まだ見ていない人はそちらも目を通した方が流れが分かりやすいと思います。
「は、な、せ!」
「おっとっと」
往来の真ん中、引きずられていた腕を振り解く。
雪ノ下はよろけながらも、すぐに体勢を立て直した。
その表情は一見不機嫌そうに見えるが、口元に浮かぶ笑みを見逃しはしない。
「危ないなぁ」
「意図的にやっておいて白々しい」
「当たり前でしょ?」
しれっとそう言うあたり、本当にこの同級生はあなどれない。
パッと見、非の打ち所がない美少女だということもあってなおさらタチが悪い。
往来の人の注目をさきほどから集め、居心地も大変悪い。
「ただの嫌がらせのつもりならこのまま帰るぞ」
「もしかして怒っちゃった?」
「急に会った途端に腕を引っ張られて、ここまで連れてこられて怒らないヤツがいると思うか。俺はお前の下僕じゃない」
「あー、それはうん。ゴメン。私も頭に血が上っちゃってたみたい」
そう言って、彼女は軽く頭を下げる。
てへっと舌を出しているその姿は実にあざとい。
だが、彼女の姿とは別の要素が俺の口を閉ざさせた。
「……」
「どうしたの?」
「いや、そう素直に謝られると調子が狂うな」
彼女が素直に謝ってくるなんて考えられない。
悪いものでも食べたのか、風邪でも引いてしまったのか、はたまた影武者か。
この後、いきなりナイフを突きつけられても驚かないだろう。
「何それ。明日は傘を忘れた出かけた先で夕立に降られてびしょ濡れになればいいのに」
「リアルにありそうなこと止めろ」
「私だって謝るときは謝るって。それとも何、私ってそんなに常識ないように見えてたの?」
常識の云々を雪ノ下に説く必要はないだろう。
彼女はどっちかと言うと、分かっていて物事をやっているタイプの人間であることは観察で分かっている。
ただ……。
「今まで自分が学校でやってきた行動を思い出せばいいんじゃないか」
「学校……? あぁ、そっか。見られてたんだっけ」
雪ノ下はその美貌とコミュ力で、二年も経たずに一大ヒエラルキーを作りだした存在だ。
そのシンパの多くは男子であり、同級生どころか先輩でさえも顎で使う。
一部の女子には嫌われているようだが、後輩たちにとっては憧れの対象として見られていることも多々あるらしい。
そんな感じで今まで見聞きしてきたことを伝えると、雪ノ下の表情が怪訝に歪んだ。
「やっぱりストーカーじゃないの、それ?」
「自己防衛だ。一番俺に被害が及ばない行動が一般人のフリをすることだったまでのこと」
まぁ、それでもバレなかったのは幸運によるものだが。
いや、結局見つかってこうして捕まっているのだから、幸運も何もあったものじゃないな。
生徒会選挙での吊りに引っかかったところが運の尽きだった。
「そこなんだよね。私だって人を見る目は結構自信あるんだけど」
「雪ノ下だって隠そうと思えばいくらでも隠せるだろう」
「そうだけど、でもちょっとぐらいはわかりそうなものじゃない? キミが私に気づいたみたいに」
それは……。
「……多分、俺の外にいるもうひとりの俺のせいだろうな」
「どういうこと? もしかして多重人格だったりする?」
「いや、そういうことじゃなくてだな」
自分の中の自分。
それはいつも俺を観察するように眺めている。
外側から俺を見とがめる第三者の目となり、逸脱した行動をとろうとすることを抑制してくる。
「とまぁ、こんなところだ」
「私がよく被ってる仮面みたいなものかな」
「あぁ」
他人に聞かれたら色々と問題のある会話をしている気がする。
しかし、道行く人たちはすれ違う雪ノ下の美貌に目が向くばかりで話している内容にまで意識が行っている様子はない。
ある意味美しすぎる故の妙というべきだろうか。
「やっぱり──やっぱり、私とキミは同類なんだ」
くすり。
彼女はふっと嬉しそうに頬を緩める。
その表情は警戒をしている表の俺を突き破り、するりと奥にいる『市原肇』の元にまで達してしまう。
「そんな顔をしても、何も出ないぞ」
「ん? どういうこと? 私、変な顔してた?」
「……いや、何でもない」
どうやら無意識だったらしい。
笑顔に見惚れてしまっていたとも言えずに、そう言って誤魔化す。
雪ノ下は気づいた様子もなく、道端のある一角を指さした。
「とりあえずあの喫茶店で座らない? 不本意だけどさっきのお礼もしたいし」
「あそこは……あぁ、分かった」
「うん、じゃあ決まりね」
その瞬間、右腕に絡めてくる。
ふにゃりと、柔らかい感触が腕を包みこんだ。
慌てて払おうとするとさらにはっきりと感覚が伝わってきて、思わず固まってしまう。
「ちょ、離れろ!」
「えぇー、いいじゃん。減るもんじゃないし」
「俺の精神がゴリゴリ削れるんだが」
「それを聞いて私がやめると思う?」
「やめろ! ついでと言わんばかりに関節をキメてくるな!」
騒ぎながら、喫茶店へと向かっていく。
休日の貴重な一日は、予想外に騒がしくなりそうだった。