空へ   作:眼Q


オリジナル現代/日常
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屋上で見かけた人の話

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空へ

 その人は隣の棟の屋上にいた。

 学生か院生か白衣のポケットに手を突っ込んでやや上を向いて佇んでいる。フェンスから1メートルぐらいは離れた位置だから急な突風で落ちてしまうこともないだろう。もっとも今日の笑えるぐらい青い初夏の空はほとんど無風だ。

 それでも。

 胸騒ぎがした。

 隣の彩乃に抜けることを合図する。OKのサイン。いつもこちらが彩乃のサボりをフォローしているから話は早い。先生に見つからないように教室を抜け出し、2号棟に向かって駆け出す。お願い、間に合え。

屋上のドアを開ける。いた。良かった。白衣の人がこちらの音に気づいて振り返る。その途端、現実に引き戻される。そう簡単に人は飛び降りる訳がない。どうしよう。なんて言えばいい?

「高等部はまだ授業中では?」

「・・・飛び降りそうな気がしたから。」

否、本当は違う。飛んでいってしまいそうな気がしたのだ。そんなこと言ったら変な人に思われてしまうことは重々承知だ。でも表情には出てしまっていたのだろう。その人が微笑んで答えた。

「大丈夫。まだどこにも行きませんよ。」

まだ?そう思ったけどそれ以上は何も聞けなかった。

 

 

 そんなことがあって私とその人---倉敷さんというのだけれど---は時々屋上で話すようになった。倉敷さんは薬学部の4回生。高等部の自分とは当然のことながら時間割が違うのでお昼休みに少しだけ顔を合わせるぐらいだけど。

倉敷さんはいつもただ佇んでいた。白衣からのぞく黒のズボンは細身のものなのに中身が入っていないように思えた。

「本当はもっと高いところの屋上に行きたいのですが。」

倉敷さんは年下の自分に丁寧語で話す。

「ここ以外みんな立入禁止でしょう。」

決して大きな声ではないのだけどその声はなぜかちゃんと届く。耳からというより心にきちんと入る気がする。

「建物だとか電線だとか何にも邪魔されない空を見ていたかったんです。」

「あ、わかる」

こちらの方が時々敬語を忘れてしまう。

「なんにもないのがほしい、というか。ええと、うまく言えないけど、空っぽにしたいというか」

「高橋さんもそうなんですね」

倉敷さんがちょっと微笑んだ。何か心の中を見透かされてような、でもそれは不快ではなくわかってもらえたような、そんな気がした。少しだけ踏み込んで話してもいいかな、そう思った。

「心の中がたぶんごちゃごちゃしてとっ散らかっているんです。だから空っぽにしたいのかも。」

そうなのだ。あの時の屋上にいた倉敷さんに自分を投影していたのかもしれない。

これ以上何も言わなくても伝わった気がして校舎が少し邪魔をする空を見上げた。そのままチャイムが鳴るまで2人とも無言で空を眺めていた。

 

 帰りはいつも彩乃と一緒だが今日は彼女が委員会だったので1人で裏門に向かう。正門から出るよりかなり遠回りにはなるが気分はずっと楽だ。

 それなのに。

 門の前にあいつがいた。

「どうして・・・」

思わず呟いてしまう。

「こっちから帰ってるのは知ってた。今日は久瀬が委員会だから待ってた。」

こともなげに言う。

怖い。怖いけれど怒りの方が勝った。正面から睨みつける。

「視界に入らないようにしていますが何かご不満でもあるんでしょうか。」

敢えて敬語を使う。一瞬相手が狼狽えた。

「不満なんて!ただ、俺はあんなことになるなんて思ってもなくて・・・ちゃんと謝ろうと思って」

「え」

「悪かったと思ってる。本当にごめん。」

少し空気が緩んだ。嫌な思いはしたけど、謝ってもらうことで前に進める気が少しだけした。けれどもその後に続く言葉でその希望は砕け散った。

「だからさ。女子たちに俺が謝ってお前ももう気にしてないって話してくれよな。」

「え?」

「あんなちょっとしたことで女子からクズ呼ばわりされるの、俺すげえ悲惨じゃん」

ちょっとしたこと?この人は何を言っているのだろう。

「・・・つまり保身のためだということですね。」

自分でもびっくりするぐらい低い声がでた。

「お断りします。」

横をすり抜けて帰ろうとしたら、不意に腕を掴まれた。

「待てよ。じゃあお前とちょっとでも付き合ってやったら許してくれるわけ?いいよ、それでも。俺と付き合いたかったんでしょ?3日で十分でしょ?俺もそれぐらいなら我慢できるし」

「嫌だ、痛い、離して」

「きいてくれるまで離さない」

振りほどこうにも相手の腕の力が強くてびくともしない。怒りが恐怖に変わっていく。怖い。すごく怖い。

「高橋さん、お待たせ」

急に名前を呼ばれて振り向くと倉敷さんがいた。あいつも驚いたのが掴んでいた手が緩む。その隙に私は倉敷さんのほうに逃げた。

白衣の袖を掴んで目で訴えた。とても細い倉敷さんの腕。だけどものすごく強いものを感じた。助けて。

倉敷さんは少し頷いたように見えた。そのままあいつの方に顔を向ける。

「僕の大切な人に手を出さないでくれますか」

「え」

あいつが怯んだ。

「動画撮ったから。これ以上しおりに近づくなら、僕は全方面に手を回して君を潰しますよ?まずこのままエスカレーターで大学に上がるのは無理でしょうね。」

完全に倉敷さんのターン。スマホの黒い画面を見せながら続ける。

「他の大学にいっても名門附属なのになぜそのまま進学しなかったか聞かれると思いますよ。まあこの動画がうっかりネットに出回ればわかるでしょうけど。あくまでうっかりですよ、うっかり。何か反論は?そう、ないのですね。ではお帰りください。」

顔を引きつらせたあいつが見えなくなって私はその場に座り込んでしまった。

「大丈夫ですか?」

「あ、大丈夫・・・です。それよりもありがとうございました。助かりました。」

「いえ、咄嗟の判断だったので今思うと矛盾だらけで。待ち合わせ風にしたかったのに白衣のままっておかしいし、わざと下の名前で呼びましたけど、最初に高橋さんって呼んじゃってるしで。」

そしてハッとしたように着いた続ける。

「ああ、下の名前で呼びすてにしてしまってすみませんでした。」

「え、そこ?」

ちょっと笑ってしまった。別にいいのにと続けると倉敷さんもちょっとおどけて言った。

「では、そうですね、さん付けにしましょう。しおりさん、少し待っていただけますか?今度こそ白衣置いてきますから。一緒に帰りましょう。」

 

いつも行く喫茶店、そうカフェとというより喫茶店があるのですが良かったら寄って行きませんか?

そう誘われて通学路からは少し外れた喫茶店(本当に喫茶店だった)に寄り道をした。いつも行く、というだけ会ってお店のマスターは倉敷さんに軽く手をあげ「よお」と挨拶をした。それからこちらに目を向け、少し驚いた顔をしたものの、「いらっしゃいませ」と笑顔で迎えてくれた。一番奥の席に座って(どうもそこが倉敷さんの指定席らしい)私はコーヒーを注文した。倉敷さんは何も言わなかったけど、まもなくコーヒーと何か薄い緑色をしたお茶が運ばれてきた。ハーブティーの一種だろうか、少し癖のある匂いがした。一口飲んで話し出す。

「中等部の時に同じクラスに好きだった人がいたんです。頭が良くて、運動神経も良くて、みんなの人気者で。その人を見てるだけで周りの景色がみんな鮮やかになるような、そんな気がしました。」

倉敷さんが何か言いかけたがそのまま話を続ける。

「ある日、その人に告白されたんです。LINEで。そんな気配ゼロだったからびっくりして、それからすごく嬉しくて。明日学校でどんな顔すればいいだろうとか、初デートはどこがいいだろうか、とか。たくさんたくさん考えた。でもあんまり長文で送るのも迷惑だろうし、とかまた文面にすごく悩んで。結局とても嬉しかったってことと、次の日いっしょに帰りませんか?って返信したの。いいね、いっしょに帰ろうって返信が来た。すごく嬉しかった。そしたらね。」

一瞬の躊躇。思い切って続ける。

「ウソ告だった。罰ゲームだったんだよって。私の書いたLINEはクラスのグループでも部活のグループでも回されてた。学校辞めたかった。」

話し始めるという止まらなくなった。

「もうね、ここまで来ると泣けないの。登校拒否するにも親に理由を話さないといけないでしょう。話さなかったとしても娘が登校拒否になったら当然学校を巻き込んで問題になる。そしたらまたこの話が蒸し返される。もっと広まってしまう。そんなの耐えられなかった。

だからね。

だからね。毎日何事もなかったように学校に行きました。流石に何人かの女子はその人をクズ呼ばわりして必要最低限のことしか接触しようとしなくなった。それが向こうにしてみたら理不尽みたい。」

そう、そんな時だったのだ。屋上の倉敷さんを見たのは。飛んでいきたかったのは自分の方だったのかもしれない。

倉敷さんは何も言わなかった。ただ、悲しそうな顔をしていた。しばらくの沈黙。蝉の声が急に大きく反響して聞こえた。なんだか倉敷さんにこんな話をしてしまったことをものすごく後悔した。

「あ、ごめんなさい、こんな話してしまって。返答に困りますよね。帰ります。」

「大丈夫ですよ。それよりも」

倉敷さんは残念そうに言う。

「そんなヤツならやはり動画撮っておいて、滅ぼすべきでしたね。」

「え、撮ってなかったんですか?」

「ええ、ハッタリです。僕は暴力じゃ勝てませんから。でも撮った動画見せろって言われたらどうなるかと思いました。直近の動画なんて青空しか映ってなくて僕の能天気な鼻歌がひたすら聞こえるやつですよ。ふふふふーんって。」

倉敷さんがふふふふーん?想像すると思わず笑ってしまった。倉敷さんも笑って言う。

「ああ、お茶のおかわりはいかがですか?ここ、ケーキも美味しいですよ。今日は僕がご馳走します。」

 

それから私は時々倉敷さんと一緒に帰るようになった。倉敷さんは何もしてないと言ってたけれど、あいつもあいつの取巻の男子も借りてきた猫のように大人しくなった。倉敷さんと帰る日は彩乃はニコニコ、というよりニヤニヤして「デートだね」と送り出してくれる。

しかしこれは果たしてこれはデートなのだろうか。帰りにいつもの喫茶店でお茶するだけなのだけで、それも恋の話をするでもなくもっぱら勉強を見てもらっているのだ。そもそも告白もしていない。その気配もない。もっと言うと恋愛感情を抱いているのかすらよくわからないのだ。一緒に過ごすのが落ち着いていられる時間であることは間違いないのだけれど。

そう、倉敷さんは理系だけれど文系科目でもはたまた芸術分野でもなんでも答えられる人だった。厳密にいうと100%即答できるわけではない。けれどもそういう時は次回までの宿題にさせてください、と言って本当に次に会う時は必ず解き方や答えを調べてきているのだ。そしてその説明がとてもわかりやすい。私は倉敷さんの柔らかい声で沢山のことを学んだ。私が問題を解いているときはいつも難しそうな薬学系の本を読んでいた。分厚いくすんだ緑色をした本は白いシャツによく映えた。細くて白くて長い指がページをめくっていくのは絵を見ているようだった。

喫茶店のメニューはどれも美味しかった。ショートケーキ、ガトーショコラ、アップルパイ、スコーン。しおりさんはいつも幸せそうに食べますね、と倉敷さんもやはり幸せそうに笑う。けれども彼は一口も食べなかった。甘いものが苦手なのだろうか。そしていつも薄い緑色のハーブティーを飲んでいた。倉敷ブレンドという名前もついているらしい。その癖のある香りを嗅ぐたびに私はいつも倉敷さんを思い出す。

 

 

夏休み前日は終業式だったので、下校時間も早い。あいさつもそこそこに私は喫茶店に向かった。大学はもう夏期休暇だから、きっともういるはずだ。返された1学期の成績は先生もびっくりするほど伸びていた。間違いなく倉敷さんさんのおかげだ。途中の雑貨屋さんに寄り道する。前から見かけていた銀の翼がデザインされたブックカバーと同じデザインの栞を買う。やはり倉敷さんには翼が似合う気がしたのだ。果たして倉敷さんはすでに喫茶店にいた。私の顔を見た途端、倉敷さんが笑ったので私はびっくりした。

「どうして笑うんです?」

「だってらしおりさん何かとてもいいことがあったでしょう?本当にわかりやすかったのでちょっと面白くて。」

「ええ、それはちょっと嬉しくなーい!」

私も笑う。マスターも笑った。

それからこれは成績のお礼です、とプレゼントを渡した。倉敷さんは予想していたよりも大いに喜んでくれてほっとした。「しおりさんが栞をくれるなんて洒落てますよね。」いや、そんなつもりはなかったのだけど。でも、本当に良い午後だった。

夕方になって私たちは夏休みが終わったらまた会いましょうと握手をしてさようならをした。こういう時の倉敷さんの丁寧さはすごく好きだ。

そしてそれが。

倉敷さんを見た最後だった。

 

 

 

2学期が始まって2週間が過ぎたが、学校のどこにも倉敷さんの姿はなかった。喫茶店にも行ってみたが、しばらく休業しますの紙が貼られていて、なんだか本当に倉敷さんと過ごした日々があったのかわからなくなりそうだった。よほど不安定になっていたのだろう。彩乃を始め、誰かしら友達がいつも一緒にいてくれるようになり、私は少しずつ落ち着きを取り戻していった。

10月も半ばになって、私はもう一度喫茶店に行ってみた。季節は秋だったが最初に倉敷さんに会った時のようなどこまで青い空の日だった。果たしてお店は開いていた。ドアを開けるとマスターがびっくりしたような、それでいて予想していたような顔をした。

「いらっしゃい。奥にどうぞ。」

いつもの席に座る。そこに倉敷さんはいない。今日は私の他に誰もお客がいなくて静かだ。と、マスターが私の前にいつものミルクティーと封筒を置いた。青い空の色の封筒。

「これ、篤から。」

初めて倉敷さんの名前が篤だと知ったかもしれない。今読んでいいのかマスターに確認して、私は封を開けた。同じ空の色の便箋。几帳面な字が並んでいる。

「拝啓 しおりさま

この手紙を読む頃には、僕はもうこの世にいないと思います。本当は直接話すべきだったけど、いろいろ考えてマスターにお願いすることにしました。

予想していたかもしれませんが僕はもう——永くないのです。あの日、君に初めて会ったとき、君は飛んで行きそうだといいました。そう、あの時僕は本当に飛び降りようと思っていました。今死んでも1カ月先に死んでもなんの変わりもないと思ったのです。何も残せるようなものはないし、やりたいことも何もなかった。強いて言えば研究だけは続けたかったけれど、全く時間が足りませんからね。体調の許す限りは大学に行っていたけどほとんど屋上にいたのです。

でも、あの時君が僕を見つけてくれて、そこから僕の時間は進み始めました。君は僕と同じようにどこか空虚で気になりました。同時に——自惚れかもしれませんが———僕を頼って少しずつ元気になっていくのが本当に嬉しかったのです。病気のこと、直接言うか否か悩みましたが、目の前で悲しむ顔を見たくなかった。ごめんなさい。どうか僕の分までお元気で、生きていることを楽しんでください。倉敷篤」

何もかもが繋がっていった。暑くても細い体を隠すような長袖のシャツ。決して食事を摂らなかったこと。あれは摂らなかったのではなく、摂れなかったのだ。あの薄い緑色の癖のある倉敷ブレンドは薬湯だったのだろう。

呆然とする私にマスターが今度はスマホを差し出した。あの時倉敷さんの持っていた黒いスマホだ。もう解約してるから使えないけど形見にもらってやって。俺が篤に頼まれた最後のお願いなんだよ。

重い足取りで学校に戻った。のろのろと屋上に向かう。こんな日になんでこんないい天気なのだろう。建物に少し邪魔された空はやはり無神経に青い。スマホの電源を入れる。メールも通話記録も一切残っていない空っぽのスマホ。と、動画が残っているのに気づいた。再生してみる。動画なのに全く動きのない青い空しか映っていなかった。建物が写り込んでいるからこの屋上で撮ったのだろう。無音かと思ったら倉敷さんの能天気な鼻歌が流れてきた。そういえばこの動画の話をした。あいつから守ってもらったときだ。その鼻歌はゆったりしててどこか幸せそうで。

初めて私は声をあげて泣いた。

 

1年が過ぎた。私は大学生になり、あの喫茶店でアルバイトをしている。昼休みには屋上に向かう。鼻歌を歌いながら空を眺める。

そしてまた。

誰かがこのドアを開けるのだ。


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