どこまでも続く緩やかな坂道は、まるで晴れ渡った秋空の先まで続きそうなほどに長く伸びている。
住宅街を通り過ぎ、いつの間にか周囲には木々が並んでいた。
ここだけ見れば、緑豊かな別世界のようにも見えてくる。
「だいぶ歩いたね」
「何だ、もう限界か」
「そう見えるんだったら、よっぽど視力が悪いんじゃない?」
強気にそう言う彼女の額には、うっすらと汗が滲んでいる。
喫茶店を出てからかれこれ一時間は経っているだろうが、弱音も上げずに歩き続けてきた。
最初に海に行くと言った時は、正直冗談かと思った。
道端にあるバス停のベンチに座り、もう無理と根を上げるものだと考えていたのだが……存外、根性があるんだな。
少し、見直した。
「残念だ。もっと露骨にひぃひぃ鳴いてくれてもいいんだが」
「子どもの頃のキミ、みたいに?」
「……そうだな。小さな子どもみたいに泣き叫ぶといいさ」
一瞬だけ言葉に詰まる。
こんな状況にあっても、雪ノ下は俺を攻撃することを止めるつもりはないらしい。
喫茶店で土方さんから仕入れた俺の過去の話を振ってくる。
何とか言葉を返すも、返ってきたのは勝ち誇った少女の笑みだった。
「はい私の勝ち」
「勝ち負けの勝負をした覚えはない。よってこの勝負は俺の不戦勝だ」
「何それ、意味分かんないんだけど」
「安心しろ、俺も分かっていない」
「自慢できることじゃないって──おっとと」
足に疲れが溜まっていたらしい雪ノ下が、バランスを崩す。
だが、寸でのところで何とか踏みとどまった。
そろそろ限界だろうか。
「ほら」
「ありがと」
「……」
彼女の手がそっと俺の右手に添えられた。
力を込めれば折れてしまいそうなほどの指は、女性らしい柔らかさとしっとりとした温もりを伝えてくる。
…………綺麗だな。
というか、意外だった。
弾かれるまではいかなくても、文句を言われる程度のことは想像していたのだが。
どうも調子が狂うな。
俺が見てきた雪ノ下じゃないような気さえ──
「素直すぎる、って?」
「ナチュラルに心を読んでくるな」
「キミ、ブーメラン投げるのうまいね」
「お褒めにあずかり光栄です、お嬢様」
皮肉を嫌味で返しつつ、坂道を歩き続ける。
そんな俺たちの前に、それは現われた。
傾きはじめた陽光に照らされた砂浜、その先に広がる群青色の海。
遥か遠くには見える水平線の向こう側には、うっすらと夜が侵蝕してきていた。
ひっそりと、誰もいない空間に波の音だけが響く。
「ふぅん、いい景色だね」
「その割には興味なさそうだが」
「だって興味ないし」
けろっと言い放つ雪ノ下。
「ならどうしてこんなところまで来たんだ。あっちからこの町まで、結構時間がかかっただろうに。そんなに暇だったのか?」
「それは──」
「……それは?」
「ナイショ♪」
「何だよ、妙に引っ張っておいて」
「キミなら分かるんじゃない?」
彼女の視線は、挑戦的にこちらを刺す。
「無茶を言う。喫茶店で齟齬が生まれたように、全部が全部分かるわけない。テレパシーでもあるまいし」
「つまんないの」
そう言いつつ、興味なさげに彼女は海の方に目を向ける。
──ざざぁん、ざざぁん。
波の音は静かに俺たちを出迎えてくれる。
「誰もいないね」
「この時期のこの時間に海に来るなんて、暇人かロマンチストしかいないだろう」
「じゃあ」
「さぁな、適当に言ってみただけだ。特に根拠はない」
「でも、そっか。もう冬なんだもんね」
「来週にはもう生徒会長投票だな。準備の方は──聞くまでもないか」
「前から思ってたけどさ……キミ、やけに私への期待値高いよね。色々見てきたからって、なんでそんなに期待できるの?」
「似ているから、じゃダメか?」
「そんな分かりきったことはいいの。私が知りたいのは、もっと別の理由」
「……」
理由、か。
話さないと逃がさない。
そんな気概がひしひしと付きあってきた。
逃げられない、か。
諦めの混じったため息を吐き、息を吸いこむ。
「お前の中にある泥だ。
さらさらとした砂ではない。石が砕け散った礫でもない。
真っ黒で、粘ついていて、身体の芯にまで染み渡った泥。
他人と接するとき、誰かを操るとき、壇上へ経ったとき。
それはずっと、形を変えながら誰かを見ている。目の前にいる誰かにあわせ、形を変えている。
どうあがいてもお前の中にべっとりと存在するその黒さがある限り、雪ノ下陽乃は雪ノ下陽乃のままであるし、成し遂げると決めたことを必ず成し遂げる。
俺はそう信じている」
そして、一息に言い切った。
俺の言葉を聞いた雪ノ下は、ぱちくりと気の抜けた表情をしていたかと思うと、
「ふぅん」
表情の見えない声でそうつぶやいて、海へと向き直った。
──ざざぁああん、ざざぁああん。
静かだ。
どこかこの世ではない、別の世界かとさえ思えてきてしまうほどに。
「ねぇ、市原クン」
幻想的な風景に見入ってると、隣から声が聞こえてきた。
「どうした?」
「今日は楽しかった?」
「……まぁ、それなりにはな」
「ならよかった」
彼女は迫り来る夜の帳に視線を向けたまま、ふっと微笑む。
そよいだ潮風が、肩で切りそろえた綺麗な髪を弄ぶように揺らす。
その姿はまるで──
「──っ!」
引きこまれそうになった意識が、ぐいっと戻される。
これ以上は危険だと、俺の中の俺が告げていた。
そんな俺の心境など知るよしもなく、彼女は再び口を開く。
「ねぇ、市原クン」
「何だ」
「呼んでみただけ」
……何だ、こいつ。
もしや、からかわれているのだろうか。
「ねぇ、市原クン」
「雪ノ下、いい加減しつこ──」
「私、キミのことが好きみたい」
……。
…………。
……………………え?
「え?」
世界から全ての音が消えた気がした。
「だから、つきあって?」