登校中に見上げた朝の空には、清々しい蒼穹が広がっていた。
秋晴れというヤツだろう。
晴れた空は残酷だ。
誤魔化しもせず、雨や曇りといった天気の一切の可能性を打ち消し、本物の青空をまざまざと見せつけてくる。
「……雨が降れば今日の体育で楽ができたのに」
その願いは今日も通じなかったらしい。
てるてる坊主を逆さまに二十個吊り下げてもこれだ。
次は三十個吊り下げなくては。
……いや、もしかしたら同じものを使い続けているのがいけないのかもしれない。
さすがに五年も使い続けているんだ、効力が薄くなっているのも頷ける。
次の体育(地獄)は確か来週。作る時間は十分にあるだろう。
「おはよう、市原くん」
そんな運動音痴にとっての死活問題(くだらないこと)を考えながら校門に差しかかった時。
横合いから、聞き慣れたくない声が聞こえてきた。
反射的に歩みが止まる。
何とか足を動かそうとした時には、既にそいつは目の前にいた。
「おはよう、市原くん」
目の前には、にっこりと眩しい笑みを浮かべた美少女。
その整った表情は、警戒さえ貫いて見惚れさせてしまうような輝きがある。
「おはよう、雪ノ下。じゃ、俺はこれで」
すたすたと校舎の中に入っていく。
「まぁまぁ、そう言わずに。同じ人間のよしみじゃん」
だが、彼女が早々逃してくれるわけがない。
校舎の中、生徒たちの注目を浴びながら廊下を歩いていく。
「よしみの範囲が広すぎだ」
「君との仲でしょ?」
「昨日まで一度も話したことがなかったのに?」
「君に一目惚れしちゃった、なんて」
雪ノ下はくすりとイタズラっぽく笑う。
さすが学校一の美人と呼ばれるだけあって、その仕草ひとつとっても目を惹かれるものがあった。
「それは俺がこの世で最も信じていないもののひとつだな」
「どうして?」
「恋情は人生において、一時的な勘違いに過ぎないからだ」
「他にはどんなのがあるの?」
「他人を手のひらで転がしてあざ笑うやつ、猫の皮の下にバケモノを飼っているやつ、自分が支配者の立場にいると信じて疑わないやつとかだな」
そう、例えば目の前にいるような。
「へぇ、そんな人が世の中にいるんだ。怖いね」
「あぁ、とても怖いよ」
「ふふふ」
「ははは」
二人して笑い声をあげる。
他人には、この景色はどう見えているのだろうか、
離れたところで噂噺をするぐらいなら、助けてほしいものだ。
「俺はこっちだから」
「じゃあ、またね〜」
そうして、彼女は自分の教室に向かうべく俺から離れていく。
、教室に入った途端、どっと肩の力が抜けた。
「はぁ……」
朝っぱらから心臓に悪いな。
真っ黒い感情を浴び続けているというのは。
あれを殺気と呼ぶのだろうか。何にせよ、もう関わりたくない。
……まぁ、無理だろうな。
朝から疲労感たっぷりで机にたどり着く。
しかし、そこで災難は終わってくれなかった。
「……何か用かな?」
男女合わせて四人のクラスメイトが、俺の机を囲う。
彼らの据わった目には、ひがみ、やっかみ。人間の様々な汚い感情が見え隠れしている。
その中の代表格らしい男子生徒が、おもむろに口を開いた。
「市原くん、今日雪ノ下さんと何話してたの?」
イケメンの部類に入る男──確か矢野といったか──優しげに緩んでいる。
髪をダークブラウンに染め、清潔感のある立たずまいが男女問わず大人気な、このクラスの中心的人物だ。
まぁ、俺からしたら瞳に滲む野心が隠せていないのがマイナスポイントだが。
「まさかオレたちの雪ノ下さんにちょっかいかけてたわけじゃねーだろうな」
取り巻きのチャラい男が肩をいからせながらそう言ってくる。
ここまで押しが強いのは、自らの行動を正しいと思っているからなんだろう。
雪ノ下陽乃は高嶺の花であるから、自分たちのような平民にはうかつに話しかけられない。
平民である自分たちでさえ差し置いて、平民以下の空気のような身分である俺が雪ノ下陽乃に選ばれるはずがない。
ならば、と彼女たちの頭の中では、俺が自分の地位を押し上げるために権力者に近づいたことになっているんだろう。
あくまで推測に過ぎないが。そしてこの推測が本当なら、彼女たちは勝手な思い込みで動いていることになる。
全て雪ノ下陽乃の下で作られた価値観だとは気づかずに。
何とも滑稽な話だ。
「世間話だよ。あの人、誰にだってああいう感じだろ」
「このっ」
「まぁまぁ、落ち着いて」
「……」
矢野が諌めると、苛立った様子のチャラ男は沈静化した。
「市原くん、やけに仲良さそうだったじゃないか。君、そんなに雪ノ下さんと仲良かったっけ」
「いや、これまでほとんど話したことはなかったよ」
むしろ卒業まで関わらずに過ごせていたらどれだけ良かったか。
「じゃあ、何で君なんかに話しかけたんだと思う?」
「さぁ。そこにいたから話しかけてきただけじゃないかな」
むしろ思いっきり待ち伏せされてたけどな。
「本当に?」
矢野は念入りに聞いてくる。
いい加減しつこいな、こいつ。
これ以上絡まれるのも面倒くさくなったので、エサを目の前に吊るすことにしよう。
「ちょっと」
軽く矢野たちに向けて手招きする。
訝しみながらも顔を寄せてくる同級生を確認すると、小さな声で囁いた。
「雪ノ下さん、放課後、生徒会の手伝いが欲しいらしいんだよね。でも、俺は用事があるせいで手伝えなかったから」
そう言った途端、彼らの目の色が変わる。
こちらを威嚇するような剣呑さから、好奇に。
リーダー格の男は目を細めてこちらの目を覗きこんでくる。
俺の話が嘘かどうか見定めようとしているのだろう。
やがて、満足したのか、彼はにこりと微笑んだ。
「教えてくれてありがとう」
どうやら彼には俺の真意を見抜くことができなかったらしい。
……さて、これからこいつらはどうなるのだろうか。
まぁ、俺にはどうでもいい話だ。
「一体何したんだ、市原?」
グループが去った後に、遠くから様子を見ていた有岡が寄ってくる。
「何もしてないし、何もされてない。少し話をしただけだ」
「そっか。ところでこの数学の問題なんだけどさ」
「すまん、朝から疲れたから寝かせてくれ……」
「ウキッ? ちょ、オイラ今日のテストで当たるんだよっ。頼む、助けてくれ!」
「自分の問題は自分で解け」
「そ、そんな、市原様、ご無体な!」
何で俺が朝からこんなことをしないといけないのか。
憂鬱だ。
世界が全てログアウトできるゲームだったらよかったのに。