一瞬、思考が止まる。
雪ノ下が言った言葉の意味が、俺には理解できなかった。
「つきあう? 誰と誰が?」
「そんなの決まってるじゃん、ここにいるのは誰だと思ってるの?」
「それは……」
助けを求めるように、周囲を見回す。
しかしどこまでも続く砂浜は、無情にも俺と雪ノ下以外の姿を映し出すことはなかった。
諦めの混じったため息をつく。
「あら、ご不満?」
「不満も不満、むしろ不満しかない。今なら優秀なクレーマーになれる気がするほどにな」
「こんな美少女が告白してあげてるって言うのに」
「外見はともかく内面は致命的だろう。良かったな、綺麗な化けの皮を持って生まれて」
「でしょ?」
「──で、答えは?」
彼女の頬が上がる。
『雪ノ下陽乃』を象徴するような笑顔の裏に隠された絶対的自信こそ、彼女が魅力的に見える所以のひとつだろう。
大抵の男は、この魅力にころっとやられるかもしれない。
それに、彼女の魅力は外見だけではない。
誰かを敵に回してもなお自分の意思を貫き続ける胆力と、周囲を考えて──どのような風に、かはあえて言わないが──立ち振る舞うことのできる賢さも兼ね備えている。
ひとたび外に出れば、品行方正なお嬢様だ。
などと、表の顔だけを見て誘いに乗れたら、どれだけ楽だっただろうか。
彼女の美しい顔や性格を独り占めできることに、喜び泣き叫ぶかもしれない。
──その裏に隠された、どす黒い本性に気づかずに。
「断る」
何かが軋む音が聞こえる。
身体か、心か、それとも全てか。
だが、構わない。
「お前とは付きあえない」
俺はまっすぐ言葉を突きつけた。
それは決別の言葉。
「……」
その言葉に、雪ノ下は口を閉ざす。
しかし、こちらから視線を外さずに、感情の見えない目でただじっと。
正面から見据えながら、俺はある言葉を思い出していた。
ハリネズミのジレンマ。
近づけば近づくほど、自分の持つ針で相手を傷つけてしまうハリネズミのお伽噺。
俺と雪ノ下は似ている。
外側の話ではなく、もっと深い、心の奥底にある精神のところで。
だが、だからこそ俺たちはお互いを傷つける。
どれだけ好意を寄せようと、嫌悪という自らの中に潜む刃で。
例え、その感情がどれだけ『本物』であったとしても。
やがて、気持ちの整理がついたのだろうか。
雪ノ下はゆっくりと顔を持ち上げる。
彼女の瞳が、痛いほどまっすぐこちらを捉えた。
その口から、淡い薄桃色の唇から何が告げられるのか、どんな悪態が飛び出すのか。
喉を鳴らして、身構える。
しかし、俺の耳に届いたのは意外な言葉だった。
「そっか」
彼女はそれだけ言うと、ポケットから携帯を取り出した。
慣れた手つきで操作し、耳に押し当てる。
「もしもし? あ、うん。私。もういいよ」
短い通話だった。
すぐさま彼女はポーチに携帯をしまい込む。
その表情も、仕草も、普段と変わらないように見えた。
「雪ノ下?」
「気にしないで、迎えを呼んだだけだから」
「……用意周到だな」
「ホント、嫌になっちゃうぐらいね」
雪ノ下は笑う。
いつも通りの表情で。
そんな彼女に釣られて、俺も皮肉めいた笑みを漏らす。
と、雪ノ下の視線が遠くに向けられる。
「あ、来たみたい」
「そうだな」
坂を超えて、黒塗りの車がやってくる。
停められた車の運転席から出てきたのは、黒服に身を包んだひとりの老紳士だった。
彼は雪ノ下に向かって、やうやうしく頭を下げる。
「お迎えに上がりました、陽乃お嬢様」
「ありがと。じゃあね、市原クン」
そう言って、雪ノ下は車の扉を開く。
「なぁ、雪ノ下」
「何?」
「……いや、何でもない」
俺は何を言おうとしていたのか。
ついさっき、伸ばされた手を払った彼女に、いったい何を……。
わからない。自分の心がわからない。
「そ」
返ってきた言葉は、今まで聞いたどんなものよりも冷たかった。
彼女はこちらを一瞥して、車に乗りこむ。
ドアが閉められる音が、やけに大きく耳に届いた。
やがて、黒塗りの車は進み出す。
彼女が坂の向こうに消えていく様を、俺はただずっと見てた。
ずっと、ずっと。
「……これで良かったんだ」
砂浜にぽつりと落ちた言葉は、寄せては返す波の音にさらわれて消えていく。
そう、これで良かったんだよな。
坂の向こうから視線を外すことなく、自分の心に問いかける。
しかし、答えは返ってくることがない。
──じわり。
足下に滲むしめった感触に視線を向けると、いつの間にか波が両足を包んでいた。
這い上がってくるような冷たさと気持ち悪さに、思わず顔をしかめる。
「俺も帰らないと」
しかし、足が言葉通りに動くことはなく。
動き出したのは、世界が完全な黒に溶けこんでからだった。
車が走り出して数分。
車内の空気は壊滅的に悪かった。
その原因はひとつ。
「お嬢様、今日のひとり旅はいかがでし──」
「話しかけないで」
ぴしゃりとそう言えば、運転席の執事は口を閉じる。
後部座席で腕を組み、どす黒いオーラが見えるほどに不機嫌を身体全体で表していた。
そんな彼女の頭の中では、先ほどの出来事がぐるぐると巡る。
勝算がない戦いはしていないつもりだ。
雪ノ下陽乃を見る市原肇の目は、少し前と比べて確実に柔らかくなっている。
抱きついた時の反応も悪くなかった。
打算的に、狡猾に。
そうやって今まで、雪ノ下陽乃は欲しいものを手に入れてきた。
手に入ると、思っていた。
手に入れたい。
その気持ちは、一度振られてからも変わらない。
でも、どうやって?
──わからない。
今まで近くに感じていたはずの肇のことが。
見えているものは一緒のはずだと、そう信じていた彼の存在が。
そんな彼を思っている、自分の感情が。
心の正体に気づけないまま、彼女を乗せた車は走り続ける。
思ったよりも遠くまで来てしまっていたらしい。
彼女がそこに辿り着くのに、もう少し時間がかかりそうだった。