よろしくお願いします。
いつからだろう。
自分を見つめる、もう一人の自分の存在に気がついたのは。
「やっと終わったか……」
夏の熱気が薄れ、涼しい風が吹き込み始めたある秋の日。
体育館で鳴り止まない拍手の中、俺━━市原肇はひっそりと息を吐いた。
拍手の先、ステージ上にいるのは絶世の美少女と名高い雪ノ下陽乃。
自分とそのスピーチを讃える拍手にもう一度だけ礼をして、彼女は用意された席へと戻る。
その様子を右斜め後ろから眺めていた男子生徒は、悔しそうに歯嚙みしていた。
眼鏡をかけた、真面目そうな少年だ。
きっと、真面目に演説をこなし、真面目にビラを配り、真面目に雪ノ下陽乃に勝とうと思っていたのだろう。
だが、その程度ではあの雪ノ下陽乃に勝てなかった、
雪ノ下はただ自分が絶対の存在であるかのように、この空間の支配者であるかのように、悠然と笑みを浮かべて一暼さえもしない。
中央に置かれたマイクを挟んで左右に並べられた椅子は、面白いほどに事の白黒をはっきりと表していた。
「━━総武高校生徒会選挙演説会を終了させていただきます。次に、投票時の注意事項について……」
ステージの脇にいる放送部員が読み上げる定型文など、ほとんど誰もが聞いていなかった。
「カッコいいなぁ、雪ノ下先輩」
「だね! 文化祭でも大活躍だったし、憧れちゃうよ〜」
「生徒会役員になればお近づきになれるのかなぁ」
「よせよせ、お前なんかが選ばれるはずないって」
浮き足立って好きに話しはじめる観衆も、なぜか誇らしげに頷く教師も、悔しさに顔をにじませる対抗馬も。
そして、この場を支配する主役でさえも。
投票をするべくもなく結果は決まりきっているのだから。
雪ノ下陽乃が生徒会長に選ばれる確率はほぼ百パーセント……いや、絶対と言っていいかもしれない。
もとより、選挙前から校内の世論は固まっていた。
あまり人と関わらないようにしている俺でさえ、その話は何度も耳にした。
それなのに真正面から挑むことを決めたあの男子生徒は、真に勇気のある人物なのか、あるいは━━。
「あるいは雪ノ下陽乃自身が仕込んだ偽物(ヤラセ)だったのか、か」
うつむき、誰にも聞こえないような声で口の中でつぶやく。
「市原(いちはら)、呼んだ?」
だが、それを耳聡く聞きつける人物がいた。
前方に座る、どこかサルっぽい風貌の同級生。名を有岡(ありおか)佐助(さすけ)。
しかし、内容までは聞き取れていないようだ。
「気のせいだ」
軽く手を振りながら、俺はこっそりと胸を撫で下ろす。
そんな俺に気づくことなく、有田はそのまま話題を振ってきた。
「こりゃ、次の生徒会長は雪ノ下さんで確定っぽいな」
「だろうな。もしかしたら、雪ノ下が全部票を取るかも」
「あー、ありうるかも。真田には悪いけど、オイラも雪ノ下さんに入れるわ」
「真田?」
「あいつだよ、真田雲水。雪ノ下さんの対抗馬の。同じサッカー部の仲間なんだ」
「……そんな名前だったのか」
「名前覚えるのは苦手なのは知ってるけど、さすがに数分前に名乗ったやつのことを忘れるのはヤバイと思うぞ」
「……有田が正論を言うなんて、明日は猿が空から降りそうだな」
「ウキーッ、何をー!?」
怒る姿もどこか猿っぽい気がする。
ふぅ、とりあえずひと段落、か。
生徒会選挙という難所は乗り越えた。
後はこれまでと同じく、雪ノ下に接触しな━━
「━━っ!」
急に、ぞわりと寒気が入った。
思わず、顔を上げる。
一瞬、壇上で座っている雪ノ下と目があう。
炙りだされた。そう気づいた時には、もう手遅れだった。
俺と視線を交わした彼女は、ニヤリと笑う。
「……やられた」
「ん? どうしたんだ?」
「いや、何でもない」
さも平気そうに有田に言いながらも、背中には大量の冷や汗が流れるのを自覚する。
もちろん、卒業までお互いに接することがないというのは難しいというのは分かっていた。
だが……。
「大丈夫か? お前」
「いや、大丈夫だ……はぁ」
のどに詰まったため息を抑えることはできなかった。