きみの背中に憧れた。   作:ぜろさむ

1 / 2
きみの背中に憧れた。

 彼女はおれの憧れだった。

 ずっと、「ヒーロー」といえばおれの中では彼女がそれだった。オールマイトでもエンデヴァーでもなくて、同い年で泣き虫で、誰よりも真っ直ぐな瞳を持った彼女。

 彼女のそばにいたい。彼女と同じところに行きたい。彼女と同じ世界を見たい。それが、幼稚園の頃からのおれの夢だったんだ。

 

「木戸愛久(あいく)です!好きな食べ物はブルーベリー!」

 

 豊かな黒髪を気ままに揺らして、満面の笑みで彼女がそう言ったのは、もう十年以上前のことになる。

 幼稚園での自己紹介でのことだ。彼女はその頃から、みんなの人気者だった。彼女には老若男女問わず人を惹きつける不思議な魅力があった。おれも例にもれず、そんな彼女の魅力に惹きつけられた一人だった。

 彼女の魅力は、太陽のような魅力だ。

 可愛くて、溌剌としていて、正義感が強くて、感情を率直に表に出すことのできる女の子。体を動かすのが好きで、好奇心が旺盛。旺盛すぎて見ていてはらはらするというのが玉に瑕だが、今思えばそんな危なっかしさも彼女の人気の一因だったんだろう。

 それから、忘れちゃいけないのが、彼女の個性だ。

 

 木戸愛久、個性:激情。

 

 端的に言えば、彼女の個性というのは「感情」をエネルギーに変換する個性である。感情の振れ幅に応じて相当量のエネルギーが全身に満ち、身体能力を上げることができる、いわゆる増強系個性の一種。特筆すべきなのは、種類に関係なく激しい感情であればなんでもエネルギーとして転用可能だという点だ。

 喜んだとき、怒ったとき、哀しんだとき、楽しいとき。

 それがプラスの感情なのかマイナスの感情なのかに関わらず、彼女の個性はそれをエネルギーに変換することができる。

 感情が豊かで、それを表現することをためらわない彼女にはとてもお似合いの個性。そして――とても英雄的(ヒロイック)な個性なんだ。

 

★★★

 

 おれの彼女に対する憧憬が、明確に形になったときの話をしよう。あれは、おれと彼女が小学校五年生のとき。

 思春期真っ盛りの少年少女たちが集まる小学校では、毎日のように個性がらみの事件が起きていた。「事件」というと少し大げさな感じがするが、無免許での個性使用は法律で禁止されているれっきとした犯罪だ。タバコやお酒と同じ。明るみに出れば教師は対応せざるを得なくなるし、下手すると警察沙汰もあり得る。特に小学校高学年なんていう精神的に不安定な世代では、ちょっとの手違いで大きな事故に発展しうるので、ことさら厳しく取り締まられていた。

 そんな中の出来事だ。

 その日はおれは朝寝坊をして、始業時間ギリギリに学校に到着したんだ。それまで遅刻なんてしたこともなかったし、おれもあの頃は真面目ちゃんだったから、内心かなり焦っていたのを覚えている。

 校門をくぐって、グラウンドをショートカットして昇降口に向かおうとしたおれの視界に、彼女は突如として飛び込んできた。

 

「――木戸さん?」

 

 グラウンド中央に彼女は立っていた。始業時間間近にも関わらずランドセルをその辺に放り出して、右手はなぜか赤いラインカーの取っ手に乗せられている。校舎の方を向いているので、表情はわからない。おれにも気づいていないみたいだった。

 だけど。――だけど。

 そのときおれには、彼女がどんな表情をしているのか、なんとなく想像がついた。何故だかはわからない。彼女の個性が、感情をエネルギーに変える個性が、何か影響を及ぼしていたのかもしれない。

 ――彼女は怒っていた。

 それも、ただの「怒り」じゃない。「憤怒」だ。普段の彼女からは想像できない、煮えたぎるマグマのような感情。トレードマークの黒髪がかすかに逆立ち、彼女の身体から溢れたエネルギーの余波が蜃気楼のように周囲の空間を歪ませていた。その膨大な熱量に当てられて、おれは思わず、一歩後ずさる。

 

「出て来なさい」

 

 低く、抑えられた声。それなのに、遠くまではっきりと通る声だ。きっと、校舎にいる人たちにも聞こえたことだろう。普段とあまりにトーンが違ったので、おれにはそれが彼女の口から発せられた声だと一瞬気づかなかった。

 

「三分待つ。その間に出てきたら、謝らせてあげる」

 

 謝る?何を?誰が?

 何故だか、そのときおれの中には焦りのような感情が沸き起こっていた。彼女に謝るべきことなど何一つ思い浮かばないのに。なんでもいいからさっさと謝って、早く怒りを鎮めるべきだと思ったのかもしれない。それくらい彼女の発する怒りのオーラは圧倒的なものだったし、何よりおれは「憤怒」という激情に染まる彼女の姿を長く見ていたくなかった。

 視界の奥で、校舎がざわめいているのが分かる。だんだんざわめきは大きくなって、でも、誰も校舎から出てくる様子はない。彼女は黙ったまま。校舎にかけられた大きな時計の秒針が、じれったいほどゆっくりと回る。

 ――そして、三分が経った。

 

「そう。そうなんだ」

 

「私、堪え性がないから、これでも十分耐えた方なんだけど」

 

「なのに、出てこられないんだね」

 

「それじゃあ、仕方ない」

 

「仕方ない、よね?」

 

 一言ごとに、空気が震える。息が詰まって、鳥肌が立った。足から力が抜けて、立っていられなくなる。たったひとりの女の子に気圧されて、おれは無様にもその場で腰を抜かしてしまっていた。

 超人社会に十年生きて、並みの(ヴィラン)じゃあ動じなくなるくらい危機に対して鈍感になったおれの体が、同い年の少女に全力で警鐘を鳴らしていたんだ。例えるなら、噴火直前の火山。あるいは、大津波。あるいは――オールマイトのパンチ?

 そういう、絶対的で、絶望的で、おれみたいな凡人にはどうしようもない類の、莫大なエネルギー。それが、だんだんと一箇所に集まってくるのを感じる。巨大な恒星の引力に、小惑星が引き寄せられるみたいに。彼女の小さな体は、いまや凝縮された災害だった。

 人の形を持った「憤怒」。

 太陽の化身。

 そのプレッシャーを誰よりも近くで浴びたおれの心は、あたかも蛇に睨まれた蛙のごとく、ぽっきり折れてしまっていた。

 その、おれの視線の先で、ゆっくりと足を開いて、グラウンドを踏みしめる彼女。ザッザッと、何度か靴をグラウンドに擦り付けて、足の位置を調整する。

 

「(何をするつもりなんだろう?)」

 

 その時のおれにはよく見えなかったが、後から聞いた話では、このとき彼女は空手とかでよく見る演武の一種「瓦割り」をするような姿勢でいたらしい。両足で大地を踏みしめて、拳を軽く握り、俯き加減で地面をにらんでいたそうだ。きっとそれを見ていたら、おれも彼女が何をするつもりなのか、事前に予測できたのではないかと思う。

 予測できていたとして、回避できたかどうかはまた別問題だが。

 

「――――ッ!!」

 

 刹那の空白。

 グラウンドが、真っ二つに割れた。

 それが、彼女が大地をぶん殴った結果だということを、おれはしばらく理解できなかった。爆弾でも降ってきたのかと思ってしまうくらいの、轟音。それから、視界を一瞬にして覆った砂埃。視覚と聴覚が麻痺して、おれは前後不覚に陥った。混乱して、動揺して、腰が抜けたまま必死で〝爆心地〟から遠ざかるのが精一杯。文字通り這う這うの体でなんとか砂埃の煙幕から抜け出して、ようやくその惨状を目の当たりにする。

 砕かれたクッキーみたいに、いくつもの破片に分解されたグラウンド。根っこからひっくり返されたみたいな樹木。爆風で一周してしまっているブランコ。阿鼻叫喚に陥った校舎。遠巻きに眺めるだけで、一歩も動けない教師。それらの中央で、毅然と立つ彼女。

 

「私の友達をいじめたやつ、出てきなさいって言ってんのよ」

 

 静寂の中に、彼女の声だけが響いた。

 

★★★

 

 結局、そのあと彼女は駆けつけたプロヒーロー数名に取り押さえられて、お縄になってしまった。それなりに名の知れたトップヒーローまで出張ってきた中で、彼女は個性を駆使しての大立ち回りを演じて見せたが、最初の一発でかなりエネルギーを消費してしまっていたらしく、最後はスタミナ切れでの気絶だった。

 

「友達をね、助けたかったの」

 

 病院に搬送された彼女をお見舞いに行ったとき、おれは事の顛末を聞くことができた。

 

「幼馴染で、私にとっては初めての友達」

 

 彼女は、いじめを受けていた友人を助けようとしていたのだ。彼女と違い、引っ込み思案な性格の友人は、いじめっ子たちにとってはいいカモだったという。もともとあまり友達の多い方ではなかったそうで、人に助けを求めることもできなかった。五年生になってクラスが離れ離れになってしまった彼女に頼ることもはばかられて、ストレスを溜め込んでいたそうだ。

 

「様子が変だと思って、何度も問い質して、ようやく話してくれたの。その頃にはもういじめがエスカレートしてて、あの子ももう限界みたいだった」

 

 彼女は後悔したそうだ。何故もっと早く気づいてやれなかったのか。早い段階で気づいていれば、ここまで追い詰められることもなかった。私が一緒についていれば、そもそもいじめられることもなかった筈だ、と。

 

「先生に相談しても、効果が無かったみたい。あの子が無個性なのも原因のひとつなのかも。でも、そんなの関係ない。あの子は初めて私と友達になってくれた大切な人だもん」

 

 学校側にも見捨てられて、無個性という劣等感が拍車をかけて、それでも「学校を嫌いになりたくない」と。友人の子は、彼女にそう言ったのだそうだ。

 

「だから決めたの。今からでも私ができることをしようって」

 

 木戸さんはラインカーを使い、グラウンドに大きく「私の友達をいじめていたやつはグラウンドに出てきなさい」という内容の文章を書いた。いじめっ子を見つけ出して文句を言ったり、懲らしめる程度では、何も変わらないと知っていたからだ。

 彼女はあのオールマイトのように、抑止力になろうとしたのだ。

 

「私の友達をいじめたやつには私はここまでやるってことを、伝えてやろうと思ったの」

 

「……木戸さん、君は」

 

 ――どうしてそこまでできるの?

 おれは、続く言葉を飲み込んだ。その言葉は、彼女に対する侮辱になりかねないと思った。

 彼女の行動は、とてもではないが正常な人間の行動とは思えなかった。彼女個人に限らず小学生にとって、世界とは家庭と小学校のことだ。小学生にとって小学校を敵に回すというのは、世界の半分を敵に回すに等しい。事実、彼女は正常ではなかったのだろう。たったひとりの友人のために、学校というコミュニティそのものを敵に回せる精神性を、おれたちは正常とは呼ばない。

 あの日、彼女は正常ではなかった。

 それでも――。

 それでもあの日、正義は彼女にあった。

 

★★★

 

 中学校に入って、おれは変わろうとした。

 小学五年生の時に見た、威風堂々たる少女の後ろ姿。彼女への憧れが、いつもおれの脳裏にあった。

 不幸にも学区の関係で、おれと彼女は別々の中学に通うことになってしまったために、彼女の爛漫たる姿を目にする機会は減ってしまったけれど、その分おれの中での憧れは強くなっていった。

 いつか再会したとき、彼女が認めてくれるような男になれたら!そしてあわよくばそれが、同業のヒーローとしての再会ならば、どんなにいいだろう。

 おれはまだ見ぬその日のために、日々研鑽を積んだ。変えたのは、まず見た目だ。髪を金色に染めた。イメージしたのはオールマイトだったのだが、どうやっても彼のようなアメリカンな雰囲気を醸し出すことは出来ず、「中学デビューを目論んだ寒いやつ」みたいなレッテルを貼られたのを覚えている。

 それでも構わなかった。目立つことが目的だったからだ。目立って、名前を覚えてもらうことができれば、いざというときに頼ってもらえるかもしれない。

 それから、人助け。不良をぶっ飛ばすとかいう派手なやつじゃなくて、ボランティア活動の延長みたいなものだ。中学生とはいえ、未成年である。個性を使ってのヒーロー活動などしようものなら、未成年個性使用で取り締まられてしまう。それでは本末転倒だ。

 個性抜きの中学生の能力では、出来ることは限られていた。その中で、最大限を尽くした。

 念頭には、彼女の姿がいつもあった。彼女ならこんなときどうするだろう。彼女が今のおれを見たら、どう思うだろう。おれは今、彼女の背中に少しでも追いつけているだろうか。

 この問いかけをすると、いつも腹の底が煮えたつように熱くなって、エネルギーが湧いてくる。まるで彼女の個性「激情」を分けてもらっているみたいに。心が折れそうなときも、疲れて動けなくなったときも、この魔法のクエスチョンがあれば、また歩き出すことができた。

 部活にも入らず、毎日そんなことを続けた。一年もすると、その中学でちょっとした名物扱いになった。名前が広まり、頼ってくれる人が増えた。おれの周りにはいつも人がいて、彼女に近づけた気がして嬉しくなった。

 受験期に入ると、教師がおれに「雄英高校に行く気はないか」と訊いてきた。

 国立雄英高校。日本一のヒーロー科を擁する、トップ中のトップ校だ。名だたるヒーローが卒業生として名を連ねる、英雄たちの登竜門。

 ふと、思いつくことがあった。別の中学に行って、今はほとんど会うこともなくなった彼女。彼女なら、どうするだろう。たった一人の友人のために、学校全体を敵に回せるような、正義の化身のような彼女なら。

 

「おれ、雄英行きます」

 

 その日から、特訓が始まった。

 勉強と、個性のトレーニング。その繰り返しの毎日を過ごした。

 雄英高校ヒーロー科の受験生は、日本最高レベルの筆記試験と実技試験に同時に対応しなくてはならない。時間はいくらあっても足りなかった。進路を意識するまでは、勉強もそこそこに人助けばかりしていたので、その分も取り返すつもりで臨まなければならなかった。

 意外にも、周囲の人たちは皆熱心に応援してくれた。教師もクラスメイトも、まるでおれが合格するのを楽しみにしているというように、協力を惜しまなかった。

 

「いつも助けられてるからな」

 

 人助けに見返りを期待したことはなかった。それは自分のなかの英雄象――つまりは、彼女のことだ――に反する行いだったし、彼女に追いつくということだけで人助けの意味としてはじゅうぶんだったからだ。

 それでも、おれに恩義を感じておれのことを助けてくれる人たちの姿を見たとき、これがヒーローのやりがいなのかもしれないと思えた。

 

「みんな、お前が合格するって信じてるんだよ」

 

 激励のひとつひとつが、おれの推進力になった。日本最難関、何するものぞ。今なら、彼女の隣にだって立てる。そう信じて、疑わなかった。

 

★★★

 

 夢のような全能感は、たやすく醒めた。

 入試当日。実技試験、C会場。試験開始から、三十分経過時点。

 ロボット撃破数を競う実技試験中に、純粋な障害ギミックとして現れた巨大ロボットに対して、おれは即座に戦線離脱の判断をした。

 じゅうぶんポイントを取ったと思った。戦略的に見て、あのロボットの相手をするのは悪手だ。必死だった。それは嘘じゃなかった。周囲は皆競争相手だ。いち早く行動する必要があった。焦ってもいた。

 離脱しようとしたその瞬間、おれの目は逃げ遅れて巨大ロボットにつかまった受験生を捉えていた。

 ()()()()()()()()

 そう結論した。胸の中で、おれの英雄像に亀裂が走った。おれは見なかったことにした。それが、おれの限界だった。

 試験終了時点で、周囲にはおれ以上にポイントを取っているライバルは見当たらなかった。合格だ。筆記試験でも問題はなかった。合格だ!そう思い込んだ。報せは、すぐに届いた。

 通知書は、高級感を感じさせる封蝋の施された封筒だった。中身は、外面とは対照的にあまりに事務的で、ともすれば冷徹だった。

 不合格。

 ひときわ大きく印刷されたその三文字が、手紙の役割そのものだった。

 しばらく呆然として、時間を稼いだ。現実を受け入れるための時間。涙が零れたりはしない。死ぬわけでもない。未来が絶たれたわけでもない。なにほどのこともない、あっさりとした終わりである。いや、始まってもいなかったのだから、終わりですらないのかもしれない。

 動揺はした。期待していたからだ。当然だ。

 何がいけなかったのだろう。そう考えて、即座にその思考の不自然に気づく。雄英高校ヒーロー科の入学試験は減点法ではないのだ。筆記試験で例年の合格ラインに届いていたからといって、必ずしも一般入試枠の三十六位以内に入っているとは限らない。

 実技にいたっては合格ラインを知ることすら不可能だ。瑕疵が無ければ合格というものでもないだろう。ヒーローたる資質。それが足りなかった。不備があったわけではない。純粋に、届かなかっただけ。そういう話だ。

 ――それだけの話なのだ。

 

「……そうやって、納得できたらいいのにな」

 

 胸をかきむしりたかった。思い切り叫び出したかった。地団駄を踏んで、なにもかもぶち撒けてやろうとした。うずくまって喉の奥に衝動を封じ込めなければ、実際にそうしていただろう。

 不合格。不合格だ。お前には雄英生たる資格がないと、誰からともなくそう言われたのだ。

 悔しかった。それは自分が、雄英高校のヒーローとして適格であると信じていたからだ。信念を折られたと感じたからだ。

 同時に、情けなくもあった。おれの中の憧れはその程度だったのかと、そう思った。彼女に追いつきたいと思って、皆も応援してくれたのに、と。

 入試説明会で、担当のヒーローは言っていた。Plus(プルス) Ultra(ウルトラ)、さらに向こうへ。おれは、辿り着けなかった。つまづいたのだ。足りなかった。足りなかった!

 受験生全体の中で実際にはおれがどのくらいの順位だったのか、通知には記されていなかった。記す必要もない。そう誰かに告げられた気がした。

 なにもかもはっきりとしない。おれは、砂嵐のなかにひとり取り残されたような気持ちになった。彼女にどこまで近づけたかもわからない。どちらに進んだらいいのか。常におれを導いてきた彼女の背中が、五里霧中の向こうに消えていく。

 おれは、雄英高校ヒーロー科に落ちた。それだけが厳然たる事実だった。

 

★★★

 

 私立校のヒーロー科を選ばず雄英高校普通科への入学を選んだのは、単に未練からだった。

 雄英には、普通科からヒーロー科への編入制度があること自体は知っていたが、現実的だとは思っていなかった。おれの心はすっかり諦念に覆われていた。同じ学校に行けば、彼女に会えるかもしれない。そんな思いだけがあった。

 不思議なことに、おれは彼女が雄英を受験しない、あるいは受験したとしても合格しないという可能性を全く考慮していなかった。彼女が雄英に入学することは自明であると考えていたのだ。そして、それは間違っていなかった。

 ただ、普通科の生徒とヒーロー科の生徒が接触する機会は、驚くほど少なかった。ヒーロー科で履修しなくてはならないいくつかの授業を普通科では扱わないという理由で、まったく別のカリキュラムを採用していたからだ。あらゆる意味で、普通科とヒーロー科は別世界だった。

 そういうわけで、おれが再び彼女の後ろ姿を見ることになったのは雄英に入学してからしばらく経ってからのことだった。

 雄英体育祭。

 今やオリンピックに代わる国民的競技大会として注目を集める祭典。その開会式でのこと。

 

「選手宣誓。一年A組、木戸愛久」

 

「はい!」

 

 その声を聞いたとき、おれはうつむけていた顔を跳ね上げた。あの日見た背中が、そこにあった。

 壇上、小学校のときには肩までしかなかった黒髪を、伸ばしてポニーテールにした彼女の後ろ姿。

 審判を務めるヒーローに向かって、朗々と開会を宣言していた。見ただけでわかった。怒りに歪んでいたあの日とは違って、(とど)めようもない期待を発散させている。

 彼女の個性「激情」が、彼女の全身から溢れ出ていた。おれが思い描いていた通りの、あるいはそれ以上の姿で、彼女の現在がそこにあった。

 選手宣誓をする生徒は、一般入試で首位を獲得した生徒だったはずだ。

 木戸愛久は合格していた。確信が現実となった。

 なぜか、おれは我が事のように誇らしくなった。彼女は、完膚なきまでにヒーローだった。おれの理想なんて軽々と超えていく。Plus Ultra。まさしく、校訓を体現する存在だ。

 ()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()

 そう思った。思ってしまった。

 瞬間、おれは悪心(おしん)のような罪悪感に見舞われた。気づいてしまったからだ。おれはいま、楽をしようとした。易きに流れようとした。よりにもよって、彼女を言い訳にして。

 彼女には資格があるから。おれには無いから。そんな愚にもつかない弁解を並べ立てて、あの日抱いた憧憬を過去のものにしてしまおうとした。ああ、そんなことできるわけもないということは、おれが一番よくわかっていたはずなのに。

 現実を受け入れて進むことの難しさに怯えて、遠回りをしようとしていたのだ。直視し難い困難を前にして、問題を先送りにしようとした。恥ずべき行為だ。

 おれは再びうつむいた。その場で座りこんで、目を瞑ってしまいたかった。彼女に、いまのおれの姿を見られたくはなかった。こんな姑息で意気地なしの男の姿を見たなら、彼女はきっと助けずにはいられなくなる。寄り添って、励まさずにはいられなくなるのだ。

 それが、おれには何よりも怖かった。

 

★★★

 

 一年間、死にものぐるいになった。

 半ば償いをするような気持ちで、おれは自らに試練を課した。ヒーロー科への編入。入学当初は全く眼中になかった選択肢。それが今や、彼女の背中へと追いすがる唯一の架け橋だった。

 何としてももぎ取らねばならなかった。ヒーロー科への編入以外で彼女に会うようなことがあれば、あの開会式のときのような弱音がまたぞろ首をもたげてくるかもしれない。ヒーロー科に入って、正面から彼女に会いに行く。それ以外で彼女には会うことはできない。そう決めた。

 とは言ったものの、ヒーロー科への編入とは言うは易し行うは難しの一大事業である。本来は実技入試にあまりに不向きな個性を持つ生徒への救済措置として始まったもので、残念ながらおれはその例に当てはまらない。それに、そもそも体育祭で実績を残さなければならなかった。よほど派手にアピールしなければ、教師陣は編入を認めないだろう。

 偉業が必要だった。皆を納得させるに足る偉業が。

 一年後、雄英体育祭で優勝。

 おれは、それを目標に掲げた。最短距離で、彼女に会いに行くために。

 あたりまえだが、平坦な道のりではなかった。

 無理だと言われた。諦めろと諭された。誰も応援なんてしてくれなかった。

 中学生の頃とは違う。周囲はおれの挑戦を無謀なことだと思っていて、がんばれと背中を押してくれることはない。

 

「ヒーロー科に編入するために、来年の体育祭で優勝します。力を貸してください」

 

 そう言って、たくさんの人に協力を請うた。雄英の教師陣をはじめとして、両親や普通科同級生、知り合いのヒーローなど、有望な人脈には片っ端から当たった。

 何も言わないでいてくれるならまだマシなくらいで、大抵はバカを見る目を向けられる。

 逆境だった。おそらく、人生で初めて味わう孤独。自分の道が信じられなくなりそうな毎日だ。あの日、おれの中に灯った憧れという名の聖火も、ここでは蝋燭の火よりも頼りない。油断すれば一瞬で消えてしまう。憧憬の炎は、再び自分で灯すことはできない。ゆえに、守らなければならなかった。この火を消そうとする全てから。消えてしまえば二度と、それを灯すことはできないから。

 ノートを作って、マジックで目標を書きこんだ。

 

『体育祭優勝!』

 

 何度も何度も書き込んだ。折れそうになる度にマジックを動かして、目標を文字にすることで心の均衡を保った。

 はたから見れば、諦めきれない夢にしがみつこうとしている哀れな負け犬に見えているのだろう。そういう気持ちが湧いてきて、溺れそうになることも一度や二度ではなかった。

 最も辛かったのは、自分の努力が馬鹿馬鹿しく思えてしまうときだ。なにもかも無意味に見えてしまう。流れに身を任せれば、身を切るような苦痛を忘れられるというのに、おれは一体なにをやっているのだろう。

 諦念はあまりに容易で、あまりに甘美な手段だった。目的の一切を放棄して、大河に流される枯葉のようになってしまえばいい。ただそれだけで安寧を享受できる。夢は儚いものだ。そう自分を納得させればいい。

 転びそうになったことも何度もあった。いや、取り繕わずに言おう。実際に転んだこともあった。諦めようとした。何度もだ。でも、完全に目的を放棄し切ることは、ついにできなかった。気づけば、ゴミ捨て場の前に戻ってきてしまっていた。おれは何度も夢を捨てようとしたが、夢はおれを捉えて離さなかった。

 一年間ずっと、綱渡りをしている気分だった。踏み外せば地面に落下して、なにもかも台無しなる。綱はゆらゆらと揺れて、おれを振り落そうとする。突風が吹いて、バランスを崩すこともあった。それでも踏ん張った。()()()()()()()()()()()全身に力を込めて。

 いくらかの助力を得て始めた体育祭対策の特訓は、熾烈を極めた。地獄のような、と言って大げさではない。そんな一年を過ごした。この一年に比べたら、受験期の自分なんて全然本気じゃなかったのだとはっきりわかるくらいだった。

 特訓の骨子となったのは、基本的な傾向と対策の考え方だ。体育祭の競技、勝利するために要求される能力、自分の個性。それらについての傾向を微に入り細に入り洗い出し、足りない部分を埋めるために徹底的に対策を施す。それを、ただひたすらに繰り返した。

 地味で細かい作業の積み重ねだけが、確かな結果を運んできた。一発で全てを逆転できる秘策なんてものは、思いついたらラッキー程度のおまけでしかない。毎日毎日、気の遠くなるような回数を淡々とこなし続ける。過度なやる気はいらない。熱くなる必要はない。修行に気合いが必要なのはコミックの中だけ。

 

「少しずつ強くなる」

 

 そう自分に言い聞かせて、修練が日常と化すまで希釈した。ただ回数を繰り返すこと。千里の道を一歩ずつ踏みしめること。そうやって、個性と肉体を鍛え上げた。過去全ての体育祭の記録を読み返して、作戦を立てた。考え得る限り全ての要素を満たした。

 それでも、漠然とした不安は消えない。心の底で燻る火種のような、形のない焦燥。じくじくと胸の奥で疼く病巣のような憂苦。こればかりはどうしようもないと割り切り、飲みこむしかない。飲みこんだうえで、踏破する。Plus Ultra。あの日果たせなかったそれを、今度は成し遂げるために。

 ――そうして、二度目の体育祭がやってきた。

 

★★★

 

 いやに長い回想だった気がする。時計を見ると、目を閉じてから五分も経っていない。つかの間、夢を見ていたのかもしれない。呑気なものだ、と我がことながら可笑しくなる。思ったよりもリラックスできていると考えれば、悪いことではないのかもしれない。

 選手控え室には、簡素なパイプ椅子とテーブルだけが設置してあった。客席の喧騒からは遠く、訪問者もいない。普通科の面々もどうやら気を使ってくれているらしい。一人でゆっくり精神統一をすることができた。

 第一種目、第二種目を突破した生徒は、第三種目であるガチバトルの選手控え室に誘導されていた。予選は一瞬の油断も許されない苦闘の連続だったが、おれは勝ち残った。

 ガチバトルでは、情報の少なさが活きた。ヒーロー科の生徒同士は互いに一年間の授業を通して個性を知り合った間柄であるため、その試合は個性対策合戦の様相を呈していたが、おれの個性について知っているやつはヒーロー科には一人もいなかった。普通科の数少ないアドバンテージであると言える。それに加え、一年間のリサーチで組み上げたヒーロー科四十名ひとりひとりに対する傾向と対策も生かしきり、おれはついに決勝へと駒を進めた。

 そしてついさきほど、もう一方の準決勝が終わった。

 ヒーロー科に編入してから彼女に会いに行く。そう決めたとき、おれはひとつ重大なことを見落としていた。他でもない、彼女もまた、体育祭に参加するのだということ。

 雄英体育祭、第三種目。個性ありのガチバトル、その決勝。勝ち上がったおれの対戦相手は、会いに行くと誓った彼女だった。

 

「決勝戦を行います。準備してください」

 

 呼び出しがかかり、控え室から出る。会場までの廊下は一直線で、進むたび熱気と歓声が濃度を増していくようだった。おれは一歩一歩、リングへの道を踏みしめるように歩いた。

 廊下を抜けると急に視界が明るくなって、視界が明滅する。歓声が物理的な衝撃となって全身を叩き、おれは思わず身体を硬直させた。

 視線の先、リング中央には、堂々と仁王立ちでおれを出迎える人影。あの日目に焼き付けた後ろ姿ではなく、真正面からの彼女の姿だ。

 必死になって這いずり回って、やっとの思いでここまで来たおれとは対照的に、彼女は当然のようにそこにいた。まるでここが自分のいるべき場所だと言わんばかりに。

 去年と同様、彼女は危なげなく第一種目、第二種目を首位で通過。第三種目でも他を寄せ付けない圧倒的なパワーを駆使し、決勝へ進出した。あたかもこの雄英体育祭という催しが、彼女を目立たせるためにあるかのようだった。周囲の期待やプレッシャーをも飲み込んで、自らのエネルギーに変えている。

 彼女はまさしく太陽だった。

 よく見ると小学校から随分背が伸びたみたいで、視線の高さはおれとほとんど変わらない。腰に手を当てて、自信満々の表情でおれを見据えている。

 煌々とした二つの瞳。すっと通った鼻梁。楽しそうに湾曲した唇。かすかな横風に靡く黒髪。そのすべてが、彼女が木戸愛久たる所以なのだ。

 その立ち姿が幼稚園で初めて見た彼女の姿と重なって、場違いにも懐かしい気持ちになる。彼女はあの頃から、本当に全く変わっていない。ずっとまっすぐなままだ。おれみたいに折れたり曲がったり、遠回りしたり横道に逸れたりはしなかったんだろう。あるがままに、進んできたんだ。それが分かって、我知らず口元を緩めてしまった。

 

「久しぶり」

 

「ああ」

 

「髪染めたの?」

 

「中学デビューしたんだ」

 

「あはは、なにそれ」

 

「似合ってるだろ?」

 

「半グレみたい」

 

 小学校以来の会話なのに緊張感なんて全く無くて、彼女はなんの違和感もなく四年の月日をふわりと飛び越えてくる。彼女に引きずられて、おれの体から無駄な力が抜けていく。道端で会ったみたいに、自然体で彼女と向き合える。

 頭を覆っていたもやもやが晴れていく。余計なプライドとか半端な矜持とか、いつのまにか重荷になっていたものが消えていって、目の前の壁を超えることだけに集中できるようになっていく。体と心が軽くなって、腹の底から力が湧いてくる。

 あたりは、いつのまにか静かになっている。客席の歓声も、実況ヒーローの口上も、耳をすり抜けていくみたいだ。いま、この世界にはおれと彼女の二人しかいないみたい。

 試合開始の合図は、すでに鳴っていた。でも、今なら言える気がする。

 

「おれさ」

 

「ん?」

 

「君に勝つためにここに来たんだ」

 

「それは、光栄かな」

 

「だから」

 

 ――だから。

 これが終わったら、おれの話を聞いてほしい。君に憧れて、君を追いかけて、いまようやく君の目の前に立っている男の話を。

 次の瞬間、大地は爆ぜ、おれたちは激突した。

 果たしておれは彼女に追いつけたのか。その答えは、すぐにわかる。




個性「激情」は、もとは連載用に構想していたアイデアのひとつだったのですが、自分の腕前では連載化するのは困難と判断し、短編に変更しました。文章力とかプロットとか、ある程度の実力がつくまではこの形式での投稿を続けていこうと思っています。よろしくお願いいたします。

▲ページの一番上に飛ぶ
X(Twitter)で読了報告
感想を書く ※感想一覧 ※ログインせずに感想を書き込みたい場合はこちら
内容
0文字 10~5000文字
感想を書き込む前に 感想を投稿する際のガイドライン に違反していないか確認して下さい。
※展開予想はネタ潰しになるだけですので、感想欄ではご遠慮ください。