書き出し始めてかなりかかりました。この話だけで、かなり書き直しました……
「会長? どうしてここに?」
「涼也、待ってくれ」
雨は静かに手を伸ばし、俺を制止する。その視線は会長ではなく、背後の祠へ向けられていた。
「そう身構えるな」
会長は小さく肩をすくめる。
「……そう言われましても。それは、一体何ですか?」
雨は祠から目を離さない。
「祠だ。それ以上でも、以下でもない」
「その程度の答えで納得すると思いますか?」
「では聞こう。お前には何に見える?」
「……少なくとも、ただの祠とは思えません」
「そうか。私も同意見だ」
会長は口元を僅かに緩めた。
その後、風が止む。
さざ波一つ立たなくなった海面は、鏡のように静まり返る。青白い霧が祠の周囲からゆっくりと広がり、洞窟を覆い尽くしていく。
「……歌?」
どこからともなく、女の歌声が聞こえる。
優しく、美しく、それでいてどこか物悲しい旋律。
耳を澄ませば澄ますほど、その歌は心の奥底へ染み込んでくるようだった。
「来たか」
会長が静かに呟く。
歌声は徐々に近付く。海に、小さな波紋が幾重にも広がる。
やがて──
水面から、白い指先が現れた。細く、透き通るような腕。濡れた銀色の髪が海面を漂い、その奥から二つの瞳がゆっくりとこちらを見つめる。
霧の向こうからその姿が現れた瞬間、歌声が止んだ。
静寂。
洞窟の空気が張り詰める。
人ではない。だが、化け物とも思えないほど、その姿は美しい。
下半身には青く輝く鱗が連なり、尾びれがゆっくりと海面を打つ。
その女は、ただ無表情のまま祠を見つめていた。
誰一人と口を開かない。
「涼也……」
雨が低く呟く。
「あれは間違いなくあちらの世界の魔物だよ」
「なるほど、あれが魔物と言うやつか。妖とは似て非なるものだ」
会長は目を細めるだけで、抜刀する気配すら見せない。
「一つだけ、問います」
その女は静かに口を開く。
「ここに眠る歌の主は、同胞ですか?」
歌? 同胞? どういうことだ?
「見た目だけなら、な」
会長は静かに回答する。
「そうですか……そうであるならば、私はあなた達を赦しません。やはり、お前たち人間は────」
「万死に値する」
歌が再び響き始める。
海面が波立つ。
洞窟の外から、足音が聞こえた。
一人。
また一人。
水着姿の観光客たちが、虚ろな瞳のまま洞窟へ足を踏み入れる。
「……な、何だあれ」
足取りはおぼつかない。それでも全員が、同じ歌に導かれるようにこちらへ向かってくる。
「2人とも、気をつけて!」
「んな事言われなくてもわかってる!」
握り締めた拳に力を込める。
俺も雨も丸腰だ。それでも、ここで退くわけにはいかない。
1人、また1人と手加減はしつつも殴り飛ばしていく。
会長は抜刀することなく、鞘で観光客をいなし、次々と気絶させていく。
「おい雨、キリがないぞ────って、なんだその表情は!?」
雨の方を見ると、こちらを微妙な表情でみていた。
「いや……」
「なんだよ?」
「涼也、君は剣術より徒手の方が似合うね」
「お前も殴るぞ?」
こんな時に正気か? この歌にやられたか?
「冗談だよ。さて────」
操られた人間を全て地面に組み伏せた。
「君がこんなことをする理由を聞こうか」
勇者は女に問うのであった。
「私は歌に答えただけ。私は人間を赦さない」
女は静かに身を翻した。
海面に波紋だけを残し、その姿は静かに海の底へ消えていく。
洞窟を満たしていた歌声は、いつの間にか消えていた。
残ったのは、耳が痛いほどの静寂だけだった。
「会長、あの祠のこと、聞かせてはくれませんか?」
雨が静寂を破る。
凛はしばらく祠を見つめたまま、静かに目を閉じる。
「……悪いな。今は話す気になれん」
そう言い残すと、会長は背を向け、洞窟の出口へ歩き出した。
「そうですか。それじゃ、話す気になったら教えてください」
「その時が来たらな……」
会長はこちらを振り向かずにヒラヒラと手を降るのであった。
「今聞かなくてよかったのかい?」
「話したくないって言うんだ。一旦情報を整理する方が優先だ」
その頃には、操られていた観光客たちが次第に目を覚まし始めた。
面倒に巻き込まれないよう、俺と雨は足早に神崎たちの元へ帰ったのだった。
病室の窓の外では、茜色だった空がゆっくりと群青へ変わり始めていた。
廊下からは看護師たちの足音が時折聞こえ、病室には規則正しい電子音だけが静かに響いている。
ベッドでは可憐が穏やかな寝息を立てていた。
ベッド脇の椅子に腰掛けた神崎が、眠る可憐を一瞥してから口を開く。
「本当に、人魚がいたんですか?」
「いえ、シレーニアといって、人魚やセイレーンとは異なる半人半魚の魔物です」
雨は答える。
「え? でも、雨さんは心当たりがないと?」
「元来、シレーニアは人の前に姿を表すことはない魔物です。シレーニアの歌は他の歌と共鳴すると、時に性質を変えるといわれていますが、それでも今回のように一方的に人を操るなどは聞いたことがありません」
「雨さん、まるで見てきたみたいですね」
「見てきたからね」
とはいえ、俺たちは実際に操られた観光客を相手にしたのは事実だ。
「ですが、実際には操られていた。そもそも、シレーニアは1人だったんですよね? それなら、そもそも共鳴して性質が変わるってことも無さそうですが……」
「それは間違いなく、祠がなにか関係してるだろうな」
「祠……ですか?」
「はい、うまく説明はできませんが……なにか、祠が反応していたというか……」
雨は小さく頷く。
「反応? その祠にも何かしらの力があるということですか?」
「恐らくは。海に来てから感じていた嫌な気配、あれは祠から出ていたもので間違いないでしょう」
祠か。あいつは祠に関して何か言ってなかったか……?
確か────。
「ここに眠る歌の主────」
「え……?」
「いや、そいつが会長に聞いてたんだよ。ここに眠る歌の主は同胞かって」
「他意がないのであれば、祠がお墓であるかを聞いているのでしょうけど……会長はなんと?」
その後の会長の回答──
「見た目だけなら、と返していたね」
「つまり、会長はその祠について何か知っているということでしょうか?」
「分かりません。ただ、シレーニアが『歌の主』と呼んだ以上、何らかの歌が残されている可能性はあります」
「それに、彼女は陰陽師の家系です。この地域に人魚の伝承がある以上、何か知っていてもおかしくはないだろうね」
「伝承、ですか?」
雨は洞窟で俺に話した人魚の伝承を、改めて神崎にも聞かせた。
「それは……私たちの知る伝承とは正反対のものですね……ですが、その伝承も、祠も、人魚も……全部繋がっているように思えます」
神崎は何かを思い出したように小さく頷く。
「そういえば、凛会長からの言伝を預かっています」
「会長が? いつの間に?」
「はい。先程、可憐ちゃんのお見舞いに来られました。その際に『伝承のことが気になるなら、神社に行くといい。調べるのは好きにしろ』と」
話す気は無いが、調べるのは別に構わない。なんともあの人らしい。
「この辺の神社って言うと……」
俺はスマホを取り出そうとするが──
「数箇所あります。ですが、その伝承のことを鑑みるなら、恐らく汐見神社ですね。この辺りでは有名な海神を祀る神社です」
神崎は簡易的な手作り地図を広げ、指で汐見神社までの道のりを示した。
「流石は姫です。それでは、行ってまいります」
「そうですか、また私はお留守番ですか」
神崎はわざとらしく頬を膨らませる。
「姫、好奇心を優先させるのはおやめ下さい」
「冗談ですよ。姫は待つものなのです。お気をつけて」
悪戯っぽく笑う神崎に可憐を任せ、俺と雨は汐見神社へ向かうのだった。
いかがだったでしょうか。次で海編最後です。
お楽しみに!