いつからだろう。
自分を見つめる、もう一人の自分の存在に気がついたのは。
遠くから眺める自分は、全てを俯瞰するようにじっと全ての物事を眺めている。
近いようで遠い、もう一人の自分。
多重人格というわけではない。
遠くから見ている自分も、紛れもない自分であるがゆえに。
何を話すわけでもなく、こちらに伝えてくるでもなく、『彼』は身の周りの色んなものを見ていた。
ずっと、ずっと。
監視するように。
だからだろう、
自分のことを特別だとは思っていなかったが、一般人だと勘違いもできなかった。
誰とも合わない感覚を持って生き続けるのだろう。
そう、思っていた。
そんな俺が『彼女』を見かけたのは、高校の入学式の時だった。
校門前まで足を運んだ俺の目に、綺麗な横顔が飛びこんできた。
たくさんの人の視線を一身に浴びる彼女は、とても美しく、まるで女神のよう。
だが、心の中から聞こえてきた声が見惚れる意識を現実に引き戻す。
『あれはやばい』
それは、俺の中の俺が初めて発した、危険信号のようなものだった。
そうして、理解した。
同類と言う言葉で表現できるほど生易しいものではない。
俺の世界を壊しうる可能性を秘めた、『天敵』だ。
だから、決心した。
あいつと俺の中の俺を関わらせてはいけない。
極力、あいつの視界に入らないように生きようと。
今思えば高校生活一日目からとんでもない決心をした俺だったが、幸いだったのは、雪ノ下が自分の縄張りから積極的に出ようとしなかったことだ。
クラスも離れていたために体育の授業も一緒になることはなく、すれ違った程度では雪ノ下も擬態を見破れなかったらしい。
こうして俺は、波乱になる思われた高校生活を平和に過ごせていた。
先ほどまでは。
ガチャリと扉を開ける。
訪れた生徒会室は夕暮れが差しこみ、幻想的な景色を作り出していた。
その最奥にいるのは、雪ノ下陽乃。
生徒会長の席に腰掛け、優雅に足を組んでいる。
まだその席は彼女のものではないはずなのに、まるでそこにいるべき人物だとでも言うかのように馴染んでいた。
「ようこそ、市原肇くん」
「名乗った覚えはないんだが」
「二ーB出席番号二番、四人家族の長男、家族は両親とは離れて一人暮らし中。それぐらい調べればすぐ分かるよ」
彼女は椅子の上で意味深に微笑んでいる。
────気持ち悪い。
俺には彼女の顔が、深く空虚ながらんどうに見えて仕方なかった。
真っ暗い闇に覆われた、底のない空っぽな穴。
その穴は眺めれば眺めるほどに、ぐにゃりぐにゃりと歪めて形を変えていく。
正直、見ていて気持ちのいいものではない。
「要件を言え、雪ノ下陽乃。こんな小細工までしておいて、何の用だ」
机の上に小さなメモを投げる。
そこには綺麗な字でこう書かれていた。
『生徒会室に来ること』
彼女はさらに笑みを深める。
その唇は、ゆっくりと言葉を紡いだ。
「生徒会に入らない?」
「断る」
即答。
当たり前だ。
こいつと関わるとろくなことがないと、俺の中の俺が告げているのだから。
一年の入学式、遠目にいるこいつを見たあの時から。
「君がここに来た時点で拒否権なんてあると思う?」
「俺は俺の考えを裏づけるためにここに来ただけだ。お前と関わることに興味はない」
「……へぇ。そうなんだ」
「二つ返事で受け入れられると思ってたのか? だとしたらとんだ傲慢スライムだな」
「スライムなんて初めて呼ばれたな」
「何だ、違ったのか?」
「さあ、どうだと思う?」
「質問に質問で返すなと教わらなかったのか? 親の顔が見てみたいな」
「────」
「────」
笑顔を貼り付けた雪ノ下と睨み合う。
俺は確信を強めた。
雪ノ下陽乃は俺と相容れない存在であると。
「それに、お前はまだ生徒会長じゃないはずだ。お前には決定権はない」
「遅いか早いかの違いでしょ? 予約ぐらい先輩も許してくれるって、今日はもう追い返しちゃったけど」
「……何で俺なんだ?」
「言う必要がある?」
「無いと思ったのか? 報連相は大事だぞ。そんなことで生徒会長なんてやっていけるわけがない」
「私を誰だと思ってるの? できないわけないでしょ」
そう告げる陽乃の目に驕りはない。絶対の自負を湛えた瞳の中に、既視感にも似た嫌悪を感じた。
こう言葉を交わしている間も、ひしひしと伝わってくる『同族』のにおい。
きっと、俺と彼女はお互いに似通った部分があるのだろう。
だからこそ分からない。
この女が俺を引き入れようとする理由が。
「俺はお前を好ましく思っている」
はたから見れば告白まがいの言葉。
しかし、それを額面通りに理解する者はこの場にいなかった。
「お前はきっと、俺に似ているのだろう。どこが、は分からない。だが、確実に俺とお前は同じ部分がある。お前も感じているんだろう? この感情を」
だが。
「だが、いや、だからこそ、同時にお前のことが嫌いだ。どうしようもなく、目の前から消し去ってしまいたいぐらいにな」
これは俗に言う同族嫌悪という感情なのだろう。
まさか自分がこんなことを思う日が来るなんて、高校入学までは思ってもいなかった。
いや、その前に同族がいるという事実にも驚きなのだが。
少女は微笑みを崩さない。
しかし、肯定の意思ははっきりと見て取れた。
「退屈じゃない?」
「全く」
自分の関係のないところで行われる人間の行動を観察することほど楽しいものはない。
「私は退屈。だから面白くしてくれない?」
「視聴者の立場で満足しているのに、何で俳優にならなきゃならないのか」
……これ以上話していても無駄だろう。
その言葉を最後に、俺は空き教室から出て行く。
静止の声はかからなかった。
出た先は夕陽差し込むリノリウムの廊下。
外で部活に励む生徒たちの喧騒が静寂に溶けて消えてゆく。
眩しさに顔をしかめていると、廊下の先から見覚えのある人物がやってきた。
長身に長い黒髪を携えた女性━━平塚静先生だ。
彼女はこちらを見ると、何やら含みのある笑みを浮かべる。
「市原じゃないか。どうだった?」
「どう、とは何でしょうか、平塚先生」
「そのままの意味に決まっているだろう。お前の目から見て、雪ノ下陽乃はどう映った?」
天敵の名前を出されて、すっと目線が細くなる。
「ほぅ、いい目をするじゃないか」
「────っ!」
「そう警戒するな。別に私はあいつの手先というわけじゃない。ただ純粋に興味があっただけだ」
「さぁ、自分には分かりかねます」
嘘は言っていない。
ただ、本当のことを言うつもりもない。
「そうか……。分かった。じゃあ、気をつけて帰るんだぞ」
ひとまず先生はそれで納得してくれたらしい。
脇を通り過ぎていこうとする。
「平塚先生、ひとつ聞いてもいいですか?」
「何だ」
が、俺の言葉にその足を止める。
一つ、気になることがあった。
「………………雪ノ下陽乃は、本当に人間ですか?」
あの空虚さは、おおよそ人間が出せるようなものじゃない。
少なくとも、今まで俺の観察してきた人間の中には、あれ以上に黒い人物を見たことがない。
「人間かどうか、か」
俺の問いを聞いた平塚先生は、目を細める。
「さぁ、どうだろうな」
帰ってきた答えは、それだけだった。