時間にすれば、恐らく十秒程度。だが、僕からすれば永遠のように感じる時間が過ぎて。
崩れ落ちたビルの跡、その瓦礫の山の中から、僕と菊川さんは何とか抜け出した。
今の崩落を凌ぐためにだいぶ浸食が進んだ感じがするが、僕の場合は時間が経てば徐々に回復するので大した問題ではない。流石に、今日はこれ以上の魔法行使はきついけど。全く、特異体質様様である。
「――っと、菊川さん。怪我はない?」
胸に抱いていた菊川さんを話して、安否を確認する。防壁を抜けた瓦礫はなかったため怪我はないと思うが、結構な高さから落下したのでもしかしたらどこか打ち付けているかもしれない。そう思って彼女に問いかけたわけだが、顔が少し赤くなったように見える菊川さんはポーッとしていて返事を返さない。もしや、本当に打ち所が悪くて脳震盪か何かを起こしていたり?
「…菊川さん、大丈夫?」
再び呼びかけ、目の前で軽く手を振る。すると、僕の呼びかけに気付いたらしい彼女はゆっくりとした動作でこちらを見上げてくる。
落下の衝撃で乱れた髪の隙間から、普段はその髪の奥に隠れた右目と両耳が露出する。輝く宝石のような琥珀糸の瞳に、銀の毛におおわれた狼のような耳。予想だにしていなかったそれに、思わず目が釘付けになる。
すると、僕の視線に気付いたらしい菊川さんは見る間に青ざめると…
「――いやっ!」
両耳を手で覆い、こちらに背を向けるようにしゃがみこんでしまう。自らの瞳と耳を見られたことに恐怖するような反応。その理由は、何となくだが察することができた。
通常ではありえないような器官の発露。それは、魔法病の浸食によって引き起こされる体の変異によるものだろう。体の変異が起きた後に浸食が止まるような例はあまり多くないが、それでも複数報告されている。菊川さんは魔法病への耐性がそれほど高くない。恐らく、感染初期に一気に浸食がすすみ、目と耳が変異してしまったのだろう。
そして、その魔法病罹患者の象徴とも言える変異器官は、周りの人間の目にはどう映ったのだろうか。目に見える魔法病。それに対する周囲の反応は、自分達と見た目が違う者に対する差別どころではないだろう。魔法病の浸食が進むと体が変異するという事は周知の事実。そんな中で、体の一部が変異した状態の彼女は、いつ浸食が完了してもおかしくない不安定な存在に見えたはず。魔法能力者の成れの果て、『魔族』の存在も相まって、相当数の奇異と恐怖の目を向けられたに違いない。
「…菊川さん――」
うずくまり、ガタガタと震える菊川さん。そんな彼女に声をかけようとしたのだが――
『――ガァァァアアア!!』
「っ!なに?!」
突如、後ろから何かが吹き飛ぶような音と、獣の咆哮。
咄嗟に声のした方向に向き直り構えを取ると、そこには崩れ落ちた瓦礫の山から這い出した一匹の巨大な魔狼の姿。恐らくは、フーリーズの魔法能力者、その男女のどちらかが魔族となったもの。その魔狼は、ブルリと体を振るわせて体にまとわりついた土砂を弾き飛ばすと、ゆっくりとこちらの方を向く。突如、膨れ上がる魔力の脈動が肌を叩く。
『ゴァ!!』
「っ、阻め!」
ほとんど無意識の内に発動した防壁の魔法は、魔狼の撃ち出した衝撃波の魔法を何とか防ぎきる。だが、廃ビルの崩落を防ぎ切った分だけで、僕の魔法病の浸食は限界まで進んでいる。これ以上の魔法の行使は流石に命に関わる。さりとて、魔族となり果てた魔法能力者を倒すためには魔法の使用は不可欠。
チラリと後ろの菊川さんに視線を向けるが、右目と耳を見られたことによるトラウマの発露によって今も震える彼女は戦力になりそうにない。まあそもそも、菊川さんは直接戦闘が苦手なため万全の状態でも厳しいだろうが。
――これは、一か八か、やるしかないか…?!
僕が、自身の体質による浸食の回復能力に一縷の望みをかけて、魔狼との戦闘を始めようと覚悟した、その瞬間。
「邪魔」
魔狼の背後に現れた緋野が冷めた口調でそう言ったのと同時。魔狼の足元から巻き上がった火炎は、対応する暇もなく魔狼の身を焼き尽くす。太陽のような灼熱の輝きが周囲を照らす。数秒の後、火炎が消え去った後、魔狼は影も残っていなかった。
「無事?」
一瞬で魔狼を焼き尽くしてしまった緋野は、まるでそれが何でもないことであるかのように、いつものように涼やかな様子でそう問いかけてくる。
カッコよすぎる。何だコイツは、まるで緋野じゃないみたいだ。
「…あ、ああ。ありがとう、助かった」
「そ。まったく、弱っちい奴はこれだから困るわね。面倒かけないで」
訂正。何だこのクソ女。やっぱり緋野は緋野だったよ。
そんな憎まれ口を叩く緋野を睨みつけるが、彼女はどこ吹く風。やっぱり、こいつのこと嫌いだ。
「で、フーリーズの頭は抑えたの?」
「……いや、逃げられた。廃ビルの崩落は、奴が逃げるための策だったらしい」
「なるほど。あんたの失態はいつものこととして、そりゃ面倒ね」
何でもないような表情でそう呟く緋野。実際、状況はそれなりに面倒だ。フーリーズ事態は無力化できたものの、そのリーダーの男、魔法能力者には逃走された。こちらの犠牲者は無かったからマシとは言え、市民の安全を考えるとなかなかに頭の痛い状況だ。
「ま、ここで悩んでも仕方ないし。なんにせよ、野次馬が集まる前に逃げましょう」
「…了解」
やっぱりなんともなさそうな緋野。こういう時は、そっけない緋野の性格が逆にありがたい。
「…ほら、菊川さん。とりあえず、ここから動かないと」
未だに震えている菊川さんを促し、倒壊した廃ビルを離れる。今ならまだ人が集まっていないので。簡単に認識阻害魔法で身を隠すことができる。
それにしても、と。チラリと廃ビル跡を離れる尻目に瓦礫の山を見つめる。勅使ヶ原リーダーの言っていた通り、フーリーズは教団の研究者の手によって魔法能力者となっていた。もしもこの実験が成功だったなら、これから教団の元にはさらに魔法能力者が増えるかもしれない。無論、付け焼刃の魔法程度に敗けるつもりはないが、圧倒的な数を揃えられた場合にどこまで対処できるものなのか。それがかなり、不安だ。
そんな嫌な予感を覚えつつも、僕は廃ビルを後にした。
***
「――それで、フーリーズのリーダーは逃してしまったと言う訳か」
「…すみません、油断していました」
「いや、その状況なら仕方ない。普通なら、まさか部下を捨て駒にするとは思わないよ」
「……はい」
翌日、僕たちは再び公民館の小会議室に集まっていた。目的は、昨日の廃ビルでのフーリーズ対応案件の結末について。フーリーズのほとんどは廃ビルの倒壊で地面の下に埋まり、リーダーは逃走。はっきり言って、結果としてはかなり悪いものだ。
「まあ、幸いと言うべきか、世間では魔法犯罪に対する風当たりが強い。フーリーズに複数の魔法能力者がいたという事実から、ビル倒壊の被害については余り問題視されてないみたいだ。周囲の住人にはけが人もいないしね」
「でも、フーリーズのリーダーを逃した件については…」
「…うん。まあ、そこなんだよね」
リーダーが嘆息する。
放置すると未曽有の災害に繋がる恐れありと認識されている魔法犯罪に関しては、僕たち特殊対策チームは驚くほどに大きな権限を許されている。それは、普通なら許されるはずもない犯人の殺害も含めて。今回だって、犯人たちの手によるものとはいえビルの倒壊、そして複数の死亡者の存在。本来であれば厳しく責任を追及されるはずである。だが、実際には魔法犯罪への対処という特殊性ゆえに『その程度の』問題は黙認されているのが実情。それだけ、魔法病の罹患者というものは世間から恐れられているし、多少の犠牲を良しとしてでも防がれなければならないものと認識されているのだ。
そして、それゆえにフーリーズのリーダーを逃した事実が痛い。
勅使ヶ原リーダーはあの状況では仕方ないと言っていたが、警察上層部はそうは思わないだろう。何より、ビルを倒壊させてまで逃走するような魔法犯罪者が野放しになっているという事実が、世間の不安を煽っている。フーリーズ自体が壊滅状態で、三人のうち二人の魔法能力者は『無力化』されたという発表があっても、世の人々は納得しないだろう。なにせ、見えない平気で重武装したテロリストが野放しになっている状況なのだ。
「作戦自体が失敗、と言う訳ではないから責任追及こそないけど。ただ、上からは『早急に』フーリーズのリーダーを捉えるなり『無力化』するなりの対処を求められている」
「…と言っても、どこにいるのかは分からないですよ?」
「それが問題なんだよね……一応聞くけど、菊川さんの探査魔法で見つけることは出来るかな?」
「…多分、無理。遠くまでは探せないから」
「そうだよね…」
リーダーの言葉に、菊川さんはわずかに思案したのちに答える。
彼女の様子は、昨日の取り乱しようが嘘のように静かだ。髪もいつものように顔の半分と耳を隠すように垂らされていて、あの右目と両耳は見えない。いつもと同じ、心の内が見えない静かな感じだ。まあ、あれから一晩経っているので、何とか心を落ち着けることができたという事だろう。なんだか僕の方を見てくれない気もするが、よく考えればそれはいつものことなので何とも言えない。
「まあ、ここで考えても仕方ない。協力者から情報も得られるかも知れないし、君たちは続報を待ってくれ」
「「「了解」」」
リーダーがそう締めて、会議は終了する。なににせよ、あの男の情報が手に入らないことには始まらない。その点、未知の新技術たる魔法を使える僕たちであっても、あまり役には立たない。見た目は派手でも所詮は個人レベルの技術なのだ。そして、こういう情報集めにおいては、基本的に人海戦術が正義なのである。
そんなわけで、今日のところは解散。僕たち四人はそれぞれの日常へと戻っていく。逆に、リーダーと我妻さんと小早川さんは公安側の人間なので、まさにこれからがお仕事。頑張ってください。
さて。
会議室を出るに際して、菊川さんを追う。いつもは会議が終わるとすぐに帰ってしまう彼女であるが、『昨日のこと』についても聞いておきたい。そう思って彼女の後を追ったのだが…
「ついてこないで」
すげなく拒絶されてしまう。
いつも通りと言えばいつも通りだが、ここまではっきりと拒絶されと普通に辛い。
「えっと、先輩、大丈夫ですか?」
がっくりと肩を落としていると、日向さんがそう言って慰めてくれる。なんだろう、いつもと逆な感じだ。
「…ありがとう。まあ、平気だよ。菊川さんがああなのはいつものことだし」
「そうですか、良かったです。でも、珍しいですね。先輩が菊川さんに積極的に話しかけるなんて」
「……まあ、ちょっとね」
日向さんの言葉に、あいまいな返事を返す。
昨日の出来事、彼女の右目と耳について聞きたいと思っての行動だったが、それについて彼女に説明するわけにもいかない。昨日の反応からしても、相当にデリケートな問題だろう。まあ、それならば僕が突っつきまわすのもどうかという部分もあるが。ただ、見てしまった以上は放っておいた方が後々問題になりそうな気がする。
そんなことを考えてのあいまいな答えだったのだが、日向さんには変に伝わったらしい。むむむ、と唸って何事かを考えていたかと思えば、ハッとした表情になってこんなことを言ってきた。
「ま、まさか!先輩、恋ですか?!」
………いや、なんでだよ。
「いやあの…」
「ダメですよ、先輩。、私というものがいながら!そりゃ菊川さんは可愛らしいお人ですけど、私の方が先に先輩と仲良くなったんですからそこは順番を守ってもらわないと!」
「だから…」
「確かに先輩には幸せになっていただきたいですけど、それとこれとは話が別ですからね!私だって幸せになりたいですからね!」
聞いちゃいない。
というか、聞いてない。初対面からやけに距離感が近いとは思っていたが、そこまでとは聞いていない。
「あの、日向さん?」
「それとも何ですか?守りたくなる感じが良いってやつですか?『僕が守ってやるよ』なんて言っちゃうんですか?なにそれめっちゃ聞きたい!!」
「お~い…」
「でもでも、時代はやっぱり守られるだけの女じゃないんですよ!こう、自ら動いて愛する人に幸福をもたらすための努力ができることがやっぱり大事で」
「……愛ちゃんや」
「はい!あなたの愛です!!」
「うおっ!」
予想外の食いつきに驚く。日向さんは何やら期待したようなキラキラした目でこちらを見つめてきているけど、ごめん。単に名前で読んだら注意を引けるかなくらいの思いつきなんだ。
「…いやあの、なんでそんなに?僕たちまだ会ったばっかりだと思うんだけど」
「え、あれ?先輩、もしかしてあの時のこと、忘れているんですか?」
「…え?」
日向さんの言葉に頭が疑問で埋め尽くされる。あの時のこと。日向さんの言い方からすると、多分僕が彼女と初めて会ったと思っている時期以前に、僕は彼女にあっているという事だろう。だろうが……どうしよう、全く覚えがない。
「……へぇ」
日向さんは不愉快そうに目を細めて僕を睨みつける。僕に心当たりが無いことを察したのだろう。いつもニコニコと柔らかな笑顔の彼女にしては珍しい表情。
「えっと、その…」
「…いいんですよ。先輩に取っては日常茶飯事の取るに足らないエピソードだったんですよね?不良から助けられた女の子からの感謝の気持ちなんて、飽きるほど受け取ってるんですよね?」
その言葉に、大体の事情を察する。
二年前、教団のテロに巻き込まれた直後の僕はかなり荒れていた。両親の死、妹の病状、そして魔法という良く分からない力。にわかには受け止めきれないほどの苦難が大挙して押し寄せたことで、僕の精神は一気に荒んでいった。そして、街で不良が誰かをいじめているような場面に出くわすと、よく事情も確かめずにその不良たちをぶちのめしていた。喧嘩慣れしていたわけではなかっただ、自身にもたらされた魔法により一般人を殴り倒すのに苦労はなかった。
要するに、体のいい八つ当たりだ。
多分、日向さんはその八つ当たりの際に被害者側だった人間の一人なのだろう。僕としては、視界に入った目障りな馬鹿どもを殴ることで鬱憤を晴らしていただけなので、誰かを助けたという認識もない。さらに言うと、落ち着いた今となってはむしろ思い出したくない部類の過去だ。だって、ただの乱暴者の所業だから。
ただ、そこで助けられたと感じた日向さんにとっては素敵な思い出だったという事だろう。で、その時に自分を助けてくれた恩人という事で、『初対面』の時からあれだけ好意的だったと言う訳だ。
「だからだから、別に有象無象の事なんて忘れてご自分の幸せを考えていただければ――」
「…ごめん、あの頃のことはいい思い出じゃないから、思い出さないようにしてた。忘れられて傷ついたよね、ごめんね?」
「許します!」
――えぇ…?
それまでの剣幕はどこへやら。僕の言葉に一気に機嫌をなおしたらしい日向さんは、にっこりと微笑んでそう言った。僕がいうのもなんだが、いいのかそれで?
「…だって先輩、あの時のことはいい思い出じゃないんでしょう?」
「いやまあ……だけど、それは僕の事情で会って日向さんの――」
「愛」
「……愛ちゃんの事情じゃないでしょ?」
「いいんですよ。さっきはヒートアップしちゃいましたけど、やっぱり先輩が幸福でいられるのが一番ですから」
「マジか」
思わず驚きの言葉が口から出る。
正直言って、彼女にとっての大切な思い出を忘れているというのは割と責められるべき所業だと思っていたのだが、愛ちゃんは優しい笑みを浮かべて許すといってくれた。逆に怖い。
「それに、ちゃんと名前で呼んでくれましたし」
「…え?そんなんで良いの?」
「重要なことですよ」
そう言って、愛ちゃんは笑う。
「だから、さっきはああ言っちゃいましたけど、菊川さんのことは先輩の望むように……」
「あ、そうそれ!」
「?」
はてなといった表情で小首をかしげる愛ちゃん。
愛ちゃんが全力で明後日の方向に駆け出して行ったので忘れていたが、当初の話では菊川さんに話しかけた事情を聞かれていたはずだ。適当にぼかしたらなんだか誤解されてしまったのだが。
「別に、菊川さんが好きになったからアプローチをかけてたとかじゃなくって。ちょっと、余り言いふらせない事情で話を聞きたいだけで…」
「……いつの間にやら、菊川さんと随分仲良く?」
「いや、全然」
「えぇ…?」
良く分からないといった風の愛ちゃん。確かに、僕もよくよく考えると良く分からない状況だ。菊川さんとの仲は全く深まっていないはずなのだが、彼女にとってデリケートな問題を一方的に知ってしまっている。事故だけど。
「ちょっと事情が。で、菊川さんと話をしておかないと、って思うんだけど、いつものごとく避けられちゃって…」
「ふむふむ。では、もっと押せ押せで押し切ってしまうというのは?」
「…それって、嫌がられない?菊川さんの性格からして」
「多分、激烈に嫌がられますね」
「ダメじゃん…」
愛ちゃんの言葉に、ため息をつく。だけど、愛ちゃんの方はそう思っていないみたいで、「いえいえ」と言って言葉を続けてくる。
「菊川さんの性格上、機を待ってたらいつまでたっても進みませんから。多少強引でも、こちらから押していかないと」
「でも、嫌がられるんでしょう?」
「はい。でもそんなのは、仲良くなってから謝ればいいんですよ!」
「無茶苦茶な…」
愛ちゃんは予想外に強引だ。でも、確かに今までの愛ちゃんの積極性を鑑みると彼女はそういうタイプな感じがする。
「良いんですよ。人間関係の失敗なんて、生きていればよくあることなんですから」
「…自分から失敗に飛び込んじゃダメじゃない?」
「もうっ!変にネガティブなんだから!」
そう言って、愛ちゃんは僕の顔を両手でつかみ、じっと僕の目を見つめてくる。
「大丈夫、先輩の気持ちは、きっと伝わります」
「…恋じゃないんだけど」
「何だって一緒ですよ。嫌がらせしようって話じゃないんですから」
クスクスと笑う愛ちゃん。至近距離でみる彼女の笑顔が、いつもより魅力的に映る。
「ポジティブだね、愛ちゃん」
「…ポジティブじゃなきゃやってられませんよ。魔法病の罹患者なんて」
フッと体を離した愛ちゃんが、こちらに背を向けて歩き出す。僕が帰る方向とは逆。いつの間にやら分かれ道まで来ていたようだ。
「とにかく!菊川さんとお話がしたいなら、押せ押せで行くっきゃないですよ!」
「…わかった。ちょっと頑張ってみる」
「ご武運を!」
そう言って、愛ちゃんは駆け出した。彼女の姿は、夜の路地の中に一瞬で消えていった。
「あそこまで言われたら、頑張るっきゃないよね」
彼女の手が添えられていた頬が、熱を持ったように感じる。鏡はないが、多分顔は赤くなっているだろう。
愛ちゃんの激励の言葉。それを聞いたら、菊川さんの拒絶の言葉にしり込みしていたのがバカみたいに思えてきた。
――とりあえず、まずは頑張ってみてから考えればいいか。
そんなことを考えながら、僕は秋の夜空の下、帰路へと着いていった。