、『魔法』としか呼びようがない異能の力。そして、それを知覚する第六感。
一見すると未知なる技術をもたらす福音であるはずのその病状は、しかしその巨大な負の側面によって恐怖を持って迎え入れられた。
魔法病が「悪性腫瘍」と称される理由。罹患者は、そのほとんどが罹患した瞬間に膨れ上がる体組織に飲み込まれ、肉腫の塊となって死に至る。また、適応率が高く初期の変質を回避できた罹患者も、時間が経つことで徐々に浸食率が上昇し、やがて同様の死に至る。しかも、その症状は魔法を使う程に早く進行した。
致死率100%
感染した時点で確実に死の運命が定まる死病と称された魔法病は、それでも社会に対して少なからぬ影響を与えた。それは、人々にとって望ましくない方向で。
魔法は既存の技術では完全には対処できない。なぜなら、魔法の痕跡を知覚する術が魔法病によって生み出された第六感以外に見つからなかったからだ。それゆえ、魔法を悪用する人間に対して、科学技術はほとんど無力といってよかった。
しかし、だからと言って悪人を野放しにする理由にはならない。
魔法による犯罪の増加を受けて、警察庁は魔法対策組織を設立した。それは、本来組織というものと相容れない魔法病の性質に合わせて編み出された苦渋の対策。
魔法病罹患者を協力者として招き入れた、特別対策チームの設立。
魔法病に罹りつつも、高い適応率によってその進行が極めて遅い人間を集めたそのチームは、当初の期待通り魔法を用いた犯罪に対して有効な成果を上げ続けた。
かくして、本来ならば採るべきではない苦渋の選択であると認識されながらも、その有用性から特別対策チームは活動を続ける。
ある者は復讐のため。
ある者は未来のため。
それぞれが異なる目的の元に集まりつつも、ただひたすらに魔法犯罪者達を捕え続ける。
警視庁公安部公安第四課。
魔法犯罪のために特別に設立されたその組織は、現代における『魔女狩り』の部隊であった。
***
『っ!ごめんなさい、逃がした…!』
『先輩、そっちに!』
「了解。ここで止める」
木枯らしが吹く秋の商店街の裏通り。無線機から聞こえた声に、フッと短く息を吐き精神を集中させる。軽い緊張が体に走るのと同時に、僕は自分の精神が限りなく研ぎ澄まされていくのを感じていた。今回の案件は規模で言えば大したことはないが、それでも失敗すれば取り返しのつかない事態になる。絶対にしくじるわけにはいかなかった。
数秒の後、曲がり角から一人の男が走り出る。その手には、少し小ぶりの銀色のアタッシュケース。そして、第六感が告げる、男の異常性。その二つから、僕はすぐさま結論に至る。
当たりだ。こいつが、今回の実行犯。
だから、こいつはここで捕えなくてはならない。
「止まれ!!」
僕の叫びに男は一瞬怯んだような様子を見せるが、すぐに覚悟を決めたような表情になって僕の方へ突撃してくる。
言葉だけで諦めてくれれば万々歳だったが、やはりそう甘くはない。僕は少し腰を落とし、迫りくる男に対応するための構えを取った。
「――うるぁ!!『燃えろ』!!」
男が一つの『魔法』を発動しようとする。
それは、極大の火炎を発生させて周囲を焼き払う魔法。発動すれば即座に周囲十数メートルが火に巻かれ、さらには強力な火炎のもたらす延焼で商店街すべてが焼け落ちる可能性もある。そんな巨大な魔法の予兆が、大気を震わせる鼓動となって僕の肌をビリビリと震わせる。
火事を起こして、その混乱に乗じようというのだろうか?男の狙いを、そう推測する。確かに、ここで大火事が起これば商店街の人々は大混乱に陥るし、僕たちも彼らの安全を護るために積極的な行動が採れなくなる。そこで追撃の魔法をいくつか撃ち込まれれば、男を追跡する余裕も無くなるかもしれない。そう考えれば、なるほど咄嗟にしては多少は理にかなった作戦である。
――させないけど。
だが、そんな戦術に乗ってやるつもりはさらさらない。何より、周りの人々に危害が加わる可能性を見過ごすわけがない。だから、僕は男の魔法を絶対に妨害するつもりで、自身の内の魔力を練り上げる。そして、これだけあからさまに魔法の予兆を感じ取れるのであれば、その対処も簡単だ。
「死ねぇ!!」
ひときわ大きな大気の脈動。そして、男が、火炎の魔法を発動する。だが、同時に僕も一つの魔法を発動した。それは、火炎に対する対抗魔法。相手の発動する魔法が分からなければ使えない技術ではあるが、今回の相手は非常に分かりやすい。だから、簡単にその魔法を打ち消すことができる。
二つの脈動がぶつかり、大気のうねりが瞬時に収まる。周囲を燎原の火で焼き払うはずだった火炎魔法は、しかしその効果を発揮する前に何事もなかったかのように沈黙する。その予想外の事態に、男の顔が驚愕に歪んだ。
「おい、出ねえぞ!なんでだ?!」
男の疑念に応えることもなく、僕は男の方へと駆け出す。男は予想外の事態と僕の接近とで完全な混乱に陥ったようで、滅茶苦茶に手に持ったアタッシュケースを振り回して暴れる。だが、そんな無駄な抵抗で怯むほど、僕は甘くない。
男の動きの隙を突き、アタッシュケースを持った右手を抑え込む。さらに、僕はその男を拘束すべく鎖の魔法を発動した。僕の魔法で生み出された光の鎖が彼の体を雁字搦めに縛り付けていく。
「くそっ!放せ、コラ!!『ぶっ飛べ』!!」
再び男が魔法を発動しようとする。今度は衝撃波を発生させる単純な魔法。だがこれも、あらかじめ予兆を察知すれば打ち消すのは容易い。二度目の魔法でもやはり何の現象も起きない事に、男は絶望の表情を浮かべた。
「そんな、なんでだよ!くそ、くそぉ!」
「これ以上の抵抗はやめろ。死にたくなければな」
あからさまに抵抗が弱弱しくなった男に、ダメ押しでそう告げる。それはもちろん九割方ただの脅しではあったが、もしもこの男が諦めずに抵抗するのであれば仕方がないと思った選択肢でもあった。僕たちには、状況次第でその選択が許されていた。そして、それを許されるだけの理由が子この男には、いや、『この男たち』にはあった。
ただ、僕の言葉に男は観念したらしく抵抗を止めて大人しくなった。大人しくしているのであれば、これ以上追い打ちをかける必要もない。さらに、さっきまでの攻防から考えるとこの男は魔法を発動させるのに言葉によるトリガーを必要としている可能性がある。そうであれば、発声を封じておけばもう大した抵抗もできないだろう。そう考えて、光の鎖をさらに操り男に猿轡をかませる。これで流石に、もう決着は付いたはず。
僕はふうと息を吐いて、精神の緊張を解きほぐした。
「――へえ、もう捕まえたのね。ご苦労サマ」
ふと、頭上から涼やかな少女の声が聞こえる。声の元に目を向けると、そこには美しい黒髪をハーフアップでまとめた一人の少女――緋野美波の姿。今さっきまでの緊張感が嘘のようなその澄ました態度に、そして言葉の中にほのかに含まれる挑発的な響きに、少し苛立つ。彼女とは、出会った最初の時から折り合いが悪い。その上こうして度々バカにしたような態度を取ってくるので、彼女とは言い争いが絶えない。
だから思わず、今回も皮肉で返してしまうのだ。
「まあね。誰かさんが急いでくれればばもっと楽に終わったけど」
「ふぅん?別にそれくらい、問題なかったでしょ?」
緋野が拘束された男を指して、小馬鹿にしたように鼻を鳴らす。その態度にますます腹が立つ。
彼女と相対していると万事がこんな感じだ。一応、僕も初めは穏便に対処しようと務めてはいたの。だが、いつまでたっても軟化しない緋野の態度に次第に苛立ちが大きくなり、今では目を合わせるたびに喧嘩している、と言ってもいい。
これでも僕たちはチームなのだから、もう少しまともな意思疎通ができなくてはいけない、とは思っているのだが…
「…問題あるなしじゃなくて、真面目にやってくれないかってことなんだけど。緋野には難しかった?」
「そうね。私、君の事情には興味ないの」
「またそういう……コトがコトなんだから、少しは協力的になってくれないかな?」
「別に、私だけでもどうにでもなるから」
「だから…!」
こちらの神経を逆なでるような彼女の言葉に、僕が声を荒げたその瞬間。
足元――先ほど拘束した男の体から、急速に魔力が膨れ上がる感覚。
「っ!マジか!!」
咄嗟に、大きく飛び退って男の体から離れる。男の体が見る見るうちにボコボコと膨れ上がり、鎖を引きちぎりながら別の形へと姿を変えていく。
魔族化。
魔法病への高い適性を持った人間が過剰に魔法を使った場合に変質する、魔法使いの成れの果て。魔法を使うことに特化したその存在は、人間だったころよりも遥かに強力な魔法を操る危険な存在。何より、魔族と化した人間は、もはや元の理性を有しない。その魔法能力の限りを持って周囲を破壊しつくす、生まれ持っての害悪存在だ。
恐らく、自身の内で完結するような魔法を連続で空撃ちし、急速に魔法病の進行を速めたのだろう。自ら魔族化を行う人間など普通はあり得ない。そう思って完全に油断していたが…
――狂信者どもが!
恐らく、『男たち』の所属する組織の教義が、魔族化への心理抵抗を弱めている。そのことにようやく思い至るが、既に状況は手遅れだった。
男の体が魔族への変化を終える。その姿は、黒い大型犬が歪に肥大化したようなもので、口からは吐息に合わせて燐光がこぼれ出る。地獄の番犬、あるいはバスカヴィルの魔犬か。
『――ガァァァアアア!!』
「ッ、とおっ!『閉じろ』!!」
魔犬が、その口から青い火炎を吐き出す。完全に回避したにも関わらず炙られるような熱気を感じる強力な火炎の一撃。
その巨大な火炎の奔流を避けながら、周囲に結界を張る。人払いがされているとはいえ、ここは商店街の裏通り。火が燃え広がれば消火までにどこまで焼け落ちるか分からない。故の結界。周囲に張り巡らされた防壁は、魔犬の吐き出した火炎をその内に抑え込み、周囲への延焼を防ぎきる。
だが、その一拍の間に魔犬はさらなる追撃に出た。
『――ゴァァァアアア!!』
再び吐き出した、青い火炎。今度の狙いは、僕とは逆に移動していた緋野の方向。そして、青の劫火は過たず、緋野の体を包み込む。まともに喰らえば骨も残らないような、灼熱の一撃。
「緋野!」
炎に巻かれた彼女の姿に、思わずその名前を叫ぶ。脳裏に浮かぶのは、跡形も残さずに燃え尽きる彼女の姿。
だが…
「…っさいわね。叫ばなくても聞こえてるわよ」
青い火炎が逆巻き、その中心から緋野の姿が現れる。強力な火炎の直撃を受け、しかし彼女は未だその涼し気な態度を崩さない。その姿に驚愕の唸りをあげた魔犬が再び火炎を浴びせかけるが、やはりその蒼炎も先の炎の渦に取り込まれ、緋野の周りを旋回する。
緋野美波。その得意魔法は『火炎』。
それが魔族が放った火炎であっても、彼女にとっては春のそよ風のごとし。逆に放たれた火炎を操り、すべての敵を焼き尽くす。
――なんて、一応資料では読んでたけど。
まさか、本当にここまでとは。自分だったら、流石に直撃を受ければタダでは済まない。全くもって出鱈目な女だ。
そんな僕の内心はいざ知らず、緋野が渦巻く青の劫火を魔犬に差し向ける。
「燃え尽きなさい」
彼女の言葉に魔犬が回避行動を取ろうとするが、その足に絡み付いた光の鎖によって身動きが取れないことに気づく。緋野が魔犬の炎を防いだことで魔犬の注意が完全に彼女に移った時点で、その意識の隙を突いて拘束魔法を発動しておいたのだ。
回避行動が封じられたことを察した魔犬は、口からさらに火炎を吐き出して緋野の操る炎を押しとどめようとする。だが、それは無意味だ。魔犬が緋野の攻撃を迎え撃つために放った炎さえも取り込み、極大の猛火が魔犬に迫る。もはやどうすることもできず、魔犬はその劫火に飲み込まれていった。